第12課 罪の償いを果たす仲保者(問12~18)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第12課:罪の償いを果たす仲保者(問12~18)


1.この世と来たるべき世における「刑罰」

 ここから教理問答の第二部に入り、「人間の救いについて」語られていくことになります。その前の第一部「人間の悲惨さについて」では、故意の不従順によってわたしたちに「罪への傾向」と「本性の腐敗」がもたらされたという悲惨さだけではなくて、それによって神の裁きを受ける者となった悲惨さが明らかにされました。「神は生れながらの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもうのです」と(問10)。ここで覚えなければならないことは、罪に対する神の裁きと罰とは、「この世においても永遠にわたっても」という二つの次元でのものであるということです。そこでそれを受けて問12では、「わたしたちが神のただしい裁きによって、この世と永遠との刑罰に値する」と語られていくのです。この教理問答では、この二つの刑罰については論じませんが、『ウェストミンスター大教理問答』(以下『大教理』と略記)では、「この世での罰」については、「内的なものでは、知性の闇・邪悪な思い・完全な思い違い・心の硬化・良心のおびえ・恥ずべき情欲であり、外的なものでは、わたしたちのゆえに被造物に下される神の呪いと、死そのものばかりでなく、わたしたちの体・評判・生活状態・人間関係・仕事においてわたしたちに降りかかる他のすべての害悪である」と語られ(問28)、「来るべき世での罰」については、「神の慰めに満ちた御前からの永久の分離と、地獄の火の中で永遠に絶え間なく受ける、魂と体の最もひどい苦しみです」と語られていきます(問29)。


 罪には刑罰がともないます。「罪が支払う報酬は死です」とあるように(ローマ6章23節)、死は自然なものではなく、「罪によって死が入り込んだ」(ローマ5章12節)のでした。人間は本来死ぬように造られたわけではありません。創造された頃の人間は、考えられないほど長寿でした(創世記5章など)。そのころの人間は、まだ生命にみなぎっていたのです。しかし人間があまりに邪悪なため、神が人間の寿命を短くしてしまわれました(創世記6章3節)。死は、人間の罪の結果、この世に侵入し、人間を支配するものとなってしまいました。人間の死を聖書は、三種類に語ります。「霊的死」、「肉体的死」、「永遠の死」です。霊的死とは、神との交わりの喪失のことで、人は生まれながら死んだ状態で生まれてくるということです。その結果、肉体の死をやがて迎えます。しかし「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まって」います(ヘブライ9章27節)。裁きの後、永遠の死、第二の死を迎えます。それは永遠の破滅で(黙示録20章12~15節)、神との永遠の交わりの喪失、断絶です。


 しかもこの罪に対する刑罰は、死後だけではなく生きている間も存在します。この地上にある悲惨、問題、災害、試練などです。この世における不幸や苦しみは、不運な偶然ではなく、究極的に人間の罪に対する罪の結果としてもたらされたものであり、神の正当な怒りと呪いがその根拠にあることを忘れてはなりません。なによりそれは、わたしたち人間が自分の蒔いた種を刈り取るもので、罪の結果です。しかしそれはいわゆる「バチ」とは違います。それによって自分の罪の償いをするのでもありません。しかしまた、この地上での罪の刑罰は、それによってわたしたちが神へと立ち帰り、神に信頼を寄せて生きる者となるための、神からの訓練としても用いられます。わたしたちの心があまりにも地上に固着することがないように、むしろ「天にあるものを求める」ようになるために、神はわたしたちに試練、問題、困難に陥らせることも、ときになさいます。しかしそれも神の恵みです(『キリスト教綱要』3巻9章参照)。ただ、こうした地上における不幸や災いの原因が、本来的にはわたしたちの罪にあることを覚える必要があります。そしてこうした「この世と永遠」における「刑罰を逃れ再び恵みにあずかるには、どうすればよい」かが問われるのです。


