第16課 信仰を告白する箇条としての「信条」(問22)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第16課:信仰を告白する箇条としての「信条」(問22)


1.信仰を「告白する」ということ

 「それでは、キリスト者が信じるべきこととは何ですか」と問うて、それは「福音においてわたしたちに約束されていることすべて」であると答え、さらにそれは「わたしたちの公同の疑いなきキリスト教信仰箇条が、それを要約して教えています」と答えていきます。しかしまずここで疑問が生じるかもしれません。教会では、イエス・キリストに対する信仰を告白して洗礼を受けようとする方や、すでに幼児洗礼を受けていて、信仰を告白して信仰者として生きたいと願い出た方に、「信仰告白」を求めます。そして教会に加入するにあたり「信仰告白」の誓約を求めます。信仰は個々人の心の問題で、そこに教会が介入して、個人の信仰の内容を云々するのはおかしいではないかと考える方もおられるかもしれません。たしかに信仰は個々人の問題であり、そこではいやいやでも強いられてでもなく、あくまでも本人の主体的な決断と自由な意志に基づいて信じられ、従われるべきものです。しかしだからといって、信じてさえいれば何を信じてもよいのだということにはなりません。少なくともそれでは「キリスト教信仰」とは言えません。「キリスト教信仰」とは、「キリスト教」が真理だと信じていること(信条・信仰告白)を受容し、同意し、共有して、それを「自分の信仰」とすることだからです。ですからそこでは、どうしても「信仰告白」が求められることになるのです。しかしそれは、「自分はこう信じている」という意味での信仰の告白ではありません。それではここで求められる「信仰告白」とは何でしょうか。まず「信仰を告白する」ということについて考えたいと思います。「告白する(ホモロゲオー)」とは、「同じこと(ホモ)を言う(ロゲオー)」という意味の言葉です。つまりそれは一緒に同じ言葉を口にして、そこで告げられる事柄を、これこそ真理だと言って同意し、自分も同じ言葉を口にするということです。


 パウロは次のように語ります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマの信徒への手紙10章9、10節)。10節では「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とありますが、9節では「公に言い表し、心で・・・信じる」と、この「心で信じること」と「口で告白すること」の順序が逆になっています。その前の8節の申命記30章14節の引用も、「御言葉は・・・あなたの口、あなたの心にある」と、口が先で心が後になっています。通常は、心で信じたことが口から出てくるわけですから、順序が奇妙だと言うことができますが、実はこれは聖書に見られる「並行法」と呼ばれる文学手法です。それは「同じ一つのことが別の言葉で二度語られている」ものであって、そこでは前後関係は問題とはなりません。つまり「パウロによれば、信仰と告白とは、別々のことではなく、一つのことを二つの言い方で言ったもの」に他なりません。彼にとって「信ずることはすなわち告白することであり、告白することはすなわち信ずること」です1。ですからここでは「心に信じる」ことと、「口で告白する」こととが一つのこととされています。わたしたち日本人は、神を信じることを、何より自分の心の問題と考えがちで、情感やそのときの雰囲気の中で神を信じていると思ったりします。だからそれを口で告白することと区別してしまいます。言葉というものを軽んじたり、信用しなかったり、わずらわしく思うところがあり、言葉で厳密に言い表したものより、漠然と感じ取るようなもの、心と心が触れあったら通じてしまうような信仰の気分、体験らしきものを重んじる傾向があります。「鰯の頭も信心」という言い方さえあります。

  

