第7課 善いものとして創造された原初の人間(問6)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第7課:善いものとして創造された原初の人間(問6)


1. 神は人間を「善いもの」として創造された

  前回は、わたしたちが「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」という罪の現実と、そのように「邪悪で倒錯したもの」となって生きている悲惨を考えていきました。それは「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほど」のもので、それが堕落したわたしたちの姿でした(問8)。するとどうしても、この質問が出てきます。それではどうして神は、こんな不完全で不十分なものを造られたのかということです。そしてこの教理問答は、そんな質問を予想するかのように、それに答えるのです。いいえ、神は不完全なものを造られたのではなく、完全で素晴しいものをお造りになったと。「むしろ神は人を良いものに、またご自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造なさいました」。神はわたしたちを、不完全どころか善いものとして造られた、しかも何が善いかといって、最も善であるご自分に似せて、完全なご自分にそっくりに造ってくださったと答えるのです。エフェソ2章10節に、「わたしたちは神に造られたもの」と書いてあります。新改訳では、「わたしたちは神の作品」となっていて、わたしたちは、神に造られた「神の作品」だというのが聖書の教えるところです。しかもそれは、「人が自ら造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するため」だったと。このようにわたしたちは、神によって「善いもの」として創造された、それを記しているのが創世記1章です。この天地は六日間で創造され、その創造の最後の日にわたしたち人間は創造されましたが、そこに天地創造の意図が表されています。神は天地を創造されましたが、それは神の気まぐれで為さったことではなく、そこには目的がありました。それは人間を創造されることこそ、天地創造の目的だったということです。そのために神は用意周到に準備しておられることを示します。人間が創造されるために、まずその人間が住むためのすべての環境を整えられ、それから最後に人間が造られました。しかも人間の創造は他のものとは違い、とても丁寧に為されていきます。他のものは、ただ言葉で有らしめられただけですが、人間はご自分に似せて、ご自分にかたどって創造されました。最初の人間は「神御自身に似せられた者として創造され、善き者としてまた従順な者として創造され」ました。天地万物を創造された神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、そこで「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります(創世記1章26、27節)。それではこの「神の像に造られた」、それが何を意味するかが大切です。

 

 この創世記の天地創造の記事が書かれたのはバビロン捕囚の時代、紀元前6世紀ごろと考えられています。イスラエルやユダで書かれたのではなく、それらの国がもはや滅亡し、国もなく王もなく、主だった人々は皆自分たちを滅ぼしたバビロニアに連れ去られ、そこで捕虜として暮らしていたのです。そこにはイスラエルでは見たこともない多くの神々の偶像が林立していました。そしてそれらの偶像こそ、世界を支配する神々として礼拝され、犠牲が捧げられ、イスラエルやユダ王国を滅亡させたのも、この力ある神々だと考えられていました。そのような偶像を礼拝する誘惑に駆られる中で、しかしこれらは神でもなんでもない、ただの木や石の像にすぎないと見抜いたのです。同じ時代に第二イザヤ(イザヤ40~55章)が預言し、それらの神々は人間に似せて造られたものにすぎないことを喝破しますが、そこで同時に、人間はまことの神に似せて造られたのだと語っていきました。この世にある神々は皆、人間にかたどられ、人間に似せて造られたただの像にすぎず、それには助ける力も救う力もない、しかしまことの神は、人間をご自分に似せて造られ、人間を真実に助け、救う力のある神だと言うのです。「わたしが主、ほかにはいない」という方が、わたしたちを生まれたときから担ってきた、これからもずっと背負って救い出すと(イザヤ44章9~17節、45章18節、46章1~7節)。この神に似せてわたしたちが造られたと言われるとき、わたしたちの一体どこが神に似ているというのでしょうか。そこで言う神とはどのような神なのでしょうか。


