第10課 堕落が人類にもたらした影響と神の裁き(問9~11)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び

 

第10課:堕落が人類にもたらした影響と神の裁き(問9~11)

 

1.人類全体の堕落

 こうして、「一人の人によって罪が世に入り、全ての人が罪を犯した」(ローマ5章12節)ことになりました。人間の頭、代表であるアダムが罪の道を選び取り、そこに迷い込んだことによって、その後に続く人類の全ても同じ罪の道に迷い込んでしまったのです。最初の人間が罪を犯したことで、その後に生まれる人類全体が神の前に罪人となり、罪人として生まれるようになってしまいました。それはいくらなんでもひどいではないかと思われますか。神が最初の人間と結んだ「契約」、愛と信頼に基づいて結ばれた約束は、最初の人間だけではなく、その子孫である人類全体とも結ばれたものでした。だから「全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落した」ことになるのです。小学校の遠足で、先頭を歩く引率の先生が道を間違えたとします。するとその後をついてきた小学生も全員、一緒に間違った道に迷いこむことになります。そして引率の先生(アダム)が迷い込んでしまった道こそ、罪と死に至る滅びの道でした。最初の人間が、その滅びの道を選び取ったことで、後に続いてきたわたしたちも、同じ道を歩んでいるのです。ですからわたしたちは、自分がこの滅びの道をまっすぐに歩いていることに気づいて、一刻も早くその滅びの道から引き返さなければなりません。

 

2.神は罪を正しく裁かれる

 これまでわたしたちは、罪と悲惨について考えてきました。神と人とを心から愛する者として造られたわたしたちでしたが、その愛は自分自身へと向き合っていく愛、「自己愛」に集約されるようになってしまった、そしてそんな自分に気づくことなく、互いに愛し合っていると思い込んでいるところから、様々な悲惨さが生み出されていることを見ていきました。そのことで自分を省みるようになった方もおられるかもしれませんが、それがわたしと何の関係があるのかと逆に反発を覚える方もおられたかもしれません。あるいはたとえそうだとしても、それはわたしの生き方であって、それを神であれ何であれ、他人にとやかく言われる筋合いはないと考えた方もおられたかもしれません。わたしがどう生きようが、それは自分の勝手で、それを「自己中心」と責められる筋合いはない、わたしの人生はわたしのものだと思われる方もおられたことでしょう。しかし聖書は、ただわたしたちの罪を指摘し、その罪がわたしたちの悲惨の原因であることを語るだけではなくて、それがもたらす結果についても、わたしたちに問いかけてくるのです。それがここでの問題です。「神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか」との問に、「断じてそうではありません。それどころか、神は生れながらの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもうのです」と答えます(問10)。それは、わたしたちが犯した罪に対しては必ず裁きがあるということです。そんな死んでから先の、本当にあるのかないのかも分からないことで、人生の楽しさを奪われたくはないと考える方もおられるかもしれません。しかし聖書は明確に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と書いて、わたしたちに警告を与えます(ヘブライ9章27節)。それを受け入れるか受け入れないかは、皆さんの問題であるとしても、聖書は真剣にそのことをわたしたちに問いかけているのです。

 

 ある方は、神が人間の罪を裁くのは不当だと考えるかもしれません。それに対しては問9で、「御自身の律法において人ができないようなことを求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか」と問われていました。それに、「そうではありません。なぜなら神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、身勝手な不従順によって、自分自身とそのすべての子孫からこの賜物を奪い去ったのです」と答えられます。神が人間に求められたのは、真実な愛でした。神と隣人とを愛し抜いていく愛でした。そして「神は人がそれを行えるように人を創造された」のです。愛する力をくださった、それにもかかわらずその愛を歪んだものに変えてしまったのです。人間は、完全な愛とそれに応答できる力を十分に与えられていました。それにもかかわらず、その神の信頼と愛を裏切り、それを逆手にとって、むしろ神を捨て、罪を犯してしまったわけですから、わたしたちに弁解の余地はありません。神は罪を憎み、それを正しく裁かれる方です。そして犯された罪には罰を報いられます。この神の裁きは不当なものではありません。わたしは小学生の頃、小さな疑問を抱いたことがありました。天国に行っても、そこでまた罪を犯し、堕落してしまうことがあれば、その先どうなるのだろうかという疑問でした。楽園においてさえ堕落があったとすれば、天国でも再び堕落が起こりかねないのではないか、そうなったらどうしようというわけです。しかしだから「裁き」が必要になります。鈴木大拙という有名な仏教学者が、キリスト教は「神の愛」を語り、仏教は「仏の慈悲」を語る。しかしキリスト教の神は、裁きを下す神であるから、その愛には限界があり制限がある。しかし御仏の慈悲は、深くてどんな悪でも赦し、受け入れる。だから仏の慈悲の方が、神の愛よりも広く大きいと語っていました。しかし、芥川龍之介の「くもの糸」ではありませんが、悔い改めることもない悪人が、ただ一度の善行によって、そのまま極楽に受け入れられ、自己中心の醜い心が変えられることもないまま、悪びれることもなく極楽に入るのなら、極楽は再び地獄と化すのではないでしょうか。そうではなくて、一度きちんと罪に対する清算がなされ、裁きが行われるから、天国は二度と地上のような堕落が起こることなく、天国はまさに天国として、新しい世界となっていくのです。罪に対する裁きがあるから、本当に新しい世界を待望することができるようになるのです。そして本当に自分の罪を心から認めて、それを悲しみ、憎み、捨てて、心からの悔い改めをすることによってこそ、わたしたちは本当に自分が赦されて、天の世界に迎え入れられることを確信することができるのです。

