· 

第32課 自分の役割を果たすことで教会を建て上げていく

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第32課:自分の役割を果たすことで教会を建て上げていく(使徒言行録16章3~10節、2011年10月30日)


《今週のメッセージ:教会を建てるための自分の役割(ローマ12章3~5節)》

 シラス、テモテ、ルカを見て気づかされることは、それぞれが自分の分をわきまえて、自分の役割を果たし、自分に委ねられた務めを担っていったということです。他の奉仕者は、自分がパウロのようになろうとし、パウロのように働くことを願い、パウロの役割を担おうとして、パウロと敵対していきました。しかし全員がパウロと同じ役割を担うわけではありません。それでは教会は成り立ちません。誰かが上に立つなら、別の誰かがそれを支えたり、補う働きをします。そうしてそれぞれが自分に与えられた役割を果たし、委ねられた働きを果たすことで、一つの教会が建て上げられていきます。シラス、テモテ、ルカは賜物に満ちた人でしたが、自分の分をわきまえて、主が自分に与えてくださった務めを果たし、自分の役割を担っていきました。奉仕とは、自分に与えられた役割を果たし、自分に委ねられた務めを担っていくことです。それはそれぞれの力と才能を生かし合い、足りないところを補い合いながら、教会を建てていくことであり、そこでは自分がどのような位置を占め、どのような役割を担い、どのような務めを果たしていくかを知り、そのために働いていくことが大切です。そしてそのために与えられたのが、賜物なのでした。


1.最後までパウロに寄り添った忠実な奉仕者

 11月13日に半日修養会を行うことになっていて、交わり委員会と教育委員会が準備をしてくださっています。その題は「神さまのためにわたしができる-賜物ってみんなちがってみんなイイ!」。とてもいい題だと思いましたが、同時に、どこかで聞いたことがあるとも思いました。皆さんもご存知のように、これは金子みすゞさんの童謡にちなんだもので、「私と小鳥と鈴と」(『金子みすゞ童謡全集』)からとられたものです。


 「私が両手を広げても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を早くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のようにたくさんの唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」


 「みんなちがって、みんないい」。本当にそうだと思います。このことについて一緒に考えてみましょう。前回は、パウロがアジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたため、ビティニア州に入ろうとしますが、それも許さなかったのでトロアスに下っていったことを見ていきました。こうしてマケドニアで「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした」とありますが、この前後の主語に注目してください。6節「彼らは」、9節「パウロは」、そして10節「わたしたちは」と変化しています。そして11節からは「わたしたちは」、25節「パウロとシラスが」、40節「二人は」、17章1節「パウロとシラスは」となっていて、途中から再びパウロとシラスの旅行となっています。使徒言行録には、このように主語が変わり「わたしたちは」という部分がところどころ出てきますが(16章1~17節、20章5節~21章17節、27章1節~28章16節)、その部分は使徒言行録の著者であるルカがパウロ一行に加わった部分と理解されています。ですから使徒16章で言えば、パウロとシラスはフィリピを追放されるわけですが、そこで設立されたばかりのフィリピ教会にルカはとどまって、教会形成に尽力したと考えることができるわけです。このようにルカは、自分が前面に登場して華々しい働きをするというのではなく、隠れた仕方で福音宣教に尽力していくのでした。シラスといい、テモテといい、それぞれが「自分の分」をわきまえて、それを果たしていくという、真実な「主の僕」としての姿を見せられる思いがします。


 ルカとはルカヌスの短縮形で、「光」を意味します。使徒言行録には実名では登場しませんが、パウロの手紙の中に登場します。フィレモンへの手紙の終わりの挨拶の中で、「キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです」と記され(23、24節)、この手紙を書いたエフェソ滞在中、第三回伝道旅

行に際してパウロと共にいたことが分かります。またコロサイ書では「愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています」とあり(4章14節)、彼が医者であることと、この手紙を書いたローマ幽閉中、パウロの傍らにいたことが分かります。そしてパウロ晩年の手紙であるテモテに宛てた二通目の手紙の中では、これまで一緒だったデマスについては、「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしま

い」と述べられますが、ルカについては「ルカだけがわたしのところにいます」と記されて、裁判結審と処刑間近な中、ローマに監禁されていたパウロの傍らに寄り添い、最後まで忠実にパウロと共にいる様子を知ることができます(4章10、11節)。このルカについては、72人の弟子の一人であったという説(ルカ10章1節)、クレオパと共にエマオに向かった二人の弟子の一人であるという説(ルカ24章13節以下)、使徒13章1節に登

場する「キレネ人のルキオ」であるとする説、ローマ書16章21節に登場する「同胞(つまりユダヤ人)のルキオ」であるとする説、さらには主イエスに会うことを願ったギリシャ人(ヨハネ12章20、21節)の一人だとする説などがありますが、いずれも根拠薄弱な憶測にすぎません。


