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第25課 神の国に入るまでに与えられる「苦しみ」の意味

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第25課:神の国に入るまでに与えられる「苦しみ」の意味(使徒言行録14章19~28節、2011年8月21日)


《今週のメッセージ:神の国に入るまでの「苦しみ」(ガラテヤ2章20節)》

 リストラで殺されそうになったパウロは、それでもこれらの町を再び訪れて、「弟子たちを力づけ、信仰に踏みとどまるように励まし」ますが、そこで語った言葉は、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてならない」というものでした。どうして「苦しみ」に遭うのでしょうか。パウロにも彼を苦しめ、痛め続けていた「サタンから送られた使い」がありました。しかしその「とげ」が「恵み」であることを教えられていきます。体と心を責めさいなみ続けるとげに打ちのめされる中で、パウロは自分の弱さ、足りなさ、無力さを覚えさせられていきました。そして自分の弱さを思い知ることの中で、本当の強さを知るようになっていきます。それは自分自身の強さではなくて、弱い自分を立たせていくキリストご自身の強さでした。「キリストの力がわたしの内に宿る」ことで、「わたしは弱いときにこそ強い」ということを知るに至ります。そこで「とげ」は、パウロが自分の力によってではなく、真実にキリストに依り頼んで生きていくということを知るに至らせる「恵み」の道具でした。こうしてキリストが自分の内で生きてくださり、弱い自分を生かし、立たせてくださることに依り頼んで生きる者とされていったのでした。


1.苦しみと試練も「神の恵み」

 リストラで、生まれつき足の不自由な人を立ち上がらせたことで、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と、あやうく神として祭り上げられるところだったパウロでした。ところがただの人間に過ぎないと分かると、今度は一転して人々からの石打ちにあい、ほとんど瀕死の状態となります。そして「死んでしまったもの」と思われたパウロは町の外に引きずり出されて、捨てられます。この小アジア地方の伝道においてパウロは、アンティオキアで迫害され(13章50節)、次のイコニオンでも石を投げつけられそうになりながら(14章5節)、それでも何とか難を逃れてくることができました。しかしリストラでは、ついに石を投げつけられて、人々が死んだと思うほどの瀕死の重傷を負うのです。「弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った」(20節)というのは、実はパウロの怪我がたいしたものではなかったからということではなくて、本当は瀕死の状態であったにもかかわらず、奇跡的に癒されて、立ち上がるほどの力を得たことを意味しています。


 群集心理というのは恐ろしいもので、このように手の平を返すようなことを平気でします。それはかつて主イエスがエルサレムに入城された時、「ダビデの子にホサナ」と喜んで迎え入れたエルサレムの群衆が、数日後には「十字架につけろ」と叫ぶのと同じです。別の人々がそのように叫んだのではなくて、同じ人々がそうするのです。そこにわたしたちの問題があります。結局は自分が中心であり、自分の思い・願い・都合が中心となってすべてを判断していくからです。自分に都合のよいときには「主よ、主よ」と持ち上げても、ひとたび自分に利用価値がなく、あるいは不利となると、すぐにその主を捨てるのです。ここでも最初はゼウスとヘルメスの来訪かと慌て、あわよくばそれによってご利益を得ようと躍起になって礼拝をささげようとしたわけですが、その期待が物の見事に裏切られると、その腹いせに今度はパウロに石を投げつけます。ここでパウロを拝もうとしたのも、石を投げつけたのも、どちらも同じ思い、つまりご利益信仰からでした。それは自分の腹を神とする信仰で(ローマ16章18節、フィリピ3章19節)、結局自分自身が神にすぎません。しかしそれは、二千年前のエルサレムやリストラの群衆だけでしょうか。主イエスを信じると言っているわたしたちはどうでしょうか。わたしたちの主への信仰、主への真実は、どのようなものでしょうか。目先の出来事や現象から神の愛と恵みを判断し、自分に都合よく行く時には信仰に熱心でも、自分の思い通りや願いどおりにならなくなってくると、その神への信仰は揺らぎ、主への熱心が薄らいでいくとするなら、そのような信仰は手の平を返したエルサレムやリストラの群衆とどこが違うのでしょうか。パウロ自身も、そのような信仰だったら、このあたりで見切りをつけ、さっさと信仰を捨ててしまったことでしょう。パウロは、これまでもこれからも何度も主のために苦しみ、命の危険にさらされます。しかしそこで自分が考えるように守ってくれなかったからとか、自分が願うように助けてくれなかったからという

