第21課 救い主なるイエスへの信仰(問29~30)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第21課:救い主なるイエスへの信仰(問29~30)


1.イエスという名の意味

 これまでは「使徒信条」の第一部、天地の造り主、全能の父なる神について考えていき

ました。これからは第二部、神の御子、わたしたちの主イエス・キリストについて考え、

最後に第三部、聖霊なる神について考えていくわけですが、しかしここで大切なことは、

これらの三つを切り離して考えてはならないということです。わたしたちは三つの別々の

神々を信じるのではなくて、父・御子・聖霊においてただお一人の神である三位一体の神

を信じます。そのことを踏まえた上で、この信仰告白の中心は真ん中にある主イエス・キ

リストに対する告白にあるということも覚えていただきたい。分量からいっても第二部が

長々と告白されていますが、ただ分量だけではなく、それだけ中心的な位置をもっている

ということでもあり、また第二部(イエス・キリスト)との関連で第一部(父なる神)と

第三部(聖霊)が告白されることにもなります。わたしたちの神への信仰は、漠然とした

ものではなく、あくまでも「イエス・キリストの父なる神」への信仰なのです。「父のふ

ところにいる独り子である神、この方が神を示された」のであり(ヨハネ1章18節)、

「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とあるように(同14

章6節)、わたしたちはどこまでもキリストを通してまことの神に至るのであり、キリス

トはわたしたちの信仰の中心です。だからわたしたちは、天地の造り主、全能の神を、

「主イエスの父なる神」として信じるのです。また聖霊を、「主イエスの霊」として信じ

告白します。ですから「使徒信条」の中心は、神の御子イエス・キリストへの信仰にある

ということを覚えていただきながら、第二部に入っていきたいと思います。


 第二部では、まず最初に「われは神の独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と

全体を要約してから、この方の誕生から十字架の死と復活、昇天、再臨までを告白してい

きます。教理問答は、その一番最初の「イエス」と告白することについて教えていきま

す。そこでこのイエスという方とは、一体どのような方かと問うとき、まずこの方の

「名」から始めました。「名」を問う問いから、この方とは一体どなたであるかを尋ね

たのです。今日では、必ずしもその人の「名」と人格とが一致するわけではありません。

しかし聖書の世界では、「名」はその人自身を体現するものであり、「名」は実体を現

わしました。「イエス」とは、イェホシュア=ヨシュア「主は救い・救い主」という意味

の、ありふれた平凡な「名」にすぎませんでした。旧約聖書には、主イエスの予型となる

二人のヨシュア、ヌンの子ヨシュアとヨツァダクの子ヨシュアが登場します。ヌンの子ヨ

シュアは、エジプトから脱出したイスラエルの民を、約束の地カナンへと導き入れた指導

者であり、ヨツァダクの子ヨシュアは、バビロン捕囚からの帰還民の指導者、大祭司で

(ゼカリヤ6章10、11節)崩れ落ちた神殿を再建するために尽力した人物でした(エズ

ラ5章2節)。どちらも神の民を約束の地、安息の地へと連れ上る働きをすることで、主

イエスを予型しました。主イエスはこの二人のヨシュアと重ね合わせて考えられ、かつて

彼らがそうであったように、主イエスも神の民を、約束の地、安息の地、天の故郷へと導

き入れてくださる指導者、大祭司であって、そのためにこの世の王国、肉の世界であるエ

ジプト、バビロンからわたしたちを連れ出して、解放してくださる方でした。主イエスと

は、罪の捕らわれからの解放と自由をくださる、「罪からの救い主」です。そしてこのこ

とは、ヨツァダクの子ヨシュアにおいて、より明らかにされます。ゼカリヤが見た第四の

幻は、汚れた衣を着て、主の御前に立つヨシュアを、サタンが訴えているものでした(ゼ

カリヤ3章)。しかしそこで彼の汚れた衣が脱がされ、晴れ着を着せられます。そうして

彼の罪が取り去られたことが表されました。そうして彼がやがて現れる「若枝」であるこ

とを示すと共に、それは「この地の罪を取り除く」ものであることを明らかにします。こ

の「若枝」とは(同3章8節、6章12節)、エレミヤが預言した者で、「主は我らの救

い」と呼ばれる方のことでした(エレミヤ23章5、6節、33章15、16節)。この方こ

そ、イエスなのでした。


2.罪からの救い主となるために人となられた神の子

 この「イエス」という名は、両親の願望や期待ではなく、神御自身によりつけられた名

で(マタイ1章21節、ルカ1章31節、2章21節)、そこに神の御心が反映され、主ご自

身の神からの使命を現わすものとなっています。その使命とは「自分の民を罪から救う」

ことです。主イエスはその名においてもわたしたちの「罪からの救い主」でした。そして

わたしたちを罪から救いだすために、この方は地上においでくださり、この世の中に生

き、しいたげられつつ歩む者と同じになってくださることで、その人々の罪を贖う救い主

となられたのでした。聖なる神の子が、わたしたちと同じ肉体を取ってくださった、それ

により、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をもつ苦しみと悩み、その弱さも危

うさも知り尽くしたお方として、わたしたちの傍らに共に立ってくださいました。そして

この肉体をもって犯すわたしたちの罪と、弱さと、そこでの諸々の悩みを知る方として、

わたしたちの兄弟となってくださったのでした。そのために主は、母の胎に宿るところか

