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第23課 躍り上がって立ち上げられ

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第23課:躍り上がって立ち上げられ(使徒言行録14章8~10節、2011年8月7日)


《今週のメッセージ:踊り上がって立ち上げられ(ローマ15章18、19節)》

 生まれつき足の悪い人が、「踊り上がって歩きだし」ました。パウロは彼に「いやされるのにふさわしい信仰」があることを認めましたが、それは彼の内に主への強い信頼と確かな信仰があって、その信仰が彼を立ち上がらせ、この奇跡を起こしたということでしょうか。彼の信仰が立派だったから、このような奇跡が起こされたというのではなくて、おそるおそる手を差し出しただけでした。まだ一度も歩いたことがなかった彼が、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言われたことを信頼して、立ち上がろうとしたのです。すると自分のくるぶしが強くされることを感じ、腰が強められ、背筋もしゃんとなって、立ち上がることができたのでした。そこで彼は、彼の手を取って立ち上がらせ、彼のからだ全体を引き起こして、起き上がらせてくださる、何か見えない手のようなものを感じたのではないでしょうか。彼は自分の力で立ち上がれたのではなく、主の力が彼に働いて、主が助け起こし、起き上がらせてくださったのでした。この人を立ち上がらせた方は、わたしたちとも共にいて、自分の力では立ち上がれない現実と、心が起き上がれない困難のただ中にあって、そこから躍り上がるように立ち上がらせてくださる恵みの主なのです。


1.「しるしと不思議な業」による宣教

 イコニオンを追われたパウロたちは難を逃れてリストラに赴きます。しかしそこにはユダヤ人の会堂がなかったようで、パウロたちはいつものようにまず会堂で説教してというのではなく、路傍伝道を始めます。ですからそこで語ったことは、たとえばピシディアのアンティオキアで話したような、聖書を知っている人々に向けての、唯一の真の神を信じていることを前提にした説教ではなく、むしろそうした前理解がまったくない人たちに対する伝道説教でした。その内容は分かりませんが、「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」ように呼びかけ、「天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方」についての説教だったことでしょう(使徒14章15節)。そうしたパウロの説教に耳をそばだてながら、熱心に聞いていた人がいました。「いやされるのにふさわしい信仰」というものが、どのようなものかは分かりません。しかし彼の内に主に対する信仰があることを認めたパウロは、彼に大声で呼びかけました。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と。すると「その人は踊り上がって歩きだした」というのでした。わたしたちはほんの数日寝込んだだけで、筋肉が弱り、足腰が立たなくなって歩くのが困難になります。しかも彼は「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」人でした(8~10節)。まだ一度も歩いたことがない、つまりそもそも「歩く」ということを知らないし、その経験もない人が、いきなり「踊り上がって歩きだした」というのです。どうしてそのようなことが可能なのか、わたしたちはいぶかしく思いますし、そんなことが本当に起こったのか、わたしたちは疑ってしまいます。パウロたちがこの前に訪れたピシディアのアンティオキアやイコニオンでは、多くの異邦人が信仰に入ったことが伝えられますが(13章48節、14章1節)、その理由を次のように伝えます。それはパウロたちが語った福音の言葉によってだけではなく、彼らを通して行われた「しるしと不思議な業」によってでもあったということでした(3節)。「しるしと不思議

な業」が、パウロたちが語る「恵みの言葉」を実証するものとなったのでした。パウロはローマの教会に宛てて、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」と書きました(15章18、19節)。またテサロニケの教会にも、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」と書き送りました(1テサロニケ1章5節)。パウロの伝道では、このような目に見える確かな「しるしと不思議な業」が為されたのであり、それがパウロたちの語る言葉を真実で確かなものとして実証したのであり、そこで異邦人たちは福音を信じるようになったのでした。このリストラでの出来事も、その一例と考えることができます。