 

 それにもし神が本当に正義の神、義の源であられるなら、やはり裁きがなければなりません。神に対する罪、隣人に対する罪への正当な裁きと報いが存在しないなら、倫理も正義も成り立たなくなるからです。もし神の裁きがないなら、こんなに不公平な世の中はありません。悪しき者が裁かれて、苦しめられた者が報いを受けられるために、神の正義の裁きは実在しなければなりません。もし神の裁きがなければ、天国も再び罪人で一杯となり、地獄同様に悲惨な場所となるに違いありません。「慈悲」によって天国に招き入れられるだけであるなら、そこには悔い改めることもしない極悪人が、悪びれることもないまま受け入れられていくことになり、裁きと罪に対する償いがないとするなら、そこは再び悲惨な世界となってしまうのです。罪に対する償いと報いがきちんとなされるから、罪がはっきりと清算されて、罪のない世界が生まれるのです。神の裁きがあるということは、地上で不当な扱いを受け、決して幸せを享受できなかった者たちにとって、慰めと希望です。神が必ず裁いてくださる、それが不当に虐げられ、苦しめられている者たちにとっての慰めの拠点だからです。

 

3.神は愛であるゆえに、わたしたちを裁かれる

 しかしそこでなおわたしたちは、神は愛の神ではないのかと問うかもしれません。神は愛なのだから、裁きを為さらないと。それは全くの誤解です。むしろ、神は愛だからこそ人を裁かれるのです。神は義なる神、正義の神だから罪人を裁かれるというのではありません。正義の神による裁きだけであったら、その裁きはどれほど過酷なものとなるでしょうか。神は愛の神だからこそ、わたしたちへの愛のゆえに、愛においても裁かれるのです。愛とは人格的な応答関係です。互いに相手に対して人格的に対応し、それに応えていくことです。その関係を相手が裏切ったら、どうなるでしょうか。罪を抽象的にではなく、人格的に、具体的に考えていただきたいのは、そのことなのです。心から信頼し合い、約束し合った関係の相手がいたとします。しかしその人が別の異性に思いを寄せ、心を向け、別の関係へと向かってしまったら、あなたはそれをどう考えるでしょうか。相手はなんて心の広い人だろうとは考えないはずです。たった一回だけの失敗だから赦してくれと言われても、容易には赦すことはできないでしょう。一度失われた信頼を回復させることは容易なことではありません。相当な覚悟で相手を受け入れ、赦そうとするのでなければ、関係を元に戻すことはできません。その神の愛と信頼を裏切り、踏みにじったことが、罪なのです。逆の立場であったら、これはたいしたことではないのだから見逃してくれとか、一回くらい良いではないかという、相手の言い分を受け入れることができるでしょうか。相手が本当にそのことを心から悔い改めて、心からの赦しを求め、本気でやり直そうとしない限りは、相手を赦すことはできないはずです。神は愛だから、神はわたしたちの不義を大目に見て、見逃すべきなのでしょうか。いいえ、神は真実な愛だからこそ、その愛を踏みにじったことの責任をとことん追及なさるのです。神は愛だからこそ、人間に対して、とことん愛において、つまり人格的に対応なさり、それに対する責任を求められる、だから裁くのです。神は愛だからこそ、罪を犯して自分を棄て去り、自分を拒絶し否定して生きる人間、罪人に対しても、最後まで徹底的に人格的に対応されるということであり、それは人間をどこまでも人格的存在として扱われるということなのです。神は地獄の底においても、なお人間を人格的存在としてみなしていかれるということです。人格的な神に似せて造られた人間は人格的存在である、だから裁きが存在します。裁きがないなら人間は人格を持たない獣と同じです。神は愛だからこそ、罪人を裁かれるのです。