2.キリストによる「消極的服従」と「積極的服従」

 そしてここでは二つのことが問われます。一つは「刑罰を逃れ」ること、もう一つは「再び恵みにあずかる」ことです。一つは罪に対する神の激しい怒りと呪いにおける「刑罰を逃れ」ることです。「神は生れながらの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもう」ばかりか(問10)、そこでの「神の義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高のすなわち永遠の刑罰をもって、体と魂とにおいて罰せられることを要求する」ものです(問11)。そのためには「罪に対する神の永遠の怒りの重荷」を身に引き受けて、そこでの徹底的な神の刑罰を余すところなく受ける必要があります(問17)。つまり罪に対する「完全な償い」です。もう一つは「再び恵みにあずかる」ことです。それは神がわたしたちに求められる「義」を完全に満たすことで、「義と命とを獲得」するということです(問17)。わたしたちが罪のための「刑罰を逃れ再び恵みにあずかる」ためには、このような「完全な贖いと義」が必要でした(問18)。そしてそれを成就してくださった方こそ主イエス・キリストで、それはキリストによる「消極的服従」と「積極的服従」によって獲得されたものでした。「消極的服従」とは、主がわたしたちのために「罪に対する神の永遠の怒りの重荷」を引き受け、そこでの徹底的な神の刑罰を余すところなく受けてくださったことで、罪に対する「完全な償い」を満たしてくださったということです。そして「積極的服従」とは、神が本来わたしたちに求めておられた「義」を完全に満たすことで、「義と命とを獲得」するということです。


 この前提に、エデンの園で結ばれた「行いの契約(命の契約)」があります。『ウェストミンスター信仰告白』(以下『信仰告白』と略記)によれば、神の像に創造された人間は神の律法をその心に記され」ただけではなく、「その心に記されたこの律法のほかに、善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令を受けた」あります(4:2)。ここでは二つのことが語られています。一つは人間の心に記された「神の律法」であり、もう一つは「善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令」でした。つまり「無罪の状態のアダムと、アダムにあって全人類に啓示された従順の規範は、善悪の知識の木の果実を食べてはならないという特別な命令のほかには、道徳律法でした」(『大教理』問92)こうして「神はアダムに、行いの契約として、律法をお与えになり、それによってアダムとそのすべての子孫に、個人的な、完全な、的確な、そして永続的な服従を義務づけ、それを果たした時には命を与えることを約束し、それを破った時には死をもって報いると威嚇し、また、それを守る力と能力をアダムに授けられ」ました(『信仰告白』19:1)。そしてここで与えられた「道徳律法は、義とされた者も他の者も同様に、すべての人々に、それに服従することを、じっさい永久に義務づけている」ものでした(『信仰告白』19:5)。このように「従順の規範」として服従を義務づけられた「神の律法(道徳律法)」とは、十戒に要約されたもので、それは「こころを尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛すること」でした(『小教理』問42)。ここで求められていたことは二つでした。一つは「善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令」で、それに従順に服従することでした。そしてもう一つは、心に記された「神の律法」、すなわち十戒に要約される「二つの愛の戒め」で、それは「従順の規範」として与えられたものでした。キリストの服従は、この二つと関係します。


 わたしたちは、「善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令」を守ることをせず、故意の不従順によって、それを破りました。そしてまた「こころを尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる私たちの神を愛する」という「神の律法」を破り、また責任転嫁することによって、「自分を愛するように私たちの隣人を愛する」ということをも破りました。この二つの不従順と違反に対してキリストは、「行いの契約」に不従順となり、それを破ったことで受けることになった罪に対する刑罰をわたしたちの代わりに受けてくださるという、「神の刑罰に対する服従」、つまり「神の激しい怒りと刑罰を最後まで完全に耐え忍ぶ服従」を果たしてくださいました1 。それを「消極的服従」と呼びます。そしてさらに、人間が本来服従するべきだった「神の律法(道徳律法、その要約が十戒)」に完全に服従することで与えられる「義」を獲得するための服従、「『心を尽くして神を愛すること』という神の律法への積極的服従」、「真実に神を愛する完全な服従」をも成就してくださいました2。それを「積極的服従」と呼びます。キリストはこの「神を愛する完全な服従と神の刑罰に最後まで耐え忍ぶ完全な服従」の二つを成就してくださることで、神の義を満たし、わたしたちのために義と命を獲得してくださったのでした。


3.「日毎に負債を増し加えている」という罪の現実(悲惨さ)

