第24課 恵みをもって喜びで満たしてくださる「生ける神」

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第24課:恵みをもって喜びで満たしてくださる「生ける神」(使徒言行録14章11~18節、2011年8月14日)


《今週のメッセージ:恵みにより喜びで満たす「生ける神」(2コリント12章7~9節)》

 パウロは異邦人に、偶像を離れて、生けるまことの神に立ち帰るよう呼びかけました。生ける神とは、天と地と海とその中にあるすべてのものを造られた方であり、命の創造者として命を与え、命を支え、命を養ってくださる方でした。「すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださる」命の主です。ですから「生ける神」とは、ご自身が命をもって生きておられる方だというだけではなくて、他のすべてのものに命を与え、生かしてくださる方でもあります。この「生ける神」こそわたしたちの命の源であり、わたしたちが生きていく上で必要なもののすべてをお与えになる方であり、しかもわたしたちが生き生きと生きるために必要なもののすべてを備えてくださる恵みの神です。しかしそこで与えられるものの中には、わたしたちにとって必要だとは思えないものもあるかもしれません。できれば除いてほしいと思うものもあるかもしれません。しかし神がお与えになるものに無駄なものは一つもありません。そこで与えられるもののすべては、実は「恵み」なのです。ですから『わたしの恵みはあなたに十分である』と約束してくださる「生ける神」を信頼して、それらのすべてを信仰をもって受けとめていきたいと思います。


1.偶像礼拝に対する拒絶

 リストラでは、生まれながら足の不自由な人が突如として癒された出来事が起こりました。そしてそれを見たとき、町の人々はまさにパウロとバルナバこそ、かつて町を訪れた神々の再来だと興奮し、あわてて彼らを礼拝しようとします。こういう事態が生じた、理由がありました。パウロが伝道したリストラを含む小アジア地方には、寄りそうによって立っている二本の樫の木について、昔からこんな言い伝えがありました。ユピテルというギリシャ神話の神がその息子と連れ立ってフリュディアに行った時、一夜の宿を求めますが、みすぼらしい格好をした彼らを迎え入れてくれる家は一軒もありませんでした。しかし町のはずれでひっそりと暮らしていたピレモンとバキウスという老夫婦は、彼らを憐れに思い家に迎え入れます。とはいえ、非常に貧しく慎ましい生活をしていた二人が提供できる食事もベッドも貧相なものでしたが、それは心のこもったもてなしでした。二人の心づくしを喜んだユピテルは、自分の正体をあかし、二人の貧しいあばら家を金色に輝く豪華な御殿に変えた上で、何でも願いのものを与えようと申し出ます。しかし年老いた二人の願いは、二人が一緒に最後まで寄り添い、一緒に死ぬことでした。そして二人の願いはかなえられ、いつのまにか二人の体は樫の木に変わり、寄りそうにしていつまでも一緒にそこにいるというものです。ここでパウロとバルナバを神々と誤解して、町中の人たちが二人に礼拝をささげようとした背景には、この言い伝えがありました。かつて神々がおでましになったとき、町の人々は迎え入れないという失礼をした、しかし迎え入れた老夫婦には身に余るご利益が与えられた、そこで生まれながら足の不自由な人が突如として癒された出来事を見たとき、町の人々はまさにパウロとバルナバこそ、かつて町を訪れた神々の再来だと興奮し、あわてて彼らを礼拝しようとしたのです。それも誰もが他の人に先んじて我先に礼拝しようとしたのですが、そこにはかつての老夫婦がご利益にあやかったように、自分たちもという下心が見え隠れしていました。


