第5課 自分の悲惨さに気づかせる「律法」とは何か(問4)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第5課:自分の悲惨さに気づかせる「律法」とは何か(問4)


1. 「律法」とはわたしたちの幸いのために与えられた神の御心

 「自分の悲惨さ」について気づくのは、「神の律法によって」であるというのが、問3で考えたことでした。それを受けて問4では、それではその「神の律法」は、わたしたちに何を求めているかという問いとなります。しかしそもそも「神の律法」とは何でしょうか。律法(トーラー)は、旧約聖書の中で「モーセ五書」とも呼ばれる、創世記から申命記までの五書を指しますが、また同時にそれを含め旧約聖書にある戒めや掟や法の全体を指す場合もあります。そしてさらにこれらの「書かれた律法」の他に、それに対する歴代の律法学者・ラビたちの解釈や事例がつけ加えられた壮大な体系の全体を指すこともあり、それは厖大なものとなっています。しかし律法は、そもそもわたしたちがそれに従って生きることで、神の祝福と幸いを得ることができるために与えられたものでした。それは束縛や強制、重荷やくびきではなく、罪の道に迷い出ないための確かな道筋であり、神の幸いへと至らせる道しるべでした。神はかつてイスラエルに、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」と言われました(申命記10章12~13節)。そして神は、イスラエルに命と死、幸いと災いを示して、どちらでも好きなほうを選べと求められたのではなく、命と幸いを選ぶようにと強く勧め、願うのでした。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前におく。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命である」と(申命記30章15~20節)。そこで与えられたのが律法なのでした。


 この律法は厖大なもののはずですが、この教理問答では、律法を「十戒」と言い替えます。律法とはつまり十戒であると(問92)。それはウルジヌスの『小教理問答』ですでに語られていることで、「どこからわたしたちの惨めさを知りますか」という問いに、「十戒に包含されている神の律法からです」と答えます(問4)1 。『ウェストミンスター信仰規準』も同じで、ここですでに律法に対する一つの解釈が加えられます。これほど厖大な律法であっても、それらは儀式律法、司法律法、道徳律法に分けられますが、儀式律法と司法律法は、イスラエルに与えられたもので、今日では廃棄され、今日においても有効なのは道徳律法です2(『信仰告白』19章)。そして道徳律法の中心は十戒にまとめられ、要約されているというのです。この「道徳律法は、十戒の中に要約して含まれています。・・・その初めの四つの戒めは、神に対するわたしたちの義務を、残りの六つは、人間に対するわたしたちの義務を含んでいます」と3(『大教理問答』問98)。ここで十戒は二つに分けられますが、それは十戒が二枚の石の板に書き記されたことに対応します。ただ、それがどの戒めと対応するかは立場によって違いがあります4。こうして律法は、十戒という形で要約されてわたしたちに示されました。神の御心が何であり、また律法が何であるかを知るためには、この十戒を知る必要があります。律法とは、掟や法律の雑多な集成ではなくて、そこに中心をもっています。それが十戒です。この十戒を学ぶことで、わたしたちは神の御心を知り、その祝福と幸いの中を歩んでいくことができるのです。「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたのみ言葉どおりに道を保つことです」(詩篇119編9節)。「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(同105節)とあるように、わたしたちにとっても、神の律法が人生を照らし、行き先を指し示す道しるべとして与えられています。わたしたちに対する神の御心を示したものが律法でした。そして主のものとして、主のために生きるとは、主を愛して、主の御心に従って生きるということで、律法はそのために与えられました。主を愛するということは、主がそれによって生きるように与えられた律法に従って、神の御心の中で生きていくということです。「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(1ヨハネ5章3節)。主イエスご自身「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」と言われました(ヨハネ14章21節)。


