第20課 全能でありつつ、わたしの父である摂理の神を信じる(問26~28)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び

 

第20課:全能でありつつ、わたしの父である摂理の神を信じる(問26~28)

 

1.天地の創造主に対する聖書の証言

 これからいよいよ「使徒信条」の内容に入っていきます。その最初は、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という告白です。十戒の中にある安息日規定は、その理由に「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれた」ことを告白します(出エジプト記20章11節)。詩編の詩人は、「天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神」について詠いました(詩編146編6節)。詩編には「天地を造られた主」に対する信仰と賛美が溢れています(同115編15節、121編2節、124編8節、134編3節)。使徒たちは困難な事態に直面したとき、神に向かって、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と呼びかけて祈りました(使徒4章24節)。そこでパウロもリストラで「生ける神」について宣教した時、「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」と語りました(同14章15節)。黙示録でも、「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と賛美され(黙示録4章11節)、それゆえ「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」と呼びかけられていきます(同14章7節)。聖書はさらに、この神の天地創造の業が「御言葉」によって為されたことを明らかにします。有名な聖書巻頭の言葉は、「初めに、神は天地を創造された」ですが、そこでの創造は、「神に言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と、言葉によって為されたことが記されていきます(創世記1章)。それを受けて詩人は、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」と詠いました(詩編33編6節)。この神の言葉は、必ず実現する力をもった言葉であり、語られた通りに成就する言葉でした。「わたしの口から出るわたしも言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与える使命を必ず果たす」と(イザヤ55章11節)。そこで「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と告白されていきます(ヘブライ11章3節)。


 しかもこの神の言葉は、単なる空気の振動、音声ではなく、人格をもった方でした。聖書は、天地を創造した神の言葉が御子であること、さらにはその御子が造られた天地を支えておられることを明らかにします。「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」と語られます(ヘブライ1章2、3節)。また、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」とも言われます(コロサイ1章15~17節)。天地創造した神の言葉の支配が、御子によるものであるということは、それが人格的な支配であることを明らかにします。何かの法則によるというような、機械的で事務的なものではなくて、血の通った人格的配慮に満ちた支配であるということでもあります。そしてこうした御言葉の確証に基づきながら、教理問答は、神が「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とによって、今も保ち支配しておられる」ことを告白するのです。この教理問答では、いわゆる聖定論は論じられていきませんが、「永遠の熟慮」という言葉によって、神の聖定が暗示されています。

 

2.「父なる神」への信仰

 そして天地を創造し、今もそれを御手のうちに支配しておられる全能の神が、「わたしの神またわたしの父であられる」という信仰を言い表していきます。そこでひっかかるのが、「父なる神」という言い方です。なぜ神を「父」と言うのか、母はどうなのか、それは女性差別的な表現だということが問題になるのです。そこで進歩的なある教会では、もはや神を父とは呼ばないとする教会があり、教会の公的な文書でも「父にして母なる神」と呼びかけるようにしている教会もあります。なぜ教会は、神を「父なる神」と呼びかけてきたのでしょうか。それは女性や母性といったものを排除した、差別的で排他的なものなのでしょうか。それに、神を「父」として認めるとしても、その「父」というイメージは、人によってかなり違います。厳しい父親に育てられた人にとっては、神についても厳しいというイメージがつきまとうでしょうし、身勝手で独善的な父親に苦労した人にとっては、否定的な感情を神に対しても抱いてしまうかもしれません。父親との交わりがほとんどなかった人にとっては、そもそも「父」のイメージがわかないでしょう。すると、神を「父なる神」と信じるとしても、そこではどのようなことが信じられているのかが、人によってばらばら、多様になってしまいます。この「父なる神」という告白によって、わたしたちはどのような信仰を言い表そうとしているのでしょうか。

 

