第14課 キリストに結びつくことによる「救い」(問20)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第14課:キリストに結びつくことによる「救い」(問20)


1.アダムとキリストの対比

 これまでの学びでは、主イエス・キリスト以外に、わたしたちの救いがないことをみていきました。そこではまず「アダムを通して、すべての人が堕落した」ことが語られました。このことをパウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と語ります(ローマ5章12節)。こうして「一人の罪によって多くの人が死ぬことになった」(同15節)、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった」(同17節)、「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下された」(同18節)、「一人の不従順によって多くの人が罪人とされた」(同19節)と、「アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配」したことを明らかにしました(同14節)。それは神が人間と結ばれた「契約は、ただアダム自身のためだけでなく、彼の子孫のためにも、アダムと結ばれていたので、・・・彼から出る全人類は、アダムの最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落」したからでした(『小教理問答』問16)。


 しかしまさにそこから、イエス・キリストによる救いが語られていきます。そのことと「同様に、キリストを通して・・・救われる」と。そのことをパウロは、「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれる」(ローマ5章15節)、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる」(同17節)、「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得るようになった」(同18節)、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」(同19節)と、アダムと対比する形で語っていきます。なぜなら「実にアダムは、来たるべき方を前もって表す者だった」からでした(同14節)。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(同21節)。


2.キリストに結びつけられた者が救われる

 教理問答は、アダムがもたらしたもの(罪と死)を、第二のアダムであるキリストが取り去り、義と命をもたらしてくださることを明らかにします。「それでは、アダムを通して、すべての人が堕落したのと同様に、キリストを通してすべての人が救われるのですか」という問いに、「いいえ。まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」と。そして、それではわたしたちはどのように救われるかというと、キリストとわたしたちが「結び合わされ、結びつけられる」ことによってだと答えていきます。キリストが、わたしたちの罪のための贖いを成し遂げてくださったから、それで自動的にわたしたちの救いが成り立ち、わたしたちはすべて救われるということではありません。確かにわたしたちの救いの根拠は、わたしたちのあずかり知らないところで、わたしたちの外側で、全く客観的に神によって据えられました。わたしたちがそうしたのでも、実現したのでもなく、全く神の方ですべてを備えてくださったのです。しかし、だから後は自動的に救いが与えられるというのではありません。それでは神とわたしたちの関係は、人格的なものとはならないからです。そこからは、神への感謝と賛美は湧きあがってはきません。自分の救いを当たり前、当然のように考え、神からの賜物、恵みとは考えられないからです。


 問20では、「キリストを通してすべての人が救われるのですか」という問いに、「いいえ。まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」と答えます。「すべての人」が救われるわけではないということに、心を留める必要があります。そこでは、「まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」と答えられていきます。キリストを信じた人しか救われないとは、キリスト教は何と心の狭い宗教かと言われたり、だから神の愛、神の救いは、条件つきの狭いものだなどと言われたりします。神の救いは、条件つきの制限された限定されたものにすぎないのでしょうか。神はなぜ「すべての人」を救おうとされないのでしょうか。しかしここで、これまでの学びを振り返っていただきたいと思います。そもそも人間はすべて、自分の罪のゆえに、滅びの中にあり、死の中を歩んでいるということです。神がそこで何の手も出されなければ、一人の例外もなくわたしたちは、そのままただ滅びに至るだけなのです。しかしそこで神は、わたしたちを救い出す義理も義務もありません。そこからわたしたちが救い出されるとしたら、それはどこまでも「神の憐れみ」によるものなのです。そして神は事実、わたしたちのための救いの道を開いてくださいました。それはわたしたちの負うべき罪の裁きを、そっくりそのままご自身が引き受けて、ご自分がわたしたちの身代わりとして裁かれ、罰せられることによって、わたしたちに下るべき罪の裁きと呪いと罰を取り除いてくださるということでした。それに、その主イエス・キリストの十字架による贖いは、すべての人の罪を償い力と価値を持つものなのでした。主の十字架は、ごく一部の人しか救うことができないほど、効力の小さいものだったから、「すべての人」が救われるわけではないということではないのです。主イエスは、「すべての人」を救いうるほどの完全な贖いを成し遂げてくださいました。それではどうして、「すべての人」が救われるわけではなく、キリストにつながる者だけなのでしょうか。客観的には、「すべての人」に対する救いの道は開かれており、また救いへと招かれているのです。しかしその救いを主体的に「自分のもの」とするのは、キリストを信じた人だけだということなのです。


