第6課 憎しみへと傾く歪んだ愛(問5)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第6課:憎しみへと傾く歪んだ愛(問5)


1. わたしたちの歪んだ自己愛

 前回は、「神の律法」がわたしたちに求めていることは何かという問いに対して、マタイ22章で主イエスご自身が答えられた、「二つの愛の戒め」が示されました。しかしそこで聖書が示す愛の基準とは、「友のために自分の命を捨てること」でした(ヨハネ15章13節)。わたしたちの主「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによってわたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3章16節)。これが愛の基準です。相手のためには自分を捨てる自己否定、自分の最も大切なものである命さえ相手のために献げる自己犠牲、徹底して相手のために尽くしていく他者中心性、それがここで求められている愛でした。しかしそれと比べると、わたしたちの愛は何とみすぼらしく、醜く、貧しいものでしょうか。わたしたちの愛は、「愛している」と言いながらも、相手に対する自分の思いを押しつけ、自分が願うように応答することを相手に強要するものであり、実は自分に対する愛でしかありません。自己への愛を、「愛」と勘違いしているだけです。自分を捨てるどころではない、自分への愛を貫徹させようとする我欲にすぎません。愛という美しい装いをこらした醜い「自己愛」であり、我欲、自己中心、それがわたしたちが「愛」と誤解しているものの内実であり、わたしたちの愛そのものなのです。それはまさしく「自己愛」にすぎません。そしてまさしくこのような愛が、親と子の間に、夫婦の間に、恋人の間に、家族や隣人の間に蔓延している、だから互いにぶつかり合うのです。だから互いに受け入れられず、理解しきれず、互いが互いに自己主張を繰り返して、傷つけ合っているのです。そしてまさしく、この歪んだ「自己愛」がもたらす歪んだ人間関係こそ、わたしたちの「惨さ」そのものではないでしょうか。あなたのためだ、君のためだと言いながら、実は相手に自分を押しつけ合う、醜く歪んだ「自己愛」の姿こそ、罪の結果、果実であるわたしたちの悲惨さなのです。英語では、罪とはSINです。真中にI(わたし)があること、つまりこの「自己中心」こそ、罪の本質なのです。そしてこの「自己中心」は、聖書が教え、神が求める「愛」とは全く対極にあるあり方なのです。

 

 ですからわたしたちがこの愛の戒めを、それも完全に守れるかと問われるならば、「できません」と答えざるを得ません。しかしこの教理問答はそれで留まらず、さらにわたしたちが神と隣人とを「憎む」とさえ言うのです。たしかにわたしたちは、自分が人を完全には愛し抜くことができないことは認めます。しかしそこでわたしたちは、相手を自分たちなりに愛しているし、愛する努力さえしているではないかと考えますし、それを認めようとしないのはおかしいとさえ考えるかもしれません。もちろんそれは完全な愛ではないかもしれないし、不徹底だと言われればたしかにそうだ、しかし愛は愛であって憎しみではない、不完全でも愛は愛だとわたしたちは考えます。そしてむしろ、そういう不完全な愛の中で苦悩するところに、人間らしさがあるとさえ思うのです。しかし神が求められる基準は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛するということでした。そしてそのように神と隣人を愛し抜けず、愛し切れないわたしたちの姿を、教理問答は「邪悪で倒錯したもの」(問6)と言い切ります。「邪悪」と訳された言葉は、「倒錯した、さかさま、あべこべ」という言葉です。つまりそのように愛に徹することができない人間は、人間らしいのでもかねれば自然な姿なのでもなく、むしろ倒錯した、さかさまな姿なのだと言うのです。不自然な、本来あってはならない姿なのだと。なぜなら人間はもともと神の像に型どり、神に似せて造られたからでした。人間はもともと神に似ており、神の愛で神と隣人とを愛していたのであり、全身全霊で愛し抜く愛を持っていたのでした。そしてそれが人間の本来の姿、自然の状態でありました。しかし今やそこから堕落して、不完全な愛こそ人間らしいとさえ考えるほどに、倒錯した状態に陥ってしまったのであり、聖書はそのさかさまな人間の姿を糾弾してやまないのです。わたしたちは、律法が明らかにするほどには徹底して自分の惨めさを知ることができないし、認めようともしません。しかしこの倒錯した愛の世界、愛の姿こそ、わたしたちの罪の現実であり、罪の姿、苦悩の根源ではないでしょうか。そしてこれこそ、わたしたちの惨めさそのものなのです。


