第15課 キリストに結びつく「まことの信仰」(問21)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第15課:キリストに結びつく「まことの信仰」(問21)


1.まことの信仰とは、神を正しく知ること

 わたしたちは、キリスト以外にわたしたちの救いがないこと、そしてわたしたちが救われるためには、キリストとわたしたちが「結び合わされ、結びつけられる」ことによることを考えてきました(問20)。主イエス・キリストは、わたしたちの罪のための贖いを完全に成し遂げて、わたしたちの救いと救いに必要なもののすべてをわたしたちのために獲得してくださいました。それらはすべてキリストの許にあります。「信仰」とは、このキリストが獲得してくださったわたしの救い、自分の救いを「受け取る」ことです。そこで大切なことは、自分の救いの源であるキリストにしっかりと結びついていくということです。そこで教理問答は次に、「まことの信仰とは何ですか」と問いかけます。信仰には、「まことの」信仰と、そうでないものがあるというのです。信仰さえあればそれでよいというのではない、その信仰が本物かどうかを問うのです。ここで言う「まこと」とは、本物という意味で、誠、誠実ということではありません。本気でやっているとか、熱心に励んでいるとか、徹底しているということが、第一に求められているのではないのです。そうではなく「まこと」、すなわち真理の信仰、真理に即した信仰かどうかが問われているのです。つまり人間の側の「誠」ではなく、神の「真理」に根差した信仰かどうかなのです。パウロは神に熱心なユダヤ人のことについて、「彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは正しい認識に基づくものではありません」(ローマ10章2節)と語りました。信仰ということで、まず第一に神から求められることは、信心深さや熱心さではなく、正しい認識に基づく正しい信仰かどうかということなのです。


 わたしたちの救いは主イエス以外になく、救いが成り立つためには、主イエスを正しく信じて、しっかりとつながる必要があります。主イエスを信じるといっても、実は様々な信じ方があります。そこでたとえば、この方が歴史的に実在されたことを信じるとか、愛の教えに感動するという信じ方もあります。そこで主が為された、貧しい人や弱い人に対する様々な愛の業に共鳴し、それに倣うといった信じ方もあります。しかしこのような信じ方で、この方を正しく信じたということにはなりません。ですから救いに至る「まことの信仰」のためには、まず正しい「確かな認識」が必要になります。そしてこの方を正しく知れば知るほど、「心からの信頼」を寄せるようになるのです。ただ盲目的に盲信し、盲従するのではなく、まず正しく認識するということであり、そこからこの方への「心からの信頼」が生み出されてくるのです。信仰は知識ではないという反発や反知性主義が日本の教会には根深いです。しかし信仰は知識を要請します。愛する人がいれば、その人についてもっと知りたいと思うのが普通です。愛は知識を要求し、そこで得た知識は愛をさらに増し加えます。信仰の知識とは、主に対するわたしたちの愛から必然的に生じるものです。こうして「まことの信仰」ということで求められることは、「どのように」信じているか、ということではなく、「何を」信じているかということです。それを大切にしていくところから、信仰の「まこと」が生み出されてくるのです。それは人間の「まこと」ではなく、神の「まこと」、神の「真理」のことです。そしてこの神のまこと、わたしたちに対する神の愛する愛とその熱心と誠実を知れば知るほど、わたしたちの神に対する愛も深められていくのです。