 「何者のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という、西行が伊勢神宮で詠んだ歌には、日本人の宗教観、信仰心がよく表わされています。そこでは、自分が「何を信じているか」という「信仰の対象」よりも、自分がそれにどれくらい熱心か、どんなに真剣に信じているかという具合に、人間の「信心の度合い」の方を大事にします。しかし、教会が洗礼志願者を受け入れて洗礼を授けようとするとき、あるいは他の教会から移って来られた方を教会に受け入れようとするとき、その人がどのような信仰の体験をしたかとか、どんな経緯を通ってきたかということを、もちろん大切なこととして受けとめますが、しかしそれ以上に、その人がそもそも「何を信じているか」ということを問題します。その人がどんな神体験をし、信仰経験をしてきたかということではなく、「イエスがあなたにとって主であることを認めるか」ということを問題とし、「神がイエスをよみがえらせた事実を認めるか」、そのことを自分の口で告白するかということを問題にします。元来の信仰告白は、この二つの事柄(「イエスは主であること」と「キリストは復活された方であること」)が告白されていたのであり、それが「信仰告白」によって求められたことでした。つまり聖書が語る真理を承認し、神の恵みの約束を受け入れて、それと同じ言葉を自分も語るかかどうかということが、ここで求められることなのです。なによりそこで求められる告白は、他でもない、自分が信じる相手に対して為されるべきものです。それは「心の中の自問自答ではなく、聞き手のある行為」であり、「一人相撲ではなく、自分とは異なる意志と実在をもった方を相手にした行為」だからです2。だから信仰は、告白されなければならないものなのです。


 ですから聖書でいう信仰とは、その人の信念や確信といったものとは違います。「わたしが何をいかに信じるか」ということは、自分で決めるものだと考えがちですが、信仰がその人の信念であるにすぎないなら、それこそ千差万別のものとなってしまいますし、恣意的で自分勝手なものとなってしまいます。自分の信じられないことは抜かして、都合の良いものだけを受け入れるということになるからです。まことの信仰とはそういうものではありません。信仰とは、いつの間にか心の中にできあがる自分の信念や確信のようなものではなく、聞いた言葉、それも「外から来た言葉」によって生み出されてくるものだからです。外から語りかけてくる信仰の言葉を聞いて受け入れる、それが聖書でいう「信仰」です。その言葉とは、人間の言葉のように信頼できないものではない、神の言葉であり、神の真理が人間となった言葉(ヨハネ1章1~18節)、人格化した言葉であるからこそ、信頼して受け入れることができるものです。そしてこの神の言葉であるイエス・キリストを証言するのが聖書であり(同5章39節)、その聖書を簡潔に要約したものが「信条」や「信仰告白」と呼ばれるものです。エルサレムのキュリロスは、『教理教育講話』の中で、「皆が聖書を読むことができないので-ある者は教養の不足で、他の者は暇がなくて聖書を知ることができない-、私たちは、信仰の教理全体を数行にまとめる」と述べました。これらは記憶に委ねられ、蓄えられ、護られるべきものとされます。


 なぜなら「それは、何か人間による編集物ではなく、聖書から収集された最も重要な点からなっている」ものだからでした3。そしてそれを受け入れて同意し、「自分の言葉」としていくことが「信仰」です。そこでは「どれだけ熱心か」ということ以上に、「何を信じているか」ということが大切となります。こうして同じ信仰の言葉を告白する者たちが集められたのが教会で、教会とは「信仰告白共同体」です。ですから、教会に入ろうとする人には、言葉をもって教会の信仰、つまり教会員が皆等しく言い表してきた同じ信仰に対して、同じ言葉で言い表すことが求められるのです。こうして「教会の信仰」の言葉である「信条」に同意して、それを「自分の信仰」として告白し、参与していくことによって、その一員に迎え入れられることになるのです。


2.「信条・信仰告白・教理問答」の密接な関係

 教理問答(カテキズム)の語源となったのは古代教会で実践されていたカテケーシスですが、このカテケーシスは洗礼志願者に、教会の信仰の言葉である「信条」と祈り(主の祈り)、そして本人がこれからあずかる洗礼と聖餐についての教育をしたものでした。ですから信条、信仰告白、教理問答は、切っても切れないほど密接な関係があります。カテケーシスでは「信条伝授」ということが口授で行われ、志願者はそれを筆記することが許されず、その場で暗記し、それを暗誦して返すことが求められました(「信条答誦」)。このことについて、渡辺信夫氏は『古代教会の信仰告白』の中で、次のように述べています。「古代教会は信仰告白定式として『信条』と呼ばれるものを完成させた。これは極めて短い文言であって・・・普通の人の暗唱出来る短さである。これが洗礼の直前に授けられ(トラディティオ・シンボリ、信条伝授)、直ちに答誦し、与えられたものを返す形で告白され(レディティオ・シンボリ、信条答誦)、この一回の儀式で信条本文は受洗者の心に焼き付けられ、終生消えることがなかった。彼らはこれを反覆して唱え、意味を噛み締めたのである。まさに、これは洗礼信条であって、洗礼が一回的なものでありつつ終生にわたってその力を持続したように、信条も一回授けられて、終生その力を保持した」4。このように教会は、単に個々人の自由な信仰を許容したのではなくて、「教会の信仰の言葉」に同意して、それを「自分の信仰の言葉」として告白した者を受け入れたのでした。


