第13課 聖書を一貫する「恵みの契約」の福音(問19)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第13課:聖書を一貫する「恵みの契約」の福音(問19)


1.楽園で啓示され、歴史を一貫する「恵みの契約」

a.楽園で啓示された「原始福音」

 問12~18では、わたしたちの罪の償いを果たすことができる仲保者は、イエス・キリストだけであることが明らかにされました。なぜならこの方は、「まことの、ただしい人間」として、「罪を犯した人間自身・・・の罪を償う」ことを果たすことができ、また「まことの神」として、「御自身の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださる」ことができる方だからでした。この「まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある」方が、「仲保者また救い主」として、「完全な贖いと義のために、わたしたちに与えられているお方」でした。「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」とあるとおりです(1テモテ2章5節)。それを受けて教理問答は、このイエス・キリストの贖いによる「罪からの救い」は、何によって知ることができるかと問い、それは福音によると答えて、その福音がどこに啓示されているかを明らかにします。「聖なる福音によってです。それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式によって象り、御自身の愛する御子によってついに成就なさいました」(問19)と。この救いの知らせである福音は、旧約聖書以来一貫していると語ります。これは、福音を新約聖書に限定する立場と一線を引くことを意味します。


 主イエスによる救いの「福音」は、「神は自ら、まず楽園で啓示し」たものだと語られます。それは人間が堕落した直後、彼らの犯した罪に対する罰が宣告された、まさにそのところで約束されたことでした。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3章15節)と。ここで「お前」と呼びかけられているのは、人間を堕落へと誘惑した蛇(悪魔)であり、女とはエバのことです。ですからこれは、エバから生まれる子孫の中から、やがて悪魔を砕く方が現れるという予告であり、古来から教会はこの約束を「原始福音」と呼んできました。こうして罪に堕落した人間のために、その救い主が与えられるという約束は、「その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式によって象り、御自身の愛する御子によってついに成就」したというのが、教理問答の主張です。それは、族長たちとの間に結ばれた「恵みの契約」が、律法(モーセ契約)とそれに基づく儀式によってかたどられ、預言者たちによって宣べ伝えられ、ついに御子イエス・キリストによって成就したことを意味します。ここでは「契約」という言葉は出てきませんが、『ウェストミンスター信仰基準』において示される「契約」に基づく聖書理解が前提されています。


b.歴史を一貫する神の「契約」

 これまで学んできたとおり、神は「御自分のかたちに人を創造し、人と命の契約を結ばれました。それは、人が神を知って崇め、神との交わりとしての永遠の命の喜びにあずかり、地を治めて神の国の終末的完成に奉仕し、神の栄光を現わすためでした」(終末の希望についての宣言)。「しかし、最初の人アダムは、この契約に違犯し、彼にあって全人類は堕落し、命の源である神との交わりを失い、この世での悲惨と死と永遠の裁きを受ける者となりました。被造物もまた、虚無と滅びに隷属するものとなりました」(終末の希望についての宣言)。しかし「神はすべての人が、一般に行いの契約と呼ばれる、最初の契約を破ることによって陥った、罪と悲惨の状態の中で滅びるままにしておかれるのではなく、その全き愛と憐れみにより、御自分の選びの民をそこから救い出し、彼らを、一般に恵みの契約と呼ばれる、第二の契約によって、救いの状態に入れ」てくださいました(『ウェストミンスター大教理問答』問30)。この「恵みの契約は、第二のアダムとしてのキリスト、およびキリストにあって、彼の子孫としての選びの民すべて、と結ばれ」たものでした(同問31)。しかもそれは、「本質において異なった二つの恵みの契約」ではなく、「施行の仕方は異なっているが、同一の契約」でした(『信仰告白』7章6節)。こうして「憐れみに富む神は、人が罪と死のうちに滅びるのをよしとせず、人が罪から救われ、神の御前に再び真に生きることのできる道を開かれました。神はまず罪とその悲惨に落ちたアダムに救いを暗示し、ついで洪水によって世界を裁かれた後、ノアに被造世界の保持を約束され、後の救いの御業に備えられました。そして神はついにアブラハムを選び召して、恵みの契約を結び、彼を御自身の民の祖先、万国への祝福の基とし、救いの歴史を始められました」(伝道についての宣言第一次草案)。そして「この約束は、たびたび繰り返され、次第に明らかにされ・・・アダムからノアへ、ノアからアブラハムへ、アブラハムからモーセへ、モーセからダビデへ、そしてついにキリストの受肉に至」りました(聖書についての宣言)。そこで次に、歴史の中で展開されていった「恵みの契約」の系譜を見ていきましょう。