2.「神は愛である」ということ

 ヨハネによる福音書のプロローグ、その書き出しは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1章1~3節)となっています。ここでは「言」と「神」とが区別されて、しかも「共にあった」と書かれています。この「共にある」とは、「向かっていく」という動きを意味する言葉です。言、ロゴスと神とが「共に」あるとは、そこで両者が向かい合い、交わりを持っていたということであるだけではなくて、さらにそこで互いが生きた交わりと対話をもつようにと、相手へと動きつづけ、近づこうとしているということです。「共に」とは「向かいあう」ことです。そしてそれは、単に静かに向かいあって互いを見詰め合っているというのではなくて、ますます相手に近づこうと動き続けているということなのです。このように互いに動きながら相手に向かっていこうとする、そのような動きの中で、愛し合い、向かい合い、受け入れ合って、その交わりにおいて存在し続けている、それが聖書の神なのです。その神は唯一の神ですが、決して孤独で一人ぼっちの神ではなく、神ご自身の中で愛し合い、語り合い、交わり合っておられる、交わりの中で生きておられる神です。だから「言」と言われるのです。神が「言」であるとは、神が交わりに生き、そこで語り合いをもつ神だからであり、相手へと語りかけていく神であることを意味します。こうして神ご自身の中で生きた愛の交わりに生きておられる神が、今度はわたしたちへと向かい合い、語りかけ、この生きた交わりに招き入れようと呼びかけ、語りかけてくださったのでした。そしてわたしたちをも、この生きた交わりに招き入れるため、言葉をもってご自身を明らかにし、わたしたちの許へと来てくださいました。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1ヨハネ1章3節)。そのためにわたしたちを創造し、またこの交わりにわたしたちを招き入れるために、御子を遣わしてくださった、それはわたしたちも、この方との交わりに生きる者とされるためでした。これが、「神の像」ということなのです。

 

 神の本質は「愛」です。しかし「愛」は、自分ひとりでは成り立ちません。そこに「愛する対象(客体)」がなければ、自分が「愛する主体」となることはできないからです。「愛する者」と「愛される者」がいて、初めて愛は成り立ちます。しかもそこでは、両者を結び合わせる「絆としての愛」が必要です。「神は愛である」(1ヨハネ4章8、16節)とは、神が愛という属性や性質を持っているということではなく、神は愛そのものであり、愛する人格的主体だということです。なぜなら神はただお一人のご自身の中で、御父・御子・聖霊として互いに深く愛し合い、愛の絆に結ばれて交わりをもっておられるからです。アウグスティヌスは次のように語ります。「もし君が永遠の愛を見るならば、君は三一の神を見ているのだ。なぜなら三とは、愛する者と、愛される者、そして愛そのものなのだから」と1。ここでは「三位一体の神」が「愛の交わり」として理解されています。このことについて、サン・ビクトールのリチャードは次のように語ります2。「愛以上に優れたもの、愛以上に完全なものはないからである。しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(カリタス)を持っているとは言えない。したがって、『愛情が愛になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(ペルソナ)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない」と。「つまり、神において、完全な愛があるためには、すべてのものの泉である神から、更に一つの他の者が発出しなければならない。・・・したがって、神の中に永遠で無限な愛があるために、神において父なる神のほかに、神である御子が存在しなければならない。そうであればこそ、神のうちに真の『他者への愛』が存在する」ことになるからです。

 

 そしてさらにこう語ります。「二人の相互に愛し合う者〔すなわち父と子〕の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である」として、「共通な愛は、二人が一心同体となって、第三者をともに愛するところに存在する。すなわち、二人の愛は、第三者への愛の炎で一つにとけてしまうところに存在する。そこから次のことが明らかになる。すなわち、もし神に二つの位格しか存在せず第三の位格がないとしたら、神において共通の愛は存在しないであろうということである」と。このように「愛は二つ以上の主体を互いに相手とし、相互へ向かっている態度である。したがって、神において、父と子という二つの主体があるはずである。また、二人だけの愛は完全で純粋な愛とは思えない。したがって、神において、父と子の相互愛の喜びにあずかり、彼らの共通愛の対象である聖霊も存在しなければならない。このようにして、初めて、神において完全な愛の理想は現実となっているのである」ということになります。このように「聖霊は父と子のきずな」です。その点についてトマス・アクィナスは、次のように語ります。「聖霊は愛である限り、父と子のきずなである。父は唯一の愛をもって、自らと子とを愛する。また、子も同じ唯一の愛をもって自らと父とを愛する。したがって、愛である限りの聖霊において、愛される者に対する愛する者としての関係としての、子に対する父の関係、および父に対する子の関係が含まれる。しかるに父と子は相互に愛し合う故に、聖霊である共通な愛は、父と子の両者から発出しなければならないのである」3。


