序 『ハイデルベルク教理問答』に学ぶ意義

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


序:『ハイデルベルク教理問答』に学ぶ意義


1. ハイデルベルク教理問答の作成に至るまでの略史

 これから学んでいく『ハイデルベルク教理問答』1は1563年、つまり16世紀に出版されたものです。そこでこの『ハイデルベルグ教理問答』を知るためには、まずこの問答が書かれた背景を知る必要があります。オーデンヴァルトからライン地方へと流れているネッカー河のほとりに建つハイデルベルク市は、当時は「神聖ローマ帝国」を構成する領邦の一つであったプファルツという国の首都でした。この問答は、このプファルツという国の教会のために作成されたもので、その目的は、この国の教会を聖書的な信仰によって「一つ」に一致させていくことにありました。このプファルツは、「選帝候国」という、神聖ローマ帝国の皇帝を選出する権利を有する諸候を王とする七つの国の一つで、帝国の中でも重要な位置を占めており、ローマ・カトリック教会の本拠地でもあったので、宗教改革が浸透していくには最も難しい地域でもありました。1518年4月、九五か条の堤題をヴィッテンベルクの城教会の扉に張り出してから六か月後、マルティン・ルターはアウグスティヌス派隠修士会の会議に出席するため、このハイデルベルクを訪れます。このルターの訪問が、ハイデルベルクにおける宗教改革の種子となりますが、それが芽を出すまでには、さらに長い年月をすごすことになります。福音主義信仰を受け入れたオットー・ハインリッヒが選帝侯となったことで、この国に福音主義(特にルター派)が導入されるようになり、その後オットー・ハインリッヒが死んで、1559年にフリードリッヒ三世が選帝侯を継承することで、さらに前進することになります。このフリードリッヒ三世は、ロ-マ・カトリックの家に生まれ育ちますが、福音主義(最初はルター派)に改宗していた妻の励ましで、聖書を熱心に読むうちに、フリードリッヒ自身も改宗し、こうして宗教改革は彼の治世(1559~1576)の間、繁栄していくことになります。当初フリードリッヒは、同じプファルツ出身であるメランヒトン(穏健ルター派)の協調主義的な精神を反映させた改革を進展させていこうとしました。なぜなら治世の初期に、厳格なルター派の立場を標榜する人たちと、より寛大な立場をとるメランヒトン派(フィリップ派)、さらにはカルヴァン派(改革派)との間で論争が激しくなっていき、ついには聖餐式での暴力事件にまで発展してしまっていたからでした。心を痛めたフリードリッヒは、四分五裂しているプファルツ教会をなんとか一つにしていくために、教理問答を作成することを志すようになります。


2.ハイデルベルク教理問答の作成目的

 フリードリッヒは聖書をよく読むと誰からも見なされていたそうで、その彼が願ったことは、プファルツ教会を神の言葉に堅く立つ教会として建て上げていくことで、聖書によって国がしっかりと治められていくことでした。周囲のすべてをローマ・カトリック陣営に囲まれ、対抗宗教改革(プロテスタントに対抗したカトリック側からの反動)の嵐が吹き荒れ始める困難な時代にさしかかっていましたが、そこでなお神の言葉に堅く立つ福音主義の教会と国を築いていくために、その教会の信仰を表明し、それに基づいて青少年のための信仰教育がなされることを意図して作成されたのが、この『ハイデルベルク教理問答』でした。そのためにフリードリッヒは、より明快で、しかもより聖書的な教理問答を求めて、1562年初頭に新しい教理問答を作成する命令を出します。それは、「わが国民の静かで平和なまた偽りのない高潔な生活のためのみならず、何にもまして全能者への正しい知識と畏れ、またあらゆる徳と服従の唯一の土台である神の救いの言葉へと彼らを絶えず諭し導くため、さらに、心からの誠実さをもってこの世と彼の世にわたる福利を向上させ、力の及ぶ限りこれを維持する」ことを意図してのものでした2。


