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第27課 人を恐れるのか、それとも神を畏れるのか

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第27課:人を恐れるのか、それとも神を畏れるのか(ガラテヤ書2章11~14節、2011年9月4日)


《今週のメッセージ:真理に向けてまっすぐに歩くこと(ヘブライ12章1、2節)》

 「アンティオキア事件」として知られる、パウロがペトロと衝突した出来事が伝えられます。アンティオキア教会に来た当初ペトロは、異邦人キリスト者と一緒に食事をしていたのに、エルサレム教会からの兄弟が来たとき、彼らを恐れて、それをやめてしまったということに端を発した事件でした。ユダヤ人が異邦人と一緒に食事をするということは、「ユダヤ人と異邦人」というユダヤ教では乗り越えられなかった壁を越えて、「キリスト・イエスにおいて一つ」とされていったことを象徴することでしたが、ペトロはそのキリストにある一致を破壊し、交わりを分裂させてしまうことになりました。この背後には、割礼を受けておらず、律法を遵守せず、厳格に定められた食物規定を守らない異邦人キリスト者は、「汚れている」と見なすかどうかという問題がありました。しかしそれ以上に、このペトロの行動は、「福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていない」、心にもない「見せかけの行い」だったので、パウロは「面と向かって反対」したのでした。ペトロは人を「恐れてしり込み」したために、そうしてしまいました。このペトロの「弱さ」と失敗の原因は、主イエスから目を離してしまったということにあったのではないでしょうか。


1.北ガラテヤ説に基づく「アンティオキア事件」の位置

 放射能汚染が色々な形で広がり、わたしたちの生活にもじわじわと影響が生じている今日この頃です。正しい情報を得て、ふさわしい対応をしていく必要があることは言うまでもありませんが、いわゆる風評によるパニックが引き起こす問題もあるようです。これまでに起きた出来事の中で、とりわけ心を痛めたのは、福島県の方に対する言われのない差別です。家内が福島県小名浜出身であり、家内の実家は福島県にあることもあって、とても残念に思うと共に、腹立たしささえ感じてきました。福島から転校してきた子供が、放射能で汚染されているから遊べないと拒否されて、泣きながら帰って行ったということがありました。結局その家族はまた別の所へと転居したそうです。その他にもタクシーの乗車を拒否されたとか、ホテルの宿泊を拒否されたとか、さらには福島県ナンバーの自動車が白い目で見られ、通行することや駐車することを嫌がられたり、拒否されるといったことが起きました。見えない放射能の汚染に対するパニックが、このような事態を引き起こしたわけですが、同時にその背後には、「ケガレ」と「キヨメ」という日本特有の意識があることを指摘する専門家もいます。京都の五山送り火で、陸前高田市の高田松原の薪を燃やすことが拒否された出来事とその後の反響を取り上げながら、「すでに指摘されているように、この一連の経緯からは、いまや『放射能』が一種の『ケガレ』として受けとめられていることがよくわかる。放射能が測定されていないにもかかわらず、不安を訴える人々がいたこと。送り火をおこなう僧侶たち以上に、一般市民が過分な反応を示したこと。これらの点にも、『ケガレ』の問題がみてとれる。日本神話起源の『ケガレ』感覚は、仏教以上に、われわれの日常生活に深く根を下ろしているからだ。」(斎藤環、「放射能とケガレ」、『毎日新聞』2011年8月28日総合版、時代の風)。先の福島からの転校生へのいじめは、この千葉県で起きたことでもあり、この問題は他人事では済まされない、まさにわたしたち自身の問題でもあると言うことができると思います。そしてまさしく、この『ケガレ』によって人を差別し、そこにある人間関係が引き裂かれていくという問題が、ここでの問題です。開かれたテキストは、二千年前の外国で起きた他人事として片付けることができない、大きな問題をわたしたちにも問いかけてくるのです。