3.三位一体の神とは「交わりに生きる」神

 このように唯一の神は、ご自身の中で互いに深く愛し合い、親しい交わりの中に生きておられる神です。解放の神学者レオナルド・ボフの言葉です。「神は孤独なものではなく交わりであると我々は信じている。主たる、第一のことは『一』ではなく『三』なのである。三が最初に来る。その後、『三』者の間の親密な関係のゆえに、三者の一致の表現として『一』が来る。三一神を信じることとは、存在するすべてのものの根源として動きがあるということである。生命の、外への動きの、愛の永遠のプロセスがあるのである。三一神を信じるとは、真理は排除より交わりの側にあるということを意味している。三一神を信じることは、あらゆるものがあらゆるものと関係していること、したがってあらゆるものが大きな全体を形成すること、一致はただ一つの要因からではなく、何千もの収斂に由来するということを受け容れることを意味する。我々はただ単に生きているのではない。我々は常に共に生きているのである。・・・したがって、神の存在のこの交わりという様態、常に三者の交わりと一致であるところの神の三一的な様態を信じることは意義あることなのである」4。唯一の神は孤独で寂しいから、この世界と人間を造られたのではなく、ご自身の内で溢れ出るほどの愛で愛し合い、交わりの中に生き、深い絆で結び合わされています。だから「神は愛」なのであり、このように三位一体の神とは「交わりの神」であると言うことができます。

 

 「神の唯一性とは、単個の、自己完結した一個人としての唯一性ではない。それは、互いに愛し合い調和してともに生きる三位格共同体の一体性のことである。また『位格性』とは、定義するなら、関係における位格性である。一人だけでは、真に位格的であることはできず、ただ他者との関係においてのみ位格的であり得る。・・・三つの位格は、本来的に相互関係の中にあるものなのである。それぞれはこの関係の中にあってのみ存在し、それを離れては存在しない。父、子、聖霊は、互いの中で、互いとともに、互いをとおしてのみ生き、相互の愛と共通の目的において永遠に結びついている。・・・父、子、聖霊は、一つの社会的な人格である。それぞれが非常に親密な仕方で他者とともに他者のために存在するので、その三者は互いの内に互いをとおして生きていると言えるからである。・・・〔この三位に〕他者から分離した孤独な位格というものはない。・・・相互のつながり合いの中で、存在と、共同体があるだけである。そこでは、それぞれが、互いに開かれ合い、自己犠牲の愛と支え合いをもって他者とともに他者のために生きており、それぞれが、他者に背を向けてではなく他者の方に向かって自由である。父、子、聖霊はこのような仕方で、神性という『内的な円』の中でかかわり合っている。三つの位格は、完全で全面的な交わりと、互いにつながり合い向かい合う一致の中にある人格的な唯一神である」5。


4.「神の像」とは「交わりに生きる者」として創造されたこと

 そしてそこで、この神、つまりご自身において豊かな愛の交わりに生きる神に似せて造られたとは、人間も「愛と交わりの中で生きる存在」、また「愛に生きる」ものとして創造されたということです。神の愛に対応し、それに応答して愛し返すものとして人間は創造されたということです。そしてこの愛の神に対応して、人間が「男と女」に創造されたとは、人間同士も、互いに向かい合い、相手に近づこうとして相手に向かいながら、互いに愛しあい、交わりに生きるものとされたということです。そこでこの神の愛に応答すると共に、さらには互いが互いを愛し合って愛の交わりに生きることができるようにと、それに必要な力と資質を与えられました。それが人間は「人格的主体」であるということであり、神と隣人を愛し、真実をもってその愛に応答するための「知性・感情・意志」を備えられたということです。つまり互いに愛し合って、交わりを形成し、維持し、深めていくための力が与えられていました。「神の像」とは、人間がこの人格的応答関係、すなわち「愛と交わり」の中にあるということであり、それに必要な力と資質を与えられたことを意味します。「人間が神の似姿に創造されたということは、神と人間の関係が人格的応答関係であり、人間とその隣人との関係も人格的応答関係であることを示している。神の似姿がどこにあるか、それは神のご意志に従って、神と隣人を愛する存在者であるというところにある。神は愛である。神は人間を神と人を愛することのできる存在として甚だ善く創造された。人間は愛において生きるという点で神に似ている存在者である」ということができます6 。ウェストミンスター大教理問答では、創造された最初の人間について、次のように記します。神は人間に「知識と義と聖において御自身のかたちにしたがい、その心に書き記された神の律法とその律法を成し遂げる力とを」与えられたと7 (問17)。こうして最初の人間は、律法の本質である「神と隣人を愛する」ことができる力と資質を十分に与えられていたのでした。

