第17課 「まことの信仰」の信仰箇条としての使徒信条(問23)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第17課:「まことの信仰」の信仰箇条としての使徒信条(問23)


1.使徒に由来するとされる?「使徒信条」

 わたしたち「キリスト者が信じるべきこと」、それは「福音においてわたしたちに約束されていることすべて」であり、「公同の疑いなきキリスト教信仰箇条」に要約されていると答えます。4世紀にエルサレムの聖墳墓教会の主教として活躍したエルサレムのキュリロスは、『洗礼志願者のための秘儀教話』というカテケーシス(教理問答教育)の中で、次のように語りました。「この信仰の統合は、人間の意見にとって心地よいものとして作られたのではなく、信仰の一つの教義をその全体において提示するために作られたのである。そこでは、最も重要な聖書すべてから集められている。そして、芥子種がその小さな粒の中に数多くの枝を含んでいるように、この信仰の要約も、旧約聖書と新約聖書に含まれた真の宗教の知識全体をわずかな言葉の中に集約している」1。キュリロスがそこで解説した信条はエルサレム教会の信条で、各地にこのような信条があったことが分かっていますが、ここでキュリロスが語ることは、「使徒信条」にも当てはまることです。なぜなら使徒信条は、エルサレムやカイサリアといった各地の教会にあった洗礼信条の一つで、ローマの教会のそれが発展したものだからです。多くの教会では、主日礼拝の中で信仰告白として、「使徒信条」を告白しています。この「使徒信条」とは一体何でしょうか。この「使徒信条」は、十二使徒に由来するという次の伝承からその名が付けられました。アクィレイアのルフィヌスによる『使徒たちの信条の説明』の中にある物語では、使徒信条の成立とその役割について、次のように記されています。「我々の先人たちは[次のように]伝える。主の昇天の後、聖霊の到来によって、使徒たち一人ひとりの上に火の舌がとどまった。それは、彼らを種々様々な言語で語ることができるようにするためであり、そのおかげで彼らにとって意想外の民族はなく、近づく術のない夷狄の言葉は一つもないと彼らに思わせるためであった。こうして、彼らに主から、神のみ言葉を宣べ伝えるために、それぞれ諸国に旅立てとの命令が下った。互いに別れるにあたって、彼らは、互いに離れ離れになって、キリストへの信仰へと招かれた人々に、何かしら異なったことを説明することのないように、まず、将来宣べ伝えることの共通の基準(ノルマ)を定めた。こうして、彼ら(使徒たち)の皆が一つに集まって、聖霊に満たされ、将来宣べ伝えることの、いわば短い同意事項(インディキウム)のようなものを起草した。そしてこれを規範(レギュラ)として信じる人々に与えることを申し合わせた2」。これはあくまでも伝説ですが、中世期までは使徒信条がこのように使徒たちによって作成されたものと信じられていて、十二使徒がそれぞれ一つづつ条項を持ち寄り、それを一つにしたものと考えられていました。そのため次のような伝説まで生まれます。


 昇天の十日後、ユダヤ人たちを恐れて、一つの所に集まっていた弟子たちに、主は約束のパラクレートスを送られました。その到来で、灼熱の鉄のように燃え立ち、すべての言語に堪能になった彼らは、シンボルム(信条)を起草したのです。


ペトロが言いました。「わたしは信じる、全能の神である父、天地の創造主を」。

アンデレが言いました。「また、その御子イエス・キリスト、わたしたちの唯一の主を」。

ヤコブが言いました。「この方は聖霊によって懐胎され、処女マリアから生まれた」。

ヨハネが言いました。「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受けられ、肉において十字架につけられ、死んで、葬られた」。

