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第28課 愛によって互いに仕え合うための自由

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第28課:愛によって互いに仕え合うための自由-真に律法を全うすること(ガラテヤ書5章1~15節、2011年9月11日)


《今週のメッセージ:キリストによって得た愛することの自由(ガラテヤ5章13、14節)》

 キリストの福音を信じたはずのガラテヤの人々は、割礼を受け律法を守り行うことで救われるとする教えに傾いていきました。そこでパウロは彼らに、「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」ことを語り、彼らのために律法の呪いを身に受けて十字架にかかってくださったイエス・キリストを示すために、手紙を書き送りました。それが『ガラテヤの信徒ヘの手紙』でした。その中でパウロは、わたしたちがすでに律法から自由とされたのであり、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」のだから、再び律法の奴隷とならないようにと警告します。しかしこの「自由」は、「肉に罪を犯させる機会」ではなくて「愛によって互いに仕える」ために与えられたものでした。それは「互いの重荷を担う」ということで、「隣人を自分のように愛する」ことに他なりません。このようにキ

リストを信じる信仰は「愛の実践を伴う信仰」です。そのために大切なことは、聖霊によって「新しく創造される」ことです。わたしたちを「アッバ、父よ」と呼ばせる御子の霊の導きに従って歩むとき、わたしたちは「霊の結ぶ実」である「愛」を結んでいくことができるのです。


はじめに.『ガラテヤの信徒ヘの手紙』

 第一回伝道旅行、そしてアンティオキア事件(ガラテヤ2章11~14節)の後、そのアンティオキアからガラテヤの教会に書き送った手紙が、「ガラテヤの信徒ヘの手紙」でした。この「ガラテヤ教会」がそもそもどこかということについては、第27課にまとめました。その内容は、後にパウロがコリントで書いたとされる『ローマの信徒への手紙』と書かれている主題(信仰義認)が、非常に似通っています。パウロは、このガラテヤ書で書いた内容を、さらに円熟させていくことになるわけです。この手紙は次のように区分できます。


序.挨拶と問題点の指摘(1章1~10節)

1.パウロの使徒性の証明(1章11節~2章21節)

2.信仰による義についての証明(3章1節~4章31節)

3.福音的自由における生き方(5章1節~6章10節)

結.結びの言葉と祝祷(6章11~18節)


序.パウロの使徒性の証明(1章1~10節)

 挨拶もそこそこに済ませたパウロは、さっそく本題に入ります。パウロが、わざわざ手紙を書かなければならなかったほどに大きかったガラテヤ教会の問題とは、パウロがガラテヤを去った後に入り込んできた偽使徒たちによってもたらされた、「ほかの福音」によって、ガラテヤ教会が正しい信仰から離れようとしてしまっていたということでした。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしている」似非福音にすぎませんでした(1章7節)。この手紙から分かる偽使徒たちの教えとは、要するにユダヤ主義的キリスト教でした。それはこの後のエルサレム会議(使徒言行録15章)でも問題となる人々で、彼らの主張は、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」とか(使徒15章1節)、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべ

きだ」(同5節)というものでした。その教えになびいたガラテヤの人々は、自分たちも割礼を受け、律法を守り行うことで義とされ、救われると考えるようになったのです(5章3節、6章12、13節)。これは、「福音から律法へ」の逆行であり、「信仰による義」から「行いによる義」への転落でした。だからパウロは強い語調で、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」(1章6節)と語り、「あなたがたのことで途方に暮れている」とも訴えて(4章20節)、イエス・キリストへの信仰へと呼び戻そうとするのでした。


1.パウロの使徒性の証明(1章11節~2章21節)

 a.主から直接受けた福音についての弁明

そこでパウロは、これまで自分が語り教えてきた「福音」が、自分自身が考案したり捏造したもの、人間から生じたものではなくて、「キリストの啓示」によることを明らかにします。なぜなら、ガラテヤ教会を扇動していた偽使徒たちは、パウロに敵対して、パウロ個人を中傷し、その使徒性と権威を疑問視することで、パウロの語る福音そのものを拒絶させようとしたからでした。それはアンティオキア、コリント、フィリピの教会をも扇動したユダヤ主義者で、彼らは律法からの自由を説くパウロの福音を、その「使徒性」を問題にすることで「異端」としてしりぞけようとしたのでした。それに対してパウロは、自分の福音が主イエスご自身から直接啓示を受けたものであることを主張し、その使徒的権威を擁護しました。兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(1章11、12節)。そこでここでも、エルサレム教会からの人間的な「お墨付き」を主張する偽使徒たちに対して、その資格は人間からではなく「神から与えられたもの」であることを主張したのでした。そこで明らかにするパウロのこれまでの足跡は、自分の語る「福音」が「血肉(人間)」、つまり使徒ペトロや主の弟ヤコブといった人々からではなく、まっ