2.神と隣人に対する徹底した「愛」

 それではその「神の律法」は、わたしたちに何を求めているかという問いに対して答えられたことは、マタイ22章で主イエスご自身が答えられた、「二つの愛の戒め」でした。主イエスは、「律法の中で、どの掟が最も重要か」を問われ、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われました(マタイ22章37~40節)。神の御心としての人間本来の生き方の規準を示したのが律法で、その中心が十戒ですが、主イエスはそれをさらに「二つの愛の戒め」にまとめられました。神を愛し、隣人を愛すること、この二つが人間に求められる「義」、人間本来の生き方であると。そしてこの教理問答では、それに対応して、「その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対して、どのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人に対して、どのような義務を負っているかを教えています」と区分します(問93)。同じように『ウェストミンスター大教理問答』も、十戒を「神に対するわたしたちの義務」と「人間に対するわたしたちの義務」の二つに区分し、「神に対するわたしたちの義務」について、次のように答えます。「神に対するわたしたちの義務を含む、四つの戒めの要点は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いつを尽くして、わたしたちの神である主を愛することです」と(問102)5。そして「人間に対するわたしたちの義務」については、「人間に対するわたしたちの義務を含む、六つの戒めの要点は、わたしたちの隣人を自分自身のように愛することと、わたしたちが人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にすることです」と答えます(問122)6 。そしてそこではマタイ7章12節の「黄金律」も加えられていきます。


 ここで求められている愛は、徹底した完全な愛です。第一に、神への愛が求められます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということは、半端な愛し方ではありません。片手間で、思い出した時に愛を確認するといったものではなく、徹頭徹尾神を愛し、神を第一とし、神のためには生命さえ惜しまず捧げて捨てるほどに、神を愛するということです。神の御心を中心にして、神の願うように、そして望まれるままに生きるということです。カルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』において、「神を神として愛する」ということで、「それは神を主、指導者、救い主、父としてもち、保つ」ことで、「愛とともに畏れ、敬意、信頼、服従が求められています」と答えます(問218)7。そして心を尽くして神を愛するとは、「言い換えるなら、わたしたちのうちにこの愛に背くどんな願いも、意欲も、努力も、考えもないような、熱心と熱烈をもって」そうするということだと答えます(問219)。そこでは己れの我欲を捨て切って、徹底的に「神中心」に生きることが求められます。しかもそれだけではなく、「神の像」に似せて創造された「隣人を自分と同じように愛する」ことも求められます。これはレビ記19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」が元になっていますが、そのレビ記19章では、寄留者を「自分自身のように愛」することが求められています(33、34節)。穀物や果実の収穫に際して貧しい者や寄留者に対する配慮と愛の業が求められ、その根拠はかつて自分たちも同じ境遇におかれていたことにおかれます。彼らを「自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである」(34節)と。そしてここに、隣人に対する関わりの基本が明示されます。


 それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)という、主イエスの言葉に通じていくもので、自分が通った苦しみをもって、他者の痛みと苦しみを共有し、それを共に担っていくあり方でした。そしてこのように他者を「自分自身のように愛する」ことこそ、「律法と預言者」、つまり聖書の教え全体なのです。そこでパウロはこれをさらに一つの愛の戒めにまとめます。「互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟であっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ書13章8~10節)。また「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と(ガラテヤ書5章14節)。


3.「自分自身を愛する」とは

 ただ、この「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、近年においては別の解釈がとられるようにもなってきています。つまり「自分自身を愛せない人に隣人を愛することはできない」ということで、そこではまず「自分自身を愛する愛」が求められ、それを前提として、隣人に対する愛が成り立つという考えです。「自己愛」があって初めて「隣人愛」が成り立つのであり、そこでは「自己愛」が大切だとするのです。この問題は簡単に通り過ぎることができないほど深い問題ですが、ここでは十分に掘り下げるだけの暇がありません。ただそこでよく考えなければならないことは、「自分自身を愛する」ことと「自己愛」とは同じかどうかという点です。これからの「罪」の問題で考えていくことですが、もし「自己愛」を、自己撞着した自己中心的で自己陶酔的な愛であるとするなら、まさにその「愛」の姿こそ「罪」の姿なのであり、そうした自己への偏執愛・自己撞着からの脱却と解放こそが「罪からの救い」です。たしかに自分自身を健全に自己受容できていない人には隣人を健全に受容することも困難でしょう。しかしそこで自分を受容することと「自己愛」とは本質的に違うものだと考える必要があります。わたしたちが自分自身を受容できるようになるのは、自分から出ることではなくて、あくまでも主から起こされていくことだからです。神に離反して生きてきた、神の敵である自分を、それでも赦し、愛して、受け入れてくださいました。


