第11課 ウェストミンスター信仰基準による「業の契約」とその違反

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第11課(第1部補論):ウェストミンスター信仰基準による「業の契約」とその違犯


 教理問答の第一部(問3~11)の内容は、『ウェストミンスター信仰基準』と比較すると、順序も内容にも違いがあります。理解を深めるため、ここでは『ウェストミンスター信仰基準』による説明を加えたいと思います。ここでの『信仰告白』は、村川満・袴田康裕訳(一麦出版社)を、『大教理問答』『小教理問答』は、松谷好明訳(同)を使用しています。


1.原初の人間

*大教理問答17(小10)

 神は・・・人間を男性と女性に創造され、男の体は地のちりから、女は男のあばら骨から形づくり、彼らに生きた、理性ある、不死の魂を授け、知識と義と聖において御自身の形にしたがい、その心に書き記された神の律法とその律法を成し遂げる力とを持ち、被造物を支配するが、しかし堕落することもある者として造られました。


*信仰告白4:2

 神は、他のすべての被造物を造られた後に、人間を、男性と女性に、そして理性的で不死の霊魂を持ち、知識と義と真の聖とを賦与されたものとして、御自身のかたちに従って、創造された。彼らは神の律法をその心に記され、同時にそれを履行する力を持っていた。それにもかかわらず、変わりうる彼ら自身の意志の自由に任されていたので、違反する可能性があった。彼らはその心に記されたこの律法のほかに、善悪の知識の木から取って食べてはならないという命令を受けた。それを守っている間、彼らは神との交わりの中にあって幸福であり、被造物を支配していた。


 a.「神の像」として創造された人間

 天地創造は、人間の創造を頂点とします。だから人間は、他の全ての被造物の一番最後、それらが創造された後に創造されました。人間は、創造の冠として造られたのであり、この被造世界は、神と人間の交わりの舞台であって、この神の天地創造の業の目的は、わたしたち人間との交わりにありました。そこで人間は、本来神と交わりをもつ者として造られました。神ご自身が、父と子と聖霊の生きた交わりの中に生きる「三位一体」の神です。その神に似せて、「神の像」に人間が造られたとは、人間がその本質において、交わりの中に生きる存在であるということを意味します。神との交わりと隣人との交わりの中に生きる存在として人間は造られた、それが「男と女に創造された」(創世記1章27節)ことの意味でした。それは相手なくしては自分もないという、相互に相手を必要とし合う人格関係のうちに造られたことを意味します。人間とは、本来孤独な存在ではなく、自己充足的、自己完結的個人でもなく、本質的に社会的存在として、交わりの中に生きる者として創造されたのです。互いを人格として受け入れ合って、「我-汝」関係に生きるように創造されました。真実に互いを受け入れ合い、誠実に認め合って、互いの交わりが喜びとなる関係、そこに人間は生きる者とされたのでした。この「共に生きる(共同人間性)」ことこそ、神の像として創造された人間の本質でした。そしてこの「共同性(生)」は、神との関係における共同性(生)であり、神との交わりに生きる者として、人間は創造されたのでした。


 この「神の像」は、狭義には人間の理性や霊魂のことを意味しますが、それは神がご自身と交わりをもたせるために与えられた人格的能力のことでした。信仰基準は、この神の像を具体的には「知識と義と聖」に見ます。「知識」とは、神がご自身を啓示されたとおりに、神の真理を理解することができるということです。それは、神の真理を理解する能力で、本当の意味で人間は「預言者」とされたということでした。「義」とは、神のご意志に完全に、また積極的に服従できるということで、神の代理人として被造物を治める者として、本来の意味で「王」とされたということです。「聖」とは、神に聖別された者として、自分を神に完全に献げることができるということで、喜んで自分を神に献げる者として、本来の意味で「祭司」とされたということです。「知識と義と聖」とは、人間が神のご意志を理解でき(預言者)、神にのみ仕えて奉仕する者として自分を神に献げ(祭司)、神の代理として義の業を行なう(王)者とされたことを意味します。このように神に対するまことの「知識」、神との正しい関係である「義」、そして神との交わりにおいて必要な「聖」の全てがあらかじめ与えられたのです。そしてこのように人間が理性的存在として創造されたのは、神との交わりが意図されてのことでした。


