第19課 「三位一体」の神に対する信仰(問24~25)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第19課:「三位一体」の神に対する信仰(問24~25)


1.使徒信条の区分について

 使徒信条はどのように区分することができるでしょうか。教理問答では、「三つに分けられます」と答えられます。そしてそれは、「父なる神・子なる神・聖霊なる神」、すなわち三位一体に基づいて三つに区分されていきます。たいていはそのように理解されますし、それでも良いわけですが、そうではない区分の仕方もあります。カルヴァンの『ジュネーブ教会教理問答』では、「四つの主要部分に分けます」として、父・子・聖霊の他に、「第四は教会と教会に対する神の恵みについてです」と答えます(問17、18)1 。教会を含め、聖徒の交わり・罪の赦し・身体の復活・永遠の生命といった事柄は、すべて聖霊によってもたらされる神の恵みですから、それを聖霊の働きとして一括しても良いのですが、カルヴァンはそれをあえて別にします。それはこれらを聖霊の働きと切り離すということではなくて、逆に聖霊によって与えられる祝福をより明瞭に際立たせようとしてのことでした。それがカルヴァンの主著である『キリスト教綱要』最終版の構造に表されています。『綱要』は版を重ねるごとに、章を増やしていきました。最初6章にまとめられた初版は、最終版においては80章に膨れ上がりますが、ただ単に章が増えただけではなくて、その全体を四巻に分けて構成しなおします。それについて「その後も版を改める毎に多くの増補を重ね、完璧を期して参りました。・・・こうして、ご覧いただくような構成に落ち着くに至りました」とカルヴァンも述べているとおり2、カルヴァン自身この構成に納得したようですが、それが使徒信条に基づくということでした。


 しかしカルヴァンは、それを三位一体の三つではなく、そこに教会を加えた四つに区分します。このような信条理解は、すでに初版に見られるもので、次のように述べています。使徒信条は「四つの部分に分けられる」として、「そのうちの最初の三つは聖なる三位一体に宛てられたものである。すなわち父と子と聖霊の三位一体であって、永遠かつ全能の唯一なる私たちの神であって、私たちはこの神を信じている。四番目の部分は、神に対するこの信仰から何が私たちに返って来るのか、また何を私たちは期待すべきかを説明している」と論じます3。そしてその第四部は教会についてなのです。このように使徒信条が、三位一体論的構成として三つに区分できるという理解と、それに教会を加えた四つに区分する理解とがありますが、そのどちらが正しいかという議論は意味がありません。そのどちらも正しいと言うことができるでしょう。そしてそれは、使徒信条の成立史に由来することでもあると言うことができます。16課において、歴史的には使徒信条がどのように成立していったかを考えていきました。そこでは洗礼信条として三位一体論的な告白と、それとは別に形成されていったキリスト論的な告白とが、ある時点で統合されて、今日の使徒信条の原型となっていることを見ていきました。しかしそのような理解と共に、偽典『使徒たちの手紙』に見られるように、キリスト教信仰の基本教理を五つのパンになぞらえる見方もありました。そこでは、「全世界の支配者なる御父、我らの贖い主なるイエス・キリスト、慰め主なる聖霊、聖なる教会、罪の赦しを信じる信仰である」と述べられています4。このようにこの第三の主題群については、それをどのように要約するかで、キリスト教の教えの要点が三つあるいは四つ、さらに五つになったりしました。ですからカルヴァンのような理解も、使徒信条の成立史から考えると正しいということもできるのです。しかしこうしたカルヴァンの理解に対して、『ハイデルベルク教理問答』では使徒信条を三つに区分します。それが、「第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの贖いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化について」という三位一体論的構成に基づくものでした。


2.二つの「三位一体」

 わたしたちがまことの信仰に至る、正しい認識はどこで得られるかということで、教理問答があげたのが使徒信条でした。しかしこの信条の解説に入る前に、教理問答が語ることは、使徒信条がその全体において告白している事柄についてです。使徒信条がその全体によって語ること、それはただお一人の神が、「父と子と聖霊なる神」でもあられるということです。この「父と子と聖霊」において唯一の神であることを、教会は「三位一体」と言い表してきました。この言葉は政治の世界でも使われていて、「三位一体的改革」などと言われたりしますが、それで「三位一体」が身近で、わかりやすいものになったかというなら間違いで、かえって誤解を招いているかもしれません。そこでは、三つで一つ、三つあるうち一つ欠けても全体がだめになるほど、三つの間に深いつながりがある三点セットくらいの意味で用いられたりしますが、それは「三位一体」の一面を言い表しているにすぎません。わたしたちは、聖書の啓示する神が、「三位一体の神」であると信じているわけですが、それではそれはどういうことですかと問われて、きちんと説明できる人は少ないと思います。ここでも「これら三つの位格が唯一まことの永遠の神である」と簡単な定義がされているだけで、それはただ一人の神が、父・子・聖霊の三つの人格(位格)を持って互いに区別されるけれども、唯一の神だというものです。『ウェストミンスター小教理問答』では、「神には三つの位格があります。御父と御子と聖霊です。