 そこで主は、どこまでも「罪人」であるわたしを赦し、愛し、受け入れてくださいます(ローマ5章8節)。そしてそこでの赦しと受容は、「そのままのわたし・ありのままのわたし」に起こされることです。そこではわたしが何を果たすわけではなく、わたしが立派になるといった条件がつけられるわけでもありません。わたしは、わたしが主によって受けられるために、何もしません。何もできないからです。しかしだからといって、仏の慈悲のように、無条件でそれが為されたわけではなく、神の側では大きな犠牲が払われました。そこで「贖い」が為され、御子による犠牲が払われた、その故にわたしたちは、罪人に他ならないのに赦され、ありのままの自分が主によって受け入れられました。そこでは、神の贖いという尊い犠牲が払われるほど、神にとっては、このわたしが尊い存在であり、愛の対象とされているということでもあります。そのようにして神に赦され、受け入れられた存在が、自分であるということが、「自己受容」において考えられなければならない点ではないでしょうか。自己に偏執した自己中心的な「わたし」が、無条件で受容されるのではなく、そうした「自己愛」そのものから解放され、新しくされた「わたし」として変えられていくことが、そこでは求められているのです。そこで自己受容できる「わたし」は、自分から見た「わたし」ではなくて、そのわたしのために命を捨てて、贖い取ってくださった、主のまなざしから見た「わたし」なのです。一度、十字架によって自分に死に、主と共に復活して、新しく生きる者とされた「わたし」です。


 この言葉はレビ記19章からの引用ですから、そこから一人歩きさせるのではなくて、その文脈の中で考える必要があります。そしてそこで問われたことは、かつて自分も異国の地で寄留者として生き、貧困にあえいで苦しんでいたことでした。そうした自分の経験を踏まえて、自分の身近な隣人に対する愛の配慮が求められます。それはつまり、相手の痛みを自分の痛みとして、相手を配慮するということです。それが「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ということで、求められていることではないでしょうか。「隣人愛についての最小限の、しかももっとも平凡な解釈は、人は他者の利益を考えるものであって、単に自分自身の利益だけを考慮するものではない、ということである。他者は他者自身のために配慮されるべきであり、他者が何を欲し何を必要としているか〔他者中心に〕配慮されるべきであって、究極的にはその他者が、配慮する行為主体に対して利益をもたらすからという理由から配慮されるべきではないということである。・・・わたしは他者の利益を考えるべきであり、単に自分自身の利益だけを考えるべきではない、ということ」だと8。


4.隣人を徹底して愛すること

  このことについてカルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』において、次のように論じます。「わたしたちは生まれつき自分自身を愛する傾向が強く、この感情が他のすべての感情に優先しているように、隣人への愛が、わたしたちを連れ出し、導き、わたしたちの思いと行動すべての規則となるようにという意味」だと(問220)9。そしてここで愛することが求められる「隣人」について、それは誰かを主イエスは次のように答えられました。「隣人」とは、単に自分の周りや隣にいる人のことだけではなく、ましてや自分によくしてくれる人のことだけでもない、あなたの敵も隣人であると。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。・・・自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。・・・自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と(マタイ5章43~48節)。ですからあなたの気に入らない、あなたを憎み、敵対する人も、ここであなたの愛の対象となるべき「隣人」なのです。さらにはあなたにとって価値なく、意味がないと思う人も入るのです(マタイ25章34~40節)。カルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』において、隣人とは「わたしたちの両親や友人、あるいは、わたしたちとしばしば交際する人だけではなく、わたしたちの知らない人や、敵さえも含んでいます」と答えた後で(問221)10、「ですから、もしだれかがわたしたちを憎むとしても、それはその人だけの問題であって、神の秩序によれば、かれがわたしたちの隣人であることに変わりはなく、わたしたちもそのようにみなければならない」と続けます(問223)11。そこで言われる「神の秩序」とは、「神が地上のすべての人々のあいだに置いた絆」のことで、「いかなる人の悪意によってもこれが廃棄されることはありません」と語ります(問222)12。