2.「いやされるのにふさわしい信仰」

 しかしここでさらに覚えたいことは、まだ一度も歩いたことがなかったこの人が、歩いたことは歩いたけれども、おそるおそる立ち上がり、そろそろと歩き始めたということではなかったということです。彼はいきなり「踊り上がって歩きだした」のでした。この奇跡は、どのようにして起こったのでしょうか。ここでパウロは癒された男に「いやされるのにふさわしい信仰」があることを認めたとあります。それは彼自身の信仰がこの奇跡を起こしたということなのでしょうか。主が自分を癒してくださるということへの強い信頼、確かな信仰、その彼自身の信仰が彼を立ち上がらせたのだということなのでしょうか。あるいはパウロに癒しの賜物があり、主に対する揺るぎない信仰があったから癒すことができたということでしょうか。もちろんこの人とパウロの内に、主に対する信仰がまったくないにもかかわらず、このような出来事が起きたということはありえないでしょう。しかしだからといって、彼自身やパウロに、それほどの強い信念、確かな信仰があったことが理由だとすると、ここでのルカの語り方とは違う、おかしいことになります。なぜならルカはここで、パウロがではなく、「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い」と記しているからです。そこでこの「しるしと不思議な業」を行ったのは、主ご自身だったのであり、そこではパウロは道具にすぎません。主の御業が行われるための手段・道具として、パウロは用いられたのであり、そこで実際にそれを行われたのは主ご自身だったと語りました。先に読んだローマ書でパウロ自身も、「キリストがわたしを通して働かれた・・・。キリストは・・・わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」と書いています。パウロではなく、しかしパウロを通してキリストが働かれたと証言するのです。もちろん癒された人の内にも主に対する信仰がありますが、しかしそれは彼の信仰がそれほど強かったからとか、確かだったからということが理由でこの奇跡が起こされたということではありません。彼の内に、主に対する揺るぎない信仰があったから、その信仰がこの奇跡を起こさせたと考えるなら、ルカが伝えようとしたことを読み誤ることになります。まるで人間の信仰の強さや確かさが、こうした奇跡を起こさせていくとしたら、それはもはや恵みの業ではなくなります。この奇跡は、どこまでもパウロたちが語る福音が、真実に神の「恵みの言葉」であることを実証し、確かなものとして証しするものでした。そしてこの福音も奇跡もどちらも神の「恵み」へとわたしたちの目を向けさせていくためのものでした。そこでは「信仰」はただの受け皿にすぎません。


 わたしたちは神からの恵みをいただくことができていないように思うとき、それは自分に信仰がないからだとか、自分の信仰が弱いからだと考えることがあります。しかしそうであるとするなら、恵みは恵みではなくなります。強い信仰とか揺るぎない確かな信仰というように、信仰を何か人間の力のように考えること自体が間違いです。そうした人間の力や素晴らしさが、神の恵みを引き起こすかのように考えること自体、恵みの何たるかをわきまえていないということです。わたしたちの信仰がどれほど強いかということに応じて、神の恵みもそれに比例して増し加えられるとするなら、それはもはや恵みではないでしょう。なぜなら恵みとは、こちらがどうかといったこちら側の条件に依存するものではなく、それとはまったく関わりなく、神の方から一方的に無償で注いでくださるものだからです。そこでの信仰とは、そのような神の恵みを、単純に恵みとして受けとめる信頼に他ならず、喜んで感謝しながら、無償でいただこうと手を差し出す、ただそれだけのことです。わたしたちの信仰が素晴らしいからとか、強いからとか、立派だからということが、神の恵みを起こすのではありません。そうであったら、それは恵みではなくなります。ここでも彼の信仰が素晴らしいもので、立派なものだったから、このような驚くべき奇跡が起こされたというのではなくて、神の恵みをいただくには全くふさわしくない自分であるにもかかわらず、おそるおそる手を差し出しただけでした。しかしその手を主は取ってくださり、引き上げてくださると素朴に信頼した、そして手を差し出してみた、そうしたら、そのとおりに主が為してくださったということなのでした。


 まだ一度も歩いたことがない、つまり「歩く」ということ自体を知らない彼が、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言われたことを信頼して、立つということも分からなかったけれど、とにかく立ってみたのです。立ち上がろうとしたのです。すると自分のくるぶしが強くされることを感じ、腰が強められ、背筋もしゃんとなって、立ち上がることができたのでした。おそらくそこで彼は、彼の手を取って立ち上がらせ、彼のからだ全体を引き起こして、起き上がらせてくださった、何か見えない手のようなものを感じたのではないでしょうか。自分の力で立ち上がれたのではなく、主の力が自分に働いて、主が助け起こしてくださり、主が起き上がらせてくださったのでした。パウロを通して、しかし主ご自身が「しるしと不思議な業」を行われたように、彼自身も、自分の力によってというのではなく、主が生きて働いてくださったことで起こされたし、歩くことができるようになったということなのでした。そこでの主語も、主なのでした。パウロが奇跡を起こしたのではなく、彼自身の信仰の強さが、この出来事を起こさせたというのでもない。またそこでは彼自身の力で起き上がれたというのではなく、主が助け起こし、手を引っ張って起き上がらせてくださったのであり、立ち上がる力をも主が与えてくださることで、そしてそれと共に彼の全身を主が後ろからしっかりと支えてくださる中で、立ち上がることができたのでした。このことこそ覚えるべきことではないでしょうか。つまりこれらのすべては、ただ主の恵みによって起こされた出来事だったということです。わたしたちは、自分の信仰の小ささや貧しさを嘆きますが、それが問題なのではなくて、むしろそのように信仰小さき者さえ憐れんで、そこにご自身の恵みの業を起こしてくださる恵みの神を見上げることが大切なのではないでしょうか。自分の信仰の強さといった自分の何かではなく、ただ主の恵みが恵みの業を起こしてくださることを信頼して、自分の貧しさではなく神の恵みを見上げていくべきではないでしょうか。それこそが、「いやされるのにふさわしい信仰」だということができるのです。