 b.神への自由で自発的な応答

 この人格的交わりは、強制される中で真実に成り立つものではありません。真実の交わりは、何らの強制や義務なしに、愛の応答がなされて始めて成立します。最初の人間は、「変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として創造された」とは、人間が不完全に創造されたということではなく、神がどこまでも被造物にすぎない人間を、人格的存在として尊び、また人間との真実な人格的交わりを求められたということでした。神を拒絶する自由、神から離れていく自由(本来の自由意志で選択の自由のこと)さえ与えられた上で、またそれを果たす力と能力を十分備えられた上で、神の愛に自分の愛をもって応答し、神に自発的に自由な愛と意志から服従していくことを願われたのです。その神への愛と信頼と服従のしるしが、「善悪を知る木から食べるな」という命令で、何らの義務も強制もないところで、この命令に従うことによって神への信頼と愛が表わされていくものでした。


2.神と人間との最初の契約(業の契約)

*信仰告白7:1 

 神と被造物の間の隔たりは非常に大きいので、理性的被造物は自らの創造者である神に服従する義務をじっさい負っているとはいえ、自らの幸いまた報いとして神を喜ぶということは、神の側のある自発的なへりくだりによるのでなければ、決してあり得ないことであろう。そしてこのへりくだりを神は契約という方法で表すことをよしとされたのである。


 a.「契約」としての神と人間との関係

 神と人間との間には、すでに創造主と被造物という絶対的で自然的関係がありました。しかしそこからは、人間の側の一方的な「服従」の義務しか生じません。そこで神は、人間との間に、契約的関係、人格的な関係を持つことを意図されました。神が人間と契約を結ばれたということは、神にとっては「へりくだり」であって(7章1節)、それをする必然性は何もなかったにもかかわらず、人間をご自身の契約相手とし、ご自身と対等の存在として、人格的に取り扱ってくださったのでした。神は人間に、強制によるのではなく、自然的本性や本能からでもなく、どこまでも自発的で自由な愛と信頼に基づく交わりと服従を求められ、ここでの「神の言葉」(「善悪を知る木から食べるな」)に従うことをもって、神への愛と信頼を表わすものとされたのでした。「契約」とはドライで事務的な関係ではなく、逆に人格的な交わりを意図した関係です。「これを守っている間は、神との交わりにおいて幸せであり、もろもろの被造物を支配していた」(4章2節)とあるように、神との関係だけでなく、他の被造物との関係においても良き交わりを持つことができたのでした。


*大教理問答20(小12) 

 創造された状態にあった人間に対する神の摂理は、〔第一に〕人間を楽園に置き、彼にそこを耕すことを命じ、彼に大地の産物を食べる自由を与え、被造物を彼の支配下に置き、彼を助けるために結婚を定めたこと、また、〔第二に〕彼に御自身との交わりを与え、安息日を制定し、個人的な、完全で、不断の従順-命の木がその保障でした-を条件に、彼との命の契約に入り、死を罰として、善悪の知識の木から食べるのを禁じたこと、です。


*信仰告白7:2

 人間と結ばれた最初の契約は行いの契約であって、そこでは命がアダムに、そして彼にあって、その子孫に、約束された。完全な、本人自身の服従を条件として。


*大教理問答92(小40)

 無罪の状態のアダムと、アダムにあって全人類に啓示された従順の規範は、善悪の知識の木の果実を食べてはならないという特別な命令のほかには、道徳律法でした。


*大教理問答93

 道徳律法とは、〔第一に〕魂と体から成る全人の外面と内面において、また、人間が神と人間とに対して負っている、聖と義のあらゆる義務を果たすことにおいて、すべての人に、神の御心への、個人的で、完全で、不断の服従と従順を命じ、義務づけ、〔第二に〕それ〔道徳律法〕を行えば命を与えると約束し、破れば死を報いると威嚇する、そのような、人類に対する神の御心の明示です。