 そしてこの教理問答は、「教会や学校にいる青年たちが、キリスト教教理によって敬虔に教化されまた一貫して指導される」ため、また「説教者や教師たち自身が確固たる型と基準を有し、日毎に変わる各自の好みによらずまた誤った教えを取り込むことなく、青年を教えることができる」ためのものとして作成されました。そのためにフリードリッヒは、「学校や教会では青年たちに、説教壇からは会衆たちに正しい理解をもって熱心に説くこと、それに基づいて教え、行い、そして生きること」を訴え、そのためにこの教理問答が「感謝をもって受け入れられ」ることを願います。そうして「青年たちが神の言葉によってその初めから熱心に教えられ養われるならば、全能者もまたわれらの生活の改善を推し進め、この世とかの世にわたる繁栄を授けてくださる」と。こうして、この教理問答は、『プファルツ教会規定』に組み入れられて、教会の信仰基準となり、そこで捧げられる礼拝の式文となり、説教の基準となり、信仰教育の基準として用いられるものとなりました。このように教理問答が、単に青少年の信仰教育の教材ということだけではなくて、礼拝における説教の指針とされ、礼拝式文の一部となり、教会の信仰規準として「教会規定」の中に位置づけられていくところに、『ジュネーブ教会教理問答』に見られるカルヴァンの考えが反映されています。


この『ハイデルベルク教理問答』は、本質的に共同作業の中で作成された書物とされていますが、そこでの主な著者は、ハイデルベルク大学教授ウルジヌスと聖霊教会牧師オレヴィアヌスと考えられています。こうして『ハイデルベルク教理問答』は、次世代を担う青少年はもとより、老いも若きも含めたプファルツの住民すべてのための信仰告白として、さらには彼らの人生全体にわたる生活の指針として著わされたものでした。選帝侯自身は、この後この問答が、やがて改革派の教理問答の中でも、最も広く用いられ、また深く愛されるものの一つになるとは、思ってもいなかったでしょうが、彼の予想を超えて、それが最初に出版されて以来、世界中で用いられ、時代を超え、改革派という教派の枠さえ越えて、今日においてなお広く用いられているのです。


3.教理問答の特色-聖書的・信仰的であること

 この教理問答がそのように広がり、用いられている理由の一つは、これがとても「聖書的」であると共に、「信仰的」でもあるということです。実はこの教理問答は、出版されて間もなく、大きな危機を迎えることになります。この教理問答を発行したプファルツを含む神聖ローマ帝国では、1555年のアウグルブルク講和において、帝国内ではローマ・カトリックとルター派(改訂されていない版による『アウグスブルク信仰告白』に一致することを標榜する厳正ルター派)以外の信仰は認められなくなっていました。つまり同じルター派でも、より寛大な立場を取るメランヒトン派(フィリップ派)やカルヴァン派(改革派)は、許容されない異端とされていました。ところが、1563年に出版されたこの教理問答は、帝国では認められていないカルヴァン主義的(改革派的)な書物であるという告発が為され、そのためフリードリッヒはアウグスブルク帝国会議に召喚されて、身の潔白を証明しなければならなくなります。そこで異端(改革派)と断罪されれば、教理問答どころか、フリードリッヒ自身の身分と命が危機にさらされることになりかねない事態におちいります。しかしそこでフリードリッヒは、皇帝をはじめ、並み居る諸侯・議員を前にして、息子のヨハン・カシミルスを連れて立ち、彼に開いた聖書を手に持たせたまま自分の脇に立たせて、そこで少しもひるむことなく次のように雄弁に弁証したのでした。「わたしの教理問答は、その一言一言が人間ではなく神の源泉(聖書)から引かれております。それは、欄外の証拠聖句が示しているとおりです。だからこそ、この教理問答を攻撃しようとした神学者たちは、その力を失ったのであります。彼らの批判がいかに根拠のないものであるかが、開かれた御言葉によって明らかにされたからであります」と。このフリードリッヒの信仰ある弁明に反論した者は一人もなく、沈黙した議場の中からザクセン選帝侯アウグストが立ち上がって、「フリッツ、君は我々の誰よりも敬虔な人だ」と称賛したと言われています。以来フリードリッヒは、「敬虔王」として知られるようになったのでした3。