 さきほどお読みしたガラテヤ2章11~14節は、「アンティオキア事件」として知られる出来事です。年齢から言っても経験から言っても後輩と言えるパウロが、大先輩であるペトロを、人々の面前で叱責するという大事件でした。しかもペトロは、主イエスの十二弟子の一人で、さらにその筆頭弟子でもあり、原始キリスト教においてはいわば重鎮的存在でした。このように教会の中で最も影響力のあるペトロを、まだ駆け出しにすぎず、しかも新参者にすぎないパウロが、個人的にならともかく、人々の面前で叱責するというとんでもない事件でした。しかしこの問題を考える前に、そもそもこの事件がいつの時点で起きたことを考える必要があります。それはこの後のパウロの生涯と原始キリスト教会の相貌を大きく変えることになるからです。それはこの箇所の前の2章1~10節にある、パウロがエルサレム教会の三巨頭ヤコブ・ペトロ・ヨハネと会談し、割礼問題についての合意を得たという出来事が、いつの時点のことかによって変わってきます。これまでの説明では、その内容からして使徒言行録15章にあるエルサレム使徒会議のこととしてきました。もしそうであるとしたら、この事件はエルサレム会議の後となります。そしてこの二つの出来事を書き記したガラテヤ書も、それより後ということになります。そうしますと「第二回エルサレム訪問(飢餓救援)→第一回伝道旅行→第三回エルサレム訪問(使徒会議、ヤコブ・ペトロ・ヨハネとの会談)→アンティオキア事件→第二回伝道旅行→第三回伝道旅行(ガラテヤ書執筆・北ガラテヤの教会へ)」という順序になります。


 この説の問題点の一つは、ガラテヤ書を書き送った北ガラテヤにあるはずの教会が新約聖書では言及されておらず、存在しないという点です。使徒言行録は、パウロによる北ガラテヤでの伝道も、そこでの教会設立についても何も記していません。強いて言うと、第二回伝道旅行のとき、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」とあり(16章6節)、第三回伝道旅行でも「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し」とあるので(18章23節)、その際に伝道したと想定します。そしてそこで聖霊に禁じられたことの真相は、パウロが病気になって足止めされたからだとするのです(ガラテヤ4章13節)。こうして設立されたガラテヤ教会でしたが、しかしこの手紙による呼びかけにもかかわらず、結局ガラテヤ教会は律法主義に舞い戻ってパウロと敵対し、ユダヤ教的キリスト教として歴史から消えてしまったと想定します。そしてパウロにとって、このガラテヤ教会は苦々しい思い出でしかなく、この教会はパウロと福音から離反してしまったと見なすのです。だからキリスト教の歴史の中からも消え去ってしまい、使徒言行録には記されなかったというわけです。それはさらにペトロやバルナバとの関係についても同じことが考えられます。この事件によりパウロは、ペトロそしてバルナバと決裂し、これまでの活動の拠点だったアンティオキア教会とも決別して、これ以降はエルサレム教会やアンティオキア教会とも無関係な、個人による独立した伝道活動を進展させていったとします。つまり原始キリスト教は、パウロによる異邦人教会を中心とした律法に対して自由なキリスト教と、ヤコブを指導者とするユダヤ人を主体としたエルサレム教会のように、律法に対して厳格な立場を取るユダヤ教的キリスト教とが拮抗し、対立し、そして分裂していたと見るのです。第二回伝道旅行で、パウロとバルナバとが仲違いするのも、本当はこういう理由があったからで、第一回伝道旅行の途中でマルコが離反したのも、実はそれが理由だったと理解します。そしてパウロとバルナバは、このアンティオキア事件での衝突後、和解をすることなく、二度と行動を共にすることもなかったとするのです。しかしルカはそうした教会の悲惨な現実を覆い隠して、まるでキリスト教が全世界へと広がっていったかのような薔薇色の世界を描いていきますが、実はそれは文学的虚構だったと解釈するのが一般的です。これは北ガラテヤ説に即した理解です。