ことで、パウロは信仰を捨てることがありませんでした。主の守りというのは、そのようなものではないからです。わたしたちが期待するような守りや、願うような助けばかりが、主の守りなのではありません。主は、わたしたちが考える以上の守りを与え、期待以上の実りをもたらす導きをくださる方なのです。


 しかしそれはそうと、そもそも主はここでパウロを守ることができなかったのでしょうか。ここではパウロが殺されそうになったというのに、手をこまねいているばかりで、どうして助けてくださろうとはなさらなかったのでしょうか。いいえ、主はパウロを助けてくださったし、守り抜いてくださったのでした。その証拠が、ここでパウロは殺されることがなかったということであり、瀕死の重傷を負いながら、その場ですぐに立ち上がることができるほどに回復したということでした。パウロは、身に受けた怪我がたいしたものではなかったのに、いかにも死にそうになったふりをしたので、民衆はそれに騙されて死んだものと思い、石を投げるのをやめたから助かった、というのではありません。パウロは事実、死の一歩手前だったわけですが、そこから再び立ち上げられたのでした。そこに、パウロを守り抜き、助けきってくださる主イエスの御手があったことを、わたしたちは見るのです。しかもここでルカは、パウロがあやうく殺されかけたことが、ふってわいた不幸や巡り合せが悪かったかのようには考えていないことに注意する必要があります。この後アンティオキアに戻った彼らについて、「そこは二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所」だと記しました(26節)。これまで一巡りしてきたすべての行程において、それらのすべては「神の恵みにゆだねられ」たものだとしたのです。このリストラだけは神の恵みが足りなかったから、とんでもない事件に巻き込まれたとか、リストラの時には主は他所を向いていて忙しかったため、彼らを守りきれなかったのだとは言われないのです。ここでパウロが殺されそうになったことも、瀕死の重症を負うほどに苦しめられたことも、それは「神の恵み」だと言われるのです。そこで彼は命の危険から守られましたし、すぐに立ち上がる力を与えられました。こうしてこれらの出来事のすべてに神の御手が働いており、そこでの出来事のすべては「神の恵み」だと言われるのです。ここで言う「神の恵み」と

は、わたしたちが勝手に思いつくものや、自分が思い描くようなものとは違うものだということに、気づかせられていくのです。


2.苦しみの中での神の助けと守り

 ここで殺されそうになったパウロは、強靭な精神の持ち主だったから、これくらいのことはなんでもなかったと思われるでしょうか。しかし後にパウロはこういった苦しみを振り返り、こう述べています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」と(2コリント1章8~10節)。またこの時のことを振り返って、テモテにも、「あなたは・・・アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と述懐します(2テモテ3章10~12節)。パウロにとっ

ても、このときの苦難は尋常なものではなかったことが分かります。しかしそこでパウロは、まさにそこから主が自分を救い出してくださったと告白し、感謝するのです。しかもこれに懲りて、パウロはもう二度とこれらの町を訪れなかったというのなら、分かるのですが、なんとパウロは命の危険のあるこれらの町を再び訪れ、そこにいる弟子たちを励ましていきます(21、22節)。そこでパウロが彼らに語った言葉が、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてならない」というもので、そこでパウロは「弟子たちを力づけ、・・・信仰に踏みとどまるように励ました」のでした(22節)。そしてそれぞれの教会に長老を任命して、彼らがしっかりとその地で信仰生活を営み続けていくことができる算段をしていきます。その地で殺されそうになったパウロの勧めは、彼らにとっては何と説得力を持ったことでしょうか。パウロの体には、このような各地で受けた迫害の傷跡が生々しく残されていたことでしょう。「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤ6章17節)と語るとおり、主人の所有物であることのしるしとして奴隷に焼き印が押されるように、パウロには主イエスの僕・奴隷として、主のために苦しみ、その苦しみの跡が体に心に刻みつけられていたのでした。そのパウロが「神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と語って、しっかりと信仰に踏みとどまり続けていくように励ましていったのです。


 このことをパウロは、同じように迫害と困難に苦しむ諸教会にも書き送りました。「このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました」(1テサロニケ3章3、4節)。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)。しかしそれでは、どうしてわたしたちは苦しまなければならないのでしょうか。またどうして苦しむことは「恵み」なのでしょうか。ペトロはそれについて、「あなたがたは、今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と答えました(1ペトロ1章6、7節)。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で苦しみに遭っているのです。・・・しかしあらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを栄光へ招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(同5章9、10節)と。こうしてわたしたちの信仰が精錬されていき、ついには完全な者とされていくために、「苦しみ」が「恵み」として与えられるのだと教えられるのです。