*信仰告白19:1

 神はアダムに、行いの契約として、律法をお与えになり、それによってアダムとそのすべての子孫に、個人的な、完全な、的確な、そして永続的な服従を義務づけ、それを果たした時には命を与えることを約束し、それを破った時には死をもって報いると威嚇し、また、それを守る力と能力をアダムに授けられた。


 b.「業の契約」としての律法

 神の「契約」に入れられた人間は、その契約に対する服従の故に神からの愛顧とそれに伴う祝福をいただける存在とされました。それは「心に記された律法の他に、善悪を知る木から食べるな、という命令を受けた」ことであり(4章2節)、「それによって神は、アダムとその全ての子孫とに、人格的な、全き、厳密な、また恒久的な義務を負わせ、それを果たせば命を与えることを約束し、破れば死を報いると威嚇し、それを守る力と能力を彼に授けられた」ということでした(19章1節)。それに人間が応答するなら、神も人間に対して義務を負ってくださり、生命と祝福を与えてくださると約束してくださったのです。この「人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された」のでした(7章2節)。そのために最初の人間は「心の中に記された神の律法とそれを成就する力を持」つ者として創造されました(4章2節)。この「業の契約」は、「善悪を知る木から食べるな」という命令によって表現されていますが、それは神への完全な服従を条件として命を約束するものでした。ここで試みられたことは、人間が神の言葉と約束に、ひいては神ご自身に対して、完全な信頼を寄せるかどうかということでした。それが神の言葉への服従として試されたのです。それによってもたらされるのは、永遠の生命、つまり生命の源である神との、絶えることのない永遠の交わりであり、尽きることのない永遠の祝福です。逆に罰則は、死、つまり生命の神との永遠の断絶です。ここで大切なのは、神は人間の前に生命と死を置き、どちらでも好きな方を選ばせたということではなく、神の意志は人間が完全な服従を果たして永遠の生命を得るということです。だからこれは「命の契約」とも呼ばれます(小教理問12)。そして神は「それを守る力と能力を彼に授けられた」のでした。


*信仰告白19:2

 この律法は、アダムの堕落後も、義の完全な規範であり続けた。そしてそのようなものとして、神によってシナイ山で、十の戒めの形で、二枚の板に書かれて、与えられた。その四つの最初の戒めは神に対するわれわれの義務を内容としており、残りの六つは人間に対するわれわれの義務を内容としている。


*信仰告白19:5

 道徳律法は、義とされた者も他の者も同様に、すべての人々に、それに服従することを、じっさい永久に義務づけている。・・・


*小教理問答42 十戒の要約は、何ですか。

 十戒の要約は、こころを尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。


 c.「義の完全な規準」としての律法

 創造された人間には、「心に記された律法」が与えられ、心に植えつけられていました(ローマ2章15節)。この「心に記された律法」は、それが破られ、人間が堕落した後も、「続いて義の完全な規準」であり続けています。その残滓は、不完全ではあっても「良心」として今も依然として機能しています。「律法を持たない異邦人も・・・律法の要求する事柄がその心に記されている」(ローマ2章14、15節)からです。しかしこの「心に記された律法」は、罪によって繰り返し消し去られ、あいまいなものとなり、十分に機能しなくなってしまったため、神は消し去ることができない「石の板」に刻みつけて、人間の恣意や都合によってうやむやにされたり、腐敗することがないように、客観的な方法でそれを与えられました。それがモーセを通して与えられた「律法」です。人間は堕落によって、この律法を守る力を喪失してしまいましたが、それによって律法も人間の義の規準としての位置を失ったわけではなく、今でも依然として「義の完全な規準」として機能し、全ての者にそれへの服従が義務づけられています。この律法は、「シナイ山で十誡として宣布され、二枚の板に書かれた」もので、「最初の四つの戒めは、神に対するわたしたちの義務を、他の六つの戒めは、人間に対するわたしたちの義務を含んでいる」(告白19章2節)もので、「道徳律法」といい、その中心は、「神と隣人を愛する」という二つの愛の戒めでした。そしてそれは律法の本質として「義と認められた者にも他の人にも全ての者に、永久に、それへの服従を義務づけ」られたものでした(同5節)。


3.自由意志

*信仰告白9:1

 神は人間の意志に自然本性的自由を賦与しておられる。すなわち、人間の意志は強制されていないし、また自然本性の絶対的必然性によって、善あるいは悪へと向けられてもいない。


 a.人間の自由意志とは何か

 神が人間に与えられた「自然的(本性的)自由」とは、「善にも悪にも強制されていないし、また自然の絶対的必然で決定されてもいない」ものです。つまり人間は、強制されてとか、必然的にそうせざるをえないということで行為したり、考えたりする存在ではなく、あくまでも自分自身で考え、望み、意志して、自分が為すことを自分で選び取る自由を与えられた人格的存在です。これは神が人間に与えられた本性的な自由で、神は人間をどこまでも自由な人格的主体として創造されたのでした。人間がこのような自由な人格的主体である以上、人間が自分でしたことについては、その責任を免れることができません。