 そこでの「信仰告白」とは、個人の恣意的な信念や確信ではなく、「教会の言葉」です。そしてそれを「自分の言葉」として心に響かせ、生活に浸透させていくことを求めたのでした。信仰はあくまでも個々人の主体的なものですが、むしろその自分の主体性において「教会の言葉」に同意し、「教会の信仰」を「自分の信仰」として告白していくことが求められたのでした。それは「自分の信仰の言葉」を答える練習をさせるということであり、そのようにして「教会の信仰の言葉」を、「自分の信仰の言葉」として獲得し、責任をもって、また主体的に言い表すようになるための訓練です。こうして「外からの言葉」が、自分の「内なる言葉」として内面化し、浸透していって、生活へと反映されるようになっていくことが求められたのでした。そしてこの「自分の信仰の言葉」が、「教会の信仰の言葉」として、「共通の信仰の言葉」であるゆえに、同じ信仰に生きる兄弟姉妹との交わりをも形成していく言葉となり、またそれが交わりを造り上げていき、一致していく絆となっていきます。ですからこの「教会の信仰の言葉」である「信条・信仰告白」こそ、わたしたち一人一人の信仰を立て上げていく言葉であると共に、わたしたち相互の交わりをも造り上げていく言葉でもあり、それがわたしたちが隣人へと宣べ伝えていくべき言葉であり、次世代へと継承させていく言葉であり、神と人への愛へと押し出していく言葉であるわけです。このように「信条・信仰告白」とは、教会を建て上げていき、教会として形成していく信仰の言葉なのです。


 信条は「教会の礎」です。フィリポ・カイサリアにおいて「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との主の問いに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と応答しますが、それについて主は、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と明言しました(マタイ16章15~18節)。ここで主が言われた「岩」とは、ペトロが告白した信仰の言葉であり、この信仰告白の上に主の教会は建てられていきます。ですから信条こそ「教会の礎」なのです。そしてその上に教会が建て上げられていきますが、そこで建て上げられていくべき一つ一つの要素、つまり「礼拝・交わり・伝道・教育・愛の業」の「柱、絆、要、心、源」となるのも「信条」です。つまり「信条」とは、①礼拝の柱、②交わりの絆、③伝道の要、④教育の心、⑤愛の業の源として、「教会の礎」となるものです。


①「礼拝の柱」としての信条

 信条は「礼拝の柱」です。信条は、礼拝を真に礼拝たらしめていき、礼拝として建て上げていくための柱だからです。信条は、わたしたちが信じるべき信仰の内容を要約したもので、それによって礼拝においてわたしたちが信じ、仰ぐべき方を指し示すと共に、その方に対する信仰と礼拝を引き出していきます。信条は、礼拝において現され、約束された恵みの言葉に対するわたしたちの感謝の応答としての、「信仰・希望・愛」を表わしていく賛美の言葉として、わたしたちが献げる礼拝を真実な礼拝として建て上げていくもので、信条は「真理の柱」です。


②「交わりの絆」としての信条

 信条はわたしたちを礼拝の対象である神へと向けさせ、神へと立ち上げていくと共に、そこで一緒に神へと礼拝を献げている信仰の家族である兄弟姉妹との、相互の交わりをも造り上げていきます。「交わり」とは、一つの同じものを共有し、分かち合うことで造り上げられていくものです。それは一人の主に対する一つの信仰であり、唯一の主に対する信仰告白を共有する、つまり共にその信仰を告白するということにおいて、わたしたちはその「交わり」へと加えられていくのであり、またそれによって相互の「交わり」も造り上げていきます。信条はわたしたちを「一つ」にしていく一致点であり、相互に結び合わせていく「交わりの絆」なのです。