トマスが言いました。「陰府に下られ、三日目に、死者の中から復活された」。

ヤコブが言いました。「天に昇られ、全能の神である父の右の座に着かれた」。

フィリポが言いました。「そこから、生者と死者とを裁くために来られるであろう」。

バロトロメオが言いました。「わたしは聖霊を信じる」。

マタイが言いました。「聖なる普遍の教会、聖徒の交わりを」。

シモンが言いました。「罪の赦しを」。

タダイが言いました。「肉体の復活を」。

マティアが言いました。「永遠の生命を」・・・3


 そもそも「使徒信条」symbolum apostolorumという名称が最初に文献に登場するのは、アンブロシウスを中心にミラノで開催された会議がローマの司教シリキウスに宛てた書簡においてで、390年頃と考えられています4。そのアンブロシウスが、『入門者のための信条の説明』を残しています。それは彼が、洗礼志願者に信条を伝授したカテケーシス(教理問答教育)の口述記録ですが、そこで「使徒が十二人であるように、信条の条項も十二です」と述べ、「見てください、十二使徒によって、十二の宣言が結束されたのです」と語っています。またルフィヌスも『使徒たちの信条の説明』の中で、「一つにまとまった定式にするために、使徒たちのそれぞれが貢献した」と述べています。そこから先述したような、十二使徒がそれぞれ順番に十二の条項を表明し、それを集成したとする伝説が生み出されていったのでした5。しかしそれはあくまでも伝説であって、歴史的には正しくないことが確証されてきました。1438年に分裂している東西教会の統一を交渉するために開催されたフェララ会議(フィレンツェ会議の前身)の最初に、西方教会の代表者たちが使徒信条を唱えたとき、東方教会の代表者であったエフェソの府主教マルコス・エウゲニコスはそれに強く反対し、総大主教ゲンナディオスが次のように語ったと伝えられています。「我々は使徒たちの信条を持たないし、見たこともない。もしそのようなものがあったならば、使徒行伝はエルサレムにおける最初の使徒会議の物語の中でそのことを語ったはずである」と6。さらに1443年、イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァラが使徒信条はニカイア信条を要約したものであるという説を唱えました7 。チチェスターの司教レジナルド・ピコックも使徒信条の使徒起源を否定し、「陰府降り」を拒否したため、1458年に司教座を追われることになります8。宗教改革の時代にはエラスムスも同様の主張をしますが、そこでこのように述べます。「使徒信条と呼ばれている信条が使徒たち自身によってもたらされたものか否か、わたしには分からない。少なくとも、それが使徒のもつ威光と純正さのしるしを帯びていることは確かである」と。カルヴァンも、「どういう起源から来たにせよ、私はそれが教会のそもそもの初めから、実に使徒時代から公のまた全員の受け入れる信仰告白として重んじられてきたことを疑わない。・・・我々の信仰の全歴史がこの内に簡潔に判然とした順序で述べられ、しかも聖書の堅実な証言が証明しない事項は含まれていないということは議論の余地がない」と語りました9。またルターは、「簡潔に正しく信仰の項目が見事に要約されている」と評しました10。このように、その内容は明らかに「使徒的」であり、使徒の教えを継承していますので、わたしたちはこの信条を「使徒信条」として受け入れることができるのです。


2.洗礼信条としての「使徒信条」

 ここではこの「使徒信条」の由来をたどっていきましょう。先に紹介したエルサレムのキュリロスは、『洗礼志願者のための秘儀教話』の中で次のように語っています。「あなたがたはキリストが十字架からここの間近にある墓へと運ばれたように、神的洗礼の聖なる水槽へと導かれました。そして一人ひとりが、父の、子の、そして聖霊の名を信じるかと尋ねられました。そしてこの救いの告白をしては三回水に浸かり、また水から上がりましたが、それでキリストの三日間の埋葬を暗に象徴していたのです。・・・死にかつ誕生したのであって、あの救いの水はあなたがたにとって墓であり母でもあったのです」11。ここに「一人ひとりが、父の、子の、そして聖霊の名を信じるかと尋ねられました。そしてこの救いの告白をしては三回水に浸かり、また水から上がりましたが」という件がありますが、それは当時の洗礼に基づくものです。その様子を伝えるのがローマのヒッポリュトスの『使徒伝承』です。これは200年代初頭のローマの教会での洗礼式の様子を伝えるものです。「ひとりの助祭が同じように受洗者とともに降りて行く。受洗者が水に入ると、洗礼を授ける者はその上に手を置いて言う。『全能の神である父を信じますか』。受洗者は答える。『信じます』。するとただちに洗礼を授ける者は受洗者の頭に手を置いたまま、一度目の水に浸す。それから次のように言う。『聖霊によっておとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられて死に、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って父の右に座し、生きている者と死んだ者をさばくために来られる神の子、イエス・キリストを信じますか』。受洗者が『信じます』と答えると、二度目の水に浸される。それからまた尋ねる。『聖なる教会の中で聖霊を信じますか』。受洗者は答える。『信じます』。こうして三度目の水に浸される」12 。当時の洗礼式では三回水に沈められたのですが、その際に問われた言葉が伝えられていますが、それはほとんど『使徒信条』と同じものでした。洗礼を志願する人は長い期間をかけてカテケーシス、つまり洗礼を受けるための準備教育を受けたわけですが、そこでの最後の総仕上げとして口授されたのが信条でした。信条とは、聖書が教える真理を短くまとめた信仰の箇条で、カテケーシスの中で洗礼を受ける前に伝授され、教えられました(信条伝授、トラディティオ・シンボリ)。キュリロスは次のように語ります。「皆が聖書を読むことができないので、私たちは信仰の教理全体を数行にまとめる。それは何か人間による編集物ではなく、聖書から収集された最も重要な点からなっている」と13。そしてそれを暗記して復誦することが求められました(信条答誦、レディティオ・シンボリ)14。そこでは、教会はこのようなことを信じているが、あなたはそれを信じるかと問われて、そこで「信じます」と応答した者に洗礼が授けられました。最初はこのような問答形式、質問形式であり、洗礼の試問として用いられたわけですが、それがカテケーシスの発展と共に、次第に宣言の形式へと整えられていったと考えることができます。「信条はここでは受洗者によって告白されてはいないが、洗礼を授ける人から受洗者に、問いの形で呈示されている。その問いに対して、三回にわたり、『我信ず』という言葉が、三回にわたり洗礼式を執行する前提となる答として続くのである。このことは後で変更された。・・・三世紀が経過する間に、こうした洗礼の問いから、まとまりのある宣言された信条の形式が発生した」15。