 いずれにしても「刑罰を逃れ再び恵みにあずかる」という二つのために、「神は、ご自身の義が満足されることを望んでおられます。ですから、わたしたちはそれに対して、自分自身によってか他のものによって、完全な償いをしなければなりません」(問12)。そこで次に問われるのが「わたしたちは自分自身で償いをすることができますか」ということです。しかしそれには、「決してできません」という厳しい答えが返ってきます。そんなはずはないと考えてしまうわたしたちに、教理問答は追い討ちをかけるようにして、「それどころか、わたしたちは日ごとにその負債を増し加えています」と答えていきます(問13)。主は有名なタラントの譬をもって、この人間の姿を見事に表しました。そこには王に一万タラント借金をした人が出てきます(マタイ18章21~35節)。それは六千億円にも相当する莫大な額なのですが、この人は初めから一度にそれだけの借金を負ったのでしょうか。むしろ初めはたいした額ではなく、すぐに返せると思ったのでしょう。それでまた借りる、さらにまた借りるといった具合に借金を重ねていくうちに、大変な額になってしまったのです。しかも利子がかかって、それにさらに利子が付くという具合で、遂には借金が雪だるま式に増えてしまったのではないでしょうか。人間の神に対する罪も、ちょうど同じようなもので、利子が利子を生むようにして、雪だるまのように「日ごとにその負債を増し加えて」いるのです。問題は、わたしたちが、自分の罪に対するそのような深い認識をもっているかということです。これくらいなら大丈夫とたかをくくっているうちに、自分の罪がどうにもならないほどになってしまっている、それがわたしたちの姿ではないでしょうか。罪を犯せば犯すほど、罪に対する感覚は鈍磨し、麻痺していきます。そうして遂には、罪を罪とも思わずに犯すようになっていくのです。罪に対するこのような安易な思いがないだろうか。真実に自分の罪に対する、深い悲しみと悔い改めのうちに立っているのだろうか。むしろ人間というものは、しょせん罪を犯すものだと開き直っていないだろうか。ここでは、そのことが鋭く問われてくるのです。


4.「まことのただしい人間」である方

 このように「日ごとにその負債を増し加えて」いるわたしたちは、どうしたら「償い」をすることができるのでしょうか。教理問答は、さらにこのように問いかけます。「しかし、単なる被造物である何かが、わたしたちのために償えるのですか」と(問14)。この問いの背景には、旧約聖書時代、人間の罪の償いのために羊や牛といった動物が、人間の「身代わり」として犠牲とされていたことがあります。「罪が支払う報酬は死」であり、罪に対する刑罰は「死」です。罪を犯した人間が、自分の犯した罪に対する償いとして支払うべきもの、それは「死」でした。また「血を流すことなしには、罪の赦しはありえません」とありますが(ヘブライ9章22節)、「血を流す」とは「死ぬ」ことでした。そこで本来なら、罪を犯した者は死ななければなりません。しかし憐れみ深い神は、罪人が死なないで罪を償う道を開いてくださいました。それが動物の犠牲による「身代わりの死」です。動物の「身代わり」を立て、その身代わりに罪の刑罰を課し、自分の代わりに死んでもらうことによって自分の犯した罪を精算し、罪の刑罰を除去しました。それを「贖い」と言います。それは自分の罪の「償い」を代わりのものに果たしてもらうということでした。イスラエルでは、動物の頭に手を置いて、犯した自分の罪を告白し、その動物が自分の代わりに死んでもらうことで、自分の罪に対する償いを果たしました(レビ記1章4節、4章4節、16章21節)。その犠牲を捧げる度に、自分の犯した罪の大きさをいまさらながら思い知り、深い悔恨の念をもって悔い改めたことでしょう。しかしこの旧約時代の動物犠牲による「罪の償い」は、完全には人間の罪を取り除く効力がなく、そのため度々犠牲を捧げなければならないという問題点がありました。「年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」でした。むしろ「これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来る」のであり、「雄牛と雄山羊の血は、罪を取り除くことができないから」でした(ヘブライ10章1~4節)。


 しかし教理問答は、こうした動物犠牲の不完全さのゆえに、「単なる被造物である何かがわたしたちのために償い」を果たすことはできないと語るのではありません。むしろそれは、「神は人間が犯した罪の罰を他の被造物に加えようとはなさらない」からであり、また「単なる被造物は、罪に対する神の永遠の怒りの重荷に耐え、かつ他のものをそこから救うことなどできない」からでした(問14)。「なぜなら神の義は、罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求め」るからです(問16)。このような動物犠牲があったのは、わたしたちのため完全な償いを果たすために犠牲として献げられた、イエス・キリストを指し示すためでした。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)、「わたしたちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ2章2節、4章10節、ローマ3章25節)と言われたのは、このためです。「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」(ヘブライ7章27節)。キリストは「ただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました」(ヘブライ9章26節)。そして「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられ」ることで(同28節)、「雄山羊や若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同12節)。このように主イエスの十字架による死とは、わたしたちのすべての罪を背負って、わたしたちの身代わりとして、罪に対する刑罰を代わりに引き受け、それによってわたしたちの罪を取り除き、償いを果たしてくださったということでした。


