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3月6日(ルカ9章43~48節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ9章43b48節 最も小さい者こそ最も偉い〕

 すべての人々が彼(イエス)が行なってきたすべてのことに驚嘆し続けているとき、彼は彼の弟子たちに言いました。「あなたがたは、あなたがたの耳の中にこれらの言葉を収めなさい。なぜなら人の子は、まさに人々の手の中に引き渡されようとしているからです。」しかし彼らはこれらの言葉をずっと理解できないままでした。このことを彼らが理解することがないように、彼らには覆い隠されたままだったからでした。そして彼らは、これらの言葉について彼(イエス)に尋ねることをずっと恐れていたままでした。

 ところが彼らの中で最も偉大な者は誰かという考えが、彼らの中に入ってきました。しかしイエスは彼らの心の中のその考えを知っておられたので、幼子の手を取って、自分自身の側に立たせました。そして彼らに言いました。「もし誰でもわたしの名のためにこの幼子を受け入れるなら、彼はわたしを受け入れます。そしてもし誰でもわたしを受け入れるなら、彼はわたしを遣わした方を受け入れます。このようにあなたがたすべての中で最も小さい人、その人が(最も)偉大です。」

*( )は原文にないが説明のために付加した部分

 

主イエスは御自身の栄光を現わされた後に、ご自分の使命を明らかにされます。それはご自分が人々の手に引き渡されて苦難の道を歩んでいかれること、つまり十字架への道でした。主がそのような覚悟を決めておられたとき、弟子たちはそれとはまるで正反対にありました。自分たちの中で誰が最も偉いかと議論し合っていたのです。主が御自分を捨てようとしておられたとき、弟子たちは自分のことしか眼中にありませんでした。そんな弟子たちの前に主は幼子を立たせて、このような幼子を受け入れるのはわたしを受け入れることだと諭されました。「あなたがたすべての中で最も小さい人、その人が(最も)偉大」だと。子供は自分が小さい存在で、無力であることを無条件で認めています。無力だから親の庇護を必要とし、それを当然のように要求します。そのように自分が何ほどの者でもない小さな存在であり、無力だということを認めて神に寄り頼む者、それが子供であるということです。しかしなかなかそのようにはへりくだれないわたしたちに、主は御自身を示されました。最も小さい者となられたのは誰でしょうか。主ご自身でした。栄光に輝く神の御子が、その御座を捨てて人間となり、無力な赤子となっておいでくださいました。そしてそれは十字架にかけられるためでした。この十字架の主が、ふんぞり返って傲慢に生きるわたしたちに問いかけられます。わたしと同じように「仕える者」になりなさいと。