*信仰告白9:2

 人間は無罪の状態においては、善であって神に喜ばれることを意志し行う自由と力を持っていた。しかし、それにもかかわらず、それは可変的な仕方においてであって、それゆえ人間はその状態から堕落することもあり得た。


 b.善に対する意志

 堕落する前のエデンの園での原初の人間は、罪のない状態で、いわば神に対して「中立」な状態でした。そして「人間は無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持って」いました。それは文字通りの自由意志、「選択の自由」で、そこで意図されたのは、人間が自発的に神へと向かい、その自由をもって神に仕え、神を愛するということでした。そしてそこで完全な服従を果たすことで、完成された至福の完聖の状態、もはや決して罪を犯さず、そこから落ちることもない状態へと上げられることが意図されていました。だからまだこの時点では「可変的であって、そこから堕落することもありえ」るものでした。神は人間を「心の中に記された神の律法とそれを成就する力を持ち、しかも変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として創造された」(4章2節)からです。ここで問題とされる自由意志とは、人間の本性的自由のことではなく、「善に対する能力」「神の律法を守り行おうとする意志」のことです。善を選び行う意志の力について、無罪状態ではその意志の力が十分にありました。


4.人間の堕落と罪

*大教理問答21(小13)

 わたしたちの最初の先祖たちは、彼ら自身の意志の自由にまかされていたところ、サタンの誘惑により、禁じられていた木の果実を食べて神の戒めに違反し、それによって、彼らが創造された無罪の状態から堕落しました。


*大教理問答24(小14)

 罪とは、理性ある被造物に規範として与えられた神のいかなる律法に対してであれ、少しでもかなわなかったり、それに違反することです。

 

*小教理問答15

 わたしたちの最初の先祖たちが創造された状態から堕落したときの罪とは、彼らが、禁じられていた木の果実を食べたことです。


*信仰告白6:1

 われわれの最初の先祖は、サタンの狡猾と誘惑にそそのかされて、禁じられた果実を食べることによって罪を犯した。・・・


 a.人間の最初の罪

 人間の最初の罪は、「善悪を知る木」の果実を取って食べたことでした。園にあったその木は、特別な木で、毒があるとか、特別に興味をそそるような特殊な木であったわけではありませんでした。ただそれは「命の木」と共に、園の中央に置かれて、他の木とは区別されていました。神がこの木を置かれ、最初の人間と契約を取り交わしたのは、それによって彼らを罪への誘惑し堕落に引きずり込むためではなく、むしろその自由をもって神を自発的に愛し、従い、信じることを表わし、試すためでした。神は人間に、強制によるのではなく、自然的本性や本能からでもなく、どこまでも自発的で自由な愛と信頼に基づく交わりと服従を求められ、そのしるしとして「善悪を知る木」を置き、その木の果実を食べてはならないという「神の言葉」に従うことをもって、神への愛と信頼と服従を表わすものとされたのでした。真の自発性は、何らの強制のない自由から発しなければ、まことの自発性となりません。最初の人間は、神に従うか、それとも神をしりぞけるかの、全くの二者択一を選ぶ自由を与えられ、またそれを守る力と能力も豊かに備えられた上で、神への服従を求められたのです。


 「業の契約」とは、完全な自由の中で、人間の方から全く自発的な感謝と愛と賛美と信頼に基づいて神への服従を表明するためのものでした。ですから最初の人間が犯した罪が「禁断の木の実を食べた」ということは、実は、ここでの神の言葉と神ご自身を疑い、約束に対して不信仰で、神の警告に対して無関心となり、「神のように」なろうとした高慢、そして何よりも神とその言葉に対して不服従、不従順であったということなのでした。「取って食べるな」という命令は、そこにそれを禁じる倫理的な理由がありません。善悪を知る木自体に特別な根拠や理由があったわけでもありません。ただそれは神が禁じられた、ただそれだけの理由で守られ、尊重されるべき戒めでした。それを破ったということは、それを禁じられた神の意志を踏みにじり、命を約束される神の祝福をないがしろにし、神の言葉に不従順となったということです。このように人間の最初の罪とは、人間本性に欠陥があったとか、運命的なものであったというのでは全くなく、人間が神から与えられた自由な意志をもって、神への服従を拒み、神の愛と信頼を踏みにじったということでした。自由意志の乱用による不服従、それが最初の人間の罪でした。