③「伝道の要」としての信条

 信条は、わたしたちが宣べ伝えていくべき福音の要約であり、伝道へと遣わされていくためには、わたしたちがまずそれをよりよく理解して、「自分の信仰・自分の言葉」として咀嚼していく必要があります。そこでは信条は「伝道の要」です。


④「教育の心」としての信条

 信条は、わたしたちが次世代に継承させていくべき信仰の内容であり、その中心点でもあります。ですから信条は、教育の本質であり、伝えていくべき「教育の心」です。


⑤「愛の業の源」としての信条

 そして信条は、それによって愛の神を知り、相互に愛し合うように互いを結びつけ、隣人へとその愛を広げていくように、わたしたちを押し出していきます。なぜなら信条によって、わたしたちは自分が神に愛されていることを確認し、互いに愛し合うべきことへと促され、隣人を愛する者へと遣わされていくからです。こうして信条は、わたしたちが「愛の業」へと押し出されていくことの源なのです。このように信条は、礼拝を立て上げ、交わりを造り上げ、伝道へと整え、教育の心を伝え、愛へと押し出していくことによって、まことの教会を建て上げていくものであり、「教会の礎」です。そこで「わたしは信じる」と告白する「わたし」とは、その「教会の信仰」を告白する「わたし」であると共に、その信仰を共に一緒に告白するわたしたち、すなわち「共同体としてのわたし」でもあるのです。なぜ「わたし」かと言えば、そこにどれほど大勢の人々がいたとしても、あたかも「一人」の人であるかのように、同じ心、同じ思い、同じ信仰で告白するゆえに、「わたしは信じる」と告白されるからです。そしてこのように同じ信仰告白をすることで、キリストにある全ての教会は相互の「信仰の一致」を表わしてきたのです。そしてこれを共に告白することにおいて、代々の聖徒と共に時代を貫き、教派や国、民族、文化の違いを越えて、同じ一人の主に対する「一つの信仰」にあずかり、これからもあずかっていくのです。


3.シンボルムとしての「信条」

 それではここで告白する「信条」とは何でしょうか。「信条」はラテン語でシンボルム、ギリシャ語でシュンボロンと言い、「しるし」(それによって或る物を認識する標識)を意味する言葉でした。それはシュンバレインという動詞から導き出された名詞で、シュン(共に)とバレイン(投げる)を合成した言葉で、「双方で物を投げ合う」という意味でした。それについて渡辺信夫氏は、「洗礼に先立って信条伝授がなされ、その答誦がなされるこの関係が、物を投げ合う形になっていることから来たのではないか」と推測します5 。しかしこのようにシュンバレインは、「投げ合わせる」という意味の他に、さらに「結び合わせる」という意味もあり、その名詞化として「結び合わされたもの」という意味をも持ちます。そこから、信条について次のような解釈が生み出されていくことになります6。