 福音書の冒頭、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えた」とあるので、彼は主イエスを直接目撃した人ではないことは確かです。またコロサイ書では、「割礼を受けた者」3人(アリスタルコ、マルコ、ユスト)があげられて、彼らユダヤ人と区別されながら紹介されているので、少なくともユダヤ人ではないことも明らかです。出身地についてはアンティオキアとフィリピがあげられます。2世紀末のルカ本文外序文ギリシャ版では、ルカをシリアのアンティオキアの人とし、エウセビオス、ヒエロニムスもルカをアンティオキアと結びつけます(『旧約新約聖書大事典』)。エウセビオスは「ルカはアンテオケの生れで、医術を職業としていた」と『教会史』8・4で記し、ヒエロニムスも「シリアの医者ルカは、アンテオケの人で、使徒パウロの弟子であるが、アカヤ、ビテニヤ地方でその書を著わした」と記します(宮坂亀雄、『炎の々』、教会新報社、162頁)。それは彼がアンティオキアについて13回も言及しており、その記述がきわめて詳細なためです。しかし他方、彼を、パウロがトロアスで幻に見たマケドニア人その人であり(使徒16章9節)、彼らをフィリピまで案内し、教会が設立されるとそこに留まったと考えられることから、フィリピを出身地とする説もあります。いずれにしろルカは、フィリピから他の教会の代表者たちと共にパウロのエルサレム行きに付き添ってエルサレムまで赴き、カイサリアからローマへ向かう航海にも付き添ってローマまで共に行ったことが分かります。そしてその後も、デマスといった他の奉仕者たちが脱落し、パウロから離れてしまう中にあって、彼だけは最後までパウロに忠実に寄り添い続けていきます。このようにどこまでも忠実に真実を尽くしたルカは、福音の同志として大きな励ましであったと同時に、絶えず心身ともに痛めつけて苦しませ続ける「とげ」を抱えたパウロにとっては、その痛みや困難を取り去る主治医でもありました。エルサレムやローマへの旅行に付き添ったのは、そのような意味もあったと考えられます。心身ともに激しい苦闘を続けるパウロにとって、こうしたルカの存在と働きは、どれほど大きな励ましとなり慰めとなったことでしょうか。彼は自分が表に立って目立つ働きをするわけではなく、背後に隠れて目立たない働きをしていきましたが、そのような忠実な助けの中で、パウロは心身ともに支えられていきました。このように傍らに寄り添う働きの大切さを覚えさせられます。


2.「自分の分」をわきまえた奉仕

 こうしてシラス、テモテ、ルカといった奉仕者を見てきましたが、彼らによって気づかされたこと、それはそれぞれが「自分の分」をわきまえて、自分の役割を果たし、自分に委ねられた務めを担っていったということです。そしてそれによって福音が前進し、教会が建て上げられていきました。シラスは、エルサレム教会の指導者の一人として人々から尊敬され、教会を導いていく力を持っており、同じ福音宣教者としてパウロと対等に、同僚として共に福音宣教を担うことができる人物でした。しかし伝道チームの中ではパウロを立て、自分がリーダーシップをとろうとすることはせず、むしろパウロを励まし、助け、協力することで、パウロの働きを支え、伝道チームの中での「自分の役割」を果たしていきました。テモテも、パウロの意を汲んで難しい問題を処理するために、問題のある教会へと遣わされたり、パウロの手紙を携えるといった務めを果たしていきました。それはとても困難な働きでしたが、自分には向いていないと逃げることをせず、それを自分の仕事として引き受け、精一杯果たしていきました。ルカも大変有能な人物でしたが、他の働き人が離れ去った後も、ただ一人留まって、最後までパウロに寄り添い、医者として、心身ともに弱り果てるパウロを支え続けていきました。これによって伝道チームの働きが「一つ」となって、豊かな実を結んでいくことができたのです。シラスはシラスなりの、テモテはテモテなりの、ルカはルカなりの、つまりそれぞれに「自分の分」をわきまえて、自分の役割を果たすことで、パウロによる福音宣教の働きは前進し、「教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」のでした。こうした彼らと対照的に、パウロに敵対し、パウロを引きずり降ろそうとした他の奉仕者たちの違いは、「自分の分をわきまえない」ということでした。他の奉仕者たちは、パウロに成り代わろうとしました。自分もパウロのように働くことを願い、求めた、だからパウロと一緒に奉仕していくことができませんでした。彼らは、自分がパウロのようになろうとし、パウロの役割を担おうとして、パウロと敵対し、彼を引き摺り下ろそうと画策していったのでした。


 しかし全員がパウロになるわけではありませんし、パウロと同じ役割を担うわけでもありません。そうしたら教会は成り立っていきません。誰かが上に立つ働きをするなら、誰かがそれを支える働きをし、またそれを補う働きをします。そうしてそれぞれが自分に与えられた役割を果たし、委ねられた働きを果たすことで「全体」の働きが進み、「一つ」の働きとなって教会が建て上げられていくのです。なによりも奉仕は、教会を建て上