2.族長と預言者、律法と儀式を通して宣べ伝えられた福音

a.アブラハムら族長たちと結ばれた「恵みの契約」

 「恵みの契約」を最初に神と結んだのはアブラハムでした。「神はアブラハムを選んでカルデヤのウルから召し出し、彼とその子孫に契約を与え、そのすえを増し加え、エジプトにおいて一つの民族となるに至るまで養われ」ました(聖書についての宣言)。神はアブラハムとの契約において、アブラハムの子孫に土地を与え、その子孫が繁栄する約束を与えられました(創世記12章7節、13章14~17節、15章5、8、18~21節、17章4~8節、22章16、17節、24章7節)。そしてその約束は、イサク、ヤコブ、ヨセフといった族長へと引き継がれていきます(創世記26章3、4、24節、28章3、4、13~15節、32章13節、35章11、12節、)。そしてその祝福は、ただアブラハムだけ、またその子孫(イスラエル)だけというのではなく、彼らを通じて地上のすべての人々にも及ぼされ、広げられていくことも約束されていきました(創世記12章2、3節、18章18節、22章18節、26章4節、27章29節、28章14節、39章5節)。このアブラハムと結ばれた契約(土地取得と子孫繁栄)の中心にあることは、「わたしは・・・あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは彼らの神となる」(創世記17章7、8節)ということで、その約束は旧約聖書を通じて、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(出6章7節、レビ記26章12節、申命記4章34節、7章6節、14章2節、26章18、19節、29章12、13節、サムエル下7章24節、詩編95編7節、エレミヤ7章23節、11章4節、24章7節、30章22節、31章33節、エゼキエル11章20節、36章28節、黙示録21章7節)という約束として、一貫して貫かれていきます。


 この約束、「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」を言い換えると、「わたしはあなたと共にいる」という約束になります(創世記21章22節)。そしてこの約束は、アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフに果たされていきます。主はイサクに、「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」(同26章3節)、また「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに」と約束されました(同24節)。それはヤコブにも告げられます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。・・・見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と(同28章13~15節)。この後も約束は果たされていきます(26章28、29節、35章3節、39章2、3、21、22節)。


 マタイが自分の福音書の主題として、この約束、「わたしはあなたと共にいる」、すなわちインマヌエルということを中心に据えたのは(1章23節、28章20節)。主イエスという方が、旧約聖書を貫く「恵みの契約」に連なる方であるばかりか、まさしくこの契約の成就・実現としておいでになられたメシアその人であることを明らかにするものでした。そしてそれはマタイ福音書だけではない、「新しい契約」の書、新約聖書全体において証言され、啓示されていることでもありました。だから主イエスは、「聖書はわたしについて証しする」(ヨハネ5章39節)と語り、とりわけご自身の十字架と復活について、「『メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」のであり、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と語られたのでした(ルカ24章26、27、44節)。


b.ダビデと結ばれた契約

 神はアブラハムら族長たちと契約を結ばれただけではなく、ダビデとも契約を結ばれました。「神は、ダビデを王とし、彼と契約を更新し、選民の王国を確立し、子孫が永遠に王座に着くことを約束されました」(予定についての宣言)。神がダビデと結ばれた契約は、アブラハムとの契約を前提としたもので(サムエル下7章24節)、それを補強し、より強固なものとするためのものでした。それはダビデの子孫による永遠の王国樹立の約束ですが、そこでもまず主はダビデにこう約束されます。「あなたがどこへ行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」と。そして「主があなたのために家を興す。・・・あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。・・・あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と約束されるのでした(サムエル下7章8~16節)。そこでも確認されるのがアブラハムとの契約です。王国を堅く建てるためにやがて現れる王は、神の子とされる方で、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と約束された方です。それはいわば彼が王国(イスラエル)の代表として、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と約束されることであり、それはアブラハムに「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」と約束された契約を踏まえたものでした。そこでダビデは「主よ、さらにあなたはあなたの民イスラエルをとこしえにご自分の民として堅く立て、あなたご自身がその神となられました」と感謝の祈りをささげます(同24節)。そのことは詩編でも、「主はダビデに誓われた。それはまこと。思い返されることはありません。『あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠に、あなたの王座につく者となる』」と詠われます(詩編132編11、12節)。この約束は、ダビデの子ソロモンにも受け継がれ、「あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が断たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる」と約束されていきました(列王上9章5節)。