 主イエスは、「隣人とは誰か」という問いに対する有名な譬を語られました。「善いサマリア人」の譬です。しかしこれは、実は「誰が隣人になったか」を明らかにする譬でした。まったくの赤の他人、一面識もなく、親切にする必然性もない相手、しかも相手からの見返りを何ら期待できない間柄、親切にするメリットが何もない、そのような人に対してどうであるか、が問われるのです。無視して横を通りすぎることができるし、自分は自分の都合があると正当化することができるのです。そういう人に、それでもなお愛を向けることができるかと問われてくるのです。わたしたちはこのような行為がどれほど難しいものであるかを良く知っています。どの人にも親切なんかしていられない、それでは自分の生活が成り立たなくなってしまうではないか、そうわたしたちは考えて自分を正当化し、理屈づけをします。知り合いならばともかく、赤の他人にまでなんて。だからわたしたちは愛の対象を制限していくのです。限定し、枠を決めて、その中にいる人だけに愛を向けようとします。半殺しになって死にかけた人の横を無情にも通り過ぎていった祭司やレビ人を、薄情なひどい人間だと考えるでしょうか。しかし助けずに横を通り過ぎたのは、それなりに彼らの理由があったからでした。そうやって自分を納得させて、通り過ぎていったのです。しかしここで主が問うておられることは、正しい答えかどうかではなく、それを実践したかどうかでした。


 主イエスに質問した律法学者は、答えを知っていました。それは律法においては「二つの愛の戒め」に還元され、「神を愛し、隣人を愛すること」に尽きる、それに全ての律法がかかっていると。主は答えられます。「正しい答えだ、それを実行しなさい」。話の最後でも、「誰がその人の隣人になったか」と問い、「その人を助けた人です」と答えると、「行って、あなたも同じようにしなさい」と求められます。命とは知識ではない、愛とは正しい答えではない、実行することだと主は語られたのです。愛は、知識として成り立つものではありません。愛についての哲学者の言葉をどれだけ多く知っていたとしても、それでその人が愛を知っているとか、愛の深い人だとは言えません。ましてや隣人を愛することが大切だと「知る」こと、それが愛なのではなく、隣人を実際に「愛する」こと、それが愛なのです。神が求められることは、二つの愛の戒めに尽きる、それは正しい答えですが、神が求めておられることは、そのことを知ることではなく、それを実行することです。事実、神を愛し、隣人を愛することなのでした。


 しかしそれを十分に行い切れない彼は、自分を正当化するために尋ねたのです。「では、わたしの隣人とは誰ですか」。彼にとってやはり律法は、知識でした。正しく知ることが第一、だからまず隣人を正しく定義する必要があります。隣人とは誰か、それを正しく定義してから、その隣人を愛しましょうと答えたのです。それに対して主は、「誰が隣人になったか」と問われたのでした。この二つの問いは全く違います。「誰が隣人か」と「誰が隣人になったか」。ここでも主が求めておられることは、行うこと、実行することです。隣人を定義し、正しく知ることではなく、「隣人になる」ことです。しかしこの人は「誰が隣人か」と問いました。これは単に知識か実行かという違いだけではない、もう一つの問題がありました。選別です。愛の限定であり、隣人の選択です。愛する対象を限定し、枠を決めようとするのです。無制限に愛することはできないからです。無制限の愛は現実的ではない、現実的な話をしましょうというわけです。それは常識的な判断でした。しかしそうやって「隣人」に枠を決め、隣人を選択し、限定して「愛する」こと、それは本当の愛だと言えるのかと主は問うのです。隣人の対象を限定して愛するなら、徴税人でも悪人でもしているではないか。むしろ敵を愛し、迫害する者のために祈れと主は語られました(マタイ5章43~48節)。当時ユダヤ人は「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられていたようでした。ユダヤの人々が教えられてきたこの教えは、わたしたちの一般常識なのではないでしょうか。わたしたちもそれを当たり前のようにして実行しているのです。無制限に愛することはできないと理屈をつけて、自分を正当化し、そこで隣人に制限を設けて、それ以外の人への愛を無視するのです。この隣人の選別、愛の限定という常識に対して、主はこの譬を語られたのでした。第一は、愛の実行の問題、第二は、愛の範囲の問題です。そして愛とは実行することで、そこに制限や限定があるべきではない、そのことを明らかにするために、この譬を話されたのです。理屈をつけて横を通り過ぎた人と、実際にこの人を助けた人を対比させ、しかもそこにユダヤ人と対立していたサマリア人を登場させたのは、それを明らかにするためでした。「隣人を愛し、敵を憎め」という教えに立つかぎり、ユダヤ人がサマリア人を助けるということは考えられません。それなのにサマリア人は、自分の敵を愛したのです。まことの神を十分知らず、神の戒めも十分にわきまえていないとユダヤ人が考え、卑しめていたサマリア人の方が、はるかに神の御心を知り、それを実践していた、そのように主は彼らに問いかけられたのです。その主がわたしたちにも求められるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。


