第8課 「善悪の知識の木」による神と人間の愛と信頼の破壊(問7)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第8課:「善悪の知識の木」による神と人間の愛と信頼の破壊(問7)


1.愛が真実な愛となるために与えられた完全な自由意志

 前課では、神が人間を「良いものに、また御自分にかたどって」創造され、「神の像」に造られたことを考えていきました。人間が神に似せて、神にかたどって造られたとは、神がご自身の中で愛し合い、受け入れあい、向かい合いながら、交わりに生きておられるように、わたしたちも「交わりの中に生きる者」として造られたということでした。「男と女」に造られたとあるように、互いが互いに向かい合い、近づきあって生きていこうとする、そのように神と向かい合い、お互い同士が向かい合って生きるように造られたのです。そしてそこで神がわたしたちをそのように造られた目的は、「人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するため」(問6)だったと教理問答は語ります。『ウェストミンスター信仰基準』の言い方で言うなら、「神を永遠に喜ぶ」、そうしていつも神に心が向けられ、神を喜び、感謝し、心からの信頼をもって神を愛することこそ、神が心から願われたことなのでした。そしてそれは今でもそうなのです。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」こと、これが今も神がわたしたち一人一人に願い求めておられることなのです。

 

 そこでよく考えていただきたいのは、「愛」とはどこまでも自由で自発的なものでなければならないということです。愛することを強制されたり、そうすることしかできない、そうせざるを得ない中で求められる愛は、本当の愛ではありません。本能的にそうなるとか、自動的にそうできるということでは、愛とは言えません。だから神は、わたしたちからの真実な愛、つまりわたしたちの方から神に向かい、神の愛にわたしたちが心から喜んで答えていくような愛を求められたのです。そこで神は、人間にご自分への愛を強要したり、強制したり、愛することしかできないような、非人格的なロボットのように造られませんでした。わたしたち人間にご自分を愛することもできるし、しかし愛さないこともできる、どちらも自分で自由に選ぶことができるような完全な自由、つまり愛するか愛さないかを自分自身で選び取ることができる全くの自由を与えて、その上で、人間自身の方からご自身を喜んで自発的に愛してくることを願われたのでした。それは神が、人間を堕落してしまう不完全なものとして創造されたということではなく、人間からの純粋に人格的な愛を求められたということであり、そのための真の自由を与えられたということです。その自由のないところでは、つまり人間に、神を愛することもできるし、愛さないこともできる、神の愛を拒絶し、拒否する自由のないところでは、その愛は本当の愛、人格的な愛とはなりえないからです。そうしてまでも神が求められたのは、わたしたち人間からの、本当に自由で自発的な、心からの愛をもって愛し返されるということなのでし

た。


 もちろん神は、人間を天使のように造ることもできました。つまり、ただ神に一方的に仕えるだけの、服従するだけの存在としてです。天使には選択の余地はありません。ただひたすら神の御心に従い、それを実現することだけが彼らの使命とされました。しかし人間は、そのようには造られませんでした。人間が天使と違い、また動物とも違う、根本的な違いは、創造の最初に自由な意志を、しかも完全に自由な意志を与えられたことでした。それによって神はわたしたちが、神に強制されてではなく、またそうすることしかできないように造られたのでもなく、神を拒絶する完全な自由を与えられた上で、それでもなお神を喜び、賛美し、心から愛して、自発的に自分の方から神に仕えていくようになる、そのような愛で愛し返してくることを願い求められたのでした。そしてこのように神が人間を愛しておられ、人間からの全く自由で自発的な愛を求めておられることの目に見える「しるし」として与えられたのが、「善悪の知識の木」でした。


