第1課 ただ一つの慰め(問1‐1)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第1課:ただ一つの慰め(問1-1)


1. ただ一つの慰め

 宗教改革時代、イエス・キリストへのまことの信仰を告白することが命がけであった時代に、いつ襲ってくるかわからない迫害と死の恐怖にさらされていた信仰者たちを、その迫害のただ中にあって耐え抜かせ、死に至るまで忠実になさしめた書物、平穏で安穏な時代だけではなく、むしろ暴力と憎悪、非情と流血の時代に生きたキリスト者たちが、心の支えと真実の慰めとして愛読していった書物が、この『ハイデルベルク教理問答』でした(以下、教理問答と略記)。ですからそこで真っ先に問われていることは、抽象的な真理や思想ではなく、「真実の慰めとは何か」ということです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。それに対して次のように答えます。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と。この冒頭の言葉は、教理問答の主な著者の一人とされている聖霊教会牧師オレヴィアヌスがまだ小さかった頃、霊的指導を受けたある老司祭から受けた言葉によるとされています。「オレヴィアヌスよ、旧約時代の神の民はもちろんのこと、あらゆる時代に生きた神の民は、生きるにも死ぬるにも、彼らの唯一の慰めが、主イエス・キリストの贖いの犠牲にあることを知っていた。この事実をおまえは決して忘れてはいけない」1。


 この教理問答にかぎらず、カテキズムにおいて一番最初におかれた冒頭の問いというのは、とても重要です。それがこれから語られていく内容の根本主題を表すことが多いからです。たとえば『ウェストミンスター小教理問答』では、「人の主な目的は何ですか」と問いかけます。人生の究極目的は何かと問うのです。そしてその答えを問答全体で答えていくことになります。またカルヴァンの『ジュネーブ教会教理問答』では、「人生の主な目的は何ですか」と問い、それを四つに分けて説明していきます。そのように冒頭におかれた最初の問いには、そのカテキズム全体の主題が語られる場合があります。これから学んでいく『ハイデルベルク教理問答』は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問いかけていきます。「人の究極目的は何か」とか、「人生の目的は何か」という問いが、いささか大上段に構えた問いとなっているとすれば、この教理問答の問いは、逆にずいぶんと人間的な問いだと感じられるかもしれません。「慰め」などということを考えるよりも、もっと大事なことがあるのではないかと思うかもしれません。そもそも「慰め」などという言葉は、主観的で感傷的に過ぎないと考える方もおられるかもしれません。確かに何もかも満たされて平穏な日々を過ごしている人には、「慰め」など必要とは感じないでしょう。体力にしろ学力にしろ様々な能力にしろ、自分の力により頼み、それに過信していられる間は、「慰め」など必要ないかもしれません。しかし大丈夫だと安心しきっていた生活がその土台ごと揺るがせられたり、健康や自信が打ち砕かれたり、大切なものを喪失するといったような、自分の足元をすくわれるような経験に出会った時、それでもなお自分をしっかりと立たせていく確かなものを持っているでしょうか。ここで語っている「慰め」とは、そのようなものです。


2.生きるにも死ぬにも

 ここでは「生きるにも死ぬにも」と問われていきます。そこでのあなたの「ただ一つの慰め」は何かが問われます。これさえあればどんなに苦しい中にあっても「自分は生きていける」と言えるものを持っているか、そしてそれはあなたにとっては何かと問われます。もちろんいわゆる「慰みもの」、一時の気休めの類なら、いくらでもあるかもしれません。しかしそれが、いざというとき、本当にあなたを支え、強め、励ます「ただ一つの慰め」となりうるでしょうか。思いもかけない災難や不幸が、突然襲ってくるような地上の生涯において、そこにおいてなおわたしたちを本当に支えていく「慰め」とは、一体どのようなものなのでしょうか。そしてわたしたちは、そのような「慰め」を持っているのでしょうか。ここで問われていることで、自分の人生の屋台骨を揺るがされていくような事態に直面しても、なおそこでしっかりと自分を立たせていく土台、それが何かと問われているのです。


 ここでは「生きるにも」だけではなくて、「死ぬにも」と問われています。それは死んでしまう時や、死んでしまった後のことが問われているだけではなく、むしろ自分の死に直面し、死がだんだんと近づいている時や、自分の死を覚悟しなければならない時を含みます。そのような時にあって、つまり自分の死と向かいあわせになっているその時でも、なお、あなたを支え、あなたを慰めるものがあるか、と問うのです。自分の死だけではありません。愛する者が死にいこうとする時、あるいは死んでしまった時、そこでなお、あなたを支え、励ますものがあるかと問うのです。この教理問答の時代背景を考えるなら、それは迫害の中で殉教するということをも含み込んだものだと言えるかもしれません。そうした自分の死を前にして、そこでなお自分を堅く立たせ、奮い立たせていく「慰め」を持っているかと問うのです。しかもそれは「ただ一つ」の慰めです。生きているこれまでの間、自分を支えてきた同じ慰めが、そのような事態にあってもなお、同じただ一つの、一貫した慰めでありうるかと聞かれるのです。生きている時だけの慰め、死ぬ時の慰めと、慰めが別々にあるというのではなく、その両方を貫き、一貫して自分を支えうる「ただ一つの慰め」があるかということが、ここで求められていることなのです。


