第9課 堕落がもたらした悲惨さ(問8)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び

 

第9課:堕落がもたらした悲惨さ(問8)

 

1.堕落がもたらしたもの-本性の腐敗・善に対する無能力・罪と悪への傾き

 a.本性の腐敗

 原初の人間は「良いもの」で、「神の像」にかたどられた「まことの義と聖」を持つ存在でした(問6)。それが今や「悲惨」な者となり(問3)、神が求められる二つの愛の戒めを完全に行うことができないばかりか、むしろ「神と自分の隣人を憎む方へと、生まれつき心が傾いて」おり(問5)、「邪悪で倒錯したもの」となってしまいました(問6)。このように人間が堕落してしまったのは、どこから来たかとの問いに、教理問答は「わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順から」と答えます(問7)。神は人間を善いものとして創造されたのであり、「邪悪で倒錯したもの」に造られたのではないとすれば(問6)、それではそれはどこから来たか、それはアダムからであり、つまり人類の始祖がもたらしたというのです。「一人の人によって罪が世に入り、すべての人が罪を犯した」のでした(ローマ5章12節)。こうして人間は、倒錯した邪悪な存在となったばかりではなく、「腐敗した性質」を持つ存在として、「皆、罪のうちにはらまれて生まれてくる」ものとなってしまいました(問7)。このように「邪悪で倒錯」し、さらに「腐敗」した者として生まれてくるところに、わたしたち人間の悲惨さの源があります。このように、わたしたちの本性そのものが、その本質から「毒され」てしまった、そこにわたしたちの堕落した姿があります。その「腐敗した性質」「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているという」もので、その「生まれながらの罪」から、「実際に犯した罪」が生じるようになりました。そしてそれはいずれも神に対する「不従順と背反」であり(問10)、「神の至高の尊厳に対して犯される罪」となるものでした(問11)。

 

 b.善に対する無能力

 わたしたちはその本性が「毒され」「腐敗した性質」を持ち、「皆、罪のうちにはらまれて生まれてくる」ため(問7)、「どのような善に対しても全く無能」だと言われます(問8)。いくら何でもそれは、ひどいではないかと思うでしょう。まるでわたしたちには、善のひとかけらもないかのようで、わたしたちは善を全く行っていないと言っているようだからです。しかし「わたしたちは自分のどこをとっても、罪から自由なところはありません」と明言します。これは一体どういうことでしょうか。これはわたしたちの生活のどの部分も、罪の影響を受けて腐敗しており、また罪の支配の許に置かれているということです。それは単にわたしたちが悪しき行いをするということだけではなく、わたしたちの生活と生き方そのものが罪に満ちているということであり、行動だけではなく言葉と思いの源であるわたしたちの心そのものが罪に満ちており、また罪に汚染されているということです。外面的な行いであれ、内面的な思いであれ、わたしたちの生活と一切の行動の根源である心そのものが罪の支配を受けていて、罪から自由にされてなく、罪に捕らわれてしまっているため、その心から生み出されるものはすべて罪深いものとなってしまうのです。たとえそれが人に対する善意や愛、親切であっても、それさえ罪に腐敗したままのものにすぎないため、罪深く、神に喜ばれ受け入れられるものとはならないのです。鯛は鯛でも、腐った鯛は食べられません。そのようにわたしたちは、心そのものが罪によって腐敗しているため、ある部分は腐敗の程度が軽く、別の部分は重いという程度の差はあったとしても、腐っていることに変わりはなく、腐敗からは腐敗しか生み出されないのです。聖書はこのようにわたしたちが、罪の腐敗からまぬがれた部分がどこもないほどに全面的に腐敗しきっていると語ります。腐った心からは腐った業しか生み出されないのです。

 