 それは「赦し」ということのもつ性格に由来します。自分がある人に対して、ひどいことをしてしまい、その人に多大な迷惑と実害をかけてしまったとします。自分はそのことを気に病み、苦にし、後ろめたくてその人に合わす顔がありません。ところが相手は、とても寛大な人で、そのことを赦し、気にしていなかったとします。それでは、自分とその人との関係は、元通りになるでしょうか。いいえ、そのままでは、関係はまだ阻害されたままです。どうしたら関係を回復することができますか。それは、自分が相手の赦しを信じ、感謝して、心から相手にお詫びすることです。もう相手は自分を赦してくれています。それを信頼して、申し訳ありませんでしたと謝罪したとき、初めて相手との関係は修復され、元通りになるのです。それは相手の赦し方が十分ではないからですか。いいえ、客観的には赦されていても、主観的には、つまりわたしの側ではその赦しの中にまだ生きていないからです。もう赦されているのですが、相手に謝るまでは、自分の方ではその赦しを確信し、喜ぶことはできません。神との関係も同じです。神はすでに、主イエスの十字架において、わたしたちに対する贖いを実現し、赦しを与えておられます。そしてその赦しの中に戻るようにと招いておられるのです。その招き、つまり罪の赦しを信じ、心から感謝して、それを自分のものとして受け入れ、神へと立ち戻っていく、それによって神との関係は修復され、和解が成立することになるのです。そしてそれが、「キリストを信じる」ということなのです。このように、神の赦しを、自分のものとして受け入れる必要があるのです。それは、神の愛と救いが、条件つきのものであるとか、制限された限定されたものだということとは違います。すでに神はわたしたちを赦し、わたしたちとの関係が回復されるために必要な処置、つまり罪の償いとしての贖いを完全に実現して、救いの道を開いてくださいました。わたしたちは、それを信じ、それを受け入れることで、罪の救いを自分のものとすることができるのです。そしてそれは、キリストと結び合わされていくことによって、すなわち「キリストとの結合」によってでした。だから主は、こう呼びかけられたのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と(ヨハネ15章4、5節)。


3.救いを自分のものとする

 このことを、別の例で考えてみましょう。以前開催されたサッカーのワールドカップの入場券は、とても入手困難であると報道されていました。スタジアムに入ることができる人数が、制限されているからで、入場券なしには試合を観戦することはできません。それはただ高価だというだけではなく、そもそも数が限られているので、希少価値があるそうです。わたしたちの罪からの救いを、それになぞらえて考えてみましょう。救いとは、天国への入場が許可されることですが、そのためには入場券が必要です。しかしその入場券は非常に高価すぎて、わたしたちは自分では入手することができません。ところが、ある奇特な人がわたしのために、特別に入場券を入手し、譲ってくれるとします。その情報によって、わたしはスタジアムに入ることができるでしょうか。いいえ、実際にその入場券を手に入れて、それを手にしてスタジアムに行かなければ、中に入れてもらうことはできません。ここで救いのために必要な信仰とは、つまり自分のために準備された入場券を実際に自分の手に入れることです。その人が自分のために入場券を用立ててくれていたとしても、その入場券が自分の手許になければ無意味です。神は、わたしたちのために、天国に入ることができるための入場券を用意してくださいました。あとはそのことを信頼して、それを自分のものとして手に入れるだけです。そしてそれが「信仰」なのです。


