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第21課 神の選びは変わらない

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第21課:神の選びは変わらない(使徒言行録13章44~47節、2011年7月24日)


《今週のメッセージ:神の変わらない選び(ローマ11章28、29節)》

 主イエスによる「罪の赦し」と「信仰による義」をパウロは語りましたが、この福音にユダヤ人は激しく敵対し、それによって彼らは「自分自身を永遠の命を得るに値しない者」にしてしまいます。そしてパウロは、「わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言することになります。しかしここでわたしたちには疑念が生じます。かつてイスラエルを選ばれた神の選びは、彼らの拒絶によって反故にされてしまったというのでしょうか。このように神の選びというのは変わりうるものであり、人間の応答次第で変更されてしまうものなのでしょうか。たしかにユダヤ人は福音につまずいたことで、福音は異邦人にもたらされるようになりました。しかしこのように異邦人の救いが起こされたのは、それによって「全イスラエルが救われる」ためであるとパウロは語ります。イスラエルを召し、救いにあずからせるという神の約束は、変えられたわけではなく、今は福音を拒絶しそれに頑なになっているイスラエルも、異邦人と共にやがては救われていくことが約束されていきます。捨てられたと思われたユダヤ人さえ、捨てられたのではありません。このように神の選びは、決して変えられることがないのです。「神の賜物と招きとは取り消されない」のです。


1.救いを拒む者に対する深い痛みと悲しみ

 前回はピシディア州アンティオキアでの出来事をたどりながら、「神の恵みの選び」について、ローマ書9章から考えていきました。もう一度そのことを振り返りたいと思います。そこでパウロは、「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」と語ります(9章11~12節)。ここには「自由な選びによる神の計画」とありますが、それは「人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められる」ということが大切です。この「自由な選びによる神の計画」ということでパウロが語りたかったことは、わたしたちが救われるのは、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」ということであり(9章16節)、救いがどこまでも神の憐れみと恵みにより、自分自身の功績に基づくものではないということでした。そもそもわたしたちは本来、「永遠の命を得るに値しない者」でした。それが今や「永遠の命を得るように定められている人」とされたのは、ひとえに神の恵みによるのであり、神の憐れみに基づきます。この神の恵みが根拠となって、この方による「罪の赦し」が与えられると共に、この方を信じることによって「義とされる」ようになり、そうして「永遠の命を得る」者とされました。ですから「神の恵みの選び」とは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて信仰による」ということ、つまり「信仰による義」を言い換えたものであり、それはわたしたちの救いがどこまでも、神の恵みに基づくものであることを明らかにするものでした。つまりわたしたちが救われるのは、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」ということで、自分の何かをよりどころとするものではないということを、別の言い方で表現したものでした。それは、わたしたちの信仰の歩みが、自分の力や努力によってではなく、ただ神の恵みによって成り立っていることを教える教えであり、わたしたちのこれからの信仰の歩みが、この恵みの神によって確かに支えられ、確実に導かれていくということへの信頼と平安を与

える教えです。ですからわたしたちは自分自身の信仰生活について、何も心配する必要がありません。たとえ自分がどれほど弱く、その信仰がどれほどか細いものであろうとも、その信仰さえ与えてくださった恵みの神ご自身が、わたしたちをこれから支え続け、守り続けていってくださるからです。


 そしてそのことは本当に感謝なことですが、しかしなおわたしたちの心には疑念が生じます。確かに前回、この「神の選び」の教えというのは、他の誰かについてとか、人類一般についてのものではなくて、「わたしがどうして救われたか」というわたし自身についての信仰の確かさの教えであることを考えました。あれほど熱心だった兄弟が今はすっかり教会から離れてしまっているのに、弱くて、不熱心、不忠実で、あるかないかのような信仰しか持ち合わせていない自分が、それでも今なお信仰の道を歩み、そこに留まり続けることができていることを覚える時、その背後に自分の力ではない、神の選びを覚えざるを得ません。あるいは長い間教会から離れていたにもかかわらず、再び教会へと導かれて、今は信仰を求めるようになっているということに、神の確かな導きを覚えざるを得ないのではないでしょうか。まさにそこに神の選びがあると言わざるをえないのです。そうして自分は救われていると喜び、自分は神の選びの中にあると確信することができるのですが、それを手放しでは喜べない思いがあるのも事実です。日曜学校に一生懸命通って来ていた、あの子は今どうしているのだろうか。一緒に洗礼を受けて喜びを分かち合った、あの兄弟は今どうしているのだろうか。共に一生懸命に奉仕した、あの姉妹は今どうしているのだろうか。幼児洗礼を授けられながら、今は教会から遠く離れてしまっている我が子は、どうなのだろうか。この人たちは、選ばれていなかったということなのかという、拭うことのできない悲しみと痛みが心に浮かび上がってこないでしょうか。自分自身は救われていると、それで喜ぶことができる人はいないでしょう。親であれば、自分は神の救いから漏れてもいいから、それよりも我が子を救ってほしいと願わないでしょうか。今は教会から遠く離れてしまっている、あの子の方を選んでほしいと祈らないでしょうか。パウロも同じだったのです。自分一人が救われることを、パウロは喜ぶことができなかった。だからこう訴えました。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と(ローマ9章1~3節)。パウロは、同胞ユダヤ人の頑なさと彼らの滅びを目の当たりにして、深く悲しみ、絶え間ない痛みで苦しみました。しかしこれは、遠い昔の他人事とは言えない、わたしたち自身にとっても大きな問題だということができないでしょうか。ですからこの問題を、もう一度掘り下げて考えていきたいと思います。


