第3課 主イエスのものとして生きるための三つの知識(問2)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第3課:主イエスのものとして生きるための三つの知識(問2)


1. この慰めのうちに祝福されて生きるための知識

 パウロは、「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14章7~9節、2コリント5章15節)と勧めました。「わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」、ここにこそわたしたちの「ただ一つの慰め」があります。そこからでてくる道筋は、「この方のために生きる」という道筋です。問1の最後で、「今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださる」ことが約束されました。ここで問われるのは、そこに至るための知識であり、そのために必要な知識です。それは、「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬため」に必要な知識であり、「この慰めのうちに祝福されて生き死にすることができるため」の知識でもあります。もうすでにわたしたちは、この慰めのうちに置かれており、その慰めの中で祝福を得ています。しかしもうすでに入れられているこの慰めの中で、それをさらに豊かに受けつつ、引き続きその慰めの中で生きていくために必要な知識ということです。もうすでにその慰めのための働きは成し遂げられ、用意され、わたしたちはもうそこに入れられています。問1では、「この方は、ご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」と宣言されていました。つまり、この慰めに入れられるための神の救いの御業、そのためのキリストの御業は、もうとっくに完了し、終えられているのです。それだけではなく、わたしたちはもうこの慰めの内に入れられてもいるのです。わたしたちの内に、このキリストの救いをもたらす聖霊の御業が、すでに始められているからです。「そうしてまた、ご自身の聖霊により、わたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださる」と問答は約束しています。


 わたしたちがこれから得る三つの知識は、もうすでにわたしの内で開始され、それにあずかれるように働かれている神の生きた御業をしっかりと認識して、その慰めの内に豊かに生きる者となるための知識なのです1。わたしたちが「この慰め」にあずかるためのキリストの御業はすでに成就し、またそれは継続してわたしたちの内に行われています。贖いをもたらすキリストの「外なる業」は、十字架と復活によって成し遂げられ、それを一人一人のものとしてくださるキリストの「内なる業」は、聖霊の働きによって今も行われているからです。こうして外と内とから包み込まれるようにして、わたしたちはキリストの御業に覆われ、抱き締められて、救いに至るのですから、わたしたちに求められるのは、この慰めを豊かに享受することであり、そこからの実りを結ぶことに他なりません。それが、この方への感謝であり賛美の生活なのです。ですからこの三つの知識の目標は、「今から後この方のために生きる」ということにあるのです。そして「それにふさわしくなるように整えられていく」ための知識が、ここで問われていく三つの知識なのです。


2.「主のために生きる」ことの知識

 こうしてわたしたちが「正しく生きる」ためには、「正しい知識(認識)」が必要であることを覚える必要があります。「信仰は単なる知識ではなく生き方である」という考え方に、わたしたちも同意します。そのとおり信仰とは「生きる」ことです。しかしそのためには「正しい知識」を持つことが必要でもあります。パウロも、律法に頑なに従うユダヤ人について「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しします」と述べましたが、同時にそこで「この熱心は正しい認識に基づくものではありません」とも語りました(ローマ10章2節)。たしかに信仰は、神に対する敬虔な感情であり、神の恵みに感謝して神に服従して生きていこうとする思い(意思)でもあります。信仰は、「こころの信頼であって、頭の中の思想形成」ではありません。しかし「信仰は非理性的ではないし、無分別ではないし、洞察を持たないわけで」もありません。「信仰は認識でもある」のです2。バルトは、「正しく理解されたピスティス(信仰)はグノーシス(知識)であり、・・・信仰とは認識を意味する」と語りました3。古来より「知解を求める信仰」という言葉がありました。信仰はその本性上「知る(知解する)」ことを求めるものだということです。「わたしたちは、許される限り、神についての真実を知ろうと欲するのです。神の本性、行為、ご意志を理解しようとします。信じるがゆえに、知解し、認識することが必要になるのです」4。バルトは次のように語ります。「信仰は、それが神を信じる信仰である限り、したがって〔本来の〕正しいものを信じるものである限り、神に負うている、神によって要求され、救いに益となる『経験』に結びついた、正しい意志行為である。信仰は聞くことから来、聞くことは説教からくる。信仰は『キリストの言葉』と関連しており、もしもそれがキリストの言葉を懐き受けとること、すなわち、知識として受けとることを肯定することでないならば、信仰ではない」と5。