*大教理問答22(小16)

 契約は、ただアダム自身のためばかりでなく彼の子孫のためにも公人としてのアダムと結ばれていたので、通常の出生によってアダムから出る全人類は、その最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落しました。


*大教理問答23(小17)

 堕落は人類を、罪と悲惨の状態に陥れました。


*信仰告白7:3

 人間はその堕落によって、自らをこの契約によって命を得ることができないようにしてしまった・・・。


 b.アダムの「最初の違反」による人類の堕落

 最初の人アダムによって、人類全体の堕落がもたらされました。なぜなら神が結ばれた「業の契約」は、「公人としてのアダム」(大教理問22)とであり、彼はこの時、人類の頭、代表者として神と契約を結んだからです。アダムが結んだ契約は、「彼自身だけでなく、彼の子孫のためにも結ばれ」たものだったので、彼が「最初の違反」を犯したとき、「彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落した」のでした。ただここで注意したいのは、アダムはこれ以降も、多くの罪を犯したことでしょうが、それらのアダムが犯した罪のすべてがここで問われているわけではなく、人類の違反は彼の「最初の違反」に限定されているということです。アダムが犯したすべての罪が人類に問われているのではなく、神との契約の違反となった「最初の罪」が問われ、それに全人類もあずかったとするのです。


 一国の首相が公人として他国と締結した条約に、その国の国民はすべて関係づけられるように、アダムは全人類の代表者、契約の頭として、神と契約を結んだからこそ、彼の子孫のすべてはこの契約と関係づけられ、彼の違反にも関係づけられ、その責任が問われてくるのです。「このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ロ-マ5章12~21節)。こうしてアダムの誤った最初の一歩によって、その後に続くすべての人も最初から誤った道を歩む、まさしく的外れ(罪)な生き方へと導かれていったのでした。学校の遠足で、先導する先生が道を間違うと、後に続く全員も道に迷うのと同じです。「彼らは全人類の根源であるので、彼らから普通の出生によって生まれるすべての子孫に、この罪のとがが転嫁され、また罪における同じ死と腐敗した性質とが伝えられた」(6章3節)のでした。


5.堕落の結果

*大教理問答25(小18)

 人間が堕落して陥った状態の罪性は、〔第一に〕アダムの最初の罪の罪責と〔第二に〕アダムが創造されたときに持っていた義の欠如と、〔第三に〕人間の本性の腐敗にあります。この本性の腐敗によって人間は、霊的に善であるすべてのものに対しては全く無気力、無能となり、敵対し、すべての悪に対しては全面的に、しかも継続的に傾くようになっています。この本性の腐敗は一般に原罪と呼ばれ、これからすべての現実の違反が出てくるのです。


*信仰告白6:2

 この罪によって彼らは原初の正しさと、原初の神との交わりから堕落し、そのようにして罪のうちに死んだものとなり、霊魂と体のすべての部分と機能において、全面的に汚れたものとなった。


 a.原義の喪失

 神とその言葉に対する不信仰と不従順の結果、わたしたちの始祖は堕落し、その罪の結果をその身に負うこととなりました。この罪と堕落によってもたらされた結果とはどのようなものでしょうか。それはまず第一に、神から与えられた「原義」を喪失したということでした。「原義」とは、人間が創造された最初に持っていた、知識と義と聖において神に似せて造られた性質(小教理問10)のことで、それによって神と人間との間には正常な関係と交わりが成り立っていたのです。そもそも「義」とは本質的に「神との正常な関係」のことであり、それにより義の源である神との結びつきのゆえに、義を本性的に持つ存在とされていました。そこでは神の意志に一致して、その御心を行なう者であることができました。しかしその義を喪失したことで、神との交わりを失ない、神との関係は歪んだもの、いや敵対関係となってしまったのでした。そして神を正しく知る知識も、完全な義と聖も失って、もはや神の意志に一致することも、それを求めることも、行なうこともできずに「自己中心性」に埋没するようになってしまったのでした。