(1)十二使徒の言葉が「結び合わされたもの」という解釈で、前述した使徒信条が十二使徒の合作によるという伝説に基づく。


(2)聖書にあるキリスト教信仰の重要項目を一つの文に「結び合わせたもの」という解釈。


(3)キリスト教信仰に立ち人たちを、異教や異端との戦いにおいて、同志的に「結び合わせる」旗印であるという解釈。


 このことについてルフィヌスは、『使徒たちの信条の説明』の中で次のように語ります。「ところで、これを彼ら(使徒たち)は、多くの妥当な理由から、シンボルムと呼ぶことにした。というのは、シンボルムとは、ギリシャ語でインディキウム(同意事項、しるし、象徴)、またコラティオ(醵金)、即ち、一つのまとまったものにするために多数の者が貢献するということを意味するからである。つまり、それを起草するにあたって、そこに述べられた言葉のそれぞれに、使徒たちがそれぞれ貢献しているからである。ところでインディキウムあるいはシグヌムと言われるのは、・・・キリストの使徒と自称して、その実・・・伝えられた線と合致するものでは全くない事柄を宣べ立てていたからである。そのため使徒からの規範に則して、真にキリストを宣べ伝える者と彼らを見分けるためのインディキウム(しるし)として、それを定めたからである。更にまた、市街戦において、次のようなことが見うけられた。両陣の兵士は同じ武装をし、言葉は同じ言葉を用い、その習慣も兵法も同じであることから、欺瞞工作がなされないように、両陣の指揮官はそれぞれ自分の兵士たちに、互いに区別する、ラテン語でシグナあるいはシンボルムを授けるのである。つまり、疑わしい人物に出会った時に、シンボルムを問うことで、敵か味方かを知るのに役立つのである。このため、パピルス紙や羊皮紙に書き記さず、心に刻み付けるように伝えられたが、それは時としては信じていない人々にまで渡りがちな〔書かれたもの〕を読むことで誰一人としてそれを学ぶことなく、使徒たちからの伝承(口伝)から学ぶことを確かなものとするためである」7。


4.秘義としての信条

 ここでは、先述した解釈が述べられると共に、それが別の視点から論じられます。一つは、十二使徒たちの言葉を「集成」したものであること、次に、真偽を判断する「しるし」、そして敵か味方かを識別する「合言葉」ということです。ですから信条は、主の祈りと共に、「秘義保持の規律」とされてきました。つまり外部の者に漏らしてはならない「秘義」でした。このことについて森本あんり氏は、次のように述べています。「ルフィヌスの理解によれば、ギリシャ語の『信条』には『集成』と『標』と言う二つの意味がある。使徒信条は、・・・使徒たちが持ちよった一条ずつを『集成』して作られたと考えられた。第二の意味は、日本語では『しるし』というより『合言葉』と言った方が分かりやすいかもしれない。使徒信条は、各地の若いキリスト教会を悩ませていた遍歴の偽教師や魔術師から真正な教えを宣べ伝える教師を区別するために与えられた『標』である。戦いにあっては、素性の怪しい者に『標』や『合言葉』の提示を求めて敵か味方かを判別したように、使徒信条も、宣べ伝えられた言葉が真正な福音であるか否かを区別するための手掛かりを与えるのである。第二の語義は、初代教会の使徒信条に対する精神態度をよく物語っている。使徒信条は、広く流布しながらも、長いあいだ書かれた伝承とはならず、もっぱら人々の記憶にのみ託せられて伝えられた。ルフィヌスによれば、それはこの聖なる信仰の枢諦が不信者の手によって改竄されるのを防ぐためであった。使徒信条は、聖礼典や主の祈りなどと共に、それを受け入れる準備の整った者、すなわち受洗直前の志願者たちにのみ明かされる『秘義』である」8。


 この「秘義保持の規律」disciplina arcaniについて、アンブロシウスは『入門者のための信条の説明』の中で、説明します。「この点について、あなたがたに十分に気をつけていただきたいと思います。信条は書き留めてはなりません。・・・その理由は何でしょう。書き留めてはならないものとして、わたしたちはそれを受けたからです。では、どうせねばならないのでしょうか。記憶に留めてください。すると、あなたがたは言うでしょう。書き留めないで、どうやって記憶できるでしょう、と。・・・確かに、書き留めたことであれば、もう一度読み直すことができます。しかし、毎日毎日、それを思い起こして、黙想することはないでしょう。逆に、書き留なければ、忘れるのを恐れて、毎日毎日思い起こすようになるでしょう。・・・わたしは強く勧めます。あなたがたの心に、信条を思い起こしてください。なぜでしょう。一人でいる時に声高くそれを復唱することで、洗礼志願者たちや異端者たちの間で復唱する習慣をつけないためです」9。この慣習は「3世紀から5世紀にかけてかなり知られかつ守られていた規則」で、使徒信条はそのような「秘義」に属するものであり、「迫害をくぐり抜けてきた少数の信仰者たちが、『ひそやかに』唱え続けてきた伝承」でした10。