3.心を支える「よりどころ」としての「慰め」

 しかし「慰め」というと、何か主観的で、とても消極的なもののように感じてしまいます。苦難にあっている人や悲しみに沈んでいる人に「慰め」を語るという、つまりは傷口をなめてあげるような、忍耐して耐えるようにと何か後ろ向きに語るようなことのように感じます。しかしここで語られる「慰め」は、それとは違います。むしろそうした苦難に立ち向かっていく力を与えるような「支え」ないしは「土台」を語るのです。悩みの現実から逃避するのではなくて、むしろそれにぶつかっていこうとする勇気を与えるのが、ここで語られていく「慰め」なのです。この教理問答はラテン語とドイツ語で出版されましたが、ラテン語で「慰め」とは、「人を強くするために、その人の傍らに並んで立つ」ということで、その人に力を与えて、人生の様々な現実に耐え抜かせることを意味しました2。そして特にこの「慰め」という言葉は、この後で語られていく「悲惨、惨めさ」(問2)と対立するものとして対比されています。この教理問答が書かれた時代、「悲惨」とは「故郷を離れてしまった」ということで、「足元にしっかりとした地盤がなく、さまよい歩きながら誰にも頼れず、自分自身にも本当は頼れないけれどもただ一人生きている、自分と一緒にいるのは自分だけであるという状態」のことでした3 。それは底なし沼に立っているような不安定で不安な状態です。見ず知らずの外国、言葉も通じない異国の地で、一人はぐれてしまい、頼れる人もなく、立ちすくんでしまうといった状態、それが「悲惨、惨め」ということでした。


 この「悲惨」と対比すると「慰め」の意味が分かります。つまり「慰め」とは、「しっかりとした土台の上に立って揺るがないこと」です。なぜなら頼れるのは自分一人という深い孤独の中で苦しむのではなく、その傍らに自分を支えてくださるもう一人の存在がいて、自分よりももっと確かなその存在が、孤独で頼りない自分をしっかりと支えていてくれるからです。そしてそこで悩みの人生の現実に耐え抜かせていく力を与え、そのためにかたわらに並んで立っていてくださり、その力をくださる方がおられる、それが「慰め」だというのです。実はこの教理問答を執筆するに際して、著者の一人と考えられているウルジヌスは、二つの教理問答を準備しています。その中の一つ「小教理問答」の問1にも、同じ問いが記されていますが、そこでは「生きているときも死ぬときも、あなたの心を支える慰めはどういうものですか」となっています4 。つまりこの「慰め」とは、「あなたの心を支える慰め」と問われているのです。そこでこの問いを、「生きているときも死ぬときも、あなたを支えるものは何ですか」と書き換えることを提案する解説もあります5。そこで問題となっているのは「生きる勇気であり、死に際の確信」であって、「何が私の人生の支えであり、意味なのか」、特に「死ぬときに何があなたを支えるのか」が問われているというのです。この教理問答を訳した吉田隆氏も、ここで「慰め」と訳される言葉のドイツ語における元々の意味は、「私たちの心を置くべき拠り所、確信、あるいは助け」であって、「あなたのただ一つの拠り所は何か」と訳すこともできることを指摘します6 。つまり「自分が全幅の信頼を置くべき、私たちが体も魂も全部を任せてよいという、その拠り所とは何かという問い」なのだと。そしてカール・バルトも、この「慰め」という語について、「困難な状況の中にあって、人間がそれとは逆のことをする重大な、否、さし迫った誘因がありながらも、それにもかかわらず堪え忍び、それにもかかわらず勇気を懐き、それにもかかわらず喜びを持つという、人間の根底をなす・人間に与えられる・一時的な・しかし有効な・約束に満ちた・助け」であると語ります7。


 しかも、この「慰め」という言葉には、「強くする、元気を出させる」という意味があり、さらに難攻不落な要塞や砦につながる言葉でもあります8 。優しい、けれども軟弱で頼りないようなものではなくて、逆に強くて希望を与えるものであり、そこで励ましと喜びを与えるものなのです。ルターが歌った有名な「神はわがやぐら、わが強き盾」という讃美歌267番に歌われるような、難攻不落の強大で力強い要塞が、ここで言う「慰め」なのです。それはまさしくわたしたちの救い主イエス・キリストです。この方が、わたしたちにただ一つの「慰め」を与えてくださる方であるだけではなくて、まさにこの方こそがわたしたちの「慰め」そのものです。このように弱いわたしたちの傍らに共に立って支えてくださる方こそ、わたしたちの救い主、イエス・キリストなのです。だから、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えられていくのです。