 

 こうして人間は、本来孤独な存在ではなく、自己充足的、自己完結的個人でもなく、本質的に社会的存在として、交わりの中に生きる者として創造されました。「神の像である人間性は、自分の外にいる人々とのかかわり、共同体、交わりにおいてのみ現実となるものである。わたしたちは、独立的、自己充足的な独りぼっちの中で、自分一人だけで、人間たり得ない。ただ神と人とのかかわりに自分の存在そのものの意味を発見するときにだけ、わたしたちは真に人となり得るのである。・・・わたしたちが男であるか女であるか、どちらかであるということは、孤立した自律的一個人の中には、わたしたちの人間性を見いだせないということである。わたしたちの人間性は、自分の外にいる、自分とは違う『他の人』あるいは『他の人々』との交わりの中でだけ、見いだすことができるのである」8 。こうして人間は、互いを人格として認め合い、「我-汝」関係(主体同士の人格的関係)の中で生きる者として創造されました。人間が互いをまるで機械でも扱うかのように、「我-それ」関係(主体と客体としての非人格的関係)としてようになったのは、堕落したからです。心が少しも触れあうことなく、機械的事務的に互いが交流(それはもはや交流とは言えませんが)し、適当に当り障りなく付き合うようになったことは、ましてや人間関係が重荷になり、心の病の原因となり、心を圧迫してストレスになっている現実は、人間の本来の姿でも在り方でもありません。真実に誠実に互いを受け入れあい、認めあって、互いの交わりが喜びとなる関係、そこに人間は生きる者とされたのでした。この「共に生きる」こと、つまり共同人間性ということ、そして互いに交わりに応答するという応答責任性こそ、「神の像」として創造された人間の本質でした。そして何より、この「共同性(生)」は、神との関係における共同性(生)であり、神との交わりに生きる者として、そもそも人間は創造されたのです。このように最初の人間は、神御自身に似せられた者として創造され、しかも善き者としてまた従順な者として創造されていたのでした。

 

5.礼拝することこそ人間の本来の務め

 教理問答は、神が人間を「御自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造」されたと語り、「御自分にかたどって」「まことの義と聖において創造」したことを同一視します。つまり「神の像」とは、神の「義と聖」にあずかり、それにおいて創造されることだと。「義」とは何でしょうか。「義」とは、神との正常な関係にあることです。つまり神との交わりにあり、それに生きることです。それでは「聖」とは何でしょうか。「聖」とは、神のために取り分けられることであり、神の所有、神のものとされることです。このように「神のもの」として、神との交わりに生きることが「神の像」ですが、それは「人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美するため」、すなわち神を礼拝するということであり、またそのためのものでした。神を礼拝することは、したければすればよいといった任意のことではなくて、人間が創造された本来の目的そのものであり、人間としての存在意義そのものであるということです。日本人であるわたしたちは、信仰とは個人的な事柄で、あくまでも私的でプライベートなことだと考えますが、聖書は、神を礼拝することこそ、人間としての本来の務めであって、それは公務であることを明らかにします。神を礼拝することは、わたしたちの人生の目的そのものであり、わたしたちが「神の像」に造られたものとして、被造物を代表して為している、公の任務なのです。わたしたちの生きる目的は、「自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美する」ことです。真の神の像はイエス・キリストです(2コリント4章4節、コロサイ1章15節、ヘブライ1章3節)。そしてそのキリストが、「聖霊によってわたしたちをご自身のかたちへと、生まれ変わらせて」くださいますが、「それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるため」です(問86)。そして、「わたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆく」のです(問115)。