 この三つの位格は、実体が同じで、力と栄光において等しい、ひとりの神です」と告白されます(問6)。たしかに「三位一体」という言葉は聖書にありませんが、だからこの教理は人間が勝手に考え出した教えにすぎないと言うなら、それは間違いで、「三位一体」という言葉はなくても、その内容は聖書において豊かに啓示されていることに心を留める必要があります。正しい神理解は、神ご自身が「その御言葉において啓示なさった」事柄なのです。だから教会は、それを十分に理解することも説明することもできませんが、それでも信仰の内容として受け止め、告白し続けてきたのです。「三位一体」の教えは、人間の理解を越えていますが、しかしそれなしには、わたしたちの救いの根幹が揺らいでしまうほど大切な信仰だということをわきまえていただきたいと思います。


 この三位一体の教理は、厳密には二つに分けられ、神御自身の中での関係と、わたしたちとの関係との両面から考えられ、神御自身の中での関係における三位一体を「内なる三位一体」といい、それに対して神とわたしたちとの関係での三位一体を「外なる三位一体」といって区別します。「三位一体」には、「内なる神の業」としての三位一体と、「外なる神の業」としての三位一体の二つがあるということです。「内なる神の業」としての三位一体とは、神のご自身に対する、ご自身の内での働きにおける三位一体で、それを「存在論(本体論)的三位一体」といい、これが狭義の三位一体です。それに対して「外なる神の業」としての三位一体とは、外、つまり被造世界に対する神の働きかけとしての三位一体で、「経綸的三位一体」と言います。「経綸的」とは、神の世界「経営」を表わします。この被造世界全体に関わってくる、神の働きにおける三位一体のことで、具体的には、御父に帰せられる「創造」、御子に帰せられる「贖い」、聖霊に帰せられる「聖化」が、しかし同時に三位一体の神の業として考えられるのです。教理問答でも、この「三位一体」の神の働きを三つに区分し、父なる神にはわたしたちの「創造」について、子なる神にはわたしたちの「贖い」について、聖霊なる神にはわたしたちの「聖化」についての働きを帰します。この「創造、贖い、聖化」は、「三位一体」の神の「外への働き=外なる業」で、つまり神から被造物への働きです。それに対して「三位一体」の神の「内なる業」があります。それは神ご自身の中での働きで、ご自身の中で愛と交わりに生きておられるということです。そのことについては、7課2、3で考えましたので、もう一度ご覧ください。その「内なる業」から溢れ出た働きが「外なる業」なのですが、それは分けることができません。「三位一体の神の外なる業は分けることができない」ということです。ここで父には創造、子には救い、聖霊には聖化とあてはめられているのは、主にその業を各位格が果たしますが、それは個別の業ではなくて、どこまでも「三位一体」の神ご自身の業であり、またそれらの合同の働きということです。このように教理問答では、三位一体を、神とわたしたちとの関係で、つまり「外なる三位一体」として解説するのに対して、『ウェストミンスター小教理問答』では、それを神ご自身の関係における三位一体、「内なる三位一体」として説明しているのです。


3.啓示の進展の中での「三位一体」の啓示

 まことの神が「三位一体」の神であられることは、旧新両約聖書を通じて明らかですが、旧約よりは新約の方がより明らかに語られているのも事実で、そこには「啓示の進展」がみられます。神はご自身の啓示を一度に全てではなく、少しずつ明らかにし、詳しくしていかれたのでした。それはかつて主が弟子たちに、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(ヨハネ16章12節)と言われたように、わたしたちの理解力のためでした。神ははじめからご自身を「三位一体」の神としてではなく、最初はまず「唯一の神」として啓示されたのです。古代の多神教の世界の中では、「三位一体」は、三神論として誤解される恐れがあったからです。だからそこではまず、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」と宣言されたのでした(申命記6章4節)。だから、「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(1コリント8章4節)。こうして神は、人間の理解力に応じて、はじめはご自身を「唯一の神」として啓示されたのでした。唯一の神が次第に三位一体の神に変更されたのではありません。神ははじめから三位一体の神であられたのでした。