2.南ガラテヤ説に基づく「アンティオキア事件」の位置

 しかし南ガラテヤ説を取ると、それとは正反対の姿が見えてきます。そこでは「第二回エルサレム訪問(飢餓救援、ヤコブ・ペトロ・ヨハネとの会談)→第一回伝道旅行→アンティオキア事件→ガラテヤ書執筆(南ガラテヤの教会へ)→第三回エルサレム訪問(使徒会議)→第二回伝道旅行→第三回伝道旅行」という順序になります。ガラテヤ書2章1~10節に記されているエルサレム訪問は、使徒15章にある使徒会議ではなく、飢饉救援のためにエルサレムを訪問した際、パウロとバルナバが、個人的にエルサレム教会の柱となっていたヤコブ・ペトロ(ケファ)・ヨハネの三人と会談し、合意を得た出来事とします。そこに記されていることは会議の様子ではなく、どこまでも私的懇談ないしは協議といった性格のものですし、パウロは「啓示」で上京したと語りますが(ガラテヤ2章2節)、それはアガボの預言によって促された(使徒11章28節)ことと一致するからです。この第二回訪問までパウロは、タルソスを中心としたキリキアでの宣教とアンティオキアを中心としたシリアでの宣教を活発に続けていました(ガラテヤ1章21節)。そしてそこでの伝道は、おそらく異邦人に割礼を課すことをしない伝道と想定されます。そこでエルサレムを訪問した際、このことについて彼らと懇談し協議したわけです。しかしそこでは一緒に連れていったテトスにさえ割礼を強要されることがなく、むしろこの三人の方からパウロに手を差し出して、彼らの語る福音が一致していることを確認してくれたのでした(2章9節)。このような伝道の合意ができたからこそ、それを踏まえてパウロは第一回伝道旅行へと旅立っていくことになるわけです。そこでの異邦人への伝道は、パウロが何の承認も得ないまま、自分で勝手に行ったものではなくて、エルサレム教会の指導者たちの同意と承認を得たうえで、それを前提にして行っていったものということができます。そこでは割礼は問題とはならず、異邦人に割礼なしで伝道するというパウロの伝道については、エルサレムの指導者との間では合意が成り立っていたのでした。しかしそのような指導者の指導に同意せず、それを不服とする一部の人たちがいて、問題となっていったわけです。そしてそうした問題でアンティオキア教会が紛糾しているとき、ペトロが来たことでアンティオキア事件が起こるわけです。そこでさらに紛糾する中、今度はせっかく苦労して伝道してきた南ガラテヤ地方の教会、すなわちピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベの教会が反旗を翻して、律法へと舞い戻ってしまったという知らせを聞き、パウロはそれらの教会に手紙を書き送ることになる、それがガラテヤ書ということです。そしてこうしたもろもろの問題を解決するために、エルサレムで使徒会議が開催されるということになっていくのです。その使徒会議では、バルナバもペトロも、パウロと同じ立場を取っていますし、それはヤコブも同じです。つまりアンティオキア事件の後、パウロと対立したとされるバルナバとペトロ、そしてヤコブとの関係は、決裂してしまったのではなく、むしろそれを乗り越えて、福音において一致していくことができたのであり、それがまさに使徒会議において表されたと理解するのです。このようなパウロとペトロ・バルナバの衝突にもかかわらず、彼らはそこでの関係を修復し、主にある交わりと一致を保っていったということでした。その後出かけて行った第二回、第三回伝道旅行で、パウロは再び南ガラテヤの教会を訪問しますから、パウロがこの手紙を書き送ったガラテヤ教会は、パウロから離反して歴史から消えてしまったのではなく、むしろパウロとの関係を修復して、歴史に残されていったと理解できます。