2.神からの愛と信頼のしるしである「善悪の知識の木」

 わたしたちは、この「善悪の知識の木」を誤解しているかもしれません。神がこのよう

な試練、いや誘惑さえ与えなければ、人間は堕落することがなかったのではないかとどこかでかんぐってはいないでしょうか。堕落してしまった今となっては、この「善悪の知識の木」の存在は、わたしたちには罪への誘惑としか見ることができませんが、本来はそうではありませんでした。たとえて言うなら、これは「結婚指輪」のようなものでした。神はここでわたしたちと新しい関係を結ばれ、新しい交わりへと招かれました。これまでは、創造主と被造物という上下関係、主従関係でしかありませんでしたが、神はそれを人格的な交わりの関係としようとされたのです。それは互いに相手を信頼し合い、相手を心から愛するという関係でした。信頼するとか、愛するとは具体的なもので、信頼の具体化は相手の言うことを信頼し、それに従うことです。愛の具体化は相手が期待し、望むことを実現しようとすることです。相手が喜ぶことを喜んでしてあげようとする、そこに相手への愛が表されます。相手の喜ぶことが自分の喜びになる、それが愛です。だからデートのとき、相手が好きな色の服を着たり、相手が好む服装をしようとします。相手が行きたいところに連れて行ってあげ、相手が食べたいと思うものを一緒に食べ、相手が喜ぶものをプレゼントします。それは束縛でも、呪縛でもなく、自分が相手に心からそうしてあげたいと思う自分の意志であり、それによって相手が喜んでくれることを願うと共に、その相手の喜びが自分の喜びともなるのです。そして相手がしてほしくないと思うことはしようとはしません。相手から嫌われたくないからです。このように相手が言うことを信頼し、それに従いますが、それは隷属することでも、相手の奴隷となることでもありません。愛しているから、それは自分の喜びとなるのです。そしてそのような関係を表したのが、「善悪の知識の木」なのでした。


 稲毛海岸教会では、誓約のしるしとして指輪の交換をする際、次のような言葉で誓約します。「この指輪をしるしとして、あなたと結婚します。心を尽くしてあなたを愛し、わたしの全てをあなたのものとして、生涯を共にします」と。教会で結婚された方は、相手と結婚指輪を交換し合ったときに、互いに誓約をしたことと思います。そこで誓約をされたとき、いやいや仕方なくしたでしょうか。そうしなければならなかったからと、無理強いされてしたでしょうか。その時には、心から相手に誓約したのではないでしょうか。そしてそこで相手に誓約したことは、自分にとって制約となり、呪縛と感じたでしょうか。そうではなく、心からそうしたいと願って誓約したのではないでしょうか。なぜなら相手を心から愛していたからです。指輪をはめることで、わたしたちが誓約したことは、「これからはどんなことがあっても、あなたを愛します。あなただけを愛し、他の人には心を向けることも、心を揺るがされることもありません。たとえ貧しくなって生活が苦しくなっても、たとえ病気になってあなたの世話に一生苦しむことになったとしても、それでもあなたを愛しぬき、ただあなただけを愛していきます」ということでした。結婚した後、そこに魅力的な異性が現れてくるかもしれません。心がふらつくような人が現れるかもしれない、でもそこできっぱりと宣言したのです。「あなた以外のどんな人にも心を寄せたり、思いを馳せたり、心を向けることは絶対にしません」と。それが指輪を交換しながらした誓約であり、その見えるしるしが結婚指輪でした。その時、それを仕方なくしたのでしょうか。いいえ、少なくともあの時は心から誓い合ったのです。その時その誓約をすることは義務であるとか、負担であるとか、強制だと考えたでしょうか。いいえ、心からの喜びをもって本心からしたはずです。そしてそれが「善悪の知識の木」なのでした。

 

 だから堕落する前の人間は、それを誘惑に思ったり、義務や強制と感じたり、負担と思ったりしたことはなかったのです。むしろそれを見る度に、神が自分を心から愛してくださっていることを覚えることができ、神の愛を確信して、いよいよ心から神に仕えていこう、神を愛し返していこうと心に誓わせるのでした。結婚当初のわたしたちが、指輪を見て、それを恥ずかしがったり、独身の異性の前で隠そうとしたりしないで、むしろ誇らしげにそれをつけ、それを決してはずそうとはしないようにです。またこの指輪を、束縛や呪縛だとは決して考えないようにです。最初の人間も、善悪の知識の木を見上げるたびに、そこで神との約束を思い返して、繰り返し神の言葉を信頼し、神の命令を尊重して、それに自発的に服従し、神からの愛と信頼に心から喜んで応えていくことを心に誓うのでした。なぜならそこでは神を心から愛していたからでした。善悪の知識の木、それは神の愛の象徴であり、同時にわたしたちからの愛の約束と信頼の象徴でした。神は、エデンの園に、「善悪の知識の木」一本だけしか生やさず、それを見せびらかしながら、その実を食べてはいけないと言われたのではありません。そうではなく、園には数え切れないほどに無数に木が生やされ、そこには十分すぎるほどたわわに実がなっていたのです。そして神は人間に、「園のすべての木から取って食べなさい」と言われたのでした(創世記2章9、16節)。生きていく上でも、さらには楽しむ上でも十分すぎるほどの木の実を、あふれるほど豊富に与えた中で、約束を結ばれたのでした。それらの木の中の、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と(同17節)。