 ヒッポリュトゥスより古いものとして、殉教者ユスティヌス(100~165年頃)のものを見ていきましょう。「この人々(洗礼志願者)は、万物の父であり主である神と、わたしたちの救い主イエス・キリスト、そして聖霊の名によって、水の中で洗われる(洗礼を受ける)。・・・わたしたちは罪の赦しを得るために、水の中で、万物の父また主である神の名が唱えられる。・・・こうして、ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられたイエス・キリストの名と、預言者を通してイエスに関するすべてのことをあらかじめ語られた聖霊の名によって、照らされた者は洗われる」16。そこでは「汝は、父にして主なる宇宙の神を信じるか。汝は、ポンテオ・ピラトのもとで十字架にかけられた、我らの救い主イエス・キリストを信じるか。汝は、預言者によって語られた聖霊を信じるか」と問われました17。エイレナイオス(130~200年頃)では、「汝は、父なる神を信じるか。汝は、肉の体をとり、死に、復活された、神の子イエス・キリストを信じるか。汝は、神の聖霊を信じるか」となっています18 。アンブロシウスも『秘跡についての講話』の中で、4世紀のミラノの教会での洗礼の様子を伝えます。「あなたは、『全能の父なる神を信じますか』と尋ねられたとき、『信じます』と答えた。そして、水の中に沈んだ。すなわち、葬られた。さらに、あなたは尋ねられた、『あなたは、わたしの主イエス・キリストと、その十字架を信じますか』と。あなたは、『信じます』と答えた。そしてまた、水の中に沈んだ。こうしてあなたは、キリストとともに葬られた。キリストとともに葬られる者は、キリストとともに復活する。あなたは三度めに、『聖霊を信じますか』と尋ねられた。あなたは、『信じます』と答えた。そしてもう一度、三度めに水に沈んだ。それは、あなたの三度の信仰宣言が、過去の何度も繰り返された堕落を消滅させるためであった」19。


 『ゲラシウス典礼書』においては、6世紀におけるローマ教会の洗礼が次のように規定されています。そこでは宣言形式の信条が告白された後、洗礼堂に進み、洗礼槽を入念に祝福することが定められています。そしてこの「洗礼槽の祝福の後、あなたは、志願者にこのよう質問をして、おのおのに洗礼を授ける。『あなたは全能の父である神を信じますか』。答え『私は信じます』。『あなたは神の独り子、私たちの主であり、私たちのために生まれ、苦しまれたイエス・キリストを信じますか』。答え『私は信じます』。『あなたは聖霊を、聖なる教会を、罪のゆるしと体のよみがえりを信じますか』。答え『私は信じます』。そして、あなたは、それぞれの場面で志願者を水の中に三度沈める」20と。ここでは、宣言形式の信条と問答形式の信条が併用されている様子を知ることができます。ルフィヌスによると、4世紀のローマ教会では、「洗礼を授けられる者は、人々が聞いている中で信条を復唱することが一般的」だったようです。アウグスティヌスも、「洗礼直前のある受洗志願者が、会衆が見える高い場所から、彼らが覚えた決まり言葉で、信条を復唱するように求められていた」ことを明らかにします21。このように使徒信条は、ローマの教会で実際に使われていた洗礼信条が元になって、それが発展していったもので、元来それは洗礼を受けるために教えられ、洗礼に際して告白されたものでした。つまりそれを受け入れ、信じることで、自分を新しく生まれ変わらせていった恵みの言葉であり、それによって自分が新しく生まれ変わらされた祝福の言葉なのでした。パルマティウスという人の洗礼の様子が伝えられています。パルマティウスは220年頃のローマで洗礼を受け、後に殉教したようです。「『あなたは、心を尽くして、すべての見えるものと見えないものとの造り主、全能の父なる神を信じますか』。パルマティウスは答えて言う。『わたしは信じます』。『イエス・キリストを神の子と信じますか』。彼は言う。『わたしは信じます』。『彼は聖霊によって、おとめマリアより生まれたことを信じますか』。パルマティウスは答える。『わたしは信じます』。『聖霊と、聖なる公同の教会と、罪の赦しと、からだのよみがえりを信じますか』。ここにおいてパルマティウスは感動のあまり涙を流し、『わたしは信じます。主よ』と叫んだ」22 。この言葉を受け入れて洗礼を受けることは、殉教という大きな代償を支払わなければならない時代でした。しかしそれに優る恵みと祝福を信じて彼らは洗礼を受け、殉教していきました。この世の困難と死を前にして、そこで自分を立たせていく言葉、それが信条です。