 神が求められる「善」とは、人間の都合や考えでどうにでもなる相対的な善のことではなく、全く聖い神が基準となり、神が求められる絶対的な善です。その神の善とは、神の御心であり、それは律法に表されました。その中心は、二つの愛の戒め、つまり「神を愛し、隣人を愛する」こと、これが善です。この善の基準、愛の基準は、神の求められる高さが基準です。山の頂上に立つ人は、ふもとにいる人よりも高いです。下から見上げるとそれはすごく高い所にいて、あの人は素晴らしいと思われるでしょう。その人自身も上から下を見下ろして、自分はずいぶん高いところまで到達したと自負するでしょう。しかし飛行機の上から見おろせば、ふもとにいる人も山頂にいる人もどちらも同じ高さにしか見えません。人間の道徳的高さ、高潔さ、完全性も同じです。完全な神から見られたとき、人間はすべて全く不完全で、神の求められる善の基準、愛の高さにはとうてい到達していないばかりか、それには及びもつかないのです。しかしわたしたち人間は、その中心である心そのものが罪によって腐敗してしまっているため、そこから生み出されるものはすべて腐ったもの、罪(自己中心)という不純物が混入した不純なものでしかないというのが、聖書の教えです。このことは抽象的・一般的に考えるのではなく、具体的に考えてください。自分の隣人や家族との関わりにおいて、自分はどのように人を愛し、人に仕えているかを具体的に考えていくなら、他人はどうあれ自分については、この聖書の教えを認めざるを得ないはずです。親が子を愛し、子のためにあらゆることをするというとき、そこにやはり親の自己中心的な願望や歪んだ期待といったものから完全に自由だと言えるでしょうか。夫婦や恋人が相手を愛するというとき、相手への愛の中に純粋に相手そのものを愛する愛があるでしょうか。むしろ自分の願望や期待、理想を相手にぶつけ、それを要求するのであり、つまり自分を愛していることが、そこでの愛の正体ではないでしょうか。このように「わたしたちは自分のどこをとっても、罪から自由なところは一つもなく、腐り果てています。そして神の御霊によって再生されないかぎり、わたしたちは罪の支配の下に生きている」と言わざるをえないのです。

 

 c.罪と悪への傾き

 わたしたちの「腐敗した性質」は、それだけではなく、「あらゆる悪に傾いている」とあるように、罪と悪への「傾き」となってしまっているものでした。わたしたちは生まれながらに、罪と悪へと傾く心の傾斜をもっているというのです。傾いた板の上に球を乗せれば、必ず傾いた方に球が転がり落ちるように、わたしたちはどれほど抵抗しても、必ず悪の方にずるずる落ちていき、罪の方に向かってしまうのです。ちょうど「蟻地獄」のように、そこにはまり込んだら最後、もがいてももがいても抜け出せないばかりか、ますます深みにはまり遂に死に至る。それが堕落した人間の姿だというのです。善を行なう努力はするのですが、結局は悪へとはまり込んでしまう、そんな人間の姿をパウロはローマ書7章でいみじくも語っています。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と。

 

 d.原罪と現行罪

 ダビデが「わたしは咎のうちに産み落され、母がわたしをみごもったときも、わたしは罪のうちにあった」(詩51編7節)と語るとおり、人間は生れながらに「罪人」として、罪を持つ者として生まれて来る者となってしまいました。このように「わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくるので」(問7)、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」(創世記8章21節)ということになり、無垢な人間は、一人もいないのです。このように人間の心そのものが、その根源から全面的に腐敗してしまっていること、つまり最初から罪へと傾斜していることを「原罪」と言います。わたしたちは生れながらにこの「原罪」、つまり「心の全面的腐敗と罪への傾斜」を持っているため、必然的に罪を犯すのです。腐った鯛やりんごからは、腐敗臭が漂います。罪に腐敗した心からは腐敗した行動と思いが生み出されるだけなのです。普通に言われる罪は、外面に現われた罪、「実際に犯した罪」(ウェストミンスター信仰基準で言う「現行罪・現実罪」)、つまり行いにおける罪が考えられますが、聖書は心の中で犯される罪、思いにおける罪、つまり内面的な罪もまた「現行罪」なのであり、この外面的・内面的な罪、行いと思いにおける罪の両方が、実は原罪、罪に腐敗した心そのものから生み出されると教えるのです。

 

 主イエスは言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7章20~23節)。「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す」(マタイ15章18~20節)と。そしてこの腐った心から、罪と悪の実りが結ばれていくのです。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・・善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ6章43~45節)。「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。・・・言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12章33~37節)。このようにわたしたちは、神が求められる善、完全な愛において、全く見込みがありません。わたしたちの行いと思いの中心である心そのものが罪によって腐っているからです。そしてわたしたちが「神の霊によって再生されないかぎり」この状態なのです。

 

 ですからそこから「再生」の必要が語られるのです。「再生」とは「新しく生まれ変わる」ことです。心そのものが新しくなり、それによって生き方を新しくやり直すということです。これ以外に方法はありません。しかしそれをすることができるように、神は新しく生まれる方法を用意してくださったのです。神の御霊によって再生されることです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3章18節)。それをわたしたちの内に実現するのが聖霊です。わたしたちは聖霊の働きによって、この罪の体から救い出されていく希望の内にいます。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩51編12節)。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしの霊をお前たちの中におき、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なわせる」(エゼキエル36章26~27節)。