 そして聖書の啓示において、「三位一体」は、神の救いの歴史の進展と成就の中で啓示されてきたのであって、「唯一の神」への信仰の中から、「御子の受肉」と「聖霊の降臨」という歴史的事実、事件によって明らかにされてきたものでした。ですから「三位一体」の信仰は、抽象的思弁的に考えるものではなく、そのようにして生み出されてきた教理でもありません。それは神の救いの歴史の中で啓示されたもので、わたしたちの救いとの関わりで考えなければならないものであり、三位一体が崩れるならば、わたしたちの救いもその土台を失って、崩壊するのです。「三位一体」の教理は、教会が勝手にねつ造したものではなく、それなくしてはキリスト教の教理の全体が倒壊してしまう土台です。また、多くある教理の中の単なる一つの教えではなく、それら全教理を支え、それを成り立たせる中枢、脊椎なのです。そして分かつことのできない「三位一体」の神の御業は、わたしたちの信仰と生活の至る所で現われ、働かれています。この「三位一体」という神理解は、人間の理性から出てくるものではありません。人間には理解しにくいし、信じにくいことだからです。理解しやすくすると、異端の教えになるのです。つまり三神論か、一神論です。「三位一体」の教えは、決して人間から出た教えではないのです。使徒信条では、「わたしは~を信じる」として、「天地の造り主、全能の父である神」「そのひとり子、わたしたちの主イエス・キリスト」「聖霊」を信じると告白します。そこで、これは三人の神、つまり父なる神、子なる神、聖霊なる神を信じるということかと問われることになります。実際、唯一の神のみを信じるユダヤ教とイスラム教から、繰り返しそのように問われてきました。キリスト教は唯一神教ではなくて三神教ではないかと。またキリスト教の内部からも同じような疑問が生じて、結局はキリストの神であること(神性)を否定したり、第二の神として低く見積もることで神の唯一性を確保しようとする(エホバの証人のような)異端が生じました。このように「父なる神、子なる神、聖霊なる神」がただ一人の神であって、しかも「御父、御子、聖霊」という三つの違った人格(位格)として区別されておられるということ(「三位一体」)は、なかなか理解し信じることが困難な教えとされています。


4.「三位一体」についての誤った教え

 「三位一体」とは、唯一の神が「御父、御子、聖霊」でもあられるということで、ご自身の中で「御父、御子、聖霊」としての人格的区別を保たれながら、しかも唯一の御方でもあられるということです。人間においては人格の区別は存在の区別でもあって、別人格であるということは別人であるということですが、まことの神においては「御父、御子、聖霊」の三つの別の人格(神は人ではないので「位格」と言います)が、同時に存在し、しかしそれが「多重人格」といったばらばらなものではなくて、「唯一の神」として一致と調和と一貫性を保っておられるのです。それは変装の名人、名探偵田羅尾伴内や怪盗二十面相のように、一人の神がある時は「御父」として、ある時は「御子」として、またある時は「聖霊」として現われたということでもありません。聖書においては「父、子、聖霊」は同時に現われます。神が天地創造をされたとき、混沌とした大地の上を神の霊が動き、覆っていたとあります。そこで神が言葉を発するとそれらのものが生じました。この言葉による創造(「この世界が神の言葉によって創造され」ヘブライ11章3節、2ペトロ3章5節)を、聖書は神の御子による創造とします。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1章3節)。「万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1章16節)。「神は、・・・御子によって世界を創造されました」(ヘブライ1章2節)。こうして天地創造の最初から、神は父と子と聖霊として共におられたのでした。また新約聖書においても「御父、御子、聖霊」は同時に現われます。主イエス(御子)が洗礼を受けられた時、天から御父の御声が響き、聖霊が鳩の姿をとって主イエスの上に留まりました(ルカ3章21~22節)。そこでは父と子と聖霊の三つの位格の、統一性と区別性が語られます。つまりこの三つの位格の間には、明確な位格的区別と相違性があるということで、それにより唯一の神が父と子と霊として交互に現われたとするサベリウス主義の考えが否定されます。また神と思われた主イエスは、実はただの人間であったナザレのイエスという男に、神の霊・ロゴスがとりついたのにすぎないとか、天から降った神のロゴスが人間のような姿をとった、それがイエスで、実はそれは幻影にすぎないといった説明もなされました(仮現論)。いずれも神が唯一であることを確保しつつ、しかも歴史にたしかに現われたイエス・キリストと聖霊の存在を理解し説明するために現われたものですが、いずれも聖書の教えに反します。キリストがただの幻影にすぎないのであれば、十字架にかかられたのもただの幻で、わたしたちの罪からの救いは成り立たなくなってしまいます。