 この教理問答においても、「信仰は認識である」ことが強調されます。「まことの信仰」とは、「神が御言葉においてわたしたちに啓示されたすべてを、わたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります」と(問21)。信仰とは、「確かな認識」と「心からの信頼」なのです。そこでこの教理問答では、人間が「自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美するため」に創造されたということ(問6)、だから「神が望んでおられることは・・・神の言葉を学」ぶことであり(問103)、神を「正しく知」ることにおいて、神の「み名をあがめ」ることになると教えられていきます(問122)6。このように「信仰は認識である」という理解は、「信仰とは、我々に対する神の慈しみの意志についての堅固で確実な認識である」7としたカルヴァンの伝統につらなるものです。カルヴァンは、『ジュネーブ教会教理問答』においても、「人生の主要な目的は・・・神を知ること」であり(問1)、「人間の最高の幸福・・・も同じ」だと語ります(問3)。ただ、それは単なる頭の知識だということではありません。目的があります。それはあくまでも「神を崇める目的で神を知る」ということであり、それこそが「神についての真に正しい知識」だからです(問6)8。ですからここでの神知識、「この認識とは、私たちに神をあがめさせる奉仕」に他なりません9。ですからここで問われる知識も、神に喜んで受け入れられていく「感謝の捧げもの」とは、一体どのようなものなのかを教える知識です。これらの知識は、単に知的に了解し、それに満足し、頭に蓄積するだけの知識ではなく、また経験によって得られる知識でもありません。聖霊が、わたしたちの内に働いてくださることで与えられ、深められていく知識です。


3.罪からの救いを心から感謝して生きるための知識

 それでは、わたしたちが「主のために生きる」ために必要な知識とは何でしょうか。それは三つあり、第一は自分の罪とそれによってもたらされている悲惨が、どれほど大きなものであるかということ、第二はそこからどうやったら救い出されるかということ、第三は、そこから救い出されたわたしたちが、どのような感謝を神に表すべきであるかということだと答えられます。この三点については、ウルジヌスも『小教理問答』の中ですでにあげていました。「神の御言葉は何を教えていますか」という問いに、「まず、わたしたちに自分の惨めさを示します。次に、どんな方法によってわたしたちがそれから解放されるのか、そして、この解放に対して神にどんな感謝を表わすべきかを教えています」と答えます(問3)10。


 まずは、「自分の罪と悲惨の大きさ」についての知識です。それは、自分の罪深さ、悲惨さを知るということです。なぜなら悲惨とは、神の許を離れて自分一人で孤独に生きるということで、そこに一切の禍の根源があるからです。そしてそれがもたらす結果、結末が滅びであることを知ります。それによって何としてでも、そこから救い出されることを求めるようになるためです。真剣に自分の救いを渇望し、求めるようになるためです。しかしそれではと、やみくもに駆けずり廻っても、それで自分の救いを得ることはできません。自分の救いを獲得するためには、どこへ行ったらよいのかをも知る必要があります。それはイエス・キリストです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)。それ以外のどこへ行っても、この自分の罪と悲惨から自分を本当に救い出してくれる、本当の救いを得ることはできません。そしてわたしたちは、自分が期待し考えるような救いではなく、本当の救い、自分の罪と悲惨からの救いとは一体なんであるかということについて教えられていきます。それに「感謝の生活」が続きます。そこでは、わたしたちはどうして救われたのか、何にために救われたのか、救いの目的と目標が問われていきます。それは「ますます喜んで主に仕えるようになる知識」です11。それによって「わたしたちは、生涯に亘って、ますます、赦された罪の大きさと、恵みの大きさを知り、いよいよ感謝を新たにし、この後は、ますます主のために生きる決心を増し加えられ」ていくようになります。こうして「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という御言葉が成就していくことになるのです。