 どうして神を「父」と呼び、「母」とは呼ばないのでしょうか。答えを先に申し上げるならば、神を父と呼ぶのは、聖書が神についてそう語るからです。そしてわたしたちがこの方を「父」と呼ぶのは、主イエスがそう呼ぶように教えられたからでした。それではこの方は、父であって母ではないのかというと、これはどこまでもわたしたち人間が無限の神を知るための比喩、類比にすぎないのであって、神に性別があるわけではありません。神は霊ですから、体を持たず、性別もない、そもそも性別を造られたのも神です。そして神は、ご自身がどういう方であるかということと、それがわたしたちとどんな関係にあるかを明らかにするために、ご自分を「父」と呼ばれたのです。誤解を恐れないで言うならば、神が父であられることの中に、神が母であられることも含みこまれています。父という言い方で母も代表して含み込まれており、母であるという面もそこにあるのです。イザヤ49章14~16節では、「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」とあります。自分の腹を痛めて産んだわが子を母親は決して忘れない、それ以上に神がわたしたちを忘れ去ることはない、神の心にわたしが刻みつけられていると言うのです。しかもそれで忘れないと言われる子とは、優秀で言うことを聞く良い子ではなくて、ろくでなしの放蕩息子、放蕩娘でした。自分の方から神を捨て、神から離れて好き勝手に生きた、それによってとんでもない結果をわが身に招いたのです。自業自得です。だからここで「主はわたしを見捨てられた」と嘆くのです。神が自分を捨てたのではなくて、自分が神を捨てたから、神から見放されても仕方がないのです。しかしその放蕩息子・娘を神は見捨てられなかった。どうしてか、わたしがあなたを産んだからだ、どうしてお前を忘れることがあろうかと言われるのです。またホセア11章3、4節では、「エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。わたしは・・・身をかがめて食べさせた」。子供がはいはいからつかまり立ちして、伝い歩きし、初めて自分の足で歩くようになったときのことを覚えておられるでしょうか。あるいは、小さな子供に身をかがめて、「はい、お口を開けて」と言いながら、食事をさせたことを覚えておられるでしょうか。その様子がここに描かれています。その子供がどんなに大きくなったとしても、親の心の中では、まだ小さかったときのその子の様子が心に刻まれているのです。その子は自分を捨て、自分に逆らっています。しかしだからといってその子を見捨てることができるでしょうか。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と神は言われるのです(同8節)。

 

 このように神が父であるということの中に、母でもあられることが含み込まれています。「私は、神がわれわれの父となることを喜んでいるのを見、同様に母になることを喜んでいるのを見た。・・・彼は本来的にあらゆる事柄の真の父であり母である。・・・われわれの真の母なるイエスにおいて、彼自らの非被造物としての洞察力と御父の全能の力、そして聖霊の栄光かつ主権的な善性を通して、われわれの生は支えられてきたのである」1。このように教会の歴史の中では、神を母と呼ぶこともありました。しかし聖書時代の文化の言葉で、それを父に代表させて言われたのです。そしてあえて神を父と言わせる理由は、神がわたしを生んだからでした。確かにわたしが今、ここに生き、存在するのは、両親によってです。両親なしにはわたしが存在を始めることはなかったのであり、両親から自分は生まれました。そのことが、神は父であるという言い方に含まれているのです。神がわたしの父であるとは、神がわたしを生んだ方だということです。いや産んだのはわたしの母親だと言われるでしょう。体はそうなのですが、あなた自身、あなたの心・魂は、神があなたを創造され、造られたのです。確かに体は両親から受け継ぎましたが、わたしの本質、わたし自身は、両親からではなく、神によって造られ、創造されたのです。顔つきはもちろん、性格も弱さも才能も、親から受け継ぎました。しかしわたしがわたしであるということ、わたしの心は神がお造りになったものであり、神がわたしを生まれたのです。親は子を選ぶことができず、子も親を選ぶことはできません。なぜ自分が二十世紀の日本に生まれたのか、自分で選んだわけではなく、またその両親の許に生まれたことも自分の選択ではありません。神がそうされたのです。わたしの本質である心と共に、わたしの生み出された外的環境も神が与えられたものです。それによってわたしたちは自分を育み、成長させ、自分自身となってきたわけですから、わたしがわたしであるということは、実は神がそう為されたと言うことです。地上の両親がわたしを生んだのではなく、両親はわたしが生み出されるために用いられた器であって、わたしを生んだのは神ご自身なのです。ですから神を天地の造り主と信じるということは、神がかつて遠い昔に天地を創造されたことを信じるということだけではなくて、このわたし自身をも造られた方であることを信じるということなのです。だからこの方を「父」と呼ぶのです。