5.自分の命を捨てる愛

 さらに主イエスは、わたしたちが相互に愛し合う「相互愛」について語られました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34~35節)と。主の弟子であることの見えるしるしとは、互いに愛し合うことなのだと。この教えを受けた弟子のヨハネは、「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教え」で、「その掟とは、互いに愛し合うこと」だと語りました(1ヨハネ3章11、23節)。そして「互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です」と勧めるのでした(1ヨハネ4章7~21節)。このように、神が人間に求められる「義」、「律法」が要求する人間本来のあり方とは、「互いに愛し合う」ことなのでした。律法とは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないといった禁止条項の集まりではなく、また様々な戒律の集成なのでもなく、その本質は「愛する」ということです。神がわたしたちに求めておられる生き方、在り方とは、「あなたは真実に愛しているか」ということであり、それが人間として生きることの基準、また自分自身をそこで省みる鏡なのです。


 聖書は、神を愛する者は兄弟をも愛する者であるはずだと語ります。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」と(1ヨハネ4章7~20節)。ここでは徹底した隣人に対する愛が要求されています。それは生半可な「愛」ではなく、自分自身を捨てることが求められるほどに厳しい愛です。聖書が示す愛の基準は、「友のために自分の命を捨てること」です(ヨハネ15章13節)。わたしたちの主「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによってわたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3章16節)。これが愛の基準です。相手のためには自分を捨てる自己否定、自分の最も大切なものである命さえ相手のために捧げる自己犠牲、徹底して相手のために尽くしていく他者中心性、それがここで求められている愛であり、それは「自己愛」と対極にあるものなのです。




1 吉田隆・山下正雄訳、『ハイデルベルク信仰問答』付・ウルジヌス小教理問答、1993年、新教出版社、102頁

2 松谷好明訳、『ウェストミンスター信仰規準』、2002年、一麦出版社、79頁以下

3 松谷好明訳、『ウェストミンスター信仰規準』、2002年、一麦出版社、190~191頁

4 カトリック教会とルター派は、第一戒と第二戒を一つにして「第一戒」とし、後は繰り上がります。すると一つ足りなくなるので、第十戒を二つに分けます。序文は含みません。またユダヤ教では、序文を「第一戒」とし、第一戒と第二戒を一つにして「第二戒」とします。渡辺信夫編訳、『ジュネーブ教会信仰問答』、注136参照、194~195頁

5 同上、195頁

6 同上、217頁

7 石引正志、「ジュネーブ教会教理問答」(『改革派教会信仰告白集』I所収)、2011年、一麦出版社、469頁

8 G.アウトカ、『アガペー 愛についての倫理学的研究』、1999年、教文館、18頁

9 石引、前掲書、469頁

10 同上、469~470頁

11 同上、470頁

12 同上