6月12日(ルカ10章29~37節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ102937節 神と隣人を真実に愛する〕

 しかし彼は自分自身を義としたいと思って、イエスに向かって言いました。「それではわたしの隣人は誰ですか。」イエスは答えて言いました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行きました。ところが強盗たちに襲われました。彼らは彼から剥ぎ取り、そして多くの打ち傷を負わせてから、半殺しのまま放置して去って行きました。そこにたまたまある祭司がその道を下ってきました。そして彼を見て、反対側を通り過ぎていきました。同じようにレビ人がその場所に来ました。そして見て、反対側を通り過ぎて行きました。ところが旅をしていたあるサマリア人が彼の向こう側にやって来ました。そして見ると深く憐れみ、近づいて彼の傷に包帯をし、オリーブ油とぶどう酒を注ぎ、彼を自分の家畜の上に乗せて、彼を宿屋へと連れて行きました。そして彼を介抱しました。そして翌日、彼は2デナリを取り出して、宿屋の主人に与えて言いました。『彼を介抱してください。さらに費用がかかったら、わたしが戻って来た時に、わたしがあなたに支払いましょう。』これらの3人の中で、誰が強盗たちに襲われた人の隣人になったとあなたは思いますか。」そこで彼は言いました。「彼に対して憐れみを行った人です。」そこでイエスは彼に言いました。「行って、あなたもまた同じように行いなさい。」

 

 

善いサマリア人の譬は、困っている隣人を助けるという慈善を説く話として理解されます。しかしこの譬の前提に二つの愛の戒めがあり、そこから理解しなければなりません。祭司とレビ人が死にかかっている旅人を見殺しにしたのは、彼らが強盗を恐れたからでも、薄情だったからでもなく、神を愛したからでした。助ける途中で死んだら死体に触れることになり身を汚します。彼らは神への愛とを第一に考えて同胞を見殺しにしました。しかしそれは神の御心に適うことだったでしょうか。彼らと対比して登場するのがサマリア人です。サマリア人とユダヤ人は敵対関係にありました。ユダヤ人からすればサマリア人は、半分イスラエルの血を引いていますが異邦人との混血です。ゲルジム山に神殿を建てて、エルサレム神殿と対抗していた異端者でした。そのサマリア人が、聖職者たちさえ行わなかった隣人への愛を実践します。しかもその相手は彼らの敵でした。ユダヤ人は隣人を愛することが大切だと考えていましたが、それは「隣人を愛し、敵を憎め」という限定の中でのものでした。こうして主イエスは、ユダヤ人の第一の戒めと第二の戒めの守り方そのものを厳しく批判されました。そしてサマリア人を登場させることによって、単なる隣人愛ではなく、それを敵をも愛する愛へと高められたのでした。そして主イエスは「行って、同じように行いなさい」と、わたしたちも「隣人になる」ことを求めておられるのです。