 b.霊的死-神との交わりの喪失

 こうして義であると共に、生命の源である神との交わりが断たれ、喪失した人間は、同時に自分の「生命」をも喪失しました。まことの「生命」とは、神との交わりです。永遠の生命とは、神と無関係に、また神から自律して永遠に存在できるという意味ではなく、唯一の永遠の存在である生命の神との永遠の交わりのことです。神なしの生命、神と無関係の生命は存在しません。神によって創造されたものは全て、必ず何らかの神との関係に置かれています。神の呪いと裁きの関係か、神の祝福の関係かのどちらかで、後者の関係にあるものを、永遠の生命というのです。エデンの園で、神に対して罪を犯したとき、「あなたは必ず死ぬ」と神が宣言されたとおり、人間は確かに死にました(エフェソ2章1、5節)。身体は動き、呼吸しているとしても、それが「生きている」と聖書はみなさないからです。土から造られた人間は、そこに生命の息を吹き入れられて、初めて「生きる者」となりました。その神の息、わたしたちに神との交わりをもたらす「聖霊」が断たれ、失われたことによって、神との交わり、永遠の生命、義、聖、正しい知識などの一切を喪失し、二度とそれを供給する道が断たれてしまったのです。


 c.全的堕落-人間本性の全体的な腐敗

 神こそ、一切の生命、義、祝福の源です。その神との交わりを喪失したことで、人間は自分の生命と義の供給源を失いました。こうして生命の源を失ったことで、人間は「死んだ者」となってしまっただけではなく、腐敗した者ともなりました。果実を幹からもぎ取ると、やがて熟れて腐っていきます。木からの生命の樹液を断たれて死に、腐敗していくばかりです。その腐敗は、部分的なものではなく、全体に及びます。腐る部分と腐らない部分があるということはありません。わたしたちの身体と心とは、その全体に渡って生命を喪失し、腐敗していき、いかなる部分、働きといえども、罪や堕落と無関係な部分はなく、罪はわたしたちの本性の全ての領域、全部分に及んでいるのです。


*大教理問答26

 原罪は、わたしたちの最初の先祖たちからその子孫に、自然的出生によって伝えられます。そのため、自然的出生によって彼らから出るすべての者は、罪の内に宿され、そして生まれるのです。


*信仰告白6:3

 彼らは全人類の根源であったから、彼らから通常の出生によって生まれてくるすべての子孫に、この罪の罪責が転嫁され、そして同一の、罪における死と腐敗した本性とが伝えられた。


 d.アダムの罪の転嫁、死と腐敗した性質(原罪)の伝達

 この最初の人間の罪は、彼個人にとどまらず、彼から生まれる後の全ての子孫に及ぶものとなりました。なぜならアダムが神と結んだ「業の契約」は、アダム一人とではなく、アダムを代表者として人類全体と結ばれたものだったからです。頭であるアダムが違反したことで、人類全体も違反したものとなりました。「彼から普通の出生によって生まれる」とは、普通ではない出生、聖霊によって生まれた主イエスを除外するためです。アダムが神の家から家出した結果、彼から生まれる子供たちは、家出した結果を一緒に受けることになります。アダムの罪によって、彼の罪の結果をも、自分の身に負い、同じ死と腐敗した性質を持つものとなってしまいました。この罪による腐敗した人間本性、罪への傾斜と傾向を「原罪」といい、彼以降の人間は全て、生まれながらこの「原罪」を持って生まれるようになりました。「原罪は、わたしたちの始祖からその子孫に、自然的出生によって伝えられる。それゆえに、この仕方で彼らから生まれ出るすべての者に、罪のうちにはらまれ、また生まれるのである」(大教理問26)。ダビデはこのことを、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」と告白します(詩編51編7節)。