2.「的外れ」に生きるわたしたちの悲惨さ

 聖書で言う「罪」(ハマルティア)は、「的外れ」という意味です。つまり罪とは、神が創造された本来の人間の姿とあり方、つまり真実に愛し抜くことができ、愛の中に生きることができたあり方から、大きく的をはずし、逸脱して生きている状態を指すのです。神と隣人とを愛する者として創造された人間は、しかし愛とは似ても似つかない姿とあり方で生きており、しかもそれを「愛」と勘違いしながら「自己愛」に生き、自分を相手に押しつけてやまない醜い姿と生き方で生きているのですが、まさにそれが「罪」なのです。「互いに愛し合う」という律法の要求は、外面的、表面的なことでは満たされたことにはならず、内面的な完全さが要求されました。ですから不完全な愛や、歪んだ「自己愛」では、その要求を満たすことには全くならないのです。そしてこうしたわたしたちの赤裸々な姿を、この教理問答は「罪へと傾く傾向」と言い表しました。単に罪に引きずられていくとか、罪に傾きやすいということではなく、わたしたちの心、生まれながらの本性そのものが歪んでしまい、心の軸がはじめから罪へと傾斜し、愛ではなくて憎しみへと傾いているということです。だから、「隣人を自分のように愛しなさい」と求められながら、またそれが大事なことだと自分でも分かっていながら、それを行うことができないのです。それはうまくできない(愛せない)とか、上手にできず不完全で不十分にしかできない(愛せない)ということではなくて、そもそも、ここで神がわたしたちに求めておられるような基準・レベルにおいて、わたしたちはできない(愛せない)ということなのです。「自己愛」に心が歪められてしまったわたしたちは、真の意味で愛するということが不可能になってしまったからなのです。

 

 そしてこの「愛する」と正反対の方に傾斜することが「憎む」ということなのでした。こうしてわたしたちは「神と隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」のです。愛するどころではなく、不完全ながらも愛するというのでさえない、実は神と隣人を「憎む」方へとわたしたちの心は傾き、そこからお互い同士の醜い関係が生み出され、悲惨な結果がもたらされていくのです。生れながらにそうした傾向を持っているため、自分が相手を愛そうとしながら、実は自分自身を愛し、相手を憎んでいることに気づかず、だから故意であれ、無自覚的であれ、相手を傷つけ、苦しめ、痛みつけることを言ったり、行ったりします。このようにわたしたちの罪とは、神の律法、つまり「愛する」というあり方から大きく逸脱し、それに全く逆らって生きているということ、それ自体のことなのです。しかもそれは、「分かっていて」犯すときもあれば、「自分で気づかないうちに」犯してしまうときもあるのです。相手を愛したいと願いながら、自分で気づかないまま、自分を愛し抜き、つまり「自己愛」を貫徹させていくことで相手を憎んでしまっているのです。わたしたちは、なんと「的外れ=罪」な生き方をしていることでしょうか。

 