 

 そして、親がわが子の成長を見守り、その成り立ちをよく知っておられるように、この方もわたしたちを、わたしたち以上によく知っておられるのです。詩編103編14節では、「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」。新改訳では、「主はわたしたちの成り立ちを知り、わたしたちがちりにすぎないことを心に留めておられる」となっています。わたしたちを造られた方は、わたしたちがどのようにして生まれたか、どのように育ってきたか、どのような弱さをもち、どんな欠点を持っているかをよく知っておられます。また139編13~16節では、「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されていない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられる。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」と、生まれる前から自分を見ておられ、知ってくださっている神の御業を賛嘆しています。ですからそこではさらにその後のことについても記されます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる」と(1~5節)。わたしたちは、自分の子供が成長していく中で、どんな問題に直面し、どんなことがあったかを決して忘れることはありません。そのように、そのわたしの弱さをよくわきまえた上でわたしを導き、わたしを支え、わたしを守ってくださる、それがこの世界を造り、わたしを造られた方です。ここで「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白することは、この方に対する信頼です。わたしを造られた方は、わたしの足りなさ、弱さを知りつつ、わたしを守り抜いてくださる方です。だから神ご自身が、こう約束してくださるのです。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。・・・わたしはあなたを愛している」と(イザヤ43章1~4節)。

 

3.神に依存して生きるわたしたち

 それでは、神を「天地の造り主」と信じるとは、どういうことでしょうか。神は「天と地とその中にある全てのものを無から創造された」とあります。神が全てのものを「無から」造られたということは、被造物がその存在と意味の両方を神に負っていることを意味します。被造物は神が在らしめたことによって存在し、またその意味も神が付与されました。例えば神があらかじめ人間というものをお考えになり、それに基づいて人間を造られたのです。「無から」というのは、素材とか物理的に何もないところからということだけではなく、その定義づけ自体、神が「無から」為されたのです。人間とは何か、世界とは何かといった定義やそこにおける意味も、神が創造されたのであり、こうして被造物全ては、その存在も意味も全てを神に負っています。神なしには全ては存在しえないのです。わたしたちは、神に造られたことにおいて、神との関わりを既に与えられているのです。このことは観念的なことではありません。わたしが生きる意味は、わたしを造られた神から与えられるからです。たとえ自分を受け入れられず、自分の生きる意味を見いだせず、自分など生きる価値がない、自分の人生に意味はないと自分自身で思いみなすとしても、神はそうではありません。神にとっては、わたしに生きる意味があるから、わたしを造られたからです。また今に至るまで生かしてくださり、これからも在らしめてくださるからです。わたしに生きる意義を与えてくださるのは、わたし自身ではなくて神です。神は、わたしが存在する価値があり、生きる意味があるから、わたしを生へと召し出してくださり、今も生かしてくださっているのです。このように、わたしに生きる意味を与え、人生の意義を与えてくださるのは、わたしを造られた神なのです。しかも単に存在を始めただけではなく、存続し続けていくことにおいても、神に負っています。神はわたしたちを造られただけではなく、「今も保ち支配しておられる」。わたしたちはその存在も、存続し続けることにおいても、神により神なしには存在することができない者として、神との関係の中に置かれているのです。神とはわたしたちを造り、今も保ち支配して、わたしたちを支え続けておられる方なのです。

 