 こうして「使徒信条」はシュンボロン(まとめられたもの、承認のしるし)として、いわば旅行中のキリスト者が異国のキリスト者共同体に対して自分を証するための通行許可証となりました。そのため異教徒には秘密にしておく必要があったので、書きとめることは許されず、暗記するほかありませんでした。求道者はこれを覚えなければならず、忘れないように、「主の祈り」と合わせて、毎日復唱することを勧められました。そこでアウグスティヌスも、求道者にこう勧告します。「信条を毎日唱えなさい。起きるとき、寝るとき、あなたの信条を主の御前で唱えなさい。よく肝に銘じ、うまずたゆまず繰り返しなさい」。そしてこの勧告にあることは、実際に行なわれ、信条と「主の祈り」の復唱は、すべてのキリスト者の朝の祈りの冒頭と晩の祈りの結びに行われ、中世全体を通して実行されるようになります。〔後の〕聖務日課の朝課と一時課では、「使徒信条」と「主の祈り」を唱えるのがならわしで、寝る前の終課の結びも同様に行われました11。


5.皆を一つに結び合わせる一致の絆

 教皇ベネディクト16世は、『キリスト教入門』の中で次のように論じています。「これには古代習慣の背景がある。一つの輪、軸、薄板のつき合わすべき二片は賓客・使者・契約相手の符号であり、つき合わせるべき一片をもっていれば、あるものを受取り又は歓待をうける資格があったのである。シンボルムは、片方と補完され、したがって相互的みとめ合いと一致とを生む一片であり、一致を可能にしこれを表現するものなのである。・・・それはシンボルムとして、他人や一つの言葉における精神の一致を指向している。・・・つまり、各人は信仰をただシンボロン(半分)として、未完成な断片としてしかもたず、その一体化・全体は他人といっしょにされてしかみいだせない、シムバライン(他人といっしょになること)においてのみシムバライン(神との一致)をもえられるわけである。信仰は一致を求め、同信のともがらをよびよせる。つまり、本質上、教会を指向している。・・・この洞察は他の方向をもさしている。教会自身も全体として信仰をシンボロン(断片)としてもっているにとどまり、それは自分自身をこえた全く別なものを、無限に指向することによってのみ真理をかたるものである。信仰は、信経の限りなき断片性をつらぬいて、人間をその神へのたえざる自己超克として前進するのである」12。これは、「わたしたちは誰しも完全な信仰をもっておらず、他者と一緒になることで初めて完全なものとなりうるのであって、本質的に教会を指向するものである、ということ」を意味します13。


 使徒信条は「わたしは信じます」と告白しますが、それとは違う告白をする信条もあります。ニカイア信条を初めとする東方教会の信条では「わたしたちは信じます」と告白します。「わたしたちは信じます」と「わたしは信じます」。そこにどのような意味があるのでしょうか。そもそも信条は、洗礼を受ける際の信仰として告白されたもので、洗礼を受けるとき、「あなたは父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を信じますか」と質問されて、その度に「わたしは信じます」と答えることで、水の中に沈められました。そこから生まれたのが信条で、本来は「わたしは信じます」という個別的で主体的なものです。特に最初の3世紀までは、その信仰の告白のゆえに殉教することがあったわけですから、それは個々人の決断を問われる事柄でもありました。森本あんり氏は、この「信仰告白の主体としての個人と、その諸個人がなす告白の共同性ないし公同性との関係」について、次のように述べます。「信仰は、すぐれて個人的なことがらである。その決断は、親にも共にも師にも代わってもらうことのできない、たった一人の決断である。信仰において、ひとは神の前に『単独者』として立つ。けれども、その一人一人の人格のもっとも深いところでなされる決断は、信仰告白において、共同の行為へと結晶してゆくのである。それぞれの信仰の契機は、ひとによってさまざまである。・・・しかし、その自分一人に固有な信仰の深みを、ひとはみな信仰告白において同じ言葉で告白するのである。・・・それぞれの最内奥にある個別な信仰をもって集うが、しかしそれを『同じ言葉』によって信仰告白という公同の器に盛る。それぞれが持ち来たった信仰の経験は個別的で・・・ある。けれども、そのきわめて個人的な事柄としての神との出会いを、ひとはそこで公同の告白へともたらし、共同の行為へと結晶させるのである。そこに、地縁血縁といった第一次的な絆を超えた、新しい共同体の形成の可能性がある。・・・それゆえ、ひとは信仰告白という行為において、ひとたび徹底した個人主義を通り抜けながらも、経験の共有を求めて、新しい交わりを樹ち立てる共同の冒険へと旅立つのである。この冒険は、まず『われ信ず』という強固な個人の経験に裏付けられていなければ行うことができない。『他の誰も信じなくともかわまない、わたしは信ずる』という確信である。しかし同時に、この『われ信ず』は、共同の告白へと結晶し、公同の交わりへと成長してゆく」と14。