 さらに別の例をあげましょう。ある奇特な人が、借財で苦しむ友のために、融資を申し出たとします。それは銀行の預金通帳に入れてあり、それはその人の名義になっていると。そして通帳を渡されます。しかしその口座に入っているお金を実際に自分の手に入れるには、その人の言うことを信じ、感謝して、自分の名義の口座からお金を引き出すことです。お金は自分の手で受け取らなければ、自分のものとなりません。救いも同じです。わたしたちの救いは、キリストという銀行に全て預けられています。その証拠に聖霊という保証(預金通帳)が渡されました。ではその自分の救いという宝はどのようにしたら、実際に自分のものになるでしょうか。自分自身でそれを手に入れることです。銀行に行って通帳を差し出し、自分の口座に振り込まれたお金を受け取って初めて、それを自分のものとすることができます。そのように自分の救いを受け取ることが「信仰」なのです。わたしの救いと、そのために必要な一切とは、キリストがわたしたちのために獲得してくださいました。だからそれはキリストの許にあります。それを自分のものにするためには、それを取りに行く必要があるのです。こうして「信仰」とは、自分の救いを「受け取る」こと、取りに行くことなのです。そのためには、「信仰」はできるかぎり「空」である方が良いのです。カルヴァンは、信仰とは神の恵みをいただくための「空の器」だと語りました。器は空であればあるだけ、中にたくさん入れることができるからです。人間の信仰そのものに価値があり、意味があり、力があって、人間を救うのではありません。信仰は、どこまでもキリストがわたしたちを救ってくださるための「手段、方法」にすぎません。自分の信仰が薄いとか、少ないとか、弱いなどと心配することよりも大切なのは、それが自分に救いをもたらす、「まことの信仰」かどうか、自分の救いの源であるキリストへと自分を正しく結びつけ、その恵みをもたらす「通路」となっているかどうかなのです。


 さらにこうも言うことができます。アダム船長が操舵する豪華客船アダム丸が、優雅な航海を楽しんでいました。ところがアダム船長は、途中で航路を誤り、侵入すると大変危険な航路へと進んでいました。その先には、何と奈落の底につながる大きな滝があったのです。ところが見るところ、そのように見えませんので、船長も乗客も安心して、豪華客船の船旅を満喫しています。しかしその危険を知った港湾管理局の長官は、ただちに無線で航路の先に危険があることを伝えます。ところが船長も、乗客も、それを信頼せず、ばかげたことと一笑に付したまま、そのまま航路を進んでいます。長官は何度も警告し、危険を連絡しますが、船は滝に向かって進むばかりです。このアダム丸とはわたしたち人類のことであり、そこにあなたも乗船したままです。長官とは神で、神は何度も預言者を遣わし、伝道者を遣わして、滅びの道を一直線に突き進んでいる人類に、警告を発し続けるのでした。滝とは、永遠の滅びのことです。それでも言うことをきかず、安心しきっているアダム丸に、長官はついに自分の息子を救命艇の艦長として派遣して、アダム丸の乗客が、それに乗り移り、ただちに安全な港へと引き返すようにします。そのキリスト号は、アダム丸の乗客すべてが乗船できるだけの大型客船でした。そしてこの艦長の警告を信頼して、キリスト号に乗り移った人は、滅びから免れるのです。ここで、自分が滅びに向かっている船に乗っていることに気づいて、ただちに船を乗り換える人は、救われます。


 それが、ここでいう「信仰」なのです。このように「まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」。神は、「すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2章4節)。そして、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、忍耐しておられる」のです(2ペトロ3章9節)。神は今もわたしたちに向かって、「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と呼びかけておられます(エゼキエル18章21~32節、33章11節)。この神の招きは真剣です。あなたも、ぜひこの神の呼びかけに応えて、イエス・キリストによる救いを信仰によって手に入れてください。