 この「罪(悲惨)-救い-感謝」の三つの知識が、『ハイデルベルク教理問答』の目次、梗概となっていて、全体はこの三部に分けられています。これはこの教理問答の独創というよりも、実はローマ書の構造に倣ったものでした。ローマ書は、「罪-救い-感謝」の三部構成となっています。ローマ教会への挨拶の後、まず異邦人そしてユダヤ人の「罪」が指摘されます(1章18節~3章20節)。次に、イエス・キリストによる罪からの「救い」が語られます(3章21節~11章)。それは「信仰」によって与えられる「義」で、「信じる者すべてに与えられる神の義」です(3章22節)。そして最後に、この罪から救われた者の「感謝」の生き方が示されます(12~16章)。それは「愛」に基づく新しい生き方でした。教理問答の三つの知識は、このローマ書の三部構成に対応するものでした。それは、「第一のことを知ったならばしかる後に第二の知識へ進み、更に第三に進むというような知識ではない。それは、生きるにも、死ぬにも、生きる時も、死ぬ時も、すなわち、生涯に亘って、常に覚えるべき、『三重の知識』である。常に重なって覚えるべき三重の知識である」のです12。


 そしてこの「罪(悲惨)-救い-感謝」の三つの知識に対応する、わたしたちのあり方は「悔い改め-信仰告白-感謝(献身)」です。そしてこれは、他でもない「礼拝」において語られ、献げられているものであり、そこで語られる福音の説教によって繰り返し明らかにされ、喚起されていく知識でもあります。「礼拝」において、わたしたちはここで求められる「主のための生き方」へと整えられ、方向づけられ、支えられていくと共に、それを献げてもいます。「礼拝という場所で福音の説教によって生じる知識が三つの知識であると言えるでしょう」13。この教理問答自体、プファルツ教会の礼拝のために用意された信仰基準で、礼拝を礼拝たらしめていくための指針として定められたものでした。そのことを、わたしたちは礼拝において、福音によって繰り返し見上げていきます。2009年に東京神学大学で行われたカルヴァン生誕500年記念集会の中で、日本基督教団上尾合同教会牧師の秋山徹先生はカルヴァンの礼拝式を取り上げて、次のように講演されました。「この礼拝には明確な構造があります。御言葉の礼拝と食卓の礼拝は共にある形が本来の形であり、両者は一体となって結びついています。神に栄光を帰し、主の御前にひざまづき、罪を告白し、赦しの宣言を聴き、十戒によって赦された者の歩みを確認し、御言葉の説教によって恵みの約束を聞き、信じて確信をもって生きることへと促され、信じる者、世界のすべての民のために執り成しの祈りが祈られ、聖晩餐によってその恵みが確かに保証され、全体を貫いて詩編の賛美と祈りがそれらを結び合わせる、ハイデルベルク教理問答の三部構造、罪・恵み・感謝が礼拝の構造そのものになっており、礼拝に参加することが即キリスト教の福音の使信にあずかり、その中に身を置く形になっています。全体が大きな流れをもっており、一つ一つの礼拝の要素が無駄なく秩序をもって配列されています。この中で、会衆全体が一体となって神との対話をする聖なる時をもつことになります」14。


 こうして「キリストの言葉」から、信仰が生み出されていきます(ローマ10章17節)。そこで、このまことの信仰を生み出す「キリストの言葉」とは具体的には、福音を要約した「使徒信条」であり、「聖礼典」によって、それに見える形であずかります。そしてこの「キリストの言葉」に聞き、そこに証しされるキリストの十字架と復活を見上げるところから、この主に対するわたしたちの感謝の応答、この「主のために生きる生き方」が生み出されていきます。そのための指針として与えられたのが「十戒」と「主の祈り」でした。『ハイデルベルク教理問答』は、この4つ「使徒信条、聖礼典、十戒、主の祈り」を順次、解説する形で、先の三つの知識をわたしたちに明らかにしていきます。次のとおりです。


三つの知識 

悲惨(罪)

救い    

感謝 

ローマ書

1:1~3:20 

3:21~11章     12~16章 

問答の内容    

二つの愛の戒め

使徒信条・聖礼典    十戒・主の祈り  

律法と福音

律法(第一用法)

福音

律法(第三用法)