4.わたしが「わたし自身のもの」ではないということ

 ここでこの教理問答は、「わたしがわたし自身のものではない」ということ、つまり何の当てにもならない自分自身のものではないということだと答えます。「『私は私のものではなく、イエス・キリストのものだ』-したがって、私は、私自身の主人ではなく、私の所有物でもない。またそれゆえに、私自身のための思い煩いも、私のなすべきことではない」ということです9 。しかもそれだけではなく、「わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」と告白されていきます。わたしたちが「イエス・キリストのものである」ということほどに確かな保証も慰めもありません。なぜならわたしたちが信じ、従っている主は、この世を支配し、また後の世までも、その全能の主権をもって支配しておられるお方だからです。この方の許しなくしては、空の鳥一羽すら、力尽きて地に落ちる(死ぬ)ことがないほど、確かな力をもたれたお方です。その全能の御手をもったお方のものとされていることほど、確かで安全なことはないのです。自分が自分自身のものにすぎないとしたら、わたしたちはなんと不確かでおぼつかない中を歩んでいかなければならないことでしょうか。そうではなく、この全能の主なる神のものとされている、だからわたしたちは、常に変わることのない神の守りの中におかれており、たとえ困難な問題のただ中にあっても、この神の守りは変わることなく、わたしたちを包み込んでくださっている、そう信じることができるのです。そしてこの神への信仰こそが、迫害と困難と死と問題の中にあるキリスト者たちを支え、強めてきた、ただ一つの慰めでありました。だからこの慰めこそが、現実の困難の中に生きるわたしたちに、雄々しく立ち向かっていかせる力を与えるものともなるのです。


 先にも紹介したカール・バルトは、次のように語りました。「『われ・・・信ず』-これは、『私は孤独ではない』ということにほかならない。この栄光の中にあるわれわれ人間、また悲惨の中にあるわれわれ人間が、孤独ではないのである。神は、われわれ人間に歩み寄り給う。そして、われわれの主また師として、徹頭徹尾われわれを守り給う。・・・私は、孤独ではない。否、神は、私に出会い給う。私は、いついかなる時にも、所詮神と共にいるのである。それこそ『われは父・子・聖霊の神を信ず』ということの意味である。この神との出会いは、神がイエス・キリストにおいて語り給うた恵みの御言葉との出会いである。・・・神がわれわれに『われは汝らに恵み深し』と語り給うということ、それが神の御言葉であり、全キリスト教的思惟の中心概念である。神の御言葉は、その恵みの御言葉である。・・・『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと称ばれる』。・・・キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである」と10。孤独の中で一人ぼっちに生きるのをやめること、それが神を信じるということです。それは、これからは神と共に生きようと決心するということでもあります。これからわたしたちも、この教理問答を手引きとしてキリスト教信仰を学んでいくことで、「ただ一つの慰め」であるイエス・キリストと共に生き、真実の「慰め」に満ちた歩みを始め、またそれを確かなものとしていきたいと願います。そのためにも、これからの学びで、ぜひ一緒に考え抜いていっていただきたい。それは、あなたにはそのような「慰め」があるかどうかということをです。しかもそれは、生きているときだけではなくて、死ぬときにも、死に赴くときにも、自分の死、そして大切な愛する人の死に直面するときにも、それでもなおあなたを一貫して支え抜いていく、「ただ一つの慰め」をもっているかどうかということをです。あなたの信仰は、そのような力をあなたに与えるような確かで生きた信仰となっているのか、それを考えていっていただきたいのです。これからの学びの全体で、それを考えていきます。その学びによって、わたしたちがこのような「ただ一つの慰め」を自分のものとすることができ、自分の信仰が堅固で揺るがないものとなっていくことを祈り求めていきたいと思います。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と。




1 E.J.マッセリンク、『宗教改革のあゆみ』、1977年、すぐ書房、79~80頁。またT.B.V.ヘルセマ、立石章三訳、『ハイデルベルクの三人』、2009年、改革派神学研修所出版部、32~34頁参照。

2 マッセリンク、前掲書、17頁

3 登家勝也、『ハイデルベルク教理問答講解』I、1997年、教文館、11頁

4吉田隆・山下正雄訳、『ハイデルベルク信仰問答』付ウルジヌス小教理問答、1993年、新教出版社、101頁

5 A.ラウハウス、『信じるということ』、2009年、教文館、18頁

6 吉田隆、『《ただ一つの慰め》に生きる-「ハイデルベルク信仰問答」の霊性』、2006年、神戸改革派神学校リフォームド・パンフレット3、62頁

7 K.バルト、『キリスト教の教理-ハイデルベルク信仰問答による』、2003年、新教出版社、新教セミナーブック12、25頁

8 F.H.クルースター、『力強い慰め-ハイデルベルク信仰問答講解』、2005年、新教出版社、16頁

9K.バルト、『キリスト教の教理』、2003年、新教出版社、新教セミナーブック12、27頁

10K.バルト、『教義学要綱』、1993年、新教出版社、新教セミナーブック1、16~17頁