c.預言者によって約束された「契約」

 「しかし、イスラエルは不従順を重ね、ついに神に裁かれるに至りました。けれども、神は契約に真実であり、恵みによって残りの者を支え、預言者たちを通して、新しい契約と新しいイスラエルを指し示されました」(予定についての宣言)。歴史上のダビデ王国は滅亡しましたが、それによってこのダビデとの契約が反故とされたわけではなく、ダビデの血筋を引く子孫から、若枝が芽生えてイスラエルを救う者が起こされていくことが預言者たちによって預言され、待望されていくようになります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。・・・ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9章5、6節)。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。・・・見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」(11章1~2節、12章2節)。エゼキエルも、この預言の実現を待望しながら預言しました。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。・・・そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる」(34章23、24、30節)。


 「そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。・・・彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる」(37章23~28節)。こうして「神は、イスラエルの不信仰と堕落のゆえに厳しい裁きを臨ませられたにもかかわらず、預言者を通して、散らされた神の民が主の下に帰り、そして万国民が神の民へと帰って来る、終わりの日のメシアの到来を約束され、一部の捕囚からのエルサレム帰還をもってそのしるしとされた」のでした(伝道についての宣言第一次草案)。ペトロが「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」と語るとおり(使徒2章30節)、主イエスについての福音は、族長たちだけではなくダビデを含めた預言者たちをも通して宣べ伝えられていきました。


d.律法による犠牲や他の儀式によってかたどられた福音

 主イエスの福音は、族長たちと預言者たちによって宣べ伝えられただけではなく、律法による犠牲や他の儀式によってもかたどられていきました。「神はモーセを通してイスラエルに諸種の律法と祭儀を与えて契約を結び、御自身の民とされました」(伝道についての宣言第一次草案)。旧約聖書には神の民イスラエルの歴史が記されます。神は一つの民族を選び出し、それによってまことの救い主を示していかれました。イスラエルは、イエス・キリストを指し示すものであり、そこにあった神殿、犠牲、儀式、祭儀といったものの全ては、イエス・キリストを指し示すものでした。「祭りや新月や安息日・・・これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります」(コロサイ2章16、17節)。それらはすべて主イエスを予め型取ったもの(予型)であり、主イエスにおいて成就し、完成するものとして、示されたものでした。こうして「恵みの契約」は、「律法の下では、それはユダヤの民に与えられた約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、またその他の予型や規定によって執行され、これらはすべて来るべきキリストをあらかじめ示していた」のでした(『信仰告白』7章5節)。


3.イエス・キリストによって成就された福音

a.アブラハム・ダビデ契約の実現としてのイエス・キリスト

 そしてこのアブラハム・ダビデと結ばれた契約が、イエス・キリストによって実現したとするのが「新約聖書」です。天使ガブリエルを通じてマリアに告げられたことは、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」という約束でした(ルカ1章31~33節)。このダビデによる永遠の支配の約束の実現は、ダビデに対する契約に基づくものであるだけではなくて、アブラハムとの契約に基づくものでもありました。ザカリアは、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と預言して、それを明らかにしました(ルカ1章68~75節)。こうして「最後のアダムであるキリストは、御自分の民のために神の御心に完全に服従し、神の怒りと裁きを受けて十字架に死に、葬られ、三日目に死人の中から初穂としてよみがえられました。それによって、新しい契約が締結され、恵みの契約は成就されました」(終末の希望についての宣言)。


b.エレミヤによって預言された「新しい契約」

 これらの約束を実現するものが「新しい契約」(エレミヤ31章31~34節、32章40節、エゼキエル11章19節、37章26節)でした。わたしたちが聖餐で聞く、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11章25節)との主イエスの言葉は、エレミヤの預言に基づくものです。エレミヤによって預言された「新しい契約」を成就されるために、主イエスはおいでくださったのでした。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手をとってエジプトの地から導きだしたときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(31章31~34節)。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える」(32章38~41節)。そしてさらにこのように約束されます。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない」と(33章14~17節、23章5、6節)。ここではアブラハムに対する約束とダビデに対する約束がそれぞれ確認され、それを実現する方として、ダビデの子孫である「主は我らの救い」という名を持つ方が到来することが預言されます。その方こそまさしく、「主は救い」(イエス、マタイ1章21節)という名をつけられた方なのでした。