 ですからここでわたしたちが「わたしたちは信じます」と告白するのは、ここに集まっているわたしたちが一人一人それぞれに「わたしは信じます」と告白しながら、その一つ一つの「わたしは信じます」が集められて、「わたしたちは信じます」という告白として結集されているということです。ですからそこでの「わたし」は決して孤独ではありません。崩れそうになる「わたし」を傍らで支えてくれる信仰の家族と共に「わたしは信じます」と告白する中で、一緒に「わたしたちは信じます」と告白するからです。そこでは信仰者は「どこまでも彼自身であり続けます。彼は自ら教会の合唱に加わり、そこで自分自身のパートを歌います」15。しかしそこで「彼はただ自分独りで歌っているのではありません。そうではなく、神の賛美を共に歌っている全世界の教会の大きな合唱といっしょに歌うのです。一人一人は教会のこの讃美歌をいっしょに歌います。讃美歌が共に歌われるところ、そこがやはり最も美しく歌われるところなのです。そのようにして個々の歌い手は、正しい調べを最良に持続することができます。合唱はいわば一人一人が歌うことを助けるのです」16。だからわたしたちはそれぞれに自分の「わたしは信じます」という告白をしながら、その告白は「わたしたちは信じます」という大きな信仰の賛美の中に加えられ、支えられて、共に告白され続けていくものとなるのです。そこでは「わたしは信じます」と「わたしたちは信じます」とは、本質的に違いがありません。なぜなら、そこで「わたし」と告白する主体は、そうした個々の信仰者である「わたし」が集められた「わたしたち」であり、つまり「教会」だからです。教会が信じるのです。そして教会が「わたしは信じます」と、あたかも一人の人として神の前に立ち、神に対して、またこの世に向かって、その信仰を告白するのです。そしてこの信仰告白は、各個の群れの中での交わりを形成していくだけではなく、信仰告白に基づく、教派や教団を超えたキリストにある交わりをも指向するものともなります。なぜならそれらのすべての教派、教会において、一つの「キリストの体である教会」が成り立っていくからです。そしてそこで信条とは、そうしたばらばらの教会を一つに結び合わせていく「合言葉」であり、一致の「旗印」なのです。


6.教会を聖書に基づいて形成するために不可欠な信条

 稲毛海岸教会が所属する日本キリスト改革派教会は、教会の共通の信仰告白として『ウェストミンスター信仰基準』を採択しています。その意味は、各個教会が個々ばらばらの信仰告白に立つのではなく、共通の信仰に立ち、その共通の信仰の告白によってこそ一致していこうとするものです。教会が一致するのは、単なる人間的な感情や信頼感や親密さといった主観的なものではなくて、同じ信仰を告白するという客観的なものによる一致です。教会の一致原則は、共通の信仰告白です。それは教会間、教派間だけではなく、教会員同士もそうなのであり、同じ信仰を告白するゆえに同じ教会を形成し、構成していくのです。歴史的「改革派教会」は、この信仰告白を信仰の中心として大事にし、それぞれの国やそれぞれの時代に、自分たちの「信仰告白」を聖書の教えから導きだし、告白し続けてきました。その伝統の中にありながら、わたしたちの教会が17世紀の英国で作製された『ウェストミンスター信仰基準』を採択するのは、それが「聖書において教えられている教理の体系として最も完備したもの」と確信するからです(創立宣言)。