 

 わたしたちは、最初から罪と悲惨に生まれついてしまったわけではありません。わたしたちが罪に悪にと傾く本性は、本来の人間の姿ではなく、神が最初に創造された時の人間、また神が意図された人間のあり方でもなく、むしろそこから逸脱し、「的外れ」となってしまった姿でした。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」とありますが(創世記1章31節)、それは神がご自分の思い通りに良いものとして造ることができたことを意味します。だから「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」(1テモテ4章4節)とあるとおり、それは「善き創造」でした。完全であられる神は、その御業においても完全を果たされたのであって、調和を保ったこの世界(コスモス=調和ある世界)をだいなしにしたのは、あくまでも人間なのです。わたしたちは、自分が作ったものが余りできばえの良くないものであれば、放り投げて捨ててしまいますし、作ったこと自体を忘れてしまいます。神はご自分の作品をご覧になって、しかも最初は完全なものであったのに、全く駄目なものとなってしまった作品をご覧になって、どうされたのでしょうか。造られたことを忘れてしまい、作品を捨ててしまわれたでしょうか。いいえ。神はこの作品を何とかもう一度、善きものとなるように、回復し、取り戻そうとされたのです。そしてそのために神は、ご自分の全力を使い尽くそうとされました。片手間にではなく、ご自分の全てをもって、この作品をご自分のものとして取り戻そうとされたのです。そしてこの作品は、それを造られた神だけがやり直しをし、造り直すことができるものなのでした。

 

 ある嵐の激しい日に、夜遅く、宿屋の戸をたたく音が聞こえました。客は来ないだろうと戸を閉めていた主人が、戸を開けると、そこには白髪の老人が宿を乞い、立っていました。急いで暖炉に火をくべて、冷え切った体を温めてもらおうとすると、その薪に中に、壊れたハープがあることに気づきます。それを燃やしてしまうのはもったいない気がするのに、どうしてそれを薪にしてしまうのかと老人が主人に尋ねると、これまでも何度もそれを修理したが、どうやってもだれにも直せなかった、壊れたハープをいつまでも持っていても仕方ないから、もう燃やしてしまうのだと主人は答えました。そこでこの老人、何を思ったか、これを一晩かして欲しいと願い出ます。そしてそれぞれに部屋に入って夜の眠りにつきます。ところが真夜中に、主人がふと目を覚ますと、えもいわれぬ音色が聞こえてきます。不思議に思った主人は、その音の出所をたどっていくと、老人の泊まっている部屋からそれが聞こえてきます。思い切って戸をたたき、中に入ると、老人があの壊れたハープを片手につまびいていたのでした。主人は驚いて聞きました。これまで何度も修理に出したし、色々な人に頼んでみたが、誰一人として直すことができなかった、どうしてあなたはそれを直すことができるのかと。その老人は答えました。「このハープは、わたしが若いころに造った自分の作品です。わたしが作ったのだから、わたしには直すことができるのです」と。ゆがんでしまったわたしたちの心と体を、本当に直すことができるのは、わたしたちを造ってくださった方だけです。そしてこの方が、わたしたちをもう一度もとの完全な姿に回復させ、直してくださるのです。なぜなら、わたしたちは、「神の作品」だからです。




1 小高毅、『クレド〈わたしは信じます〉キリスト教の信仰告白』、2010年、教友社、140頁

2 P.ネメシェギ、新訂『父と子と聖霊-三位一体論』、1984年、南窓社、205~208頁

3 同上、219頁

4 小高、前掲書、141頁

5 シャーリー・ガスリー、『一冊でわかる教理』、2003年、一麦出版社、127~129頁

6 春名純人、『「ハイデルベルク信仰問答」講義』、2003年、聖恵授産所出版部、32頁

7 松谷好明訳、『ウェストミンスター信仰規準』、2002年、一麦出版社、141頁他に「信仰告白」第4章2節(27頁)を参照

8 ガスリー、前掲書、254~255頁