 思いもかけない事態に、パウロとバルナバは大慌てで群衆の中に飛び込み、自分の服を引き裂きながら、それを止めさせようとします。「みなさん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と(15節)。服を引き裂くという行為は、激しい悲しみや悔い改めを表現したもので、パウロたちがこの事態をどれほど残念に思っているかを何とか分からせようと、思わずしてしまった行為でした。ユダヤ人にとっては、人間を神とすること、人間に礼拝をささげることほど忌まわしいことはなかったからでした。それは、どんな人間でも死ねば仏とされ、誰でも天国に行けると考える日本人には理解しがたいことですが、人間を神として崇め、人間に礼拝をささげることを、ユダヤ人は命を賭けて拒絶しました。神と人間との間には絶対的な相違があり、人間を神とすることはありえないし、それを偶像礼拝として拒絶するのがユダヤ人だったのです。そのユダヤ人であったパウロたちにとっては、自分たちがまことの神の僕として、生けるまことの神を告げ知らせるためにこうして伝道をしているのに、その自分たちが神々として拝まれるということは、まったく考えられない事態でした。とんでもないことだ、と言わんばかりに、思わずパウロたちは自分の服を引き裂いて、人間を神として拝むことの愚かさと忌まわしさと嫌悪感とを表したのでした。ペトロも自分の前に膝づいて礼拝しようとしたコルネリウスに対して、彼を起こしながら言いました。「お立ちなさい。わたしもただの人間です」(使徒10章26節)。またヨハネがパトモス島で幻を見せられた時、自分を案内してくれた天使に思わずひれ伏した時、天使も言いました。「やめよ。わたしはあなたとイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ」と(黙示録19章10節、22章9節)。ここには、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4章10節、申命記6章13節)との信仰がこだましています。彼らユダヤ人は、一切の偶像礼拝を排して、ただ主なる神のみに礼拝をささげることに、自分の命を賭けた人々でした。そしてその唯一の神への信仰、偶像礼拝を命を賭けて拒絶し、人間に礼拝をささげることを拒絶する信仰を、キリスト教も受け継いでいるのです。当時のローマ社会で、「主なる神・神の子・救い主」と自称し、自らへの礼拝を強要したのがローマ皇帝でした。その皇帝に対する礼拝を拒絶して、ただ一人のまことの神への礼拝に自分の命を賭けていったのがクリスチャンだったのです。ここでパウロも、「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせている」と明言します。パウロの福音宣教とは、真の神を知らない異邦人たちが、そうした偶像を離れ、人間を神とする偶像礼拝をしりぞけて、正しいまことの神へと立ち帰らせるためのものだったのでした。


2.生きるために必要なすべてを与えてくださる「生ける神」

 そこでパウロが語った説教が、15節以下に記されています。そこで語った内容は、唯一の生けるまことの神を知り、信じ、崇めているユダヤ人に対するものとは違っていました。ユダヤ人には、そのまことの神を前提とし、また聖書の預言を通して、まっすぐにイエス・キリストによる救いを語ることができました。しかし偶像礼拝に生きる異邦人に対して、まず語らなければならなかったことは、生けるまことの神のことでした。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」と。聖書は、この生きたまことの神、天地を創造された神に対する信仰で息づいています。詩編は「天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神」と詠い(146編6節)、その信仰を受け継いだ使徒たちは、迫害の最中にあって「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と祈りました(4章24節)。そしてパウロ自身も、アテネでやはり異邦人相手に説教したとき、道を歩きながら『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけたことに触れ、彼らが知らずに拝んでいるものを知らせましょうと言って、「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」と語りました(17章22~25節)。ここでは二つのことが語られます。このまことの神とは、天と地と海とその中にあるすべてのものを造られた方であるということと、命の創造者である方が命を与え、命を支え、命を養ってくださるということです。「すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださる」神こそ、命の主です。ですから生ける神とは、ご自身が生きておられる方だというだけではなくて、他のすべてのものに命を与え、生かし続けてくださる方でもあるということです。生ける神こそ、わたしたちの命の源であり、そこで生きていくために必要なすべてのものをお与えくださる恵みの主です。