 そしてそのことを端的に表わすのが神御自身の名です。それは「わたしはある」という名ですが、神はその名によって、ご自身がわたしたちを在(有)らしめてくださる生ける神であることを表わされます。十戒の序文で主なる神は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とイスラエルに呼びかけられました。「わたしは主」、この主とは、主人、主(あるじ)という意味だけではなくて、ここに神ご自身の名前が記されています。そこで神は、「わたしは主」、つまり「わたしはヤハウェ」と自己紹介をしているわけです。このヤハウェという名は、かつてモーセに現れたときに自己紹介されたご自分の名、「わたしはある、わたしはある」(出エジプト3章14節)という名前と同じで、ここでご自分の名を明らかにし、自己紹介をしておられるのです。この神の名ヤハウェは、神が「わたしはある、わたしはある」という方であり、そうしてわたしたちがこの神によって在らしめられるようになることを表わす言葉でした。それは神がただご自分一人で「在る、存在する」というだけではなくて、神以外のすべてのもの、神がお造りになったすべてのものをも、責任をもってご自身の御手で支え、守り、在らしめてくださる、その存在を支えてくださる神だということであり、そうしようとしてくださる神の決意です。わたしが在る、生きているということは、実はこの「わたしはある」という方が、わたしを今も支え、慈しみ、守ってくださっているからであって、「わたしはある」という方によって、在らしめられて存在しているということなのです。しかもただ、在る、いる、存在するということではなくて、そこで生き生きと生き、輝いて在るものとして支えられているのです。神ご自身がいつも生き生きと生き、輝いて生きておられるように、人は「生きる者」とされるのであり、それはただ存在するというだけではなく、生き生きと生き、輝いて生きる者へと神が支えて、輝く命の恵みを与えてくださるということです。それが「わたしはある」という神の名、ヤハウェという名の意味であり、神がご自分をそのように名乗るのは、わたしたちをそうしてくださるという決意をもって、わたしたちに呼びかけ、語りかけておられるということなのです。「わたしはある」という方が、そうしてご自身において生き生きと輝いて生きておられる方が、そのようにわたしたちも輝いて生きる者となるように呼びかけ、働きかけてくださっているということなのです。

 

4.神が「わたしの父」であること

 その方が「わたしの神またわたしの父」であると告白されます。教理問答は、世界の創造主を、父なる神としてとらえようとしています。しかし神はわたしの創造主だから自動的に父だというのではありません。この神とわたしとの関係は、罪によって断絶してしまっているからです。創造主としての関わりはありますが、今やそれはその本来の在り方から逸脱した被造物に対して、裁き主として対峙した関わりとしてです。そもそも神を「わたしの父」と呼びうる本来の方はただお一人だけで、それは御子だけです。「キリストだけが永遠からの本来の神の御子」ですが、「わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです」(問33)。そして「わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる」ので、わたしたちはキリストによって、この神を「わたしの父」としていただいたのです。「それはキリストとのかかわりにおいてです。キリストはすべての時に先立って生まれた永遠の言葉であって、世に示され、神の子と認められ宣言せられたお方です。しかし、神がイエス・キリストの父であることから、わたしたちの父であることになります」(『ジュネーブ教会教理問答』問22)。


 しかも「父」という意味を、主イエスは変えられました。これまでも神は「イスラエルの父」(エレミヤ31章9節)であられました。しかしそこでいわれる父とは、確かに慈しみの被護者ではあっても、それは民族全体にとっての父であって、一人一人の父というわけではありません。そこにはなお近づき難い距離があり、神ははるか遠くの方です。その神を主イエスは「アッバ、父よ」と呼ばれました(マルコ14章36節)。自分の父として、しかもすぐ近くにおられ、愛と信頼によって結ばれた者として、神を「アッバ、父よ」と呼ばれたのです。ここにおいて神は、一人一人にとっての父となってくださいました。神の父であることは、人格的個人的なものとされたのです。わたしたちは、キリストによって、神を「わたしの父」とお呼びできる交わりへと入れられたのです。しかもそこには、キリストという確かな後ろ盾、保証人がついているのです。神は本当の御子キリストのゆえに、わたしをも「神の子」として受け入れ、父であってくださるのです。わたしたちは、「神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ8章15、16節)。「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたは・・・子です」(ガラテヤ4章6、7節)。御子の霊という保証が付いていますから、この神の恩顧は決して変更されたり失われることはありえないのです。わたしたちが神を「アッバ、父よ」と呼びかけて祈ることができる幸いを、教理問答は次のように語ります。「この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさったからです。言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとなさらない、ということです」と(問120)。