3.「踊り上がって歩きだした」

 さらにもう一つの点に目をとめていきましょう。ここでまだ一度も歩いたことがなかったこの人が、おそるおそる立ち上がり、そろそろと歩き始めたとは書かれていないことです。彼はいきなり「踊り上がって歩きだした」のでした。実は使徒言行録には、同じような奇跡が記されています。それはペトロとヨハネが祈りをささげるために神殿に上ったときのことでした。「美しい門」の前で物乞いをしていた人に、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、その人は立ち上がり、歩き回り、躍り上がって神を賛美したのでした(3章1~8節)。使徒言行録を記したルカは医者として、そうした出来事を冷静に記していきます。その人もその足の不自由さは「生まれながら」のもので、しかも彼は40歳を越えていました(4章22節)。つまり彼の不自由さはかなり重度のもので、医学的には治癒不可能なものであることをルカは見抜いていました。わたしたちもほんの数日寝込んだだけで、足の筋肉は弱り、足腰が立たなくなり、歩行困難になります。ましてや生まれてから一度も歩いたことのない彼が、ここで「踊り上がって立ち、歩きだし」、さらには「歩き回ったり踊ったり」することができたというのは、まさしく奇跡でした。だからそれを見た人々は「我を忘れるほど驚いた」のでした。この奇跡が起きたのは、ペトロにそのような奇跡を起こす治癒能力が備えられていたからではないことは、ペトロ自身が明らかにします。「なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と(3章12節)。そして、この奇跡は起こしたのは、主イエスご自身であると語るのでした。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、イエス・キリストの名によるものです」と(4章10節)。


 「名」がそのような奇跡を起こすことを不思議に思うでしょうか。しかし「名は体を表わす」と言われるように、聖書の世界では、「名」はその実体、本体を意味しました。つまり「イエスの名」とは、ここで主イエスご自身が生きて働いておられるということなのです。天に上げられた主は、しかしここで聖霊によって、弟子たちを通して、今も生きて働いておられるということです。そもそもこの奇跡が起こされた神殿とは「神がその名を置く」と定めた場所でした(申命記12章11、21節)。そこで神は、かつてソロモンが建立したこの神殿に「わたしの名をとどめる」と約束されましたが(列王記上8章29節)、それはそこに神が臨在されるということでした。そこで神殿は、この「神の臨在」を象徴するシェキナー(神の栄光)で覆い包まれました(同11節)。神の名が置かれるとは、そこに神が臨在されるということです。ですから「イエスの名」とは、ペトロと教会の許に教会の頭である主ご自身が共にいてくださり、臨在してくださるということでした。つまり天に昇られた主が、しかし今も教会と共にいてくださり、わたしたちの内にあって生きて働いてくださるということで、その証拠、しるしが、この出来事なのでした。それは主がわたしたちと共にいてくださり、そこで今も生きて働き続けてくださっているということです。ここで足の不自由な人が立ち上がり、歩き回ったのは、「そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」というイザヤの預言(35章6節)の成就でした。そしてそれは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き」と宣言されたように(ルカ7章22節)、主イエスによって実現しました。そして今やそれは、主が天に昇られた後の教会においても継続している、そうして主は見えない姿で教会に臨在し、教会を通して今も生きて働いておられるということを現すものなのでした。