たく直接に主イエスご自身と出会い、そこで受けた啓示によるということでした。というのは、まさにパウロのこの点が攻撃され、疑問視されており、パウロは、主の弟子でも兄弟でもない、自称「使徒」であり、その教えは誤っていると攻撃されていたからでした。そしてこの揺さぶりにガラテヤ教会は飲み込まれ、結局パウロとその福音から離れていってしまったからでした。パウロが彼らに語り伝えた「福音」は、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神とによって」啓示され、託され、宣べ伝えたものでした(1章1節)。


 このように「神が、御心のままに、御子をわたしに示して」(1章16節)と言い得る経験をパウロは何度かしています(2コリント12章2~4節、使徒22章17、18節)。これらのことをパウロが語ったのは、自分の語る福音が主イエスご自身から委ねられた真の福音であることを証しするためでした。ヤコブとケファとヨハネといったエルサレム教会で「柱と目される主だった人たち」(2章9節)からも承認されていたパウロでしたが、その働きと教えは疑惑の目で見られていました。ここでパウロが「呪い」をかけて排撃した「ほかの福音」「キリストの福音を覆そうとしている」似非福音は、「潜り込んで来た偽の兄弟たち」によってガラテヤにももたらされ、「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」(2章4節)を奪い取ろうとするものでした。そこでパウロは、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(5章1、13節)と勧めます。


 パウロはこのキリストにある「自由」のために戦いました。「割礼を強制される」ことや、「どんな義務も負わされない」ことのために戦い、たとえペトロやバルナバといった大先輩でさえも、この福音とキリストの自由からはずれる歩みをするときには、「皆の前で」非難し、面と向かって叱責するほどでした(2章11節)。ここで問題となっていることは、教会に増えてきた異邦人キリスト者をどのように受け入れるかということでし

た。従来の考え方では、異邦人は割礼を受け、律法を遵守することを誓約し、いったんユダヤ人になることで教会に受け入れられました。そうでないと、食物規定や清浄規定を厳格に守っているユダヤ人キリスト者と一緒に交わり、食事をすることができないからです。当時の教会では礼拝において、愛餐(アガペー)と聖餐(ユゥカリスティア)が行われ、それが信仰者の一致と交わりを表わすものとなっていました。ところがその交わりの食事、つまり礼拝そのものがユダヤ人と異邦人の違いのゆえに拒絶される事態となっていき、こうしてキリスト者同士の一致と交わりは危機に瀕していきました。そしてそこには、キリストの救いがどのようなものであるかについての理解の、根本的な違いがありました。律法の上にキリストの救いが成り立つのか、律法とは別にキリストの救いが成り立つのかという問題です。パウロが、人間的権威を否定しても戦ったのは、この問題であり、それは福音の本質に関わる事柄で、それが、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということでした(2章16節)。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」のであり、もし「律法のお陰で義とされるとすれば、それこそキリストの死は無意味になってしま」うということです(2章21節)。


 しかしこの主張が、「律法による義」によって生きてきたユダヤ人とユダヤ人キリスト者にとって、どれほど挑戦的で挑発的なものであったか、想像に難くありません。しかし最も厳格に律法に生きたパウロであればこそ、律法の限界を知り、「律法の義」ではない「神の義」つまり「信仰による義」に出会ったのでした。こうしてキリストの十字架によって「律法に対して死んだ」(律法との関係が切れた)パウロは、今や信仰によってキリストの義と命の内に生きています。キリストの命によって生かされて生きています。自由の中で生きています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2章20節)とは、そういう信仰経験から語られているものです。パウロはかつての自分を振り返りながら、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」と言い切ることができました(フィリピ3章5、6節、)。しかし、そこで「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました、それらを塵あくたと見なしています」と言い得たのは、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」があるからでした(フィリピ3章8、9節)。そしてこの確信こそが、パウロを真理の戦いへと駆り立てていく力の源なのでした。


2.信仰による義についての証明(3章1節~4章31節)

 a.アブラハムに対する祝福の約束(契約)はキリストにおいて成就した(3章)