3.キリストへの告白から三位一体の神への告白へ

 しかしそもそも信条がどのようにして形成されていったかということについては、不明な点が多いです。ごくおおまかにたどるならば、主イエスという稀有な人格との出会いをした弟子たちが、主イエスの十字架の死という衝撃的な出来事の後、復活と昇天、聖霊降臨を経て、宣教へと派遣されていきました。その宣教によって、さらに信じる者たちが起こされ、各地に教会が建て上げられていき、さらにそれらの教会の宣教によって、主イエスの福音は世界へと広げられていきました。そこでこの宣教の言葉(ケリュグマ)に応答して、主イエスを信じる人々が起こされると共に、主イエスに対する礼拝が為されていきましたが、そこでの礼拝の言葉(説教や祈りや賛美歌)や、教会の実践の言葉(洗礼、聖餐、悪霊追放など)の中で、次第に主イエスに対する信仰の告白の言葉(ホモロギア)がまとめられ(1コリント15章3~8節)、定式化されていくようになります23。それは最初は「イエスは主・イエスはキリスト(メシア)・イエスは神の子」といった、とても短いものでしたが24、それにキリストの生涯の働き(誕生、十字架、苦難、復活、昇天、着座、再臨)が加えられていき、信仰告白として礼拝で用いられると共に、洗礼で告白されるといった教会の実践の中で整えられていくようになります。それは、「イエス・キリストの名によって洗礼」を授けられたり(使徒2章38節)、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じられたり(同3章6節)、「イエス・キリストは神の子であると信じます」という告白によって洗礼が授けられたように(同8章37、38節)、最初は主イエスに対する信仰の告白でした。


 しかしやがて主イエスと神との関係が問われるようになり「父と子」の告白となります。その例を1コリント8章6節に見ることができます。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。しかしさらに御子の霊また御父の霊である聖霊との関係が問われる中で、「三位一体」の神への告白(マタイ28章19節、1コリント12章4~6節、2コリント1章21、22節、13章13節、1ペトロ1章2節など)として整えられ25、この三位一体の神への告白と、イエス・キリストに対する告白(キリスト論的定式)が統合されるようになっていきます。「新約聖書の信仰告白は、ユダヤ教の唯一神に対する信仰告白の枠組みを土台としつつも、それを破ってイエスが主であり、キリスト(すなわち、メシア、救い主)であり、神の子である、という信仰告白が加えられていく。それに、キリストについて、十字架と復活、陰府下り、神の右の座、受肉などの要素が追加されて告白される。やがてこのようなキリスト論的要素は、聖霊を加えた三位一体的な枠組みの中に収められていく」26。そうして今日の使徒信条のような信条(クレドー)の原型がまとめられていったのではないかと考えられています。


4.三位一体告白とキリスト告白の統合

 ユングマンは『古代キリスト教典礼史』において、「三位一体論的な形式とキリスト論的な形式の二つが、別々に発展していって、両者が一つの定式にまとめられたのが、およそ200年頃のこと」27だと述べて、その発展を次のように考えます。「ユダヤ人に対する使徒の説教の主要テーマは、イエスがメシア、キリストだと伝えることにあった。ところが異教徒に対しては、まず最初に、唯一の神への信仰を説くことが必要とされた。したがって異教徒への伝道上、説教が二つのテーマ、神とキリストを含むことになった。創造主である神と終末、そしてわれわれを神に導くキリスト。この二つはキリスト教宣教の根本概念である。・・・しかし、キリスト教の教えをなんとか要約し尽くそうとするなら、やはり第三の主題群が入ってくる。それは、罪に縛られた世界にキリスト教がもたらすものである。すなわち、新しい命と新しい神の民である教会、もろもろの権能と制度によって教会に含まれているすべてのもの、聖霊の恵み、秘跡、永遠の命を教えることである。この第三の主題群をどう要約するかで、キリスト教の教えの要点は、三つあるいは四つ、さらに五つになったりする。150年頃のいわゆる『使徒書簡』では、それがパンを増やす奇跡に出てくる五つのパンに譬えられている。パンが五つであったように、教えにも、次のような五種の教理もしくは教程がある」ということを指摘します28。