*信仰告白6:4

 この根源的腐敗によって、われわれはすべての善に全く気が向かず、それを行ない得ず、それに逆らい、すべての悪に全面的に傾くものとなっており、まさしくこの根源的腐敗から、すべての現実の違犯が生じるのである。


 e.霊的善への無能と反逆、悪への傾き

人間は堕落によって、創造の最初に持っていた義と聖を、魂と肉体の全体に渡って失ってしまい、霊的な善に対して全く無能力になってしまいました。ですから人間は自分の意志と力で、霊的善つまり神の御心に一致し、それを行なう力を持っていないばかりか、かえってそれを嫌い、避け、自然と罪に傾いていく傾向性を持つに至ったのです。そして「この罪によって、彼らは原義と神との交わりから堕落し、こうして罪の中に死んだ者となり、また霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に汚れたものになった」のでした(6章2節)。堕落で得た「原罪」とは、わたしたちの性質全体に及ぼされた罪の腐敗の状態、つまり罪への傾向性のことです。それは「私たちをすべての善に全くやる気をなくさせ、不能にし、逆らわせ、またすべての悪に全く傾いているところの根源的腐敗」なのです(告白6章4節、大教理問25)。

 

 このわたしたちが本性的に持つ「腐敗した性質」は、善に対して全く意欲を喪失させ、むしろそれに反逆させます。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、帰って憎んでいることをするからです。・・・わたしは自分の内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望前は行わず、望まない悪を行っている」とパウロが語る姿こそ、罪に堕落した人間の姿なのです(ローマ7章15~19節)。そしてわたしたちは生れつき、悪へと傾いていく傾斜を持つに至りました。傾いた板の上に、玉を置けば、必ず一方に玉は落ちます。落ちないように慎重に置いても、置き方を変えても無駄です。それには傾きそのものを戻さなければなりません。堕落後の人間には、善への自由はなく、悪への自由、正確に言えば、悪への束縛しかありません。


 f.現行罪

 そしてこの本性の腐敗と罪への傾斜から、現実の罪(現行罪)が生じます。「悪い木は悪い実を結びます」(マタイ7章17、18節)。悪い木が善い実を実らせることはありません。わたしたちの罪の本性、腐敗した性質は、木が実を実らせるように、必ず「罪」の実を実らせます。あるいは木からもぎ取られた実は、やがて腐っていき、臭気を漂わせるようなものです。この現実に犯す罪とは、法律に違反する犯罪であるとか、行為となって現われた罪だけではなく、心の中の行為、言葉と思いとで犯す罪をも含みます。わたしたちはこうして、思いと言葉と行為の全てにおいて、神に逆らい、罪を犯し続け、生涯そうなのです。しかしわたしたち人間は、完全ではなかったとしても、多少の善は行うのではないでしょうか。立派な人はいますし、愛に満ちた人や善き行い、慈善に励む人もいます。そういう人の善行を無視していると考えられるかもしれません。しかしここで述べているのは、人間の相対的な善ではなく、神の絶対的な善と比較してのことです。それ以上に、「霊的善」について語られています。霊的善とは、神との関係での善のことで、結論から言えば、信仰のない善行は、結局自分のためのものにすぎず、神を少しも喜ばせるものではありませんから、それ自体も罪です。信仰なしの行いは全て、神を喜ばせるためのものとなりませんから、神の目には罪以外のなにものでもありません。それにそもそも人間の相対的善の源は、聖霊ご自身であって、聖霊が結ばせる実であって、人間から生じるものではありません。


*信仰告白9:3

 人間は罪の状態に堕落することによって、救いに伴ういかなる霊的善にも向かう意志の能力をすべて全く失っている。したがって、生まれながらの人間は、そのような善に全く逆らい、罪の中に死んでいるので、自分自身の力では、自分で回心することも、回心の備えをすることもできない。


 g.善を選択する自由意志の喪失

 こうして罪に堕落してしまったことによって、神の御心である律法を行う能力、つまり「どのような善に対する意志の能力もみな全く失って」しまいました。この堕落による善への全的無能力は「わたしたちを全ての善に全くやる気をなくさせ、不能にし、逆らわせ、また全ての悪に全く傾かせている」ものです(6章4節)。「それで生まれながらの人間は、そういう善から全然離反していて、罪のうちに死んでおり」、罪への傾向性を持っています。これは善を全く行わないということではなく、聖霊の一般恩恵の働きによって罪が抑制されると共に、ある程度の相対的な善をも為しますが、「救いを伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている」ということで、神の基準に適う善、救いに至らせる善を行うことはおろか、意志することさえできないことを意味します。罪への傾向性のゆえに、善を選択する自由な意志を喪失し、罪に対しては奴隷状態、隷属状態におかれ、罪しか意志しない者となってしまったからでした。無罪状態の人間は、その全くの自由において善と悪を選択する自由を持っていましたが、その自由をもって悪を選択して以来、堕落状態にある人間は、罪と悪しか選択できなくなってしまったのでした。しかもそれを自分の意志で選び取るゆえに、人間は自分の選んだ罪と悪に対する責任を有することになるのです。このような霊的善を喪失した結果、「自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力ではできない」ようになってしまったのです。人間は霊的には、全く死んで生まれて来るのです。霊的には死んだ人間を、信仰へと、回心へと向けていくのは、ただ神の方からの一方的な恵みによる「有効召命」によってだけなのです。