 こうして、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(3章1節)とパウロがガラテヤの人々に訴えることは、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてある」(3章13節)ということでした。キリストが、わたしたちの代わりに律法の呪いを引き受け、それを背負って死んでくださったのであり、そこで「わたしはキリストと共に十字架につけられ」ました(2章19節)。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」で(ローマ6章6節)、それによってわたしたちは「律法の下ではなく、恵みの下にいる」者とされたのです(同14節)。律法によってはだれ一人得ることができない「義」を、キリストが自らの命を差し出すことで代わりに獲得し、信じるわたしたちに無償で与えてくださったのです。そのために命さえ惜しまず投げ出してくださったキリストの十字架が見えないのか、とパウロは嘆くのでした。ここでパウロは「律法の実行」を救いの不可欠な条件とするユダヤ主義者とそれに染まったガラテヤ教会に、それによっては「義」を得ることはできず、得られるのは「呪い」だけであることを明らかにします。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪

われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」とパウロは主張しました(3章10、11節)。なぜなら、「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」(ヤコブ2章10節)。こうして律法によっては、罪の自覚しか生じない」ことを明らかにするのでした(ローマ3章20節)。


 そこでパウロは、そもそもユダヤ人の根拠である先祖アブラハムに対する神の契約そのものが、律法主義ではなくて信仰によるということを明らかにしていきます。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(創世記15章6節)と律法を引用しながら、その律法そのものが信仰による義を説き、それを保証することを明らかにするのです。それはローマ書の中でも、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」と述べていることですが(4章13節)、ここではそれをさらに越えて、このアブラハム契約はその後に与えられたモーセ契約(つまり律法)と矛盾したり、それによって反故にされたりするものではないことを明らかにするのです。しかもここでパウロは、アブラハム契約の約束が、アブラハムの子孫であるイエス・キリストご自身と結ばれたものであるという画期的な律法解釈をするのです。「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです』」と(3章16節)。アブラハムによってイスラエルに与えられた祝福の約束(契約)は、イエス・キリストにおいて実現し成就したというのです。つまり律法ひいては旧約聖書全体は、この「恵みの契約」の本質であるキリストへと至らせるためのもので、それは「キリストのもとへと導く養育係」に他ならないとするのです(3章24節)。こうしてパウロは、単に「信仰による義」を語っただけではなく、その根拠が律法自身にあり、キリストこそが「旧(い契)約」と「新(しい契)約」を結びつける絆であることを知ったのでした。そこにキリストを信じる信仰の意味があります。キリストは、旧約と無関係に来られた方ではなく、律法の約束とは別の約束をもたらす方であるわけでもなく、まさしく律法が保証するものを提供してくださる方ご自身なのでした。そしてこのキリストのゆえに、「もはやユダヤ人もギリシャ人もない。キリストにおいて一つ」という新しい事態が生じることになったのでした(3章28節)。キリストこそ、律法の成就だからです。これこそ全く新しい律法解釈、旧約聖書解釈であり、パウロが主イエスから与えられた「新しい啓示」なのでした。


b.律法から解放されたのだから、奴隷の軛(律法)につながれてはならない(4章)

 パウロは、キリストによって自由にされながら、再び律法に舞い戻り、その律法の奴隷となって「律法の下にいたい」と願う人々に対して、律法の言葉を根拠にして応答します。ここでは「相続人」と「奴隷」が鍵です。第一に、アブラハムの契約はモーセ律法よりはるか前に与えられたものであり、律法に優先するということです。その約束の相続は、律法によって、つまり善い行いによって律法の義を満たすことで与えられるのではな

く、その前に約束として与えられたものでした。相続人となることが約束されたので、期日が満ちればその遺産を相続することができます。それに見合う何かを行うからではなく、もう約束として与えられたものなのです。するとなぜその後に律法が与えられたのかが疑問です。そこでパウロは、当時の家督相続を例に出して説明しました。遺産は、家督相続を指定された子が相続します。それはその子が相続に見合う何かを行うからではなく、一方的に親から約束され、保証されます。しかし未成年の間は、僕や奴隷と同じように親に仕え、自分に約束された財産を自分の自由にはできません。遺産管理人や後見人の監督の下に置かれ、成人するとはじめて遺産を相続し、自分の自由にすることができるようになります。旧約時代は、まさにこの後見人の養育と監督の下にいた時代でした。遺産相続はすでに約束されており法的には自分の所有ですが、成人するまではまだでし