 ここで指摘される偽典『使徒たちの手紙』では、「そののち、我々には食べるものがなくなって5つのパンと2匹の魚しかなかったとき、彼は民衆に命じて座らせ、その人数は女子供を除いて五千人に達したのであるが、彼らのために我々はパンを割いたものを奉仕した。彼らは満ち足り、余りのものが出た。我々は割いたものを12の篭一杯にして運んだが、この5つのパンにどういう意味があるかを問うた。それらは我々のキリスト教信仰の象徴である。すなわち、全世界の支配者なる御父、我らの贖い主なるイエス・キリスト、慰め主なる聖霊、聖なる教会、罪の赦しを信じる信仰である」と述べられていました29。その上でユングマンは、「われわれが信じているのは、『万物の支配者』である父、われわれの救い主であるキリスト、助け手である聖霊、聖なる教会、罪の赦しだというものである。ときには要点は、三つしか挙げられない。神・キリスト・復活、あるいは、神・キリスト・教会となる場合もあった。好んで用いられた要約の仕方は、神・キリスト・聖霊を挙げるものだった。これにより、神の三位格に対する信仰が、簡潔な表現を得ることになった。この形の定式が、洗礼式の際の信仰宣言に用いられたとすれば、それはきわめて自然で理解しやすいことである。というのも洗礼は、主の命に従って、父と子と聖霊の名で行なわれたからである」と続けます30。「こうして早くも100年頃には、三部構成の洗礼用信条文が存在していた」と考えられ、それは「ほぼ同じ長さの次のような三箇条から成っており」、それは「全能の神である父を信じます。父のひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じます。聖霊を信じ、聖なる教会、(罪の赦し)体の復活を信じます」というものでした31。しかしこうした「三位一体論的な信仰宣言から成る基本定式のほかに、キリスト論的な信仰宣言(いわゆるケーリュグマ)を内容とする定式」があったとユングマンは主張します32。それは、「聖霊と、おとめマリアから生まれた(方)、ポンティオ・ピラトの下で十字架につけられて、葬られ、三日目に死者のうちから復活し、天に昇り、父の右の座に着き、生きている者と死んだ者とを裁くために来られる(方)」というものですが33 、「200年頃、それが三部構成の三位一体論的信仰宣言と結び合わされ、『古ローマ信条』が成立した」と論じます34 。それは元来「洗礼信条」として、各地の教会でまとめられていき、使用されていったものの一つで、ローマの教会で用いられたものでした。


5.各地の洗礼信条と「古ローマ信条」

 各地の教会で作成された「洗礼信条」の中で、後にニカイア信条と深いかかわりを持つと考えられるカイサリア信条(3世紀後半)とエルサレム信条(347~350年頃)を見てみましょう。まずカイサリア信条は、「われらは全能の父なる唯一の神、すべての見ゆるものと見えざるものとの造り主を信ず。また、唯一の主、イエス・キリストを信ず。彼は神の言葉、神よりの神、光よりの光、命よりの命、独り子なる御子、すべての造られしものの長子、よろずの世に先立ちて御父より生まれし、全てのもの彼によりて造られたり。彼はわれらの救いのために肉体をとり、(人々の間に住み、)苦しみを受け、三日目に復活し、御父のもとに昇りたまいぬ。また、生ける者と死にたる者を審かんため、(栄光のうちに)再び来たりたまわん。また、われらは唯一の(聖なる)御霊を信ず」というものです35。次にエルサレム信条は、「われらは全能の父なる、唯一の神、天と地、見ゆるものと見えざるものとの造り主を信ず。また、唯一の主、イエス・キリストを信ず。彼は神の独り子、よろずの世の先に御父より生まれしまことの神、全ては御子によりて造られたり。御子は肉体をとりて人となり、十字架につけられ、葬られ、三日目に復活し、天に昇り、御父の右に座したまえり。また、生ける者と死にたる者を審かんとて、栄光のうちに来たりたまわん。その御国は終わることなし。また、慰め主にして、預言者を通じて語りたまいし、唯一の聖霊を信ず。また、罪の赦しを得させる唯一の洗礼、唯一の聖なる公同の教会、肉体の復活、永遠の生命を信ず」というものです36。これらは、東方教会の信条の特徴を持っています。


