第2課 イエス・キリストのものであるということ(問1‐2)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第2課:イエス・キリストのものであるということ(問1-2)


1. 「イエス・キリストのものである」ということ

 この教理問答は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問うて、それは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えます。つまり、この「慰め」とは、わたしが自分自身のものではなく、イエス・キリストのものとされているということだと答えるのです。わたしが自分自身のものではなくて、イエス・キリストのものであるということが、どうして「ただ一つの慰め」となるのでしょうか。もし自分が、自分だけのものであるとするなら、だれがわたしを守ってくれるでしょうか。だれも自分を守る者はなく、顧みてくれる者もおらず、自分は自分一人で守らなければならず、だれに頼ることもできません。何が起こるか分からない世の中で、「一寸先は闇」の世界に生きるわたしたちは、自分を守る術が何もありません。しかしそこではっきりと宣言されるのです。「わたしたちはイエス・キリストのものである」と。しかもこの方は、自分の命さえ惜しまず投げ出して、わたしたちを救い出された方でした。そして、その方がわたしたちをご自分のものと宣言してくださる、これほど確かなことはありません。わたしたちも「他人のもの」であればそれほど心を使わず、ぞんざいに扱いもしましょうが、「自分のもの」であれば話は別です。だれでも「自分のもの」は大切にして保管し、守ります。そのようにイエス・キリストが、わたしたちを「ご自分のもの」と宣言してくださるということは、わたしたちをこの方がどこまでも自分の大切な宝としてくださり、慈しみ、身を挺して守ってくださるということなのです。


 「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。・・・恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43章1、2、5節)。名を呼ぶとは、わたしたち一人一人を知り、その苦しみと悩みをこの方がよくご存知であるということです。「あなたはわたしのもの」だから、「わたしはあなたと共にいる」と約束され、たとえ足元をすくい取るような問題の渦中を通り過ぎることがあっても、そこで押し流されることはなく、心が焼けつくようなひどい苦しみや悲しみに悩まされるとしても、そこで心が燃え尽きてしまうことがないように、守り抜くと言われるのです。これが、「わたしたちは主のもの」ということで約束されていることなのです。ですからわたしたちは確信することができます。たとえ体と魂を損なう恐ろしい災いに遭うとも、生きている間はもちろん死に直面する時も、自分の死だけではなく、愛する者の死という、心を押しつぶすような悲しみの中にあっても、そこでなおわたしを支え、わたしを立たせていく「慰め」がある、それはイエス・キリストがわたしを「ご自分のもの」として愛し、支え、守っておられるということだと。ですからわたしたちはパウロと共に告白することができます。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」ということを(ローマ8章28節)。そしてこれこそ、「生きにも死ぬにも、わたしたちのただ一つの慰め」だと言えるのです。


2.神の確かさのうちにあることへの信頼

 こうして、わたしがキリストのものとされており、すでにそこに「慰め」があるということは、わたしの「慰め」の根拠がわたし自身のうちにはなくて、キリストのもとにあり、わたしの「慰め」は、わたしからではなくキリストからもたらされるということを意味します。こうしてキリストの確かさのうちにわたしが置かれている、そこにわたしの「慰め」の確かさがあるのです。しかも、この「慰め」は、わたしたちが「これから」自分自身で獲得しなければならないというものではなく、「もうすでに」キリストによって獲得されているものでもあるのでした。わたしたちは、もうすでにその恵みの中に置かれ、その祝福に包み込まれており、それをこれから「自分で獲得していかなければならない」のではなくて、もうすでにわたしのために「キリストが獲得してくださっている」ものなのです。そしてこの恵みの事実を信頼して受け取り、いただくだけでよいのであり、そのために聖霊が生きて働き、助けてくださるというのです。もうそれは、わたしたちの「傍らに共に立っている」のであり、わたしたちはすでにこの恵みの中におかれているのです。こうしてわたしたちは、自分自身では不安定な歩みしか、していくことができないほど弱く無力な存在ですが、そのわたしが神の確かさの中にちゃんと置かれ、包まれ、守れて、導かれているのです。


 神の民イスラエルの祖であるヤコブには、いつも神が彼と共におられました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と(創世記28章15節)。ところがそれにもかかわらず、ヤコブはそのことを知らず、またそれに気づかずに歩んできたのでした。しかしベテルでそのことを示され、教えられると、こう語ります。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と(同16節)。神はこの約束を、ずっと守っていかれます(創世記31章3、5節、35章3節、46章4節、48章15節)。ここで問われる「慰め」とは、そのように神がわたしと、どんなところ、どんな場所においても共におられ、わたしを守り抜いてくださり、どんな孤独な場面にあっても、なおそこで共に歩んでくださっている恵みの事実を知り、認め、信じることにあるのです。キリストの確かさのうちにわたしが置かれている、そこにわたしの慰めの確かさもあるのです。