 今回こちらの説に立場を変えた一番大きな理由がここにあります。これまでの説では、キリスト教はパウロの時代から、パウロのキリスト教とヤコブのキリスト教の二つに分裂していたと結論づけられていくことになります。パウロ、ペトロ、ヤコブ、バルナバといった指導者の間にも亀裂があり、分裂したままそれぞれの伝道をしていったと理解します。ガラテヤの教会も失われてしまったと見なします。わたしはそうではなかっただろうと今は考えています。ある方から問われました。あれだけの衝突をしたのに、ペトロとパウロが仲直りできたとはとても考えられないと。人間的に言ったらそうだと思います。実際にどうだったかは、天国に行ってから本人たちに聞くしかありません。しかしわたしは、わたしたちが信じているイエス・キリストの福音というものは、そうした人間的なしがらみや弱さを乗り越えさせていき、ぶつかり合いや衝突を乗り越えて、主にあって一つとしていく力を持っているし、パウロやペトロが伝えた福音とは、そういうものだったと信じています。和解の福音を宣べ伝えていったペトロとパウロたち自身も、その福音に生きたのであり、つまり二人は主にあって和解し、関係を修復できたからこそ、キリスト教が世界にまで広がっていくことができたのではないかと今は考えています。ルカは原始キリスト教の分裂状態という現実を虚偽で糊塗して、まるで薔薇色であるかのような虚構を記したというのではなくて、彼らが伝えた福音の力が、彼ら指導者たち自身をも一つにすると共に、教会をも一致させていったのであり、こうして福音は、ばらばらなわたしたちをイエス・キリストにおいて一つとし、個性ある人間たちをも一致させていく生きた力を持っていることを、これらの出来事は見せていくと考えるのです。しかしこうしたことについては、使徒会議を扱うところで考えていきたいと思います。ここではアンティオキア事件の、本当の問題は何かを掘り下げて考えていきたいと思います。


3.アンティオキア教会にあった交わり

 この出来事は、パウロとバルナバが第一回伝道旅行から戻ったときに起きました。その際、すでにペトロがアンティオキアに来ていたのか、それともパウロたちが戻った後にやって来たかは定かではありません。しかしいずれにしろ、あの十二使徒の筆頭であり、エルサレム教会の柱の一人であるペトロが来たということが、アンティオキア教会にとっては大きなことでした。そこで問題となったのは、ペトロがアンティオキア教会に来た当初は、そこに集う異邦人キリスト者とも一緒に食事をしていたのに、エルサレム教会からの兄弟たちがやって来たとき、彼らを恐れて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしなくなってしまったということでした。しかしそれはペトロ一人にとどまらず、彼ほどの重鎮が為したことは他のユダヤ人キリスト者にも大きな影響を与えて、バルナバも含めたアンティオキア教会のユダヤ人キリスト者全体が、同じ教会の異邦人キリスト者と一緒に食事をしなくなってしまったというものでした。ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者と、一緒に食事をすることをしなくなり、それはつまり交わりを持たなくなったということですが、どうしてそれが「非難すべき」ことであり、「面と向かって反対」するほどのことなのか、いぶかしく思う方もおられるかもしれません。たかが食事のことではないかと。


 アンティオキア教会は、元々ステファノの事件をきっかけとして生み出された教会でした。そこで起きた迫害によって散らされた人々、つまりエルサレムにいたユダヤ人キリスト者たちの内、アンティオキアまで行った人々によって設立された教会でした。そこで異邦人にも福音が語られるようになり、次第に異邦人キリスト者が増えていきます。そこで彼らを指導するためにエルサレムから派遣されたのがバルナバでした。そしてこのアンティオキアにおいて、彼らは「初めてキリスト者と呼ばれる」ようになります(使徒11章19~26節)。ここでエルサレムから散らされた人々は、ステファノの流れを汲むヘレニスト・キリスト者、つまり律法に対して自由な立場を取るユダヤ人でした。だから異邦人に対して寛大で、彼らを受け入れると共に、彼らと交わりをすることが可能でもありました。しかしこのことは、迫害を受けることなくエルサレムにとどまることができたヘブライスト・キリスト者には困難なことであったかもしれません。なぜなら彼らは律法遵守に厳格で、そこにある食物規定に鑑みて、異邦人とは一緒に食事をすることも、交際することも考えられないことだったからでした。そしてまさにそうしたことが、この後のエルサレム使徒会議で問題となっていくことになるわけです。しかしアンティオキアのユダヤ人キリスト者にとっては、それは大きな問題とはなりませんでした。そこでユダヤ人と異邦人とが一緒に食事をし、交わりを持つという、ユダヤ教では考えられないことが実現していった様子を見たとき、それはまさにキリストの僕の生き方だと外部の人たちが感嘆し、それが「初めてキリスト者と呼ばれる」ようになったことの一端でもあったのではないでしょうか。彼らは、ユダヤ人と異邦人という決して乗り越えられない壁を越えて、「キリスト・イエスにおいて一つ」とされていったのであり(ガラテヤ3章28節)、そのように一つの交わりに生きる姿こそ、キリストの弟子たちの真の姿だと(ヨハネ13章35節)、周りの人々も認めたのです。キリストが「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として」いった姿を彼らの内に見たのではなかったでしょうか(エフェソ2章14~16節)。ところがペトロの行動によって、この交わりと一致が引き裂かれていくことになってしまったのでした。