 このリストラでもパウロは、「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません」と言って、「恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と語るのでした(17節)。つまりわたしたちが生きてゆく上で必要なすべてのものを備え、与えてくださることで、わたしたちを養い、命を支えてくださる方だと言うのです。そこで言われる命」とは、単に物理的なものばかりを言うのではありません。体の命が支えられるように、身体的な必要が満たされるということだけではありません。わたしたちは、ただ食べるものがあれば生きていられるというわけにはいかない面を持っているからです。ただ単に身体的な必要が満たされるだけではなくて、精神的な必要、霊的な必要が満たされることで、初めて「生きている」と言える状態になります。そこには、喜びや希望、慰めや励まし、生きがいや意欲といったものも必要で、ただ身体的に生存しているといっただけのことではなくて、生き生きと輝いて生き、喜びと希望に満ちあふれて生きていくことができるようにされるということです。命の主である「生ける神」は、そのような心の必要をも満たして、わたしたちを生かし、かつ生き生きと生きることができるように、必要なすべてのものを備えて、与えてくださるのです。生ける神とは、すべてのものを生かす神なのです。


3.問題も「恵み」であるということ

 しかしそこで与えられるものの中には、自分にとっては必要ないと思うようなものや、できればいらないものさえあるかもしれません。欲しくもないものまで与えられると思うこともあります。しかしそれは自分がそう感じるということであって、神の方では必要だとお考えだからお与えくださったものかもしれません。ここ一ヶ月ほどずっと、体の痛みが取れないばかりか、ますますひどくなっていき、机仕事ができなくなってしまっています。かといってしなくていいわけではありませんから、とても困っています。ついに先週は痛みが全身に廻り、動かすことはおろか、起き上がることも困難になっていて、鎮痛剤を飲み、座薬を使用して、かろうじて痛みを抑えながら仕事をしています。しかし薬は数時間しか効かず、連続して使用できないため、効いている間に必死に仕事をしますが、しばらくすると痛み始め、次の薬を使用できるようになるまでは痛みでのた打ち回るという状況です。今日も薬が午後礼拝まで効いてくれるかどうか祈りながら、奉仕をしています。このような状況の中で、今日のテキストに向かい合って準備したわけで、今日は生けるまことの神が、わたしたちの必要をすべて満たしてくださる恵みの神であるということが主題ですが、そのことをこのどうにもならない状況の中で考え続けていきました。なぜならそれは皆さんも同じだと思うからです。わたしたちはそれぞれに体の痛みや心の問題といったものを抱えながら、毎日を生きているわけです。その中で心も重くなり、場合によっては病んでいくということさえあります。しかもそうした問題や痛みは、なかなか解決のめどが立たず、状況も良くなっていかないということの方が多いわけで、わたしたちもそれぞれに、ときには立ち往生した思いで、このことを見つめているのではないでしょうか。神がわたしたちに与えてくださるものの中には、欲しくないと思うものもあります。どうしてこのようなものを神はわたしにお与えになるのか、どうしてこのようなことがわたしに起こることを神は許されるのか、わたしたちには理解できないし、受け入れられないこともあります。しかしだからもう一度お話ししなければなりません。そのことも、わたしに必要なものだから、神はわたしにお与えになったのだと。これはわたしには必要ないと感じるのは、どこまでも自分の考えであって、神の方ではそうではない、必要だとお考えになられたからこそ、与えてくださったものかもしれません。


 ですからそこでは自分の判断基準ではかるのではなくて、神の判断基準を信頼して、それを受け取る必要があるのではないでしょうか。この夏の忙しいときに、痛みが取り去れないばかりか、ますます痛みが広がり、ひどくなっていき、ベッドの上でころげ廻りながら今日の準備をしている中で、ずっと心に思い浮かんでいたパウロの言葉があります。自分とパウロを並べて考えるのは、おこがましいのですが、しかし自分の心には、この言葉がありました。それが礼拝の備えで読んでいただいた言葉です。2コリント12章7~9節にある言葉で、パウロが思い上がらないようにと与えられた「一つのとげ」のことでした。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(2コリント12章7~9節)。この「とげ」がどのようなものかは分かっていませんが、パウロを心身ともに苦しめ抜いた身体上の痛みや病気、あるいは障害と考えられています。いずれにしてもそれは、パウロにとって激しい痛みを引き起こし、大きな苦しみとなって、福音宣教をする上でも大いに妨げとなったものでした。だからパウロは、それを「サタンから送られた使い」とさえ表現しているほどです。ですからパウロは、これを取り去ってくださるようにと必死に祈りました。しかしそれに対する主の答えは、『わたしの恵みはあなたに十分である』というものだったのでした。パウロを痛めつけていたこの「とげ」が、主の「恵み」だと言われたのです。痛みや問題、苦しみや悩みが「恵み」だと。このことを深く考えさせられます。