 

 ここで神が「死ぬ」と言われたのは、「善悪の知識の木」の実に毒が入っているということではなくて、それはどこまでも約束であり警告でした。つまり、「善悪の知識の木」の実を食べれば、「必ず死ぬ」という神の言葉を心から信頼し、そこから「決して食べてはならない」という神の言葉に服従する、そうすることで神を心から愛し、信じ、従うことを表すということでした。愛は、愛する相手の思いを尊重し、その思いの中で生きていこうとさせていきます。相手が自分に期待し、願うことを、心から喜んで実現し、果たしてあげたいと願うものです。そうやってわたしたちは、自分の相手に対する「愛」を見える形で表します。それが「善悪の知識の木」でした。わたしたちは、ここで神と結んだ約束を、自発的に自分の方から喜んで守り、実践することによって、自分がどれほど神を愛しているかを表すことができたのです。そしてそれを破れば、必ず「死」を招くことを真剣に受け止めて、心からそれを避けることによっても、神への愛と信頼と服従を表すのでした。「死」とは、命の源であり、生そのものである神との分離であり、断絶です。神の信頼を裏切り、神との約束を破ったとき、神との関係も切れました。それが「死」なのです。神は、人間を死へといざない、罪を犯させて堕落させるために、この「善悪の知識の木」を生やさせたのではなく、どこまでも人間が神を心から信頼し、自発的な愛で神を愛しぬいていくことを願い、信じ、信頼して、この約束を結ばれたのです。そして人間が決して死ぬことがないために、神との愛の関係が断絶してしまうことがないようにと、真剣な警告をもって、この約束を結ばれたのでした。


3.神の愛と信頼を踏みにじった罪

 最初の人間は、神御自身に似せられた者として創造されました。「神に似せて」造られた(5章1節)とは、人間が互いに「向かい合う」存在として、互いが愛と信頼によって応答しあう「人格的対応関係」つまり「交わり」の中に置かれたということです。そしてその神に向かい合い、神からの愛を信頼し、神の愛と信頼に応えて愛し返していく「愛の関係・交わり」の中に置かれた人間は、そのことの「しるし」として「善悪を知る木」を与えられ、園に無数に生えている木の中で、たった一本、神との愛と信頼のしるしとなるその木からは取って食べないという約束を与えられました。それは神からの愛を信頼して、神の戒めを守り、それに喜んで従う、そして神への愛から神の言葉に自発的に服従する、そうして神からの愛を確認し、神への愛を表していくしるしに他なりませんでした。それは、わたしたちが神との愛を裏切ることはないし、神を捨てることはないと、神がわたしたちを心から信頼してくださっている、神の側からの愛と信頼と祝福のしるしでした。そしてわたしたちも、この「善悪を知る木」を見る度に、神からの愛を喜び、感謝し、信頼されている喜びに震えながら、その神との約束を思い出して、ますます神を愛する決意の中で、それに従っていこうという思いが強められていく、わたしたちの側からの愛と信頼と服従のしるしでもありました。だからそれは、わたしたちにとって決して強制や義務とされたのではなくて、喜んでそれに服していきたいと思う「愛のくびき」でした。なぜならそこには、神への心からの愛があったからでした。それは結婚指輪と同じです。もはや相手に対する愛を失い、愛が冷え切った関係の中では、この指輪が束縛と呪縛以外のなにものでもないでしょう。しかしかつて相手との間に、愛があったときには、これをはめていることは喜びであり誇りでした。それによって相手に縛り付けられているなどとは決して思わない、むしろそれを見るたびに、相手が自分を愛していてくれること、また自分を信頼してくれていることを、確認することができました。自分は決して相手を裏切らないと誓った言葉を、相手も信じてくれたから、この指輪を指にはめてくれましたし、自分も相手のその言葉を信頼して、相手の指にそれをはめたのです。そのように相手との間に、愛と信頼があったときには、この指輪はわたしたちにとって強制でも義務でも、束縛でも呪縛でもありませんでした。むしろそれは相手が自分を信頼してくれていることのしるしであり、相手からの愛の証しでした。だからこれを見つめ返すたびに、わたしたちは心からの喜びと感謝にあふれるものとなったはずでした。