*大教理問答149(小82) だれ一人、自分自身であれ、この世で受けるいかなる恵みの賜物によってであれ、神の

戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。


6.罪に対する裁き

*大教理問答27(小19)

 堕落は人類に、神との交わりの喪失と、神の不興と呪いをもたらしました。そのためわたしたちは、生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であり、この世と来るべき世におけるあらゆる罰を受けて当然な者となっています。


*大教理問答152(小84)

 すべての罪は、最小のものでも、神の主権・慈しみ・清さと、神の正しい律法に反するので、この世において、来るべき世においても神の怒りと呪いに値し、キリストの血による以外に、償われることはできません。


*信仰告白6:6

 あらゆる罪が、原罪も現実の罪もともに、神の正しい律法への違犯であり、それに反するものであるから、じっさい、必然的に、罪人に罪責をもたらし、それによって罪人は神の怒りと律法の呪いとに縛られ、そのようにして、霊的、地上的、永遠的なあらゆる悲惨とともに、死に服せしめられるのである。


*大教理問答28

 罪に対するこの世での罰は、内的なものでは、知性の闇・邪悪な思い・完全な思い違い・心の硬化・良心のおびえ・恥ずべき情欲であり、外的なものでは、わたしたちのゆえに被造物に下される神の呪いと、死そのものばかりでなく、わたしたちの体・評判・生活状態・人間関係・仕事においてわたしたちに降りかかる他のすべての害悪である。


*大教理問答29

 罪に対する来るべき世での罰は、神の慰めに満ちた御前からの永久の分離と、地獄の火の中で永遠に絶え間なく受ける、魂と体の最もひどい苦しみです。


 罪には刑罰がともないます。「罪が支払う報酬(ボーナス)は死です」(ローマ6章23節)。死は自然なものではなく、「罪によって死が入り込んだ」(ローマ5章12節)のでした。人間は本来死ぬように造られたわけではありませんでした。創造された頃の人間は、考えられないほど長寿でした(創世記5章など)。そのころの人間は、まだ生命にみなぎっていたのです。しかし人間があまりに邪悪なため、神が人間の寿命を短くしてしまわれたのです(創世記6章3節)。死は、人間の罪の結果、この世に侵入し、人間を支配するものとなってしまいました。人間の死を聖書は、三種類に語ります。「霊的死」、「肉体的死」、「永遠の死」です。霊的死とは、神との交わりの喪失のことで、人は生まれながら死んだ状態で生まれてくるということです。その結果、肉体の死をやがて迎えます。しかし「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まって」います(ヘブライ9章27節)。裁きの後、永遠の死、第二の死を迎えます。それは永遠の破滅で(黙示録20章12~15節)、神との永遠の交わりの喪失、断絶です。


 この罪に対する刑罰は、死後だけではなく生きている間にあっても存在します。この地上にある悲惨、問題、災害、試練なのです。この世における不幸や苦しみは、不運な偶然ではなく、究極的に人間の罪に対する罪の結果としてもたらされたものであり、神の正当な怒りと呪いがその根拠にあることを忘れてはなりません。なによりそれは、わたしたち人間が自分の蒔いた種を刈り取るもので、罪の結果です。しかしそれはいわゆる「バチ」とは違います。それによって自分の罪の償いをするのでもありません。むしろ、この地上での罪の刑罰は、それによってわたしたちが繰返し神へと立ち返り、神に信頼を寄せて生きる者となるための、神からの訓練です。わたしたちの心があまりにも地上に固着することがないように、むしろ「天にあるものを求める」ようになるために、神はわたしたちに試練、問題、困難に陥らせるのです。それも神の恵みです(綱要3巻9章参照)。