 人間はかつて神の愛をもって神と隣人を愛していました。愛の戒めが求める愛し方で、神と隣人を愛し抜いていたのです。それが神の基準であって、そこに至らない愛は、愛にあたらないし、愛に値しないものでした。ところが今やそこに「憎しみ」が生じ、「憎しみ」が入り込んで来たのです。不完全で不徹底な愛は、結局「憎しみ」に転じてしまう、いや「憎しみ」に変質してしまうのです。「かわいさ余って、憎さ百倍」ということが、日常生活の中でどれほど多くの事件を引き起こしているか、わたしたちは報道で知っています。自分を受け入れてくれず、自分の愛を受け入れてくれなかったということで、相手を殺めてしまうような事件が日々起きています。自分の思いを相手が実現してくれないことで、相手の存在そのものを否定する事件が、毎日起こされています。それほどわたしたちの「自己愛」というものは、歪んだものとなってしまっているのです。こうして神を愛しきらないとき、それは神を拒み、神を憎むことになる。そしてまた隣人を愛し抜けないとき、それは隣人を拒否し、隣人を憎むことになるのです。わたしたちは自分一人で生きていくことはできません。自分に関わる全ての人と、また自分を造られた神御自身と、深い愛の関わりに生きることを欲しますし、それが必要です。しかしまさにそこでこそ、わたしたちはうまくやっていけません。ここにわたしたちの悲惨さがあるのです。そしてわたしたちが心から求めてやまない、この愛においてこそ罪の現実があり、悲惨さが生み出されているのです。こうしたわたしたちの悲惨な姿を、教理問答は浮き彫りにしていくのです。ですからわたしたちはパウロと共に、こう叫ばざるをえない。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救いだしてくれるでしょうか」と。

 

3.愛において「悲惨さ」があらわになるわたしたちの現実

 愛においてあらわとなるわたしたちの惨めさということを現実的に考えるために、ヨハネ福音書4章1~18節に登場するサマリアの女性を考えてみましょう。照りつける暑い日差しの中、汗と埃にまみれながら旅をしておられた主イエスが、井戸にたどり着き、その端に腰をかけ、のどの渇きと空腹を覚えておられたとき、そこにいわくありげな女性が水を汲みにやって来ます。そこで主イエスは彼女に「水を飲ませてください」と水を求められた、この一言から、この女性との出会いが始まります。町から1キロ半も離れたこの井戸は放牧している家畜のための井戸だったので、町の住人がここまで水を汲みに来ることはありません。しかもこの女性はたった一人で、みんなが昼寝をしている真昼間にやって来ました。それは人目を避けてのことで、彼女は人々から後ろ指を指される生活をしていたからでした。この女性が抱えていた問題を、主イエスは言い当てられました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。この一言に彼女がこれまでたどった人生と、そこでの苦しみ、呻き、心の渇きのすべてが言い当てられます。五人の夫がいた、それは彼女が五回結婚し、しかし離婚されたということでした。離婚は女性からは成り立ちませんから、彼女は五回も夫から裏切られ、捨てられ、愛を踏みにじられてきたということでした。しかしこうして何度も裏切られ、心を踏みにじられても、なお男性との関わりなしに彼女は生きていくことができませんでした。同棲関係という、当時の社会ではとうてい容認されない関係を結んででも、そのために後ろ指を指され、人々から除け者にされ、昼間にたった一人で水汲みに来なければならないほど零落したとしても、それでもなお男性との関係を大事にして生きていたのでした。

 

 愛し愛されることに執念を燃やして生きた女性、それがこのサマリアの女性でした。なぜなら彼女は、それなしには生きていけなかったからでした。「あなたの夫」と言いうる人を求め続け、その人からの愛に渇き続け、そのような愛を追い求めて、彼女はこれまで生きてきたのでした。彼女にとってなくてならないもの、それなしには生きていけないほど大切なもの、それは自分を愛し、受け入れてくれる、自分の拠り所となるべきただ一人の存在であり、その人から注がれ、与えられる愛でした。そしてそれこそが彼女が求め続け、汲み続けてきた「水」でした。「水」とは、生きていくうえでなくてはならないものです。水がなければ深い渇きを覚えます。しかし渇きを覚えるばかりではなくて、生きていくことができません。ただ身体上の生ではなくて、心の生において「生きている」といえるためになくてはならない不可欠なもの、それがここで「水」と言われているのです。そして彼女にとっての「水」とは、自分を生かし、心を立たせてくれるただ一人の特別な人からの愛でした。こうして裏切られても裏切られても、愛なしには生きていけず、踏みにじられ、傷つけられるとわかっていてもなおまた愛を求め、愛されることを渇望してやまなかった彼女、そんな愛なしには生きていけない彼女に、「この水を飲む者はまた渇く」と主は言われたのです。身を持ち崩してもなお求め続け、後ろ指を指されてもなお渇望し続ける愛は、しかし彼女を決して潤し、その心を満たすことはできないもので、飲めば飲むほどますます渇き、求めれば求めるほどもっと欲しくなるものなのでした。「この水を飲む者はまた渇く」、一時は潤い、渇きを癒すかもしれませんが、しかしもっと深い渇きを覚えさせるものにすぎませんでした。だから「まことの生命の水」を求めなさいと語られるのです。彼女の傷つき、疲れ果て、飢え渇いた心を本当に満たすのは、彼女がこれまで求め、追求してきたような愛ではなく、主イエスご自身だと。主は彼女に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と。