 

 その神が「わたしの父」として、「体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださ」り、いかなる災いも「わたしのために益としてくださる」のです。この教理問答では「体と魂」という表現が繰り返し出てきます。ここでも「体と魂に必要なものすべてをわたしに備え」とあります。「わたしの神またわたしの父」は、体だけではなく魂、心に必要なものも満たしてくださるというのです。わたしたちには、体が維持されていくために必要なものがあります。しかしそうした衣食住が満たされていたら、わたしたちは生きることができるかというと、そうではなく、たとえそうしたものに満ち溢れたとしても、なお生きていくことができないといった事態にも直面します。大切な人を失って、生きる生きがいを失うこともありますし、大きな挫折に直面して絶望し、希望を失ってしまうこともあります。心を引き裂かれるような深い悲しみの中で、生きる喜びを失うこともあります。そうした中でわたしたちには、体だけでも魂、心も満たされるために必要なものがあることを思い知ります。わたしたちには、生きがい、希望、喜び、慰め、励ましといったものが必要で、時としてそれは生きる上でなくてはならないものですが、そうしたものも、神が「わたしの父」として備えてくださり、必要を満たしてくださると約束されていくのです。自分でも気がつかないうちに体の水分をなくして熱中症になったり、小さな子どもがお菓子やおもちゃを欲しがって、駄々をこねるけれど、自分に本当に必要なものについてはわきまえていないというように、実はわたしたちは自分の本当の必要を、自分でわきまえていません。しかし「わたしの父」は、そうしたこともよくわきまえ、またわたしをよく知っていてくださって、折々の本当の必要を満たし、備えていってもくださるのです。しかもこれらの恵みの一切が、「わたし」のために為されると約束されていきます。この箇所を「わたしの幸いめざして」と訳するものもあります2。あるいは「わたしにとって良きものにかえてくださる」という訳もあります3。こうしてすべてのことは、「わたしの幸いめざして」為されていくのであり、またそれを「わたしにとって良きものにかえてくださる」のです。

 

 そしてこの父なる神の恩顧、慈愛、恵みは、神が全能の神であられることと結びつけて考えられます。どんなに神が慈愛深い方であっても、そこに限界や制限を持っておられるなら、何の意味もありません。神の守りも支えも恵みも、全ては確かではなくなるからです。そこでは必要の一切が備えられることも、万事が益とされることも信じることはできません。依り頼むこともできません。しかし神の父であること、神の慈愛と恵みは、神が全能であることと結びつけられて告白されます。この世界を創造され、今も御手をもって支配しておられる、その全能の御力をもって、わたしを恵み、必要の一切が満たされるよう、万事が益となるように、働いてくださっている、そこにおいてわたしたちは、この方を「わたしの神またわたしの父」として信じ、信頼することができるのです。「なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。」そしてこのようにわたしを在らしめた方が、今もわたしを存続させつづけ、しかもキリストという保証によって、確かに「わたしの父」として、一切を「わたしのため」に為さってくださる、しかもその力をもたれた「全能の神」「真実な父」であられるということを信じ、心からこの方に信頼していくことが、この箇条を信じることなのです。このような方を「わたしの父」として持つことができるとは、何という幸いでしょうか。わたしたちは、世界の創造主、支配者でありたもう、全能の神を「わたしの真実な父」として持ち、この方の愛と慈しみと守りの中で、その御手のうちに支えられているのです。その方は、「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって、今も保ち支配しておられる」方なのです。この方をそのように信じる信仰は、わたしたちを苦難の中で耐えさせ、災いの中で奮い立たせていきます。そして、「わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてを、わたしに備えてくださること。また、たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです」と告白させていくのです。

 