 こうして「神は人間が犯した罪の罰を、他の被造物に加えようとはなさら」ず、「罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求め」られました。しかしそれは同時に、罪のない人間である必要がありました。なぜなら「自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできない」からです(問16)。そこでわたしたちのための罪からの救い主は、まず「まことのただしい人間」である必要がありました。「このように聖であり、汚れなく、罪人から離れて、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです」(ヘブライ7章26節)。そして「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方でした(同4章15節)。このように、一度も罪を犯したことのない「まことのただしい人間」は、主イエス・キリストただお一人だけです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のでした(1ペトロ2章22節)。だから「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」。なぜなら「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられ」たからでした(1テモテ2章5、6節)。そしてここに「神が人となられた」ということの意味があります。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブライ2章14、17節)。こうして「神が人となられた」ことによって、わたしたちの罪の償いの道が開かれていきました。世に「救い主」を自称する多くの人がいても、「神が人となられた」(「人が神となられた」のではない)この方以外には、罪からの救いはありません。「他のだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4章12節)。そのためにこそ主イエスは人となっておいでくださったのです。「人となられた神」(「神となった人」ではない)こそ、わたしたちを救いうるただ一人の救い主なのです。イエス・キリストこそ、罪の縄目にがんじがらめに捕らわれており、自分で自分を救うことができなくなってしまったわたしたちのために、神がお遣わしくださった「救い主」でした。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)としての救い主なのでした。


5.「まことの神」である方

 しかもこの方は、「まことの神」でもあられる必要がありました。なぜなら、「単なる被造物では、罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担い、かつ他のものをそこから救うことなどできない」(問14)からです。そのためこの方は、「まことのただしい人間」であると同時に「まことの神」でもあられる必要がありました。それは「御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださるため」でした(問17)。ですから、「わたしたちは、どのような仲保者また救い主を求めるべき」かといえば、「まことのただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方」を求める必要があります(問15)。そしてその方こそ、「わたしたちの主イエス・キリスト」なのです。なぜなら、「この方は、完全な贖いと義のために、わたしたちに与えられているお方」だからでした(問18)。こうして単なる人間であるだけではなく、罪のない「まことのただしい人間」であり、しかも「まことの神」であられるイエス・キリストだけが、わたしたちの罪を担い、その死の刑罰を背負って、わたしたちの贖いと救いを成し遂げてくださることができる、ただ一人の救い主なのでした。


 ここでは主イエスが、一方では「まことのただしい人間である」ことが強調され、他方こうして人間となられた「まことの神」が強調されますが、この背後には教会の熾烈な信仰の戦いがありました。一方では主イエスが神であることを認めつつも、わたしたちと同じ人間であられたこと(人性)を否定する考えがあり、他方ではナザレの人間イエスが完全な人間であったため神の子にされ、神のような者となったという考えで、それは主イエスが神であること(神性)を否定するものでした。それに対して一方では主イエスが「血と肉を備え」た、わたしたちと同じ人間であられること(人性)を主張し、他方では神となった人間ではなく、人となられた神ご自身であること(神性)を主張したのです。教会がそのことを大事にしたのは、それが信仰の根幹に関わる事柄だったからです。主イエスは、神であるキリストがナザレのイエスの肉体を借りた、あるいはそのように見せかけた方であるとか(仮現論)、あるいは理想的で完璧な人間であったゆえに、被造物であったが神の子とされた方である(養子論、「エホバの証人」など)とするなら、わたしたちの救いが成り立たなくなってしまうからです。わたしたちの代わりに罪の償いを果たしてくださる方は、「まことの神であると同時にまことの正しい人間でもある」方でなければなりません。ですから教会は信仰の根幹に関わる事柄として、この二つのこと(主イエスの神性と人性)を主張し、信じてきたのでした。このように主イエスを「まことの神であると同時にまことの正しい人間でもある」として信じ受け入れることは、信仰の根幹、中枢であり、それによってわたしたちの救いが立ちもし倒れもする要です。そこでカルケドン信条は、このように告白します。「我らの主イエス・キリストは唯一かつ同一の御子である。この同じ方が神性において完全な方であり、この同じ方が人間性において完全な方である。この同じ方が真の神であり、また理性的な魂と肉体から成る真の人間である。この同じ方が神性において御父と同一本体(ホモウシオス)であり、かつまた人間性において我々と同一本体の者である。『罪を犯されなかったが、あらゆる点において、我々と同じである』(ヘブ4・15)。神性において、代々に先立って御父から生まれたが、この同じ方が、人間性において、終わりの日に、我々のため、我々の救いのために、『神の母』なる処女マリアから生まれた3」。