らわたしたちと同じになってくださり、それによって罪をもってはらまれたわたしたちの

罪の人生を、その初めから「やり直して」くださり、それによって肉をもって辿る人生の

あらゆる苦しみと試練とを身をもって味わい尽くしてくださったのでした(ヘブライ4章

15節、2章17、18節)。聖なる神の子が、そこまでしてくださったのは「民の罪を償う

ために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」からでした。わたし

たちは本来、「神のただしい裁きによって、この世と永遠との刑罰に値する」ものであ

り、そのためには「完全な償い」をしなければなりませんでした(問12)。そしてその

「神の義は、罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求めていますが、自ら罪人で

あるような人が、他の人の罪の償いをすることなどできない」のです(問16)。そこで

「完全な贖いと義のために」、聖なる神の子が人間となって、わたしたちのために身代わ

りとして死ぬことで、わたしたちのための贖いを成し遂げてくださったのでした。


3.神の子としての特権

 この主イエスについての告白は、わたしたちとの関係において考えていくべきもので

す。主イエスとは、神との関係でいえば「神の子」であり、わたしたちとの関係でいえば

「わたしたちの主」です。本来「神の子」である方が、「わたしたちの主」となってくだ

さった、それによってわたしたちも神の子とされました。ですからこの二つは切り離すこ

とができません。この方がわたしたちを贖ってくださり、そのことによってわたしたちは

この方につながる者とされ、神の子とされました。「贖い」とは、捕虜として捕らえられ

ていた者を、身代金を支払って解放すること、あるいは奴隷を代価を払って解放すること

です。わたしたちは、いわば罪の奴隷であり、悪魔のとりことされているのですが、そこ

から解放されるために、キリストが代価を支払ってくださったのでした。それが「ご自身

の尊い血」、すなわちご自身の命でした。つまり罪のために死ぬべきわたしたちのため

に、キリストが身代わりとなり、わたしたちが受けなければならない罪の刑罰を、一切ご

自身に引き受けてくださり、わたしの代わりに死んでくださったのでした。それによって

罪のわたしは死んだのですから、もはやその罪を問われることはなく、裁きも終わった

のでした。このようにキリストが、わたし自身の受けるべき罪の裁きを身代わりとして受

けてくださったことにより、わたしが罪と死から解放された、この「贖い」によってキリ

ストが「わたしたちの主」となり、わたしたちは「主のもの」とされたのでした。「こ

の方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力か

らわたしを解放してくださいました」(問1)。


4.キリスト以外のものに救いを見いだそうとする者

 そこで「神の御子は『イエス』すなわち『救済者』と呼ばれる」のですが、「それ

は、この方がわたしたちを、わたしたちの罪から救ってくださるから」であると語られる

だけではなくて、「唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできな

い」と続けられます。そしてそれに、「それでは自分の幸福や救いを、聖人や自分自身や

ほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じているといえますか」と

いう問いが続けられます。ここには、宗教改革当時の時代背景が前提されています。古代

から中世にかけては、キリストの救いに対する信仰が希薄になっていったのに応じて、聖

人崇拝(や天使礼拝)が盛んに行なわれるようになっていました。最初は殉教者に対する

崇敬から始まった聖人崇拝は、その極致がやがてはマリア崇拝へと発展していくことにな

るわけですが、それは聖人自身への崇敬にとどまらず、聖人が愛用していた事物や遺骸に

まで及ぶことになります。着ていた衣服や使用していた道具、骨までが崇敬の対象とな

り、巡礼地にまでなっていきます。そのような愚かしい迷信に対して、この問答が投げか

けられているのです。しかしこのような迷信は、何も16世紀だけの問題ではありません。

わたしたちも、「自分の幸福や救いを、・・・ほかのどこかに求めている人々は、唯一

の救済者イエスを信じているといえますか」という問いが、投げかけられてくるからで

す。わたしたちは、聖人や聖遺物に依拠することはないとしても、この地上の何か別のも

のに依存し、それを拠り所としているという点では、同じ問題を抱いているからです。あ

る人にとってそれは、やりがいのある仕事であるかもしれませんし、ある人にとっては、

それが銀行の預金や保険であるかもしれません。ある人にとっては、大事な家族であるか

もしれませんし、体の健康であるかもしれません。主イエスを信じていると言いつつ、実

際には、主イエスではなく、地上の何かに依り頼んでいるとすると、それは「唯一の救済

者イエスを信じている」とは言えないことになるのだと、語られていくのです。これに対

して、「いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは

唯一の救済者または救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜならイエスが完

全な救い主でないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰を持って受け入

れ、自分の救いに必要なことすべてを、この方のうちに持たねばならないか、どちらかだ

からです」と答えられていきます。わたしたちは如何でしょうか。