4.わたしたちも踊り上がる者に

 この生まれながら足の不自由な人とは、わたしたち自身のことではないでしょうか。様々な問題に苦しめられて心の腰が立ち上がらず、気持ちが起き上がらず、喜びに輝くことができないでいるわたしたちです。悲しみに心が塞がり、心の重荷にうちひしがれ、悩みや苦しみに心が起き上がらなくなってしまっているわたしたちです。しかしそのわたしたちの手を主が取って、立ち上がらせてくださるのです。すると心の「くるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出」すようにされていくのです。歩き方さえ知らなかったわたしたちです。しかし信仰の道を歩くことができるように立たされ、そればかりか躍り上がって歩き回り、神を賛美する者へと変えられていくのです。確かに主の道を歩むことの困難にしばしばため息をつき、心の萎えることもあります。そしてその場にしゃがみこみ、へたりこんでしまうこともあります。しかし主が立たしめてくださることで、躍り上がるようにして立ち、再び歩き回ることができるようにされていくのです。それはわたしたちの信仰の強さによってではなく、恵みによって起こされていくことです。立ち上がらせる恵みをくださり、歩き回り、躍り上がる力は、主が与えてくださいます。歩けず、立てない状況、その場に固定され、行きたい所にも行けないこともあります。わたしたちは物理的にそのような状況に追いやられます。生き生きと自分のしたいことをして、仕事であれ趣味であれ、輝いている友人を横目に見ながら、自分は子育てに追われたり、家族の介護に縛られて、どうにもならない状況に置かれることがあります。病気に縛られて、その治療のために多くの時間やお金を費やさなければならなくなることもあります。こうして自分が今置かれている状況に、がんじがらめに縛られて、行きたいところに行くことができないとき、わたしたちもこの人と同じではないでしょうか。


 それは精神的な状況においてもそうです。自分の中にある思いに捕らわれて、解放されないことがあります。成し遂げたかった夢や願望があり、それにいつまでも捕らえられる中で、自分の置かれた状況を喜ぶことができず、世をはかなんで生きることがあります。ある人に対する悪しき感情や思いに捕らわれて、どうしてもその人を受けとめることができず、そうした自分に嫌気がさして苦しむこともあります。誰も自分を理解してくれない、受け入れてくれないという思いに捕らわれ、あるいは今の現状を喜べず、受け止められない思いの中で、自分の殻に閉じこもってしまうこともあります。そしてなかなかその思いから、抜け出ることができずに、窮屈に生きることもあります。あるいはまた、深い悲しみに心閉ざされて、生きていくことに希望を見いだせず、喜びを覚えることもできずに、悶々と日々を暮らすということもあります。しかしまさしくそのような、自分ではどうすることもできない呪縛から、主イエスがわたしたちを解放し、立ち上がらせてくださるのです。そしてわたしたちが、躍り上がって立ち、歩き出」すようにされていくのです。なぜなら、そのわたしたちの手を主が取って、立ち上がらせ、起き上がらせてくださるからです。歩き方さえ知らなかったわたしたちでした。しかしそのわたしたちが、信仰の道を歩くことができるように立たされ、そればかりか躍り上がって歩き回り、神を賛美する者へと変えられていくのです。確かに主の道を歩む中では、そこでの困難さにしばしばため息をつき、心の萎えることもあります。そしてその場にしゃがみこみ、へたりこんでしまうこともあります。しかし主が立たせてくださることで、躍り上がるようにして立ち、また歩き回ることができるようにされていくのです。それはわたしたちの信仰の強さによってではなく、恵みによって起こされていくことです。そこで立ち上がることができ、歩き回り、躍り上がる力は、主が与えてくださるのです。


 この人がパウロから呼びかけられたとき、これまで萎えていて力を入れることさえできなかったくるぶしに、力を覚えたのではないでしょうか。そして生まれて初めて、自分の足に力を入れて、大地を踏みしめることができたのです。不思議な力に捕らえられたような感覚を覚えて、その見えない力に立たせられる中で、いままで一度も伸びたことのないひざが伸びて、足に、いや体全体に力が入って、起き上がってしまったのです。立ち上がっただけではない、これまで「歩く」ということがどういうことかさえ知らなかった彼が、不思議な力に支えられて、生まれて初めて「初めの一歩」を踏み出す勇気を与えられると共に、さらに次の一歩を踏みしめる力を与えられたのです。そして一歩、また一歩と踏みし出すことができ、大きな力に包み込まれるようにして、ついには躍り上がり、歩き回り、踊りまわるようにされていくのです。それは自分の力でも、パウロの力でもありませんでした。パウロを通して与えられた主イエスの力であり、今、彼にも共にいてくださる、臨在の主の力でした。その力が、彼を立ち上がらせ、歩き回り、踊りまわるようにさせていきました。ここで彼を立ち上がらせてくださった方は、わたしたちとも共にいて、自分の力では立ち上がれない現実と、心が起き上がれない困難の、ただ中にあって臨在してくださると共に、そこから立ち上がらせてくださる主でもあります。だからわたしたちも、この主に立ち上がらせられた恵みを喜び、感謝しながら、力強く信仰の道を歩き、踊り回りながら進み続けていくことができるのです。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」(詩編30編12節)と感謝しつつ。「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします」(詩編28編6、7節)。