 「三位一体」の教えは、人間の理解を越えていますが、それは神が唯一の神であられることと、しかもその唯一の神が「御父、御子、聖霊」として三つの区別された人格(位格)をもたれた御方でもあられるということです。しかもその三つの位格は、統一性と同一性を持っており、同一の神的本質を共有する者として、まったく同じ神であられ、そこには上下関係や従属関係がないのです。ですから、父が霊となって、人間イエスに取りついたとする教え(勢力的モナルキア主義や従属的キリスト論)、聖霊を単なる神的存在や神的勢力、エネルギーとする教えが否定されます。三つの位格の間には、そのような上下や従属といった関係はなく、同一の神的本質をもつ者として、力と栄光において同等の神であられ、統一された一人の神ご自身なのです。三つの位格は、そのように「ある」というだけではなく、相互に働きかけあうことによって「ある」ものとなっておられます。その固有性とは「御父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。御子は永遠に御父から生まれる。聖霊は永遠に御父と御子とから出る』(『ウェストミンスター信仰告白』2章3節)と言うことです。父は子を生み(ヘブライ1章5節)、子は父より生まれ(ヨハネ1章14節)、聖霊は父と子より出る(ヨハネ15章26節、ガラテヤ4章6節)というように、相互に働きかけあいつつ、それによって存在しておられるのです。しかもこの統一性は、「相互内在」(ペリコレーシス)といって、相互に内在する関係をも持っておられます。主イエスは、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10章30節)と言われ、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(同14章10、11節)から、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(同9節)と言われたように、ただお一人の神御自身の中で、相互に区別されながら、しかも緊密な関係と統一によって深い交わりをもった「唯一の神」として、深い交わりをもっておられるということが大切です。そしてここに、「三位一体」の神を信じることの意味があるのです。


5.「三位一体」の神の生ける交わりの中に生かされる

 それでは「三位一体」の神を信じるとは、どういう意味でしょうか。主イエスがメシアの働きにつかれるにあたり、聖霊が主の上に注がれ、父が主イエスを「愛する子」として呼びかけられています(マタイ3章16、17節、ルカ3章21~22節)。つまりここにあるのは、父と子と聖霊との生きた愛の「交わり」です。この生きた関わりの中で、父と子と聖霊が交わりを持っておられる、それが「三位一体」ということなのです。「三位一体」の神を信じるとは、教理条項の一つとして知ることではなく、わたしたちの信じる神が、御自身において深い愛の交わりの中に生き、生ける関わりのうちにおられるということです。この点でわたしたちが信じるまことの神は、イスラムやユダヤ教の神と区別されます。神は唯一ですが、それは孤独でひとりぼっちの神ではないことを意味するということです。天涯孤独の孤高の神が、唯一であることではなく、お一人の方でありながら、御自身において豊かな交わりと愛の中に生きておられる、だから「生ける神」であるということです。しかも御自身において生きておられる神が、今度はわたしたちに生きて働きかけてこられるのです。わたしたちが神に似せて、神の像に造られたとき、それはこの神の在り方、御自身において交わりに生きる在り方に似せられたものでした。わたしたちも交わりの中に生きる者として造られたのであり、それでわたしたちは神との交わりの中に生きるようにされているのです。そして神は、わたしたちに生きて働きかけてこられる。そこでわたしたちが神との交わりに入れられていくとき、その交わりそのものが、実は「三位一体」的なのです。神との交わりそのものが、「三位一体」の神の働きに包み込まれて成り立っている。ですから交わりの構造が、「三位一体」的となっているのです。