4.家の教会での食事の礼拝

 当時の教会は、全体が集まれるような大きな会堂を有していたわけではなく、基本的に「家の教会」でした。つまりいくらか大きな部屋を持った信者の家に周辺の信者たちが集まった、いわば家庭集会のようなものがいくつか寄り集まって、その全体を、たとえば稲毛海岸教会と称していたわけです。そしてそこでの集会の中心は食事でした。正確に言えば、パウロ時代の教会では、食事と礼拝とがまだ分離されておらず、食事の中で礼拝がなされていました(使徒20章7、11節、1コリント11章20、21、33節)。彼らは家ごとに集まって一緒にパンを裂きながら、かつて主イエスと共にした恵み深い食事の思い出を想起しつつ、その主がこの食卓にも臨在してくださり、今も同じように恵みと平和と祝福へと招いてくださっていることを覚えていきました。だから彼らは、問題に直面する中にあって食卓を囲み、パンを裂きました。そして、その問題にも主が共にいて、導いてくださることを信じて立ち上がっていったのです。困窮し、自分たちでは立ち行かなくなって途方に暮れるときにも、彼らは食卓を囲み、パンを裂きました。そして、そこで立ちすくむ自分たちのただ中に、主が共にいて、パンを裂き、祝福してくださることを信じて立ち上がっていったのです。希望を失い、絶望の淵に追いやられていったときにも、彼らは食卓を囲み、パンを裂きました。そこで主が、彼らの真中にお立ちくださって、「平和があるように」と主がご自分の平安を与えてくださることを信じて、立ち上がっていったのです。そこで彼らは繰り返しパンを裂きながら、大丈夫だと立ち上がることができました。なぜならそこにも主が共にいて、自分たちを祝福してくださっていることを信じることができたからでした。そしてそれを覚えるために、パンを裂いて、そこに臨在してくださる主を仰いでいきました。この「パン裂き」があったから、彼らは長く困難な迫害の中を耐えていくことができました。なぜならどんなにつらく、苦しかったとしても、そこに主が共にいてくださり、自分たちを祝福して、命のパンを分かち与えてくださることを信じることができたからでした。こうして彼らは、一つのパンを裂いて分かち合うことで、復活の主が自分たちと共にいてくださり、命の主がご自身の命を与えて、自分たちを立たせてくださることを信じていくことができたのでした。こうして「パン裂き」は、かつて主イエスと共にした食事を想起しつつ、その主がこの食事にも臨在してくださっていることを覚えるものとして、主イエスの弟子たちの礼拝、そしてキリスト教独自の礼拝となっていったのでした。