 

 このサマリアの女性とは、わたしたち自身ではないでしょうか。これこそ自分を本当に満たし、潤してくれる生ける水だと思って、一生懸命に求め続けてきたものがあります。しかしよくよく心を探っていくなら、わたしたちが心の奥底で求め、渇望しているもの、それは「愛」ではないでしょうか。わたしたちは、本当は何に飢え、何に渇いているか、それは自分が愛され、必要とされ、大切にされ、頼りにされるということではないでしょうか。自分を必要とし、愛してくれると共に、自分も愛し、頼っていける人がいるということであり、愛されると共に愛する人がいる、守ってくれると共に守る人がいる、そのことこそ、わたしたちが心の奥底で渇望し続けている「生ける水」ではないでしょうか。だから心の奥底で、そのように自分を心底理解し、受け入れ、支えてくれる人を求め、あるいは愛情を注ぎ込んで、そこで自分の存在価値を見出させてくれるような、そんな相手を求めているのです。それがわたしたちにとっての「水」であり、それなしには生きていけないほど、それは自分にとって大切なものでした。だからそれを親に、子供に、配偶者に、友人に求めてきたのでした。互いに求め合って、しかしそこでどうしても渇きをしずめることができず、ますます相手に対して要求するばかりになり、そうして互いに傷つき、苦しみ、悩んできたのではないでしょうか。そこでもう相手には期待しないと心を閉ざし、傷ついた心、満たされない思いを持て余しながら、それでもなおどこかで誰かにそれを期待し、求めている、そんなサマリアの女性こそ、わたしたちの姿ではないでしょうか。

 

 こうしたわたしたちのありのままの姿を赤裸々に見せるのが律法であり、それはわたしたちが「愛」において、どれほど「惨め」であるかということでした。教理問答が、ここで罪を「惨め」と言い表すのは、深い意味があります。それは、罪のうちに生きているわたしたちの現実がどれほど悲惨に満ちたものであるかをあらわにしていき、罪とその現実を抽象的に考えることを許さないということです。そしてこの罪の悲惨な現実の中で、苦しみ、呻きながら生きるわたしたち、心の深いところで「愛」を渇望し、それをひたすら求めながら、それを得ることができずに、別のものによって代用させ、代替品によって心の渇きを癒そうとして、かえってそれによってますます渇いているわたしたちに、主は言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と。これまで飲んできたものは、飲んでも飲んでも渇きが癒されないばかりか、ますます渇きがひどくなっていく、そんな「水」でした。飲めば飲むほど、ますますもっと欲しくなるような、渇きをとどめることができない「水」でした。そうして深い渇きを覚えるわたしたちに、主は約束してくださるのでした。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と。本当の渇きを知る方だからこそ、わたしたちの深い渇きを癒し、心の奥底から潤してくださることができるのです。主イエスが与えてくださる「まことの命の水」だけが、渇いたわたしたちの心を本当に癒し、潤いで満たしていくことができる「生ける水」なのです。主イエスこそ、渇いたわたしたちの心を生き返らせて、潤し、満たす、「命の水」です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、主はわたしたちに呼びかけておられます(ヨハネ7章37、38節)。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ55章1~3節)。