礼 拝

悔改め・告白

説教・聖礼典

感謝の応答



 この三つの知識は他のものと対応関係にあります。この三つの知識はローマ書の構造に基づくもので、それによって教理問答も三つに区分されます。そこでの具体的な内容は、第一部「悲惨」は、十戒を要約した「二つの愛の戒め」によって罪を認識させます。第二部「救い」は、福音を要約した「使徒信条」と“見える御言葉”である「聖礼典」によって提示し、救いに至らせます。第三部「感謝」は、それによって救われた者の感謝の生き方を、「十戒」と「主の祈り」によって導きます。そしてそれはまさに毎週の礼拝で実施されていることで、罪の告白による悔い改めと赦しの宣言がなされ、神の言葉の説教と聖礼典によって福音が示され、それに対する感謝の応答として信仰告白と賛美と祈りと献げものによる感謝が表明され、その信仰に生きるとの献身が決意されていきます。ここで興味深い点は、この教理問答が「律法-福音-律法」という配列になっていることです。ルター派は律法によって罪を自覚することで福音に至るという「律法から福音」という順序を主張したのに対して、改革派はむしろ福音によって罪を本当に認識できるのであり、福音によって救われた者が律法を守り行うようになるという「福音から律法」という順序を主張しました。ただそこで言う「律法」は内容的に違うもので、ルター派の場合は、罪を自覚させ、おのれに絶望することで福音へと追いやるとする「第一用法」で律法を捉えたのに対して、改革派は救われた者の感謝の指針としての「第三用法」で律法を理解しました。この教理問答は、その両方をバランスよく調和させた配列となっています。ルター派、メランヒトン派(穏健ルター派)、カルヴァン派が混在し、信仰的一致を保つことが困難になっていた、当時のプファルツ教会の現状を憂慮し、信仰的一致を保つために作成されたのが、この教理問答でしたので、そのような配慮がなされたと言うことができます15。

 

 ここで最後に覚えていただきたいことは、このわたしが救われるために、主イエスは痛くも痒くもない仕方で救われたのではないということです。主イエスは、このわたしが救われるためには、ご自分の命を喜んで差し出してくださり、ご自分の命と引き代えにして、わたしたちを救ってくださったのでした。そのことを本当に知ったなら、わたしたちの生き方は変わるはずです。救われてからのわたしたちの生き方は、自分のために死んでくださった方のために、その方の遺志を継いで、その方の願われることを実現するために、感謝をもって生きるのではないでしょうか。それが教理問答全体で求められることであり、特に第三部で語られることなのです。救いとは、主の命に生き、主との交わりに生きることであり、主にあって生きることです。そしてそれは、主に従って生きるということです。そこでの主に対する服従は、強制や隷属ではなく、感謝に満ちた応答としての自発的で自由な随行であり、善き羊飼いの導きを信頼して、その声の後に従ってついていくことに他なりません(ヨハネ10章4節)。こうしてわたしたちは、これらの自分の「罪(悲惨)-救い-感謝」を知ることによって、「唯一の慰め」により豊かに生きる者とされていくのです。それはまず自分の罪と悲惨を知り、そこから救われ、感謝の生活にいたる道筋であり、「主のために生きる」道筋です。この道を歩んでいくところで、わたしたちは慰めの中で生きる者とされていくのです。

 

 

 

1 参照:登家勝也、『ハイデルベルク教理問答講解』I、1997年、教文館、17頁

2 A.ラウハウス、『信じるということ』、2009年、教文館、46頁

3 K.バルト、『教義学要綱』、1993年、新教出版社、新教セミナーブック1、25頁

4 関川泰寛、『ニカイア信条講解』、1995年、教文館、75頁

5 K.バルト、『知解を求める信仰』、1983年、新教出版社、カール・バルト著作集8、22頁

6 参照:K.バルト、『キリスト教の教理』、2003年、新教出版社、新教セミナーブック12、32頁

7 カルヴァン、『キリスト教綱要 改訂版』第三篇2章7節、2008年、新教出版社、23頁

8 カルヴァン、「ジュネーブ教会教理問答」、『改革派教会信仰告白集』I、2011年、一麦出版社、408~409頁

9 K.バルト、『教会の信仰告白』、2003年、新教出版社、新教セミナーブック13、14頁

10 吉田隆・山下正雄訳、『ハイデルベルク教理問答』付ウルジヌス小教理問答、1993年、新教出版社、101頁

11 春名純人、『「ハイデルベルク教理問答」講義』、2003年、聖恵授産所出版部、21頁

12 同上

13 登家勝也、『ハイデルベルク教理問答講解』I、1997年、教文館、21頁

14 秋山徹、「カルヴァンのジュネーブ教会の礼拝」、カルヴァン生誕500年記念集会講演

15 本講座、序1頁を参照