 このように最初のキリスト教会の礼拝は、食事の中で行われていました。食事の前にパンを裂き、神の祝福を祈り求めてから食事を始め、楽しい語らいの後に食後の感謝の祈りをささげ、その際ぶどう酒の杯を廻して飲んだのです。その食事の前から間に、主イエスについての思い出が語られたり、使徒の手紙が読まれたり、あるいは指導者からお勧めの言葉が語られたりして、最後は主イエスへの賛美でしめくくられていった、そのようにして主イエスに対する礼拝がささげられていきました。そこには食事を囲んでの楽しさと喜び、身も心も満ち足りていく思いがありました。そのような素朴な礼拝を「パン裂き」という言い方で表しましたが、それが「主の晩餐」とかユーカリスティア(感謝)と呼ばれるようになり、徐々に儀式されていく中でミサへと発展していくことになります。そこでは、かつて主イエスがしてくださった出来事や話などの思い出が想起され、分かち合われました。しかしその想起は、ただの思い出で終わりません。なぜなら主イエスは復活して、今も生きておられる方だからです。復活された主は、今もこの食事に臨席しておられ、わたしたちのために、手ずからパンを裂いて、わたしたちにお渡しくださっているのです。その確信の中でパンが裂かれました。そしてこのパン裂きには、復活の主イエスご自身が今もこの場に共にいてくださり、その主イエスを囲んで、主イエスとの交わりを喜び、また主イエスにあるお互いの交わりを楽しむという喜びと楽しみがみなぎり溢れていました。このように最初の教会の礼拝は、食事をする中で行われたということが特徴的なことでした。それは家々での食事による交わりであり、そこでの食事の交わりが礼拝なのでした。このように家ごとに集まって一緒に食事をし、パンを裂いて廻し、杯を廻して飲むという食事の交わりが、主イエスの弟子たちの礼拝であり、食卓を囲んだ食事が、最初期のキリスト教の礼拝でした。そこでは一つのパンを裂き、それを分かち合いながら、共に食しました。命のパンを共に食べ、同じ糧で一緒に養われる、そこで主にある交わりが生み出され、共に一つとされていったのです。同じ主イエスへの信仰を分かち合い、主に対する感謝と賛美によって一緒に立ち上げられていく、そこで教会は立たせられていきました。そして一つのパンを裂き、命のパンに共にあずかることによって、教会はお互い同士をも立たせていく交わりを造り上げていきました。そしてこの「パン裂き」が、キリストにある信仰者同士の交わりを生みだし、形成し、繰り返し一致させていく交わりの場となっていきました。「パン裂き」、これが最初の教会の礼拝であり、主イエスの弟子たちを特徴づける礼拝なのでした。「主の日」におけるキリスト者たちの礼拝は、食卓を囲んで楽しく語らいながら交わりを持つと共に、まさにその食事の中で説教がなされるというものでした。それは食卓の中での、食事の交わりの中でのものでした。それらは楽しい語らいと親密な交わりの中での、いわばテーブルトークだったわけです。


 ペトロがしたことは、こうした生き生きとした主イエスにあるユダヤ人と異邦人の交わりを引き裂き、その中心である礼拝を分裂させてしまったということでした。それはアンティオキア教会という教会が、もはやキリストにあって「一つ」であることを阻害し、分裂させてしまうという大きな問題を生じさせることになりました。他の信徒がしたことならともかく、他でもないペトロがそれをしたことは教会全体に大きな反響を呼び、とりわけユダヤ人キリスト者たちに決定的な影響を与えることになりました。バルナバさえ、それに引き込まれてしまうほどに決定的なこととなったのでした。ここでパウロが、ペトロに対して「面と向かって反対」したのは、単に彼と仲が悪かったとか、意見が違っていたという人間的な次元の問題ではなく、教会の交わりが危機にさらされ、礼拝が分裂するという憂慮すべき事態となったからでした。しかも事柄は真理問題でした。この背後にあることは、割礼を受けておらず、律法を遵守せず、とりわけ厳格に定められた食物規定を守らない異邦人キリスト者は、「汚れている」と見なすかどうかという問題でした。決してそうではないということ、そして律法を遵守するユダヤ人キリスト者とそれを守ってはいない異邦人キリスト者とが、それにもかかわらず一つの食卓を囲んで、一つの礼拝を守ることができるための処置が、エルサレム会議で諮られることになります。