 さらにもう一つの理由は、この書物が、まことの信仰をもつこと自体がまさに命がけであったこの時代の中で、いつ襲ってくるかわからない迫害と死の恐怖にさらされていた信仰者たちを、その迫害のただ中で耐え抜かせるように励ますと共に、死に至るまで主なるキリストに真実を献げさせていく信仰へと導く書物でもあったからでした。安穏とした時代のものではなく、暴力と憎悪、非情と流血の時代に生きた信仰者たちが、その心の支えとして書き記し、またそのような者たちによって愛読された書物だったからです。ですからそこで真っ先に問われていることは、抽象的な真理や思想、概念や思弁ではなく、「真実の慰めとは何か」ということでした。それも、生きている時も、死ぬ時も、そこでの「ただ一つの慰め」は何か、という問いでした。ですから、この「慰め」を主題とした『ハイデルベルク教理問答』から教えられることは、単なる抽象的な真理ではなく、わたしたちにも生きる力と勇気を与え、イエス・キリストの福音の力強い恵みを深く味わい知っていく内容となっていくのです。それが、教理問答の冒頭最初に問われる、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いなのです。


4.「教会の信仰の言葉」を学ぶ

 「教理問答」、カテキズムは、ギリシャ語のカテーケーシスに由来し、これは「耳に響かせる」「肉声をもって教え込む」「口で教える」との意味を持っていました。ここで言う、「口伝えにして教える」とか、「響かせる」ということは、単に教理をオウム返しにさせて覚えさせるといったことを越えた、むしろ人格から人格へと伝えられていく教育を意味するものでした。つまり教える側の中にもっている、キリストにある生命と信仰の喜びが、教えられる側に響かせられていき、反響し続けるものとなっていく、そして互いの間でキリストにある信仰と喜びが反響しあい、その生命がその人の生活全体にわたって響き渡り、反響していくようになる、そのような生きた信仰の響き合いがカテキズムの意味することでした。このように信仰と喜びを、人格から人格へと、日常の生活を通してなされていくために用いられたのが、問答形態による教育です。しかもそこで「口移し」で教えられていくのは信仰の言葉、つまり恣意的ではない「教会の信仰の言葉」であり、それを「自分の信仰の言葉」として身につけさせていくことでした。口移しで教えられる、それは自分の信仰を答える練習をさせることです。こうして、「もともとは他者の言葉であるはずなのに、それを暗唱するうちにその人の中に内在する言葉、外からの言葉であったのに内からの言葉となってしまうような言葉」です4。そのような信仰の言葉として、しかも教え語る者による生きた信仰の証しと告白をもって教えられる言葉として、「自分の責任で、自分の言葉として信仰を言い表す練習をさせる」ためのものでした。そしてこうして教会の信仰の言葉が内在化されていくことによって、信仰と生活が恣意的ではないものとして成長させられ、責任ある主体的応答としての信仰と生活が確立されていくのです。このように教理とは、わたしたちがイエス・キリストにある福音の恵みを正しく知って、その恵みのうちを力強く歩み進めていくためのものです。


 また弱いわたしたちを、神への真実な礼拝と隣人への愛へと押し出していき、この世において力強くキリスト者として生かしていく力と知恵を与えるためのものでもあります。教理を学ばないキリスト者は、その時その時の自分の気分や気持ち、感情に依拠して信仰生活を営みますから、恣意的で自分よがりな、自分中心でご都合主義的な信仰になりがちです。これは単なる知識ではなく、わたしたちの冷えきった心を熱く燃やし、かじかんでしまったわたしたちの思いを奮い立たせていくような知識、つまりどれほどにわたしたちのことを神が深く愛し、憐れんでくださっているか、どれほどの恵みによって今、わたしたちが生かされているかという神の愛と恵みの知識です。この知識、つまり教会の信仰の言葉を、『ハイデルベルク教理問答』によって学ぶことで、わたしたちがいっそうよく主に仕えていく者へと変えられ、成長していくこと、それがこの教理問答を学ぶ意義なのです。




1 この学びでは、吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、2005年、新教出版社を使用します。ただしここでの表記は『信仰問答』ではなく『教理問答』とします。

2 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、244~245頁

3 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、249~250頁

4 加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』、教文館、364頁