た。そこでは奴隷や僕と同じ扱いを受けますが、定められた期日が過ぎれば、相続人として立てられ、家の主人になります。同じ扱いを受けても、奴隷はいつまでも奴隷のままですが、相続人は未成人の間だけで、それが過ぎれば主人となるのです。律法は、その未成年の期間、いわば「キリストへと導いていく養育係」(3章24節)です。つまり「律法によっては罪の自覚しか生じない」(ローマ3章20節)のであり、「律法の実行によっては義とされない」(2章16節)ことを知って、自分の義と行いに絶望して、キリストの救いへと追いやられ、駆り立てられていくことこそ、律法の役目でした。「律法は、約束を与えられたあの子孫(キリスト)が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの」(3章19節)でした。こうして律法は、人間を神の呪いの下に置くのであり(3章10節)、依然として罪の奴隷の状態に留めたままにするだけのものにすぎませんでした。

 

 それなのに再びその奴隷へと戻ろうとするガラテヤの人々に、今度はアブラハムの子孫の例を出します。アブラハムの子孫が自動的にその約束の相続者となったわけではないということです。どちらもアブラハムの子ではありますが、一方は奴隷の子として奴隷(イシュマエル)のままであり、他方は自由な身分の子として相続人(イサク)とされました。こうしてアブラハムの子であれば自動的にその約束の相続者になれるわけではないことを明らかにして、奴隷状態から自由を得させるために、キリストが十字架にかけられて、律法の呪いから贖い出してくださったのだから、二度と奴隷の軛(律法)につながれるべきではないとパウロは勧めるのです。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(5章1節、3章13節)と。パウロは、ガラテヤの人々に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と語ります(3章26節)。そのためにキリストは、時満ちて、「律法の下に生まれた者」として、神の御子を遣わしてくださいましたが、「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4章5節)。その証拠こそ、わたしたちが「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」ということでした。だからわたしたちは「もはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもある」ということです(4章6、7節、ローマ8章14~17節)。しかしパウロは、頑ななガラテヤの人々が、再びキリストにあるこの自由を得るために、そうして彼らの内にキリストが形づくられるために、再び「産みの苦しみ」を味わわなければなりませんでした。


3.福音的自由における生き方(5章1節~6章10節)

 a.愛の実践を伴う信仰(5章)

 キリストは、律法の支配下、罪と呪いの下にあり、その奴隷とされているわたしたちを、そこから救い出して、自由の身とするために、身代わりとして十字架にかかってくださいました。だから二度と再び律法に戻り、その軛につながれるべきではないとパウロは力説しました。わたしたちはキリストの十字架のゆえに、律法を守り行うことによってではなく、信仰によって義とされるのであり、自分の力と熱心に基づいてではなく、神の

恵みと憐れみに基づいて救われるからです。律法によって自分を義としようとする者は、律法の要求するところを実現しなければなりません。それは律法を行う者は、「律法全体を行う義務がある」ということです(5章3節)。律法によって義とされようとする者は、一つの落ち度もなくそれを完全に守り行わなければなりません。だからそれができないわたしたちには、キリストが必要なのです。キリストがわたしたちの代わりに、律法

の要求のすべてを満たし、果たし、実現してくださったからでした。そしてここからパウロは、キリストによって自由とされ、義とされた者は、どのように生きるかということへと話を進めます。パウロにとっては、これまで説かれた信仰の原理(教理)は、生活と切り離されることはありません。信仰による義は、自由奔放な生活を肯定する原理ではなく、むしろ「愛の実践を伴う」ものだとするのです(5章6節)。律法の軛につながれ

ようとする律法主義者に対しては、キリストの十字架が律法を完成し成就したことを説き、逆にキリストにある自由をはき違えて、肉的な放縦を主張する自由主義者に対しては、「愛の実践を伴う信仰」を説きます。まことの信仰は、自分のための勝手気侭な自由を保証するものではなくて、神と隣人に喜んで仕え、奉仕するための自由です。これまでは自分の肉の思いによって妨害されてきた神と隣人への奉仕が、肉の思いが十字架につけ