 これに対して「古ローマ信条」は、西方教会の信条の特徴を持っています。カルタゴで活躍した西方教会の護教家テルトゥリアヌスは、次のような「信仰の規範」(レギュラ・フィディ)を伝えます。「〔信ずるべきである〕唯一の全能の神、世界の造り主を、また、その子、イエス・キリスト、処女マリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、三日目に死者の中から復活され、天に迎えられ、今や、父の右の座に着いておられ、生ける者と死せる者とを裁くために来られる方を、肉体の復活を通して」37。次に「古ローマ信条」とは、どのようなものであったか見てみましょう。「我は全能なる神を信ず。また、その独り子、我らの主キリスト・イエスを信ず。彼は聖霊と処女マリアによりて生まれ、彼はポンテオ・ピラトのもとに十字架に付けられ、かつ葬られ、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、父の右に座したもう、かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん、また、聖霊を、聖なる教会を、罪の赦しを、体の甦りを」38。これは渡辺信夫氏によるボドレイアン文庫所蔵のロード写本からの翻訳ですが、渡辺氏はこれ以外にラテン語本文としてルフィヌスによるもの39、ギリシア語本文としてエセルスタン王の詩篇の写本にあるもの40とアンキラのマルケルスのもの41を紹介し、「以上に挙げた一群のテキストは基本的に一致し、中でもルフィヌスの伝えるそれがローマの古いラテン語洗礼信条にもっとも忠実であると考えられる」とします42。そしてこれが使徒信条の祖型と考えられています。比較して違う点は、①「天地の造り主」が付加、②「聖霊と処女マリアによりて生まれ」が、「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」に、③「苦しみを受け」、「死にて」、「陰府に降り」が付加、④「父の右に座したもう」に「全能の」が付加、⑤「教会」に「公同の」が付加、⑥「聖徒の交わり」が付加、⑦「永遠の生命」が付加されたことです43。


 このローマの信条に似ているものとして、アウグスティヌスによるミラノの信条を挙げます。「われは全能の父なる神を信ず。また、その独り子、われらの主なるキリスト・イエスを信ず。彼は聖霊と処女マリヤによりて生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ、また、葬られ、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、父の右に座したもうなり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。また、聖霊を信ず、聖なる教会、罪の赦し、体の甦りを」44。違いは、ローマ信条がイエス・キリストと告白するところを、ミラノ信条はキリスト・イエスと告白する点です。先に紹介したルフィヌスは、それによって自身も洗礼を授けられたアクィレイアの信条をローマ信条と比較しています。それは「われは不可視にして、受苦せざる、全能の父なる神を信ず。また、その独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。彼は聖霊によりて処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに十字架に付けられ、かつ葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、父の右に座したもうなり、かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん。また、聖霊を、罪の赦しを、この体の甦りを」というものです45。


6.「古ローマ信条」から使徒信条の標準本文(公認本文)へ

 この「古ローマ信条」(Ordo Romanus AntiquusまたはRomanum、Rと略称)と呼ばれる使徒信条の祖型となる信条は、先に挙げたルフィヌス以外にも、レメシアナのニケタス、アウグスティヌス(ミラノ信条・ヒッポ信条)、ラウェルナのペトルス・クリソロゾス、トレドのファウストゥス、トゥーロンのキプリアヌス、アルルのカエサリウスなどの引用からも知ることができますが、それは「かなり早い段階で古ローマ信条がイタリア全土、ガリア、スペイン、ブリタニア、北アフリカの教会で用いられていた」ことを意味するものでした46 。それに対して「使徒信条の標準本文とされるものに近いテキストは8世紀頃から現われ始める」と言われます47。使徒信条の標準本文とは、公認本文(TextusReceptus、Tと略称)とも呼ばれものです。それはコンスタンツ湖近くのベネディクト会修道院の創立者ピルミニンの『スカラプスス』という著作において見ることができ、710年から724年の間のものとされています。またこれと非常に類似したテキストが、『ボッビオのミサ典礼書(ガリア秘跡書)』(7世紀もしくは8世紀初頭)、『ベンゴール交唱集』(680~689年)、『古ガリア・ミサ典礼書』(8世紀)にも見られ、こうしたことから、「現在の使徒信条の普及がカロリング・ルネサンス、並びにそれに関わったベネディクト会の修道士たちとに関係していたことが推定されます。こうして、それがまず南ガリア、ピレネー山脈からローヌ川での地域からガリア全域、ドイツへと流布しその権威が確立して、更にローマのものとして確立されることになった」と考えられています48。しかし当のローマ教会では、6世紀頃からニカイア信条を使うようになっていました。


