1月17日(ルカ9章7~9節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ9章7~9節 生と死におけるヨハネの働き〕

 さて四分邦領主ヘロデ(アンティパス)は、起こされていることのすべてを聞きました。そしてある人々によって、(次のように)言われていることによって、すっかり当惑し続けていました。(ある人々は、洗礼者)ヨハネが死人から起こされ〔よみがえっ〕たと(言い)、しかしある人々は(再来が預言されていた)エリヤが出現したと(言い)、さらに別の人々は昔の預言者の誰かがよみがえったと(言っていました)。しかしヘロデは、「ヨハネはわたし自身が首をはねた。ところがわたしがこれらのことを聞いているこの人とは、誰なのか」と言い、彼(イエス)を見たいと願いました。

*( )は原文にないが説明のために付加した部分、〔 〕は別の訳

 

 洗礼者ヨハネは娘の舞いの褒美として斬首されました。あまりにも理不尽なその殺され方に、わたしたちは戸惑いを覚えます。神に忠実だった預言者がこのような最期を遂げたことにいぶかしさを思います。そしてそのことは、わたしたちの人生においても同じではないでしょうか。わたしたちは様々な問題に思い悩まされたり、様々な病気にかかって苦しめられたり、様々な重い負担を抱え込んで悩まされます。主よ、どうしてですか、と問いたくなるような労苦を背負い、苦しみます。その苦しみの理由が分からずに悩みます。しかしどれだけ問いを発しても、それに対する答えを得られないまま苦しみ続けていきます。しかしそこで覚えたいことは、問いに対する答えを得られなかったとしても、そこでの苦しみには必ず意味があり、そこでの悩みには必ず理由があるということです。神はきちんと答えをお持ちで、わたしたちの人生を導いておられるということです。ヨハネは主のために生きていきましたが、その死においても主を証しすることになりました。彼が斬殺されたように、メシアも苦難を受けるということをその死をもって証ししたのです。そうして彼は自分の生と死において自分の使命を果たして主に用いられました。わたしたちにも同じことが言えます。苦しみの意味は分からなくて、その苦しみが主のために用いられるものとなるということです。わたしたちも主のための苦しみを背負っていきましょう。