て死ぬことによって自由にされ(5章24節)、これからは喜んで仕えることができるようになったという自由なのでした。


 そこで「あなたがたは、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と勧めていきます(5章13節)。そこで求められる戒めこそ、「隣人を自分のように愛しなさい」であり、律法全体はこの「一句によって全うされる」、つまり完成し成就するのです(5章14節)。信仰によって義とされ、キリストによって自由を与えられたわたしたちは、律法の軛を負うことも、律法の奴隷とされることもありません。しかしそれはますます自由に律法が求めている愛を実践し、実行するということなのでした。パウロはここで律法は廃棄されて無意味なものとなったとは言っていません。律法は廃棄されたのではなく、依然として効力をもっているのです。ただそれを、キリストがわたしたちの代わりに実現し成就してくださったことによって(マタイ5章17節)、律法にある約束のすべてがわたしたちのものとされたのです。そしてモーセの律法からは自由にされましたが、「キリストの律法」(6章2節)を与えられました。それは律法と本質的に異なるものではなく、キリストご自身が要約されたように「二つの愛の戒め」(マタイ22章37~40節)のことでした。こうして「互いに愛し合う」ことができるための自由を、キリストはわたしたちに与えてくださったのでした。しかもそれは「聖霊の実り」として与えられるものなのでした(5章22節)。


b.新しく創造された者として、霊に導かれて生きる者の生き方(6章)

 ガラテヤ教会を扇動した律法主義者たちは、彼らに割礼を強要したようです。割礼なしにイスラエルの相続にはあずかれないと。しかしパウロは「割礼の有無」が問題ではなく、「キリスト・イエスに結ばれている」かどうか(5章6節)が問題で、大切なのはこのキリストによって「新しく創造されること」だと語りました(6章15節)。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」です(2コリント5章17節)。そして聖霊によってキリストと結び合わされてキリスト者とされた者は、その聖い「霊の導きに従って歩み」ます(5章16節)。霊の導きに従って歩む生き方は、肉の欲望を満足させる生き方ではなく、「愛によって互いに仕え」あう生き方(5章13節)です。「肉の業」として列挙されるものの多くは、対人関係の中でのもので、結局「肉」とは、我が身だけをかわいいとする我欲、自己中心な心であり、それは一人よがりな思いや行動として現われてきます。しかしキリストと結ばれた者は、キリストの十字架に共につけられ、我欲に生きる古い人は十字架によって死にました(2章19節、ローマ6章6節、コロサイ2章20節)。こうして「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」のでした(5章24節)。そして新しい霊、新しい心を与えられ、キリストの新しい命に生きる者とされたキリスト者は、今度はその新しい霊に従い、新しい心によって生きていきます。その行動原理こそ「愛」でした。なぜなら与えられている霊とは、神とわたしたち、またわたしたち相互を結びつける絆としての「愛」なる方だからです。神の「愛」そのものであられる霊が、わたしたちの中で結んでくださる実こそ「愛」でした(5章22節)。「互いの重荷を担う」こと、それこそ「キリストの律法」(6章2節)を全うすることだと語られます。それは「互いに愛し合う」ということです。だから「めいめいが、自分の重荷を担うべき」だと勧められるとき(6章5節)、その「自分の重荷」とは、「互いの重荷を担う」(6章2節)ということです。他者と重荷を分かち合うこと、それが「自分の重荷」です。つまり神がわたしに背負うようにと委ねられた、他の人の重荷のことです。それを互いに担い合うことで、キリストの律法である「互いに愛し合う」ことを全うしていくのです。そしてそれこそが、律法全体を全うすることなのでした。


結.結びの言葉と祝祷(6章11~18節)

 パウロは主イエス同様、律法そのものを廃棄することを語ったのではなく、それの本質的な実現または成就を語りました。しかし律法の外面的遵守にしか思いをいたせなかった律法主義者から激しく攻撃され、迫害されました(5章11節)。しかし福音のゆえに受けた「イエスの焼き印」(17節、迫害によって受けた傷または身体的障害)を示しながら、十字架をこそ誇るようにと勧めます。なぜなら十字架こそが、そこで律法が成就し、

実現した場そのものだからです。その律法とは「愛」でした。キリストは、わたしたちの代わりにこの律法の要求をすべて満たしてくださった、それによってわたしたちは義とされ、自由とされ、救いを受けたのです。そしてその十字架こそ、律法を十分に満たしえないわたしたちに対する、神の愛が現された場でした。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5章8節)。そしてその十字架において、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」ことで、「わたしたちは、キリストと共に死んだ」のであり、また「キリストと共に生きる」ようにされました(同6章6~11節)。ですからわたしたちも、この十字架をこそ誇るべきではないでしょうか(6章14節、1コリント2章2節)。手紙の最後は結びの言葉と祝祷をもって締めくくられていきます。