3.キリストの「尊い血」による贖いの事実

 このようにわたしの「慰め」の根拠は、わたし自身の内にではなく外に、つまりキリストのもとにあり、そうしてわたしが「わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということ」の内実が、答の続きで述べられていきます。それは、キリストの「尊い血」による贖いの事実と、「聖霊」による救いの確証です。このキリストの「血と霊」という二つの確かさによって、キリストの「贖い」という客観的な保証と、キリストの「霊」という主体的な確証によって、このことが確かなものとされているのです1 。そこには、まず第一にキリストの「尊い血」による贖いの事実があります。「この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」。この教理問答の著者の一人であるウルジヌスの『小教理問答』では、次のように語られていました。「問1 生きるときも死ぬときも、あなたの心を支える慰めはどういうものですか。答 それはわたしのすべての罪を神がキリストによって確かに赦してくださったこと、また永遠の命をお与えくださったことです。その命ののちにあってわたしは絶えずこの方を賛美するようになるのです」2。わたしたちの「心を支える慰め」とは、「罪の赦し」と「永遠の命」に対する確信とそこから溢れ出てくる「賛美」だと答えられます。わたしたちをこの地上で苦しめ、悲惨におとしめるのは、わたしたちの「罪」です。そしてこの「悲惨」の源である罪が取り除かれない限り、わたしたちに平安はなく、安らぎもありません。その罪の代価、それを取り除くための代償が、キリストの「尊い血」によって完全に支払われ、償いが完了したというのが、第一に語られることです。どんな善行も、わたしたちを罪から救い出し、その罪の償いを果たすことはできません。そしてわたしたちは、自分の罪に対する代償を自分自身によって完全に弁済することは不可能です。しかしそれをキリストが完全に支払い切って、弁済してくださったと確証されます(1ペトロ1章18、19節、1ヨハネ1章7節、2章2節)。こうして、「この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放し、また買い取ってくださり、わたしたちの体も魂もすべてをご自分のものとしてくださった」のでした(問34)。


 ですからそこでは、もうわたしたちを悩ます「債務証書」は完全に破棄されました(コロサイ2章13、14節)。これまでは罪と悪魔の支配に置かれていたわけですが、そこから解放されましたから、もう悪魔(訴える者という意味)が、わたしたちの弱さと罪と汚れをどれほど訴えようとも、それをキリストが完全に支払って、破棄してくださったと確信し、そこに立つことができるようにされました。ですからそこでは、もはや自分自身が、自分の弱さと罪に思い悩み、自分を責める必要さえないのです。「すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従を、すべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます」(問60)。こうして、そこから約束されるもう一つの事実は、わたしたちがキリストの「恵みの支配」の下に置かれているという事実です。たしかに依然として、罪の残り滓がわたしたちの内に付着して、わたしたちをなおも弱らせ、苦しめています。しかしそれは、まだ悪魔の支配下に取り残されたままだということを意味しません。もうキリストの支配の下に置かれ、悪魔からの攻撃と罪の誘惑から守られているのです。それが「わたしたちがキリストのものとされた」ということなのです。


 だから続けて、「また天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださり、万事がわたしの益となるように働く」と約束されていきます。今やわたしは、完全にキリストの手中にあり、キリストの恵みの中に守られています。その支配は、わたしの幸いを目指してなされ、わたしの祝福のために、万事が益となるように行使されるものだからです。だから、どんな苦境に直面するとしても、わたしの「髪の毛の数」まで数えておられる全能の神の御手の中にあって、その守りの中におかれ、支えられていることを知って、揺らぐことなく歩み続けていくことができるのです。知人で商売を営んでいる方がいました。その方があるとき、店を大きくするということで数千万円という莫大な借金をしました。普段は仕事の話をすることがないご主人が、そのことを奥さんに話したところ、奥さんは非常に驚き心配して、一晩でその奥さんの髪の毛がまっ白になってしまったのでした。まだ若いのに、強い心配からそうなってしまったのです。このように、わたしたちの髪の毛には、その一本一本にわたしたちの日々の苦労と心配、悲しみと喜びとが刻まれています。主イエスは、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われましたが、それは髪の毛の数が何億本あるという数の問題ではなく、そこに刻まれたわたしたちの苦労や悲しみ、心配や涙のすべてを、神はご存じなのだということです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかにまさっている」(マタイ10章29、30節)と。「髪の毛の数」を知るとは、そこに刻みつけられた、わたしたちの日々の労苦と涙を知っていてくださるということなのです。だからこの方の許しなしには、いかなるものもわたしを害することはできないし、そうならないように守られていることを確信して、どんな困難の中にあっても安んじることができるのです(マタイ10章29~31節、ルカ12章6、7節、21章18節、使徒27章34節)。