5.摂理の神に対する信頼

 問26ではまず、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という箇条において、「何を信じているか」と問われました。それは、神を世界の創造者、支配者として知ったとしても、それがただの「知識」にすぎないのであれば、この箇条を信じたということにはならないからです。わたしを在らしめてくださった方が、今もなおわたしを存続させつづけ、しかも確かに「わたしの父」として、一切を「わたしのために」為さってくださるばかりか、すべてをわたしの最善を目指して為していってくださるということを信じ、信頼していくということこそ、この箇条を告白することだからです。「天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです」と告白したように(問1)、この力ある「全能の神」が、わたしにとっての「真実な父」であられるということを信じ、心からこの方に信頼していくことが、この箇条を信じることなのです。そうした信仰を、教理問答は「摂理」という言葉で言い表します。「摂理」とは何かというと、それは「全能かつ現実の神の力」のことで、「それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされる」ということです。このことについてカルヴァンも、次のように語ります。「神は被造物を造った後、それ以上の世話をせずに放り出した」というのではなく、「世界が初めに神によって造られたように、今なお神はそれを同じ状態に保持していますので、天も地もすべての被造物は神の力によってだけ存在し続けているのです。さらに、神はすべてをその御手のうちに保っていますので、神は統治者であり主人であると結論されます。このように、神は天と地の創造者ですから、その善と力と知恵によって自然のすべての秩序を導いている神です。雨、干ばつ、あられ、嵐、晴天、肥沃、不毛、健康、病気を与えるのは神です。要するに、神はすべての事柄を御自分の意のままに用いるために、すべてを支配下に置いているのです」(『ジュネーブ教会教理問答』問27)。

 

 こうしてわたしたちは、世界の創造主、支配者でありたもう、全能の神を「わたしの真実な父」としていただきながら、この方の愛と慈しみと守りのうちに、御手のうちにあって支えられているのです。神をわたしたちの父として信じる信仰は、わたしたちの神が、わたしたちの父として、この世界に起こるすべてのことを支配しておられるばかりか、それをわたしのために配慮し、導いていてくださり、わたしのうちに起こり来るすべてのことで、偶然に起きたり、神のあずかり知らないところで起こることは何一つなく、たとえどんなにつらく、悲しい出来事であっても、それらはすべてわたしの「幸い」を目指して、父親らしい慈しみから、全能の御手を動かしてわたしにもたらされるものであると信じさせていきます。それがここで「たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです」と告白することで、それはローマ8章28節で「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と約束されているように、神は天地の全てを支配なさり、その全てを用いてわたしたちのために益をお与えくださるということであり、そのために働かれる神の業、神の全能の御手への信仰に導きます。ここで「涙の谷間」とある言葉は、ラテン語では「悩み多い生涯」とされていて、わたしたちの人生が必ずしも幸いや喜びばかりではないことを明らかにします。しかもそれは「災い」が下されたとしか言いようのない事態をも想定します。しかしそれを含めて、「それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わない」と告白させていくのです。この神の全能のご支配は、父親らしい御手によってなされ、決して気まぐれや偶然によるものではないからです。加藤常昭氏は『ハイデルベルク信仰問答講話』の中で、「摂理」という言葉について、次のように説明します。「『摂理』と訳されます外国語は、ひとつの言葉だけではないのです。そのひとつの言葉は、『神の善い意志』という、そういう意味の言葉です。神が私どもを支配なさるのに、悪い意志ではなく善いこころをもって支配し導いていてくださるということです。もうひとつ、この『摂理』という言葉で訳されますのは、『前もって見る』、もう少し別の言葉で言うと、『見通し』と言ってもよいかもしれません。そのような意味の言葉です。神の私どもに対する支配は、見通しのないものではない。ちゃんと先まで見通しているというこです。『先まで見通していてくださる』、あるいは、『善い意志をもって支配してくださる』、これらのことが摂理という言葉の中に込められている意味なのです。・・・神の支配はきちんと筋道の通っている、われわれのために決して悪意を抱いているようなものではない、善いみこころに基づく、先の先まで見通した支配であると、そういう信仰を言い表しているのだと思います」4。

 