 しかもエレミヤがこの預言をしたとき、ユダは存亡の危機に直面しており、結局は滅亡とバビロン捕囚に至るわけですが、それはイスラエルの民の契約違反に基づくものでした。「この契約の言葉を聞き、これを行なえ。わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。しかし彼らはわたしの声に耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心の頑なさのままに歩んだ。今わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる」(11章6~8節)。このように繰り返し契約を語っても、その契約を守り行なう力を彼ら自身がもたないことが、古い契約の限界でした。そこで神は彼らに新しい契約を立てられます。その契約の新しさは、契約の内容そのものではなく、契約の当事者である彼ら自身の心が新しくされて、契約を守り行なう力を与えられるというものでした。「人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。求めることも、作ることももはやない。その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。彼らは再び、頑なで悪い心に従って歩むことはしない」と(3章16、17節)。そして約束されました。「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らの心に一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしが彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える」と(32章37~41節)。「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る」(24章7節)。


c.エゼキエルによって預言された「新しい契約」

 エレミヤと同じ時代、バビロン捕囚に連れ出されたエゼキエルも、捕囚民の間で預言しました。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と(18章23、30~32節、33章11節)。それでは彼らの立ち帰りは、どのようにして起こされるのでしょうか。それを表わしたのが「枯れた骨の復活」(37章)でした。無数に転がるひからびた骨に向かって、神に命じられるままエゼキエルが預言すると、骨と骨が結び付き、「それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆」い、さらに預言すると、「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」のでした。神はこの幻を通して、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」ということをお示しになりました。人を新しく生き返らせるのは、神から吹き込まれる神の霊によります(創世記2章7節)。そしてこの神の霊が、わたしたちに新しい心を与えてくださるのです。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。またわたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる」(36章26~27節、11章19、20節)。これこそエレミヤが「新しい契約」として語ったことでした。エゼキエルはそれを「永遠の契約」「平和の契約」と語り、この恵みの契約が、民の側の一方的な破棄によって破られたにもかかわらず、神の側からの一方的な恵みの働きかけによって、再び結ばれることを預言します。「お前は誓いを軽んじ、契約を破った。だがわたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる」と(16章60節)。エレミヤ・エゼキエルが預言したことは、アブラハム・ダビデ契約において実現できなかったことが、罪の心が清められ、新しくされて、真実に神に従う者に変えられることによって実現されるというものですが(エレミヤ24章7節、32章39、40節、エゼキエル36章26、27節)、そこで実現することが求められたことこそ、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エレミヤ32章38節、エゼキエル11章20節、36章28節)ということ、すなわち「恵みの契約」の実現でした。


d.イエス・キリストの死によって成立した「遺言」としての契約

 そしてこの「新しい契約」を成就してくださったのが、イエス・キリストでした。主は「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねば」ならず(ヘブライ2章17節)、そのために血と肉を備えてくださいました(同14節)。そして「恵みの大祭司」として、「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同9章11、12節)。こうして「キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、・・・唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」のでした(同10章12、14節)。旧約聖書・新約聖書の「約」は「契約」の「約」ですが、そのもとの言葉は「遺言」です。単なる「契約」ではなく、遺言者の死によって確定され、確かに譲渡される「契約」なのです。「この恵みの契約は、聖書でしばしば遺言という名称で示されているが、それは遺言者であるイエス・キリストの死と、それにおいて遺贈される永遠の遺産とそれに属するすべてのもの、との関連でそう言われている」からでした(『信仰告白』7章4節)。「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。・・・こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(ヘブライ9章15~18、22節)。


 こうして主は、「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪と取り去るために、現れ」ることによって(同26節)、「新しい契約の仲介者」となってくださいました。そして「罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、・・・唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者と」してくださいました(同10章12、14節)。そしてそれはエレミヤが預言した「新しい契約」の成就であることが、ヘブライ書の著者によって明らかにされていきます(同10章15~18節、8章8~13節)。このように「恵みの契約」は、「キリストの死」によって確かなものとされたものでした。尊い神の御子の犠牲による救い、それがわたしたちのために神が起こしてくださった「罪からの救い」でした。これは神ご自身の至れり尽くせりの「恵み」による「救い」であり、その根拠となる「契約」は「恵みの契約」なのです。わたしたちは、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という言葉を耳にするたびに(1コリント11章25節)、それがイエス・キリストの十字架の血によって締結されたことで、わたしたちのものとされたということを繰り返し覚え、感謝して、聖餐にあずかるたびごとに「キリストの僕」として生きることを約束していきたいと思います。