3.「とげ」を通して弱さを知る

 前回わたしたちは、パウロが語る「生ける神」について考えていきました。その「生ける神」とは、わたしたちを生かす神であり、わたしたちが生きていくために必要なすべてのものを備えてくださる方だということでした。しかしそこで神が与えてくださるものの中には、わたしたちには必要ないと感じたり、欲しくないと思うようなものもあります。パウロにとってそれは彼自身の身体に与えられた「とげ」でした(2コリント12章7節)。それは「サタンから送られた使い」であり、それによってパウロは苦しみ続け、痛められ続けていました。しかしまさにその「とげ」によって、パウロは深いことを教えられていきます。体だけではなく、心をも責めさいなみ続けていく「とげ」に打ちのめされていく中で、パウロは自分の弱さ、足りなさ、無力さを深く覚えざるをえませんでした。しかしこうして打ちのめされていくことの中で、まさにそのところでパウロは、逆に立ち上げられてもいきました。それは自分ではなくキリストが生きてくださっている、つまりキリストが自分の内で生きて、弱い自分を生かし、立たせてくださっていることを知るようにされていったからでした。自分の弱さを思い知る、そのところでパウロは本当の強さを知りました。それは自分自身の強さではなくて、弱い自分を立たせていく、キリストご自身の強さでした。そこでパウロは、「キリストの力がわたしの内に宿る」のであり、だから「わたしは弱いときにこそ強い」ということを知ったのです。


 そしてこのキリストの力は、自分の弱さの中でこそ発揮されることを知ったとき、「わたしの恵みはあなたに十分である」とは、どういうことかをも知ることができました。自分の強さを誇り、それに依り頼んでいたときには、本当の意味でキリストの力に生かされ、また立たされるということを知ることができませんでした。どこかでやはり自分の力で立とうとしてしまうからです。しかし自分の弱さを思い知り、打ちのめされることを通して、自分の中でキリストが生きて働かれることを徹底的に思い知る者とされていきましたが、そのように主の力と強さを知ることができたのは、自分自身が徹底的に打ち砕かれたからでした。自分の力や自信が徹底的に打ち砕かれて、ただ主に依り頼む以外にはもう生きていく術がないほどまで追い詰められたからこそ、その弱い自分の中で主が生きて働かれることを知り、自分が弱いときにこそ本当に強くなれること、そして自分の強さではなく、主の強さと力とによって、その弱い自分が立たせられていくということを知るに至ったのです。そしてそのような理解へとパウロを導いたのが、自分を打ち砕いた「とげ」でした。だから「とげ」が置かれ、それが取り除かれることなく繰り返し「とげ」に苦しみ続けることが恵み」なのだと知ったのです。こうしてキリストの力は、自分の弱さの中でこそ十分に発揮されることを知ったとき、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」ということができました。なぜなら、まさにその「とげ」によって、「わたしは弱いときにこそ強い」ことを本当に知ることができるようにされていったからです(2コリント12章9~12節)。


 そのことを言い表したのが、次のパウロの言葉でした。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)。それは弱い自分の内に力の主が自分の命となって生きてくださり、内側から自分を生かし、立たせてくださることを本当に実感する中で語った言葉だったのではないでしょうか。そこでパウロはさらにこのようにも語ることができました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と(2コリント4章7節)。そうやってキリストのために苦しみ、「イエスのために死にさらされて」いる自分自身の中で、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」ことをも、知るようになっていったのでした(同10、11節)。それが「生きるとはキリスト」ということであり(フィリピ1章21節)、それはキリストが自分の内で命となって輝き、力となって立たせることで、キリストにあって、キリストと共に、キリストのために生きるようにされていったということなのでした。いつも自分の祈るように道が開かれ、願いがかなうならば、神は必要なくなります。そしてわたしたちはいつの間にか、自分の力と知恵で歩いていると勘違いし始めるようになるでしょう。わたしたちがそこで困窮する事態に直面させられるのは、そこで切実に祈らせられることにより、自分には本当に神が必要であり、神の助けなしには自分は歩いていけないことを思い知るためです。そしてその神の働きの中で自分が生きていることを知って、真実に神に依り頼むようにされていくためです。そのために、わたしたちにも「とげ」が与えられるのかもしれません。しかしその「とげ」こそは、わたしたちを真実に主へと結び合わせ、主にあって生きる者とされていくための、神の「恵み」なのです。こうして生まれながら足の不自由だった人を起き上がらせた主は、瀕死の重傷を負い死にかけたパウロをも立ち上がらせてくださいました。同じ主が、時として心を弱らせ、時として問題に直面して倒れ伏してしまうわたしたちをも、起き上がらせて、「生ける神」なのです。