 しかし、もし相手がその誓いを破ったとします。別の異性に心を寄せるようになり、関係を持つようになったとしたらどうでしょうか。わたしは相手を信頼してきたのに、相手はその信頼に応えなかった、そしてその信頼を裏切り、踏みにじったとすればどうでしょうか。軽い気持ちでしただけだとか、たった一回のことだけだと言ったとしても、それを赦し、受け入れることができるのでしょうか。一度崩れてしまった関係は、そう簡単に修復したり、やり直すことはできない、一度抱いた疑念は、そう簡単に消し去ることはできないのです。そして崩れ去った愛の関係を、もう一度もとに戻すことは容易なことではありません。そこではもはやこの指輪は、怒りと悲しみ、いや憎しみのしるしとなるでしょう。わたしたちが、罪を犯したということは、この神からの信頼を裏切り、その愛を泥靴で踏みにじったということなのです。わたしたちは、いともお手軽に、「自分は罪を犯しました。神さまごめんなさい」と祈りますが、それが神にとってすれば、どれほど心痛むことであり、神を苦しませ、悩ませ、痛めつけるものとなっているか考えたことがあるでしょうか。自分が、心から信頼していた人から裏切られ、踏みにじられた経験のある人なら、その神の思いがいくらかは理解できるはずです。そこでのあなたの苦しみは、実はあなたが神にしている仕打ちなのです。罪を、観念的・事務的に考えないでください。法律に違反したかどうかといった次元での問題である以上に、それは人格的な問題なのです。わたしたちは、あれほど神に信頼されながら、神を裏切り、神を捨て、神の愛を踏みにじったのでした。「あなたは必ず死ぬ」とは、そういうことです。神との約束を裏切り、その信頼を捨て去ったとき、神との関係も絶たれたからでした。神との愛の関係が、そこで切れてしまった、それによってわたしたちは死んだのです。


4.最初の人間が犯した罪の本質

 こうしてわたしたちは、最初の人間が造り主に背き、不従順な者となり、罪人となってしまいました。そこで最初の人間が犯した罪とは、一体何でしょうか。それは第一に、彼らが神の言葉を侮り、軽んじ、侮蔑したことです。神はアダムに「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました(創世記2章17節)。しかしエバは、悪魔から本当に食べてはいけないなどと言われたのか誘惑されると、そこで「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」と神が言われたのだと答え、そこに自分の解釈を差し挟みました(同3章3節)。そしてそこに、悪魔がつけ入り、心の隙に入り込んできたのです。ただちに「決して死ぬことはない」と悪魔に断言されたことで、神の言葉への信頼はもろくも崩れてしまいました(同4節)。そしてそこで神の言葉を疑い、神との約束を踏みにじり、それに全面的に信頼することをしなくなります。この神への不信頼が第二の問題です。こうして神への不信が芽生えたところへ、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」と神への懐疑を持たせる言葉が投げ込まれます。こうして悪魔は、わたしたち人間が死と滅亡の道に進まないようにと与えられた神の命令を、まるで神が意地悪でもして、神のごとくになることを拒むための命令であるかのように誤解させて、神に疑いを持つように仕向けていったのです。こうして人間は、神を決定的に信頼しないようにいざなわれ、行き着いたのが神とその言葉に対する不服従でした。神の戒めと命令に従わない心、つまり神の愛に対して、愛と信頼をもって応答することを拒絶したのです。それによって神の愛を踏みにじっていったのでした。聖書が「罪」というとき、そこでわたしたちは、この神からのいちずで純真な愛を、わたしたちが泥のついた靴で踏みにじったものであるということを思い起こすべきです。神の愛と信頼に対する裏切り、それがわたしたちの罪でした。このような罪を生み出したのは、彼らが「神のように」なろうとしたからでした(創世記3章5節)。それは自分を神のごとく高めようとする高慢です。神の命令を破った決定的な理由は、自分も「神のように」なろうとしたことでした。人間の罪の根・源は、高慢であり、自分を「神のように」しようとしたことでした。実はそこから神の言葉を軽視し、それに従わない心が生じたといってもいいでしょう。ですからこれらは一つの根から生じた同じ事柄なのです。人間の最初の罪、それは高慢でした。そしてそれは自分自身を自分の主、自分の神とし、自己神格化するという、つまり偶像礼拝なのでした。そして、その中心にあったのが、わたしたちの「自己中心」な心と生き方だったのです。この「自己中心」性こそ、人間の罪の本質なのでした。