 そこでローマ教会が、使徒信条を用い始めるのは8世紀以降のことで、「この使徒信条のローマ教会への再導入は、シャルルマーニュの時代の典礼統一の動きに伴うものと考えられています」49。フランク王シャルルマーニュは自国の文化統一という企図を持ち、典礼や礼拝式文を一つにすることに熱心で、特に使徒信条とアタナシウス信条と主の祈りとを公式に用いることを命じます。そこで「彼の領土で用いられていたガリア形式がやがてローマ形式を凌いで最終的に西方教会の定型」となっていくことになります50。しかし強い抵抗にあい、それが実現するのは10世紀もしくは11世紀初頭のことのようです51。しかしこうしてガリア、すなわち「南フランスで『古ローマ信条』から発達した別の形(ガリア形式)が使われるようになり、これがローマにいわば逆輸入されて今日の形(公認本文)の使徒信条になる」のです52。使徒信条の「現在の形は、ガリア教会で使われていた本文(T)が、10世紀頃ローマの従来の本文(R)にとって代わったもの」でした53 。こうしていずれにしても、教会はこの信条が「使徒の純粋なおしえから引き出された真の信仰の概要」であるとして、告白しつづけてきたものでした。そしてこの信条をもって、キリストにある教会は、「信仰の一致」をも表わしてきたのです。そしてこれを告白することにおいて、わたしたちは代々の聖徒と共に、時代を貫き、教派や国、民族、文化を越えた、ただ一人の主への「一つの信仰」にあずかることになるのです。




1 エルサレムのキュリロス、「洗礼志願者のための秘儀教話」、マクグラス編、『キリスト教神学資料集』上、2007年、キリスト新聞社、241頁

2 小高毅、『原典古代キリスト教思想史』3.ラテン教父、2001年、教文館、179~180頁;小高毅、『クレド〈わたしは信じます〉』、2010年、教友社、14頁;クラス・ルーニア、『使徒信条の歴史と信仰』、1992年、いのちのことば社、13~14頁;J.N.Dケリー、『初期キリスト教信条史』、2011年、一麦出版社、11~12頁;ロッホマン、『講解・使徒信条-キリスト教教理概説』、1996年、ヨルダン社、24~25頁参照。

3 小高、『クレド』、14頁;渡辺、『古代教会の信仰告白』、新教出版社、13頁;ルーニア、前掲書、14~15頁;ケリー、前掲書、13頁参照。

4 小高、『クレド』、11頁;ケリー、前掲書、11頁

5 ここでの説明は、小高、『クレド』、13頁を参照した。

6 ここでの説明は次の書を参照した。小高、『クレド』、15~16頁;渡辺、前掲書、12頁;森本あんり、『使徒信条-エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』、新教出版社、27頁;ルーニア、前掲書、15~16頁;ケリー、前掲書、14頁;ロッホマン、前掲書、26頁を参照した。

7 小高毅、『クレド』、16頁;渡辺信夫、前掲書、12頁;ルーニア、前掲書、16頁;ケリー、前掲書、14頁;ロッホマン、前掲書、26頁参照。

8 小高毅、『クレド』、16頁;渡辺信夫、前掲書、12頁;ルーニア、前掲書、16頁;ケリー、前掲書、14~15頁参照。

9 カルヴァン、『キリスト教綱要』第一篇・第二篇改訳版、第二篇第16章18節、2007年、新教出版社、573頁

10 ロッホマン、前掲書、26頁

11 エルサレムのキュリロス、「洗礼志願者のための秘儀教話」第2講、『中世思想原典集成』2.盛期ギリシア教父、1992年、平凡社、151頁;同じものは、小高編『原典古代キリスト教思想史』2.ギリシア教父、2000年、教文館、107頁、およびネラン・川添編、『エルサレムのキリロスのカテケシス』、「ろごす」キリスト教叢書

12、1963年、紀伊国屋書店、142頁にも収録

12 ローマのヒッポリュトス、『聖ヒッポリュトスの使徒伝承』21節、1987年、オリエンス宗教研究所、49、51頁;小高、『クレド』、41頁;ケリー、前掲書、43~44頁;ロッホマン、前掲書、29頁;ヤング、『ニカイア信条・使徒信条入門』、2009年、教文館、31~32頁参照。