 しかもそれはとても具体的なものです。ここであげられているものは、当時切実な現実問題、ごく日常的な、しかも切羽詰まったものです。その現実の一つ一つを「すべてが偶然によることなく」神の御手からもたらされたものとして受け取るのです。わたしたちの信仰は、この弱い肉体を持った、この世の中で営まれるものです。摂理の神を信じる信仰は、この具体的な日々の生活の中で問われるものなのです。そして問28ではその利益が問われているように、神の恵み、祝福は具体的で、一つ一つ数え上げることができるものなのです。ところが一つ一つ数えていくうちに、どうしてもこれは神の恵みではない、祝福ではないと思えるものが出てきます。不幸、災難、災いに見舞われたとき、それを神からのものと考えることができないで、それは偶然から来た、運命だったと考えるのです。しかしそこで教理問答は告白するのです。それらは偶然から来たのではなく、わたしたちは運命に支配されているのでもないと。運命や偶然には一貫性がありません。行き当たりばったりで、見通しがないのです。それと全く相反するのが、神の「摂理」です。ひでりも不作も病も全ては偶然からではなく、神から来たとするのです。わたしたちは運命にもてあそばれているのではなく、神の父親らしい慈愛の配慮の中で為された、恵みの支配の御手に置かれているのです。人生に起こり来るものの全ては、それが幸いであれ不幸であれ、偶然ではなく、神からもたらされたもの、しかも神はそれらの全てをもって、わたしたちの益としてくださり、わたしたちの幸いを目指してそれらを導き、与えられるのです。神の全能は、神の父であることにおいて働かれるのです。ですからこの全能の神と、神の御手の働きを信じる者の歩みは、とても力強い歩みとなるはずです。「摂理」の神を信じる信仰はわたしたちをダイナミックな生き方へと導いていくのです。「逆境においては忍耐強く」歩ませるものとなるのです。

 

6.逆境の中で見通しを与える信仰

 この神の「摂理」を信じるとき、わたしは順境にあっては、感謝することができるだけではなく、逆境の中でも、神を信頼して忍耐強く歩み、希望をもって生きていくことができるのです。なぜならこの世の一切は、この方の御手の中におかれ、御心によらずに起こることは、何一つないからです。そしてわたしたちは、この全能にしてわたしの父である神を信頼して、希望を持って生きていくことができるようになるのです。当時は人文主義の時代であり、運命に対する信仰が流行した時代でもありました。しかしそれに対して、教理問答は「摂理」の神への信仰を告白することで、運命的人生観と対決したのです。今日わたしたちも、いつの間にかこの運命的人生観に縛られていたり、あるいは日本的な因習に囲まれ、呪縛されています。先祖のたたりであるとか、バチがあたったとかいうものに囲まれ縛られながら生活してもいます。しかし「摂理」の信仰は、そういった呪縛するものからわたしたちを解放し、自由を与えるものです。まことの信仰のゆえに迫害を受け、拷問され、殺された時代、そこでまことの信仰者たちを支えたのは、この「摂理」の神に対する信仰でした。この教理問答は、そのような困難な時代に生きる信仰者たちに、「すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって」もたらされることを告白し、いよいよ神とその「摂理」の業への信仰に生きるように、励ましたのでした。わたしたちも、万事を、そうです、全ての事柄を、たとえそれが人間の罪であっても、悪であったとしても、それをさえわたしたちの益に変え、用いることのできる、わたしたちの父なる神への信仰に歩んでいきたいと願います。「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この信仰に生きる中でこそ、わたしたちの人生は見通しのある、先行きのはっきりした一貫したものとなっていくのです。

 