2.神を正しく知るとは、神の慈しみと恵みを知ること

 ですからカルヴァンは、「信仰は無知でなく認識の内にあり、単に神を知ることでなく、神の意思を知ることにある」とし1 、そこで「信仰とは、我々に対する神の慈しみについての堅固で確実な認識である。それはキリストにおける価なしの約束の真実に基礎づけられ、聖霊によって我々精神に啓示され、心情に証印されるものである」と語りました2。信仰とは、単に神を知的に認識する、「神についての知識」を持つということではなくて、「神ご自身を知る」こと、つまり神を人格的に知ることです。そしてそれは、神がわたしたちをどれほど愛してくださり、恵み、慈しみ、憐れんでくださっているかを知って、その神への深い感謝と賛美をもって神を信頼し、神に自分自身を委ねていくということなのです。つまり「神が我々の創造主である故に、単に力をもって我々を支え、摂理によって我々を治め、慈しみによって我々を養い育てるのみでなく、あらゆる種類の祝福を伴わせて恵みを満たしておられる」ことを知ることから生じるものです3。そしてそこからわたしたちは、「これら一切のものを彼から期待し、彼に求めることを学び、更に我々の受けたものを彼に帰し、感謝を捧げる」ようになるのです4 。このように「信仰とは我々に対する神の慈しみを知ること、また神の真実を確固として確信すること」です5。「神を知る」とは空虚な知識ではなく、「神の慈しみについての知識によって成立する敬いに結びついた神への愛」のことであり、自分自身が「神に全てを負っており、父としての御配慮によって養われ」ていることへの確信に他なりません6 。「神をこのように認識するならば、神があらゆる事物を調整したもうと知っているのであるから、神を自分の保護者、また守護者として信頼し、神の真実に一切を委ねるのである。また神が一切の善の創始者でありたもうと知っているのであるから、悩みが襲い、窮乏が迫るならば、直ちに神からの助けを期待して、神の砦の内に立ち戻るのである。更に、神の慈しみと憐れみとを確信しているのであるから、堅き信頼をもって彼の内に安らぎ、あらゆる逆境の中にあっても、常に神の寛容の内に救いが備えられていることを疑わない」ということです7。これがカルヴァンの言う「まことの信仰」です。そしてそれは「神への厳粛な恐れと結びつく信仰」であり、そこに「正しい礼拝」が伴うのでした8。


 それでは、わたしたちは、どこでこのような神に対する信仰・信頼に至ることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架によって現された神の愛においてです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)と記されているとおり、神がわたしたちを救うために、ご自分の尊い独り子をも惜しむことなく、わたしたちのために与えてくださった、そこにわたしたちに対する神の愛、神の慈しみが表されています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と聖書は記します(1ヨハネ4章9、10節)。イエス・キリストの十字架において神を知ること、これがわたしたちの信仰なのです。


3.正しい知識は御言葉から聖霊によって生み出されて、心からの信頼に至る

 この「まことの信仰=正しい知識」は、「神が御言葉においてわたしたちに啓示されたこと」であり、具体的には聖書と聖書の説き明かしを聞いて、それを「真実であると確信する」ことです。アーメン、そのとおりだと同意し、受け入れることです。そこから「確かな認識」が生まれます。正しく確かに知るだけではなく、そもそもその内容はわたしたちに対する恵みであり、愛であり、約束です。だからそれを知れば知るほど感謝と賛美が溢れ、ますますこの方に信頼を寄せるようになります。こうして「心からの信頼」は、「確かな認識」から生み出されてくるのであり、その全てを導かれるのは聖霊です。この神への「確かな認識」と「心からの信頼」とは、「福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる」ものなのです。なぜ今、わたしたちは、目に見えない神を信じられ、神に祈ることができるのか、なぜ神を父と呼んで信頼することができるのか、それは神がわたしたちの心に聖霊によって働きかけてくださったからなのです。ペトロはどうして信仰告白をすることができたのでしょうか。あのときすでにペトロは主イエスへの十分な信仰をもっていたからでしょうか。むしろ「このことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16章17節)と聖書は証言しています。またフィリピの町で祈りに出てきた婦人たちのうち、パウロの話を受け入れたのはリディア一人でした。同じ話を数人の婦人たちが聞いたのに、それを聞く心で聞き、受け入れ信じたのは彼女だけでした。なぜか。それは「主が彼女の心を開かれた」からでした。それで「彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(使徒16章14節)のでした。