 それは祈りを考えれば分かります(ロ-マ8章14~16、26、27、34節)。わたしたちは聖霊によって、「アバ、父よ」と呼ぶようにされました。わたしたちは「三位一体」の神に祈っていいのですが、そのようには祈らずに、父に呼び掛けます。それは主イエスが、祈るときにはそう祈れと教えられたからで(ルカ11章2節)、また聖霊もそう祈らせるからです。そこでこの父への祈りを、聖霊が内にあって働き、祈りを支え、執り成してくださいます。しかもその祈りを、今度は父の右にあって主イエスが取り継いでくださるのです。あたかも自分自身の祈りとして、父に取り成してくださる。何よりこの神を、父とお呼びできる道を開いてくださったのは、この主イエスです。キリストの贖いによって、わたしたちも神の子とされた、そこでわたしたちも神を父と呼びうるのです。こうしてわたしたちの祈りは、決して独り言で終わるのではなく、確かに神に聞き届けられている、しかもそれは「三位一体」の神の働きの中で為され、またそれによって支えられているのです。こうしてわたしたちの信仰と生活そのものが、「三位一体」的な構造をもっていることが分かります。祈りからして、それは既にイスラムやユダヤの祈りとは、根本的に違うのです。


6.「三位一体」の神の三つの働き

 「三位一体」の神を信じるとは、唯一の神が「孤独の神、一人ぼっちの神」ではなくて、「交わりの神、愛の神」であられるということです。ただ一人の神ご自身の内で、「御父、御子、聖霊」という三つの区別された人格(位格)が相互の交わりをもたれ、互いに愛し合っておられること、それが「三位一体」です。神が孤独ではなく、ご自身において生き生きとした愛の交わりのうちに存在しておられるからこそ、「生ける神」なのであり、「愛の神」なのです。単なる孤独の神は「死んだ神」であって、たとえ「愛の神」と自称しても、その愛は観念にすぎません。「三位一体」として、事実ご自身の内で愛し合っておられるからこそ、「神は愛」なのです(1ヨハネ4章8、16節)。この「三位一体」の神、つまり生きた愛の交わりの内におられる「交わりと愛の神」は、孤独で淋しいから人間を創造されたわけではありません。神がご自身の中で愛し合い、その愛の交わりの中で満ち足り、充足しておられるからです。むしろその愛と交わりが溢れ出ることで、人間をその交わりへと招き入れるために人間を創造されたのでした。「三位一体」を信じるとは、唯一の神が「孤独の神」ではなく、「愛と交わりの神」であることを信じるということなのです。


 そして神は、ご自身との生きた交わりを求められているのです。なぜそれを信じるかといえば、それが聖書の教えだからであり、またわたしたちの神が「三位一体」の神であられるからこそ、わたしたちの「救い」が成り立つからなのです。主イエスは、真理の霊である聖霊が「あなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」ということ、そして「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内にいることが、あなたがたに分かる」と約束してくださいました(ヨハネ14章17、20節)。そして父なる神に向かって、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。・・・わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」とも祈られました(同17章21~23節)。こうしてわたしたちは、「神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17章28節)と言われるとき、それは「父・子・聖霊」の生きた交わりの中に生きておられる、生ける神の生きた働きの中に包み込まれながら、生きているということなのです。天地創造の最初から、神の霊が地の上を動き、覆っていました(創世記1章2節)。この言葉は、「めん鳥が雛を羽の下に集め」て、身をもって覆い包むという言葉です。そのようにわたしたちの毎日は、この三位一体の生ける神の働きの中で覆い包まれながら、交わりへと招き入れられるために導かれているのです。だからわたしたちは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」られたのです(マタイ28章19節)。また、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」との祝福を受けるのです(2コリント13章13節)。ある神学者は、「三位一体」とはいわば信仰の文法のようなものだと語りました。普段それを意識するわけではないけれども、自然にその中で生きているのです。そしてわたしたちは、そのことを十分に理解しようとしまいとにかかわらず、すでに「三位一体」の神の生きた交わりと働きの中に置かれているのです。そしてわたしたちは、この生ける神との生きた交わりを求められているのです。わたしたちの信じる三位一体の神とは、わたしたちとの交わりを求められる神だからです。




1 カルヴァン、『ジュネーブ教会教理問答』、「改革派教会信仰告白集」第2巻、2011年、一麦出版社、412頁

2 カルヴァン、『キリスト教綱要』改訳版第一篇・第二篇、2007年、新教出版社、9頁

3 カルヴァン、『キリスト教綱要』初版、「宗教改革著作集」第9巻、教文館、80頁

4 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、新教出版社、34~35頁