 わたしたちが目指している教会は、「より聖書的な教会を樹立していく」ということですが、そのためには具体的な手段が必要です。「聖書主義」を標榜し、自分の教会こそ「最も聖書的な教会」だと自負して、他の教会を裁いたり拒絶する教会は多いですが、その教会が本当に「聖書的な教会」であるかどうかは、それを検証する客観的な尺度が必要です。聖書的だということで、教理などというものは人間の産物だからと拒絶し、ただ聖書だけだと主張する教会があります。しかしそのように教理や神学を否定する教会にも、彼らの教理はあるのであり、基本的な信仰箇条(それは古代の教会が激論を戦わせた激しい神学論争の中で形成してきたもので、まさしく神学的産物です)を共有するばかりか、そもそも神学否定・教理否定という自己理解そのものが彼ら自身の教理なのです。それはともかくも、自分たちの信仰内容が本当に聖書的か否かを判定し吟味する客観的基準がなければ、その教理内容は恣意的で偏向的なものとなっていき、自分たちの好みや信じやすい事柄ばかりの内容となっていくのです。また、教会を指導する牧師や指導者の理解に左右され、指導者が変われば教えの内容も変わっていきます。教理や信条を軽視する教会は、真実に聖書的な教会を形成していくための客観的な自己評価・吟味の手段を持ちませんから、非常に恣意的な教会形成をしていくことになります。自分たちは聖書的だと思い込んでいるだけで、そのように偏った自分たちの姿を写し出し、修正する「鏡」となる手段を持たないからです。教会の教理が、指導者や時代思潮などに影響を受けて偏向したり、特定の独特な自己理解に偏狭化していくことがないためには、どうしてもそれを常に検証していく尺度しての「客観的な基準」が必要です。そしてそれが「信条」なのです。


 神への信仰はどこまでも主体的なものですが、主観的なものではありません。感情や雰囲気、楽しさや喜びも大切ですが、それだけで厳しい人生の嵐を乗り越えていくことはできません。信仰の熱心さは、正しい信仰の理解に裏打ちされてこそ、力を得ていくのです。真の信仰は正しい理解を求めます。聖書を、聖霊の導きの中で主体的に読み、そこで教えられている内容を論理的に体系づけてまとめたものが信仰箇条、すなわち「信条」です。真に教会が聖書的であるために、また個々人が真実な神への熱心な信仰に堅く立つためには、聖書の教えを体系化し、論理立てて要約した「信条」が必要不可欠です。「聖書のみ」を標榜する聖書的な教会は、同時に「聖書全体」から、その信仰を受け取るべきです。ですから改革派教会は、たとえそれが人間の理解を越え、受け入れがたい教理であっても、聖書の教理をその全体において受け入れ、信じ、告白していこうとしていきます。それは教会を、より良く聖書の上に築き上げていくためです。改革派教会とは、「聖書において改革された教会であり、また改革され続けていく教会」という意味で、人間的な伝統や他の何かによってではなく、教会を聖書の上に堅く建てていくことを標榜する教会なのです。




1 森本あんり、『使徒信条-エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』、新教出版社、12~13頁参照

2 同上、14頁

3 F.ヤング、『ニカイア信条・使徒信条入門』、2009年、教文館、30頁

4 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、4頁

5 渡辺信夫、前掲書、52頁

6 北森嘉蔵、「信条」、東京神学大学神学会編『キリスト教組織神学事典〈増補版〉』、1986年、教文館、219頁

7 小高毅、『原典古代キリスト教思想史』3.ラテン教父、2001年、教文館、180~181頁;小高毅、『クレド〈わたしは信じます〉キリスト教の信仰告白』、教友社、124頁;J.N.Dケリー、『初期キリスト教信条史』、2011年、一麦出版社、60~61、64頁参照

8 森本あんり、前掲書、18~19頁

9 小高毅、『クレド』、12頁

10 森本あんり、前掲書、19頁

11 ユングマン、『古代キリスト教典礼史』、平凡社、111頁;聖務日課については小高毅、『クレド』、48~52頁参照

12 ラッチンガー、『キリスト教入門』、1973年、エンデルレ書店、42~43頁。ただしこの引用は、小高、前掲書、125~126頁からの孫引き

13 小高、『クレド』、126頁

14 森本あんり、前掲書、15~17頁

15 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか』、2000年、教文館、13頁16 同上、12頁