 教理問答は、「ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか」と問い、それに「聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです」と答えます(問65)。『ウェストミンスター信仰告白』でも、「選ばれた民たちがその霊魂の救いに至るように信じることを可能にする信仰という恵みの賜物は、彼らの心の中に働くキリストの御霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出され、そしてこの御言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増し加えられ、強められる」と告白します(第14章1節)。このようにわたしたちの「まことの信仰」の起源、出発点は、神御自身です。聖霊が御言葉と共に働くことで、わたしたちの内に「まことの信仰」が起こされるのです。パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と語るとおりです(ローマ10章17節)。こうして神ご自身が、御言葉によってわたしたちの心に働きかけ、心を開かれることによって、わたしたちに神の真理を教え、悟らせ、理解させてくださることから、そしてわたしたちの心を「心からの信頼」へと向かわせてくださることから、救いに至る「まことの信仰」が与えられるのです。こうしてわたしたちの信仰は、わたしの熱心さ、わたしの誠実さ、わたしの何かによって成り立つのではなく、むしろ神の熱心と誠実から生み出されてくるのです。信仰とは信実ということです。この「信実」は「わたしの」信実ではなく、「神の」信実です。この神の信実に包み込まれて、神の熱心の内に、神の誠実さにあって、わたしが信仰へと導かれ、救いに至らせられたのです。自分の信仰にぐらつきを覚えるとき、疑い、迷い、不安に陥るとき、繰返しわたしたちが見つづけ、信じつづけるべきは、わたしの信実ではなく、神の方の信実なのです。救いに至る「まことの信仰」とは、「神が御言葉において啓示されたことのすべてを、真実であると確信し、その福音の約束によって、わたしの罪がすべて赦されていることを揺るぎなく信頼すること」でした。


 この「神の約束」とは、わたしに対する救いの約束です。わたしたちには浮き沈みがあり、信仰も主観的にはそうかもしれません。熱心な時もあれば、そうではない時もあります。わたしたちの救いが、そういった自分の信仰の浮き沈みに左右されるならば、これほど不確かなものはありません。これほど不安定なものはありません。そうではなく、たとえわたしたちは不真実でも、神は真実な方で、わたしたちの弱く哀れな信仰の状態に左右されることなく、一方的に真実を尽くして必ずわたしを救ってくださるというのが、聖書の約束です。その神の約束にのみ寄り頼んで信じることが、ここで求められていることです。自分の確かさではなく、神の確かさに信仰と救いの根拠を置くということです。パウロは「自分の救いを達成するように努めなさい」と求める中で、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるから」と述べました(フィリピ2章12、13節)。わたしたちの内に救いへの渇望を与え、熱心に救いを求めさせ、そうすることでわたしたちを救いへと導かれたのは神であり、それを実現させてくださるのも神なのであって、この至れり尽くせりの神の恵みの中で、救いに至らせられていくのです。この神の確かさと、何としてでもわたしを救おうとしてくださる神の救いの約束だけに信頼し、よりすがっていくこと、それが「まことの信仰」なのです。



〔付論.聖書における「信仰」〕

1.旧約聖書における信仰

 旧約聖書において信仰とは、「神に対する信頼」であり、「神の前に固く立ち、どのような時にも耐え忍んで、神に従う」ということです(旧約聖書神学事典)。すなわち「主に依拠し、信頼し、期待すること、主に堅く結びつき、主を待ち望み、主を我らの盾およびやぐらとして、また避けどころとすること、神への不動の信頼」です(ベイカー神学事典)。そこで大軍が押し寄せて来て怯えるアハズに対して、イザヤは「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と呼びかけます(イザヤ7章4節)。また「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とも語りました(同30章15節)。そこで「堅固な思いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」と告白され(同26章3、4節)、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」と賛美されていきます(同12章2節)。