 

 だから問答は、裁きなどはないとたかをくくる人々に対して、「断じてそうではありません。神は生れながらの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもうのです」と断言します。これは抽象的なことではありません。聖書はこのことを、人間の歴史、とりわけ神の民イスラエルの歴史をもって明らかにしています。神がどれほど人間の愛の裏切りを赦してこられたか、忍耐してこられたか、のみならず神が繰返しご自身へと戻ってくることへと呼び掛けてこられたか、忍耐のうちに招いてこられたかを明らかにしていきます。それにもかかわらず人間は、この神の愛と憐れみを無視し、踏みにじり続けてきたのでした。それでも神は、義なる神であるにもかかわらず、その人間の罪を赦し続け、憐れみ続けてこられたのです。それでもなお拒み続ける人間、神を拒否し続ける人間を神が裁くことは不当でしょうか。愛し続けてくださった、その神の愛を裏切る続ける人間を、神が裁くことは違法でしょうか。神はこの人間の姿を、夫をもちながら、しかもその夫に愛されていながら、他の男の許に走り、姦淫を繰り返す妻になぞらえていくのです。


4.神は、わたしたちが悔い改めることを求めておられる

 ですから、この神の愛を踏みにじりつづける人間に対する神の裁きは、徹底的です。神は最初の人間に、また彼らによってわたしたちすべてに、罪を犯せば必ず「死ぬ」と言われました。「死」とは、断絶、分離のことです。生命の源である神との関係が断絶し、絶縁することで、人間はすでに死んだのです。罪が人間にもたらしたもの、それが「死」でした。ですからわたしたちは、一人の例外もなく、やがて必ず死にます。しかし「死」は、はじめからあったものではありませんし、神が創造されたものでもありません。聖書には、三種類の死が記されています。生物的な肉体の死、心における霊的な死、最後の裁きによって決定的となる第二の死、永遠の死です(黙示録20章14節)。そして人間は、生れながらに「死んで生まれてくる」のです。生命とは、生命の源である神との交わりです。人間は、神と結びつき、神と交わりをもっているかぎりにおいて生きた存在であって、神と離れたまま自律して存在することはできません。神の霊を吹き込まれることで、「生きた者」とされた人間は、この神の息吹、神の霊、つまり神との生きた交わりにおいてのみ生き続ける存在として、最初からそのように創造されたからです(創世2章7節)。ですからこの神の息吹、神の霊を取り上げられれば、死んでしまうのです(詩編104編29節)。人間の生命は、神なしに自律して存在するのではなく、神の許にあるのであって、自分の生命の源である神と結びつき、交わりをもち続けることにおいてのみ、生命を保ち続けるのです。生命とは、神との交わりに他なりません。りんごの実を、枝からもぎ取れば、しばらくはその状態を保ちますが、そのうちに腐ってきます。そのように人間は、自分の生命の源である神から離れてしまったことで(その状態が霊的な死)、やがて自分の肉体の死を迎え、ついには終りの時に永遠の死を迎えます。それが、「罪が支払う報酬」です。

 

 しかも人間はただ死ぬだけではありません。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」のです(ヘブライ9章27節)。そして世の終わりと最後の審判についても確言します。聖書は、わたしたちがやがて神の御前に一人一人立たせられて、自分の言ったこと、思ったこと、行なったこと、行なうべきだったのに行なわなかったこと、それら一つ一つについて申し開きすることが求められる時が必ず来ることを証言します。主イエスは言われました。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12章36、37節)と。また聖書は明言します。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」と(ローマ14章12節)。そして「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」(1ペトロ4章5節)。「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」(黙示録20章11~15節)。こうしてすべてを見抜き、人の心の中をご覧になる神の前で、わたしたちは自分の行ないと言葉について、生涯の日々と心の思いについて、一つ一つ弁明しなければなりません。「神は生まれながらの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもうのです」。あなたには、その備えができているでしょうか。

 

 しかしそこで神が求めておられることは、わたしたちが罪のまま放置され、滅びと裁きに向かっていくことではなくて、悔い改めることでした。「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人々でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」(使徒17章30節)とパウロは語りました。「悔い改める」、つまりこれまでの罪の生き方をやめて、方向転換し、神へと向かって生きなおしていくことです。ただ犯した罪を後悔するということではなくて、生き方そのものを変えていくのです。滅びに向かうわたしたちを、神がどれほどの痛みをもって呼びかけておられるか、神の声を聞いてください。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18章23、31~32節)。