6.御子による罪の「贖い」

 「生まれながらの罪」「実際に犯した罪」についての永遠の刑罰は、「体と魂とにおいて」受けることが求められました(問11)。この「体と魂とに」おける神の永遠の刑罰を引き受けられた人は、一体どなただったでしょうか。人間の罪に対して激しく怒られる、その神の裁きがくだされたのは、一体どこにおいてだったでしょうか。それはゴルゴダの丘、主イエス・キリストの十字架においてでした。キリストは十字架において、「全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた」のであり、「それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによって、わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために、神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした」(問37)。人間の罪に対する呵責のない神の裁きは、まさに主イエスの上に、その十字架の上にくだされました。「十字架の死は神に呪われたもの」であり、「それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを、御自身の上に引き受けてくださったことを確信する」ことができるのでした(問39)。そしてここにおいて神の究極の裁きがくだされると共に、神の愛が示されました。神の裁きがくだされた、まさにそのところで、神の愛が明らかにされたのです。


 「体と魂とに」おける神の裁きを、徹底的に受けられたのは主イエスです。ここにおいて人間の罪に対する神の裁きは、とことんくだされました。しかしまた同時に、それによって神はこの罪人にすぎない人間、どこまでもご自身に背き続ける人間を救い、人間への愛を表されたのでした。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5章8節)。そして一人の人アダムによって罪がこの世に入ったように、一人の人イエスによって「すべての人が義とされて命を得ることになったのです」(同15~21節参照)。神は人間の罪を見過ごしにされたり、見逃すことによってではなく、ご自身の御子にその裁きをくだすということにおいて、人間への愛を貫かれました。この「神の義と愛のあえるところ」こそ(『讃美歌』262番1節)、ゴルゴダの丘の主イエスの十字架です。わたしたちはどこで自分の罪を認めることができるでしょうか。それは主イエスの十字架においてです。それ以外のところでは、わたしたちは自分の本当の罪の深さを知ることはできません。十字架を仰ぐことによって、わたしたちは自分の罪が、神の御子を殺さなければならないほどに深く大きなものであったことを、初めて知るに至るのです。そしてまた同時に、この十字架を仰ぐ中でこそ、わたしたちに対する神の限りない愛と憐れみにも出会うのです。


 こうして、わたしたちがこれまで犯してきた罪、今犯している罪、そしてこれから犯すであろう罪を含めて、わたしたちの一切の罪を御自身に引き受けて、わたしたちの身代わりとしてキリストが代わりに死んでくださいました。それによってわたしたちに対する罪の要求も、死の支配も、その結果である悲惨さも、すべてはあの十字架の上で終わりました。身代わりによる償い、つまり「贖い」を主イエスがわたしたち自身のために果たしてくださった、そうしてわたしたちの罪に対する神の刑罰を背負うことで、主イエスはわたしたちを救ってくださったのでした。そこで聖書は、主イエスの十字架が、わたしたちの罪のためのものであることを証言します。「彼(主イエス)が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章5、6節)。「そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2章24節)。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」のであり(ローマ8章3節)、こうして「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができた」のでした(2コリント5章21節)。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ5章8節、1コリント15章3節)のであり、この方は「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」来てくださったのでした(マルコ10章45節、1テモテ2章6節、1ヨハネ2章2節)。この「十字架につけられたキリスト」に、わたしたちの心からの感謝と賛美を献げていきたいと思います。




1 春名純人、『「ハイデルベルク信仰問答」講義』、2003年、聖恵授産所出版部、56、60、61頁

2 同上、

3 小高毅、『キリスト論論争史』、2003年、日本キリスト教団出版局、205~206頁