 さらに「信じる」(ヘーミン)とは、「誰かを、何かを確かなものたらしめること、もしくは確固たるもの、信頼に値するものとみなすこと」でもあります(聖書大事典)。そこで先のアハズに対する宣告においても、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と言われます(同7章9節)。アーメンという言葉は、このヘーミンに由来し、ここでは「アーメンとしない者は、アーメンとされない」と言われているのです。こうして旧約聖書では「信仰」とは、「人間にまさって無限に偉大で力ある神、人間の知恵と力がもはや役立たぬ場合にさえも人間を助けうる神によりすがることであり、神の偉大さ、慈しみ、知恵を認めて、神の意志に服し、信頼と希望をもって神に頼り、また従うことであり、さらに特に苦難と危急の時にあたって神に就き、神にとどまること」を意味しました。それは「人間が謙遜と信頼、自己放棄と従順、思いと行いによって、自己のすべてを神にまかせること」に他なりません(堀田雄康、「パウロ神学における『キリストへの帰依』としての『信仰』」、60頁、ネラン編『信ずること』新教出版社、所収、以下「堀田」と略記)。


2.新約聖書、パウロにおける信仰

 それに対して新約聖書の「信仰」という言葉ピスティスには、「真実あるいは信頼」という意味が前面に出ており、「したがって神を信じるものとは、真実に神に結ばれ、全存在をもって、神に従っているものをさしている」とされます。つまり「聖書における神への信仰は、『わたしは有って有る者』(出3章14節)と言って、自己の存在を人間に向かって主張される神に対して、人間が『信じます』(マルコ9章24節)と言って応答すること」であり、それは「神の自己啓示に対して、固く立って動かされることなく信じる態度」に他なりません(ローマ4章20節、旧約聖書神学事典)。そしてそれは、「啓示を通して行われる神の語りかけに対する人間の応答」として生み出されるものでした(堀田、60頁)。そこで新約聖書において、「信仰」とは、「まずもってイエス・キリストの福音ないしはケリュグマを受け入れることであり、彼を主としてあがめ、公言し、ほめたたえることであり、また彼と人格的関係を結びかつ保持すること」とされます(堀田、60~61頁)。


 新約聖書において用いられている「信じる・信仰」というギリシャ語の言葉には、「信頼する・頼りにする・信用する・当てにする・委ねる・任せる」という意味がありますから、もちろん新約聖書においても、旧約聖書と同様に、神に信頼し、神に頼り、神に服従するという意味が含みこまれており、その意味で旧約聖書を継続しています。しかし新約聖書には、旧約聖書との違いがあり、それは「キリストとの関わり合い」という新しい次元がそこで展開されているということにあります。「旧約聖書は、神が、人類の救済の約束に真実であったことを一貫して述べ、新約聖書は、その神の約束がイエス・キリストにおいて成就したことを告げ」ます。そして「この神の真実に対して人間の側の誠実さをもって応えるのが、聖書における信仰」です(新約聖書神学事典)。そしてパウロにおいても信仰とは、啓示において遭遇する神の求めに対する全身全霊をかけた人間の応答です。そしてこの神の啓示は、イエス・キリストにおいて表されました。そこで信仰の対象はイエス・キリストであり、まことの信仰とは「イエス・キリストへの信仰」となります。もちろんパウロにとっても信仰とは、「単なる知的認識や理解ではなく、人間全体に関わることであり、人間がその全存在を挙げて、神に依り頼み、自己を委ねること」ですが、同時にそれは「キリストに対して全幅の信頼をおき、彼に自己を委ね、預け切る」ことでもありました。つまりそれは「キリストに対する全面的自己委託」と言い表すことができる事態であり、そこには主に対する「従順」が含まれます(堀田、77頁)。つまり「信仰による従順」です(ローマ1章5節、16章26節)。このようにパウロにとって、信仰とは「キリストとの人格的関係」であり、それは「キリストへの全面的自己委託また従順」として表されるもの、つまり「キリストへの帰依」とも言うべき事態だと言うことができるのです(堀田、84頁)。




1 ジャン・カルヴァン、渡辺信夫訳、『キリスト教綱要』改訳版第3篇第2章2節、2008年、新教出版社、16頁

2 同上第3篇第2章7節、23頁

3 同上第1篇第2章1節、42頁

4 同上第1篇第2章1節、43頁

5 同上第3篇第2章12節、29頁

6 同上第1篇第2章1節、43頁

7 同上第1篇第2章2節、44頁

8 同上第1篇第2章2節、44~45頁