 わたしたちにも、できれば取り去っていただきたい苦しみや悩みがあります。変えていただきたい困難な問題や状況があります。除いていただきたい病気や痛みがあります。もちろんそれが取り去られたり、変えられていくなら、それも感謝です。しかし必ずしもそうではないものもあります。そしてその中でわたしたちは苦しみ続け、悩み続けているのです。それを取り去っていただきたいと、どれほど願ってきたことでしょうか。しかしそれが御心なのではなく、わたしたちに対しても、『わたしの恵みはあなたに十分である』と答えられることもあるのではないでしょうか。どうしてそうなのかと、主の御心を受けとめきれずに、なお悶々と悩み苦しむとき、ここで「生ける神」は、わたしたちが生きていく上で必要なもののすべてをお与えになる方であり、しかもわたしたちが生き生きと生きるために必要なもののすべてを備えてくださる方であることを覚えていきたいと思います。そこで与えられるものの中には、わたしたちにとって必要だとも思えないものもあるかもしれません。しかし神がお与えになるものの中には、無駄なものは一つもありません。そしてそこで与えられるもののすべては、「恵み」なのです。神がわたしにお与えになるものに、不必要なものは一つもなく、無駄なことも一つもない、そのことを今は受けとめられないとしても、それがわたしに必要だから与えられたのだと考える必要があるのです。そのように受けとめることができなかったとしても、必ず主がそのようにしてくださることを信頼して、それを信仰をもって受けとめていきたいと思います。


 今から450年前の宗教改革の時代、わたしたちの先輩も、同じ問題を抱えながら、苦しみました。しかしその苦しみと悩みの中で、次のように告白しつつ困難を乗り越えていきました。「わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを信じて疑わないのです」と(『ハイデルベルク教理問答』問26)。そして「神の摂理」については、「全能かつ現実の、神の力」だとした上で、こう告白しました。「それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、わたしたちにもたらされるのです」と(同、問27)。わたしたちの体と魂に必要なすべてのものを備えてくださる神は、わたしを涙の谷間をも通らせる方であり、またそこで災いさえくださる方でもあるのです。しかしそれらのすべては「わたしのために益としてくださる」ためのものだと言うのです。わたしたちは雨や豊作の年、健康や富が欲しいです。しかしそれをお与えになる神は、ひでりや不作の年、病気や貧しさをもお与えになる方でもあります。そんなものは欲しくないと思う、それらのすべても、しかしわたしにとって必要なものだから与えられるものなのです。ただわたしたちの思いや願いをかなえてくれる便利な神ではなくて、たとえわたしたちが欲しくないとしても、それが本当に必要なものであるなら、それをお与えになる神でもある、それが神の恵みなのです。ときとしてわたしたちは、この「神の恵み」が分からなくなり、見えなくなります。心の「ひでり」の中で心がカラカラに渇いてしまい、何を聞いても心に響かなくなることがあります。聖書の言葉が心に入ってこないときもあります。祈りの言葉が絞り出しても出てこないときもあります。それは自分が不信仰だからでしょうか。神がそのようなときを許されることもあります。だから神を信じるのです。わたしたちは最初に、生ける神とはご自身が生きておられる方だというだけではなくて、他のすべてのものに命を与え、生かし続けてくださる方でもあること、そしてわたしたちが生きていくために必要なもののすべてをお与えくださる恵みの主であることを考えました。だからここでも、「この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださること」を信じるのです。これが「生ける神」を信じる信仰ではないでしょうか。それは、どのようなことにおいても、この方を

「恵みの神」として信頼していくということなのです。この礼拝は、次の言葉で始められました。「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」と(詩編90編13~15節)。わたしたちも、この詩編の詩人と共に、この祈りを生ける神に祈りたいと思います。