げていくために為すことであり、それは「全体の益」となるために果たしていくものです(1コリント12章7節)。奉仕とは、自分個人が生かされていくために為されることではなく、教会を建て上げていくために、自分に与えられた役割を果たしていき、自分に委ねられた務めを担っていくことです。それはみんなでそれぞれの力と才能を生かし合いながら、また足りないところを補い合いながら、教会を建てていくということであり、そ

こでは自分がどのような位置を占め、どのような役割を担い、どのような務めを果たしていくかを正しく知り、そのことにおいて働いていくことが大切です。そこではみんなが同じ働きをするわけではありませんから、一人一人が自分に委ねられた務めにどれだけ忠実か、自分に任せられた働きにどれだけ熱心かが大切なこととなっていきます。そうしなければ、教会は建て上げられていきません。そこでは違う賜物を与えられて、違う役割を果たす一人一人が必要なのであり、その一人一人が自分に委ねられた務めを果たしていくことが大切です。そこで違う働きをするお互い同士が、補い合い、助け合い、支え合うことで、一つの教会が建てられていくのです。それが「みんなちがって、みんないい」ということの意味ではないでしょうか。みんなそれぞれに違うという多様性は、ただそれぞれ自身が素敵で素晴らしいということだけではなくて、何よりその違いや多様性は、互いが相手を必要とするからだということにあります。教会という共同体を形づくっていく、そのために一人一人に違う賜物が与えられたのであり、そこで違う役割を果たすことが求められます。だからその一人一人が大切であり、必要とされるのです。パウロの伝道チームが成り立つために、シラス、テモテ、ルカそれぞれが自分の役割を果たしていきました。自分がパウロに成り代わろうとするのではなく、それぞれに違う働きにおいてですが、いずれもパウロを助ける務めを果たしていった、そのことで「一つ」の主の業が彼らによって果たされていきました。その背後には、それぞれが自分に対する主からの「召し」を覚えて、それに生きようとした、彼らの「召し」に対する忠実さがありました。


3.みんなが違うからこそ

 「みんなちがって、みんないい」。この詩をもう一度見ていきましょう。ここでは、自分が空を飛べる小鳥をうらやましがる必要はないし、きれいな音を出す鈴をうらやましがる必要はないことが謡われています。なぜなら自分には、小鳥ができない、早く走ることができ、鈴にはできない、たくさんの唄を歌うことができるからです。他の人を見て、うらやましがったり、ねたむ必要はない。自分にも何かしら素晴らしい賜物が与えられ、みんなの役に立つ働きが任されています。パウロをねたんだ他の奉仕者と違って、シラス、テモテ、ルカもそうでした。伝道チームの中で、ひいては主イエスの福音宣教において、自分はどのような役割を与えられ、どのような働きをすることが求められているのか、それぞれに「自分の分」をわきまえて、自分の果たすべき務めを担っていきました。そしてそこには、主から与えられた自分に対する「召し」がありました。賜物とは、そのそれぞれに与えられた自分の「召し」を果たすために委ねられたものであり、そこではそれぞれに違う賜物が与えられていますが、それはそれぞれが違う「召し」を受けているからです。神から委ねられた「召し」そのものが違うのだから、それを果たすために与えられた賜物も違います。だから、他の人の賜物をうらやましがる必要はないし、他の人が担っている役割をねたむ必要もありません。その人に成り代わろうとあせる必要はないし、もっと違う働きにつきたいと願う必要もありません。あなたにはあなた自身に与えられた主からの「召し」があるからです。そしてその「召し」は、他の誰も代わることができない、大切な役割なのです。ですから、たとえばある姉妹がどれほど素敵で、素晴らしい働きを果たしていたとしても、あなたがその姉妹になる必要はありません。あなたはあなたであればいい。いやあなたであってほしいのです。あなたのままで十分です。なぜなら、主イエスは、そのあなた自身を必要としておられるし、わたしたちも、あなたを必要としているからです。この教会を建て上げていき、主イエスの福音が世界へと広げられていくために、あなたでなければならない「召し」があなたにも与えられています。そしてそれを果たすために必要な賜物も与えられました。その賜物は、あなた自身のためというよりも、みんなのために与えられたものであり、主の教会を建て上げていくことのために、あなたに委ねられたものです。あなたにも、あなたが果たすべき務めが任せられています。そして主は、あなたにも、その役割を担ってほしいと願っておられるのです。


 そこでパウロは呼びかけました。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」と(ローマ12章3~8節)。そしてそこでは最初にこのように呼びかけられ

ます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と。礼拝とは神奉仕です。本当の礼拝、神奉仕とは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」ることに他なりません。そこでは、したくないという思いや、ふさわしくないという思い、逃げたいという思い、あるいは逆に自分は用いられていないという思い、自分は評価されていないという思い、こういうことがやりたいという思い、そういった諸々の自分の思いを捨て、そうした自分の思いそのものを献げていくのです。自分の思いも人生も働きも、自分のすべてを献げて献身すること、それが奉仕なのです。