4.「聖霊」による救いの確証

 そこから次に語られるのは、「聖霊」による救いの確証です。キリストの「血と霊」によって、つまりキリストの「贖い」という客観的な保証だけではなくて、キリストの「霊」という主体的な確証によって、このことが確かなものとされていくのです。「そうしてまた、ご自身の聖霊により、わたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」と。キリストはご自身の「尊い血」による贖いによって、客観的に救いを実現してくださっただけではなくて、それを真実に「わたし自身」のものとできるように、またそのことをわたしたちがはっきりと信じて、確信することができるように、ご自身の霊を遣わしてくださいました。このキリストの霊、すなわち聖霊が与えられることが、わたしたちの救われたことを保証し、確実なものにしていきます。わたしたちは「約束された聖霊で証印を押された」のであり、「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証」でした(エフェソ1章13、14節、2コリント1章20~22節)。この「証印」とは、神御自ら、わたしたちに保証印を押して、捺印してくださったということです。またそれは「封印」ということでもあります。古代では、ぶどう酒や油などを壷に貯蔵したり運搬するとき、中身が途中ですりかえられたり、盗まれたりしないために壷の口に封印をしました。壷の口に栓をして、周りを布で覆い、その上をひもでぐるぐる巻きして縛ります。その縛ったひもに粘土をつけて、所有者の印鑑を押します。それが封印です。粘土が乾くと、それを壊さないかぎり口を開けることができませんから、中身が抜き取られたり、取り替えられれば、封印がなかったり壊されたりするので、すぐに分かります。このように封印(証印)とは、中身が絶対に盗まれたり変えられたりすることがないことを保証するものでした。わたしたちに証印(封印)としての聖霊が与えられたとは、わたしたちの救いと祝福が、途中で失われたり変えられたりすることが絶対にないということを、確信することができるということなのです。そして、この方の働きによって、わたしたちは信仰を抱き、信仰に立つことができるようにされるのでした(ローマ8章14、15節、1コリント12章3節)。


 そこで今後は「この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださる」のです。「主のために生き、死ぬ」歩みを、わたしたちの内に聖霊が造りだし、紡ぎだしていってくださるのです。このことは、教理問答の第三部「感謝について」において展開されていき、ここでの答えはその要約となっています。こうして「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14章7~9節、2コリント5章15節)という御言葉が成就していくのです。「わたしがわたしのものではない」という事実は、次のことを意味します。「『私は私のものではなく、イエス・キリストのものだ』-したがって、私は、私自身の主人ではなく、私の所有物でもない。またそれゆえに、私自身のための思い煩いも、私のなすべきことではない」3。自分のための煩いや心配をする必要はない、なぜならわたしはわたしのものではなく、主のものだからであり、主がわたしのために思い煩い、心配してくださるからです(1ペトロ5章7節)。「わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」。ここにこそ、わたしたちの「ただ一つの慰め」があります。


 だからそこからでてくる道筋は、「この方のために生きる」という道筋です。それはまず自分の罪と悲惨を知り、そこから救われ、感謝の生活にいたる道筋です。「悲惨」から「救い」を経て「感謝」にいたる道です。この教理問答は、その道筋をこれから明らかにしていきます。わたしがわたし自身のものではなく、「わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」、そこにわたしの救いも守りも感謝も、そしてその根拠である慰めも、すべてかかっています。しかしそこでわたしたちは、心から安んじることができます。なぜなら、ここでわたしたちが寄り頼むお方は、「わたしの真実な救い主」であるからです。「わたしの真実」にかかっているのではなく、「真実な救い主」にかかっているのです。そしてそのお方こそ、「真実な救い主」なのです。「信仰問答がイエス・キリストが救い主だと言うとき、この救い主イエス・キリストが忠実であり真実であられることを強調する。しかもここでは、そのイエス・キリストに対して私のほうで忠実でなければいけない、真実でなければならないということは、ひと言も書いておりません。そのようなことがここでは大事ではなくて、主ご自身の真実のみが大切なこと、唯一の救いの根拠になるのです」4。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは真実であられる」(2テモテ2章13節)。ここにこそわたしたちの本当の「ただ一つの慰め」があるのです。




1 カール・バルトは、次のように記す。「ここで語られているのは、第一には我々のための彼の客観的な行為であり、次には我々に対する、また我々の中における、彼の主体的行為である」。『キリスト教の教理 ハイデルベルク信仰問答による』、2003年、新教出版社、セミナーブック12、28頁

2 吉田隆・山下正雄訳、『ハイデルベルク信仰問答』付ウルジヌス小教理問答、1993年、新教出版社、101頁

3 バルト、前掲書、27頁

4 加藤常昭、『ハイデルベルク信仰問答講話〈上〉』、1992年、教文館、47頁