7.御名をたたえる賛美の歌声へと

 こうした神の摂理について、登家勝也氏はそこから三つのことを教えられるとして、次のように語ります。「一つは『保持』であって被造物の一つ一つを存在せしめ、これに能力をあらしめ、それぞれであらしめ、変更あらせず互いの関係をしっかりさせ、秩序を保ってくださる。これは神の真実さの反映です。世に法則というものがあるのはそれの反映であります。第二は『同伴』です。神自らがお働きになりますから、被造物それぞれの能力や意思による働きが、その能力や意思によってではなく、神によって起こるのです。しかしここで真実に被造物の能力も意思も生かされるのです。このことは一瞬一瞬が神御自身の御業であって、神がさせようとなさらないなら被造物は身動きもできません。神自らが動いてくださる限りでそれにつき従って被造物も動くのであり、それでこそ被造物の一つ一つの意思の動きと能力の働きは堅固な基礎に立つのです。そして他のものの妨害に立ち向かうこともでき、かえって一つ一つの行為の個性、責任が強調されるのです。最後に摂理は『統御』であって、神が治め目的に向かって導かれるのです。不規則、不測の事態、偶然、付帯性の一切がありつつも、神がお定めになった良き目的へと導かれるのです。ですからこそ私たちは責任をもって行動でき、自由へと召されているのです」5。


 『ウェストミンスター大教理問答』では、「神の摂理の業とは、全ての被造物に対する神の最もきよい、賢い、力強い保持と統治」だと答えます(問18)。また『ウェストミンスター信仰告白』では、「万物の偉大な創造主である神は、すべての被造物、行為、また事物を、大小もらさず、最も賢い、きよい摂理によって、無謬の予知と、御自身の御旨の自由不変のご計画に従って、その知恵と力と義と善と憐れみのご栄光の賛美へと、保持し、指導し、処理し、統治される」と告白されます(第5章「摂理について」1節)。ここで、「保持」とは、被造物の存在を存続しつづけるように保たれること、「統治」とは「全被造物とその全行動を、ご自身の栄光のために秩序づける」ことです。また「指導し、処理し」とは、それらをもっと詳しく説明したもので、「指導」とは「被造物の行動や出来事を、神の目的とする方向に向けること」であり、「処理」とは「個々の行動や出来事を配剤し、配列し、配置して所期の結果を生じるようにすること」です。このように神の「摂理」とは、「神が天上から何ら為すことなく世界に起こることを眺めておられる、ということではなくて、あたかも船長が舵を取るように、全ての出来事を統御しておられる、ということを言う」のです(「綱要」I.16.4)。そしてその目的は、「ご栄光の賛美」なのでした。

 

 とりわけ「摂理」の特別な対象は、神の民であり、教会です。「神の摂理は、一般に全ての被造物に及ぶと共に、最も特別な方法で、神の教会のために配慮し、万事をその益となるように処理する」からです。摂理の御業は、創造の完成を目指して、この世界の維持と存続のためだけではなく、再創造(救い)の御業として力強く為されており、その働きのゆえに、神の民が集められ、この神を父とし、この父の子とされた恵みを喜び、感謝し、賛美する者とするために、今も働きかけられています。それはこの摂理の神を信じ、従い、喜び、賛美するためでした。そしてこの摂理の神への信仰こそが、困難と試練のとき、キリスト者を支え、励まし、強める信仰です。如何なる出来事にも、偶然や運命がないこと、この神が「父としての配慮と愛」から一切を為されること、そのことを信じるとき、わたしたちの信仰は小さな炎をかきたてられ、神への信頼と賛美へと向けられていきます。この全能の神が、わたしの父として、全宇宙の秩序の維持や、歴史に起こり来る一切の事柄だけではなく、この小さなわたしのいとも短い人生の一こま一こまをも熟知しておられ、関心を持ち、支えてくださって、わたしの髪の毛一本すらこの方によって数えられており、髪の毛一本一本に刻まれたわたしの人生の労苦の一切を知ってくださりながら導いてくださることを信じることができるのです。だから、「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については、わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物も、この方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる」のです。

 

 

 

1 ノリッジのジュリアナ、『神の愛の啓示』、「キリスト教神学資料集」上、2007年、キリスト新聞社、509~510頁

2 登家勝也訳、『ハイデルベルク教理問答』「宗教改革著作集」14巻、1994年、306頁

3 田部郁彦訳、『ハイデルベルク教理問答』「改革派教会信仰告白集」III巻、2011年、一麦出版社、42頁

4 加藤常昭、『ハイデルベルク信仰問答講話』上、1992年、教文館、162~163頁

5 登家勝也、『ハイデルベルク教理問答講解』I、1997年、教文館、135~136頁