5.ペトロのとった「見せかけの行い」

 しかしここでさらに明らかになったもう一つの問題は、このことに対するペトロの日和見な姿勢でした。彼が信仰的確信を抱いてそうしたというのなら、まだ問題は軽かったと言えます。しかし彼はそうではありませんでした。それは「心にもないことを行」ったのであり、「見せかけの行い」であることをパウロは見抜いたのです(13節)。なぜならペトロは、それは間違っていることを理解しているはずだったからでした。しかし彼はここで、エルサレムからやって来たというユダヤ人キリスト者、つまり「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし」たのでした(12節)。ペトロは、神を畏れるのではなくて人を恐れて、このような行動に走った、そうして「福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていない」ことが(14節)、「非難すべきところ」であり、パウロが「面と向かって反対」したことでした(11節)。ペトロは、ローマの百人隊長コルネリウスとの出会いによって、神ご自身から「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」ことを示され、「神は人を分け隔てなさらないこと」を教えられていました(使徒10章28、34節)。そこで彼は「割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」わけで(11章3節)、彼はそれを信仰的確信に基づいて行いました。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」ということは(10章35節)、そこでユダヤ人キリスト者の上に起こされたのと同じように聖霊が降されるという、あのペンテコステの出来事が再現されたことによって、神が証明されたことでした(10章44、45節、11章15、17節)。こうしてペトロは信仰的確信に基づいて「異邦人と一緒に食事をしていた」わけで(ガラテヤ2章12節)、そのことが「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活している」とパウロから指摘されたことでした(ガラテヤ2章14節)。ここで言う「ユダヤ人らしい生き方」とは、かつてのペトロがそうであったように、「清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」ということであり(使徒10章14節)、また「外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられてい」るとして、それを避けるということでした(使徒10章28節)。しかしもはやそのようにはペトロは生きていませんで

した。ですからここでペトロが、異邦人キリスト者と一緒に食事をすることから「身を引こうとしだした」のは、信仰的確信に基づくことではなくて、あくまでも「割礼を受けている者(ユダヤ人キリスト者)たちを恐れてしり込みし」たから、つまり人を恐れたからでした(ガラテヤ2章12節)。これまではうっかり異邦人とも一緒に食事をして、律法を破り、身を汚してしまったけれど、それが誤りであることを知って反省し、これまでの行いを正して、そうするようになったというのではないのです。そのようにして、エルサレムからやって来たユダヤ人キリスト者たちから、自分の行いの間違いを指摘されて、その非を認めたから、彼らに従うようになっていったというのではありませんでした。


 なぜなら、この後に持たれたエルサレム会議で、あのコルネリウスの出来事を踏まえて、次のように発言します。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさった

のです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と(使徒15章7~11節)。ペトロは、異邦人と一緒に食事をすることが間違った

ことであると認め、それを反省したために、彼らとの交わりを避けるようになったわけではありませんでした。彼自身は、それは福音に照らして、決して間違ったことではないことを理解していました。それにもかかわらず、このような行動に出たのは、彼が「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし」たからであり、つまり人を恐れたからでした。だからパウロは、「心にもないことを行」った「見せかけの行為」だと非難し、それは

「福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていない」ことになると指摘したのでした。ここでペトロは、神を畏れる生き方を貫くことをせず、人を恐れたということに、この失敗の問題がありました。かつて最高法院に引き出されて取調べを受け、命の危険にさらされたときに、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と雄弁に語ることができました(使徒4章19節)。また十二使徒全員が逮捕され、最高法院の前に引き出されたときにも、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く宣言しました(使徒5章29節)。そのペトロが、今は人を恐れて、福音の真理を知りながら、それを捻じ曲げることをし、しかも多くの人をもそれに巻き込んでしまったのでした。ここにペトロの人間としての「弱さ」を見ることができます。この「弱さ」と失敗の原因はどこにあったのでしょうか。


6.主イエスから目を離さない

 かつてペトロは、嵐の中で漕ぎ悩み、恐怖に怯えたとき、そこにおいでくださった主を認めました。そして思わずこう言ったのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と。そこで主「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」のでした。ところが「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」ということがありました(マタイ14章22~33節)。そこで湖の上を歩くことができたとき、ペトロはしっかりと主イエスを見ていました。ところが横から強い風が吹き、大波が押し寄せる様を見て、沈んでしまったのでした。主イエスから目を離し、別のものへと目をそらしたとき、ペトロは沈んでしまいました。かつて神殿の門の前で、「主イエスの名によって」と力強く宣言したときには、死を恐れることなく「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く宣言することができました。しかし今、主イエスから目を離し、人を見たとき、それが福音に反する生き方となることを知りながら、異邦人との交わりから離れていったのでした。ペトロの「弱さ」と失敗の原因、それは主イエスから目を離してしまったということではないでしょうか。わたしたちは、どこを見ているでしょうか。誰を見つめながら、生きているのでしょうか。そして何を恐れているのでしょうか。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12章1、2節)。