5.堕落の結果もたらされたもの

 そこからもたらされたわたしたちの姿、それがここで表されている「責任転嫁」でした。神の前に出ることができないで隠れていたアダムは、どうして食べたのかとの問いに、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えます。そこで神は今度はエバに問うと、エバは「蛇にだまされたので、食べてしまいました」と答えます。自分の罪を自分で背負うのではなく、またそれを認めて謝罪するのでもなく、女が悪い、蛇が悪いと、責任を逃れ、罪を転嫁していきました。しかしここでアダムの答えによく注意していただくなら、ここでアダムは自分の罪をただエバになすりつけただけではなくて、実はその責任を神に押し付けているのです。ただエバとか、女がと言ったのではなくて、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と言ったのです。「神さま、あなたがあんな性悪女をわたしに押し付けるからいけないのですよ、あなたが寄り添わせたあの女のせいでひどい目にあった、でもそれは元はといえば、あんな女をわたしによこしたあなたのせいですよ」、これがアダムの答えでした。堕落して、もはや自分を中心に考えることしかできなくなった人間は、自分が向き合うようにと与えられた、最も身近な相手をなじり、否定し、相手が悪いからだと責任転嫁するようになっていったのです。そしてそれはわたしたちの姿なのです。わたしがこんな罪を犯し、こんな悲惨な目にあったのは、神さま、あなたのせいですよと、わたしたちはどれほど言い続けてきたことでしょうか。こんな災いに遭ったのも、あなたのせいではないですかと、神を責めたて、神を問詰するのです。そしてしまいには、そもそも人間が堕落し、罪を犯すようになったのは、神のせいではないかと言い出すのです。神がわたしたちとの本当の愛の関係を願って、わたしたちに完全な自由を与えたのは、間違っていたのでしょうか。そこでわたしたちが神に罪を犯したのは、神がそのような不完全な状態にわたしたちを置いたからだと言いうるのでしょうか。そうではなくて、わたしたちが、わたしたちを本当に信頼して完全な自由を与えてくださった、その神の愛と信頼を裏切り、踏みにじったのではないでしょうか。悪いのは、神ではなくて、わたしたちなのです。


 神は、「この木から食べると死ぬ」と言われました。それは、この神の言葉を信頼し、それに服従するか否かが問われたもので、この神との約束と信頼関係を破ることは、神との交わりの断絶であり、それが「死」でした。そしてこの、神との交わりの破壊と関係の喪失こそ、罪によってわたしたちが得た報酬であり、堕落がもたらした結果でした。そして神との関係が崩れたとき、男と女の関係、つまり本来は完全に平等で対等であった関係に、上下関係・従属関係がもたらされるものとなりました。これは別に男女間の問題ではなくて、すべての人間関係の象徴であり、神の前に同等な存在であるべき人間の間に、「支配と隷属」という関係がもたらされたことを表わします。それはさらに自然との関係も破壊し、そこから取られたはずの土からも呪われたものとして、そこに敵対関係がもたらされてしまいました。これらは決して神が意図されたことではなく、また神の呪いということでもなく、堕落の結果もたらされ、この世界に闖入してきたものであり、今わたしたちが抱えている罪の現実を端的に象徴するものにすぎません。男が女をエバと命名したとは(3章20節)、堕落の結果もたらされた「支配と服属」の関係を意味します。古代オリエントでは、命名は支配関係を意味するものでした。「お前は男を求め、彼はお前を支配する」と言われたとおり(同16節)、堕落した世界に支配と隷属の関係がもたらされるようになり、人間はこのエデンの園から追放されることになりました。しかしそれと同時に、そこから神の救いの計画も開始されることになります。神はどこまでも人間との交わりを求め、人間がそれを破壊しても、ご自身の方から開かれ、回復の道を開始しようとされたのです。

 

 最初の人間が最初の罪を犯して、神から隠れたとき、神は彼らに呼び掛けられました。「どこにいるのか」と(同9節)。これは神がアダムの居る場所を知らなかったということではありません。そうではなくて、神は今や神から離反してしまったアダムに対して問いかけたのです。あなたが今いる場所は正しい場所か、あなたが居るべき場所なのか、なぜわたしから離れてしまったのか、あなたが居るべき場所はわたしの許ではないのかと。そしてこの神の呼び掛けは、今でもあなたに向けられています。「あなたはどこにいるのか」、あなたはわたしと離れて、神なしに生きているが、それで本当に良いのか。神なしに、神抜きで生きるあなたの人生は、あなたの正しい居場所なのかと。この神の呼び掛けに応えて、あなたも今すぐ神の方に身を向きなおり、神の許に立ち帰ってください。神は今でもあなたに呼び掛けておられます。「あなたはどこにいるのか」と。