13 ヤング、前掲書、30頁

14 渡辺、前掲書、4頁;小高、『クレド』、42~44頁にはエルサレムのキュリロスのカケテーシスの内容が紹介されている。またミラノ教会でのカテケーシスの様子が、アウグスティヌス『教えのてほどき』の序文で次のように紹介されている。「復活祭の十五日前、洗礼志願者に使徒信条が教えられた。これは『信条の授与』と呼ばれていた。洗礼志願者はその信条を書きしるすことを許されず、それを八日後に司教の前で暗唱しなければならなかった。この暗唱は、『信条の返還』と呼ばれていた。信条の返還を行なった日に、洗礼志願者は主禱文(主の祈り)を教えられた。志願者はこの祈りを聖土曜日に暗唱しなければならなかった。洗礼と受洗者の最初の聖体拝領(陪餐)は、復活祭の前夜に行なわれていた。洗礼を受けた新信者は、ミラノと同じくアフリカでも、受洗後一週間毎日教会に来て、他の信者たちとともに、特にかれらに向けて行なわれた司教の説教を聞いた。・・・復活祭後第一の日曜日、新信者は洗礼の後受けた白衣を脱ぎ、他の信者の中に混じって、かれらに向けられた司教の最後の説教を聞く。アウグスチヌス、『教えのてほどき』、キリスト教古典叢書4、1993年、創文社、4~5頁;またケリー、前掲書、39~48頁参照

15 ロッホマン、前掲書、29~30頁参照

16 ユスティノス、「第一弁明(アントニヌスに宛てたキリスト教徒のための弁明)」61節、『キリスト教教父著作集』1.ユスティヌス、1992年、教文館、78~79頁;小高編『原典 古代キリスト教思想史』1.初期キリスト教思想家、1999年、教文館、66~67頁;小高、『クレド』、40頁;ケリー、前掲書、50~51頁にも収録

17 ルーニア、前掲書、23頁;小高、『クレド』、41頁にも収録

18 ルーニア、前掲書、24頁

19 アンブロジウス、「秘跡についての講話」第二の講話.7、『秘跡』、キリスト教古典叢書3、1978年、創文社、93頁、緒言にもミラノ教会の洗礼の様子が述べられている。ケリー、前掲書、45頁

20 ケリー、前掲書、45~46頁

21 同上、44頁

22 渡辺、前掲書、31頁参照;クルマン、『原始教会の信仰告白』、1957年、新教出版社、23~24頁参照。引用はこれらを参考にした意訳

23 クルマンは、以下の5つをあげる。(1)洗礼と受洗者に対する教理教育、(2)正規の礼拝(式文と説教)、(3)悪霊を払う式、(4)迫害、(5)異端との論争。クルマン、前掲書、20~37頁参照

24 平野保、『新約聖書における信仰告白』、東神大パンフレット25号、1986年、東京神学大学出版委員会、33~48頁参照

25 山田耕太、『新約聖書の礼拝-シナゴーグから教会へ』、2008年、日本キリスト教団出版局、86~87頁参照

26 同上、88頁

27 ユングマン、『古代キリスト教典礼史』、1997年、平凡社、101頁

28 同上、102頁

29 渡辺、前掲書、34~35頁

30 ユングマン、前掲書、102頁

31 同上、103頁

32 同上、104頁

33 同上

34 同上

35 渡辺、前掲書、107頁;ケリー、前掲書、186頁

36 同上、108頁;ケリー、前掲書、188頁;ヤング、前掲書、28~29頁

37 テルトゥリアヌス、「処女の被りものについて」1、小高編『原典 古代キリスト教思想史』1.初期キリスト教思想家、1999年、教文館、165頁;小高、『クレド』、32頁;渡辺、前掲書、54頁;吉田隆、「初期キリスト教における“信仰の基準”について」、『改革派神学』第21号、1990年、神戸改革派神学校、37頁;ウィリアム・バークレー、『使徒信条新解』、1970年、日本基督教団出版局、8頁;村瀬俊夫、『三位一体の神を信ず』、2000年、いのちのことば社、15頁;ケリー、前掲書、94頁

38 渡辺、前掲書、20頁;ケリー、前掲書、109~110頁;ルーニア、前掲書、25頁;山田、前掲書、91~92頁;村瀬、前掲書、18頁;バークレー、前掲書、8~9頁;ロッホマン、前掲書、30頁。なお「古ローマ信条」から「使徒信条」までの過程については、ケリー、前掲書を参照

39 ルフィヌスによるローマ信条本文の原文は、渡辺、前掲書、22頁;ケリー、前掲書、109~110頁

40 原文と翻訳は、渡辺、前掲書、23頁

41 原文は、ケリー、前掲書、110~111頁

42 同上、20~25頁

43 森本、前掲書、22頁;ロッホマン、前掲書、30~31頁;ケリー、前掲書、21頁

44 渡辺、前掲書、28頁;原文と翻訳は、ケリー、前掲書、176~177頁

45 渡辺、前掲書、26頁;原文は、ケリー、前掲書、178頁

46 小高、『クレド』、37頁

47 渡辺、前掲書、20頁

48 小高、『クレド』、38頁

49 同上、39頁;ロッホマン、前掲書、31頁

50 森本、前掲書、22頁

51 小高、『クレド』、38~39頁

52 森本、前掲書、21~22頁参照

53 ユングマン、前掲書、108頁