2.神の選びは変えられてしまうものなのか

 そこで使徒言行禄におけるピシディア州アンティオキアでの出来事に、もう一度戻ってみましょう。ここでは主イエスによる「罪の赦し」と「信仰による義」についての福音を聞こうと、「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来」ます(使徒13章44節)。ところが「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対し」ます(45節)。そこでこうしたユダヤ人の激しい反対に直面したパウロは、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言します(46節)。そしてここでは、異邦人が「永遠の命を得るように定められている」と言われるのに対して(48節)、ユダヤ人は「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にして」しまったと宣言されてしまいます(46節)。このようにパウロは、同胞ユダヤ人からの激しい反対の中で、「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と語らざるをえず、このことはずっと繰り返されていき、コリントでは、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」と語ります(18章6節)。そして最後には「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」と宣言することになります(28章28節)。確かにパウロは「異邦人の使徒」として、主イエスご自身によって立てられた器であり(9章15節、22章21節、26章17、18節)、「その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」ことは、生まれる前から神ご自身によって定められていた彼の使命であり(ガラテヤ1章15、16節)、「御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために」使徒とされました(ローマ1章5節)。そしてパウロが異邦人に福音を語るようになるのは、ユダヤ人が福音を拒絶することによって「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にして」しまったからでした。そしてそこでパウロは一生懸命に福音を語ったわけですが、語っても語っても、ユダヤ人たちがこぞってそれに反対し続けていく中で、「売り言葉に買い言葉」ではありませんが、もう勝手にしろと言わんばかりに捨て台詞を吐いてユダヤ人を見限り、異邦人へと向かっていったと考えるなら、それは間違いです。パウロは怒りに満ちてユダヤ人を見限り、喜んで聞いてくれる異邦人へと向かっていったというのではありません。彼らが滅びに至るのは、彼ら自身の責任だと言わんばかりに、彼らを見捨てていったというのではありません。


 確かにパウロは、彼らが福音に心を閉ざしていくばかりか、こぞってそれに敵対する姿に直面して苦しまされましたし、悩まされました。しかしそれで彼は、早々とユダヤ人を見捨ててしまったわけではなく、その後もずっと、まず会堂に赴いてユダヤ人に語りかけていきました。そしてそこでまた反対に直面し、往生しながら、異邦人にも語りかけるようになりますが、しかしまた次の町でも、やはりまず会堂へと向かって行ったのでした。こうしてパウロはユダヤ人を見捨てたわけではなく、何度も彼らの許に行って福音を語り続けていくのですが、それでもユダヤ人は福音を受け入れようとしませんでした。その中でパウロは苦悩しつつ、徐々に神のご計画を悟るようになっていくのです。そしてそこでパウロが、どうしてあれほど熱心に異邦人に福音を語り伝えていったかという理由も明らかになっていきます。ここでわたしたちも真剣に悩みます。かつてイスラエルを選ばれた神の選びは、彼らの拒絶によって反故にされてしまったというのでしょうか。そうであるとすれば、神の選びは変わりうるものであり、それも人間の応答次第で変更されてしまうようなものだというのでしょうか。この問題は、遠い昔の外国のことではありません。神の民として、本来ならそれを受ける資格がありながら、今は福音を拒んで敵対しているユダヤ人を、かつては教会に来て、熱心に信仰を持ちながら、今は遠く離れてしまっている兄弟や、一緒に熱心に奉仕しながら、今は教会から足が遠のいている姉妹、かつて日曜学校に熱心に通って来ていた生徒や、幼児洗礼を受けた我が子と重ねて考えたら、これはまさしくわたしたちにとっても切実な問題であることに気づかされるのではないでしょうか。


3.異邦人だけではなくユダヤ人も救われる

 ここでパウロはイザヤ書49章6節、42章6節を根拠にして、「わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言しました。そこではこう約束されています。「今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」。ここで「異邦人の光」として立てられた僕は、ただ異邦人へと遣わされただけではなくて、「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるため」、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」ために遣わされたことが宣言されます。「わたしの救いを地の果てまでもたらす」というとき、それは単に地の果てに住む異邦人にまでということだけではなくて、今は福音を拒絶しているユダヤ人も含めて、地に住むすべての人々へと救いがもたらされるようにということでもあります。つまりここではユダヤ人の救いが拒絶されていないばかりか、むしろそれが約束されてもいるのです。ユダヤ人も救いにあずかることができるように、そのために異邦人へと遣わされていくのです。ですからここで「異邦人の光」として立てられた僕は、異邦人の救いのためだけではなくてユダヤ人の救いのためにも立てられた器なのでした。


 パウロはこのことを、単なる知識や思索によってではなくて、むしろ長く困難な伝道経験の中で味わい尽くしていきます。その中から語り出されていくのが、ローマ11章です。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。『救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である』。福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています」と(11章1、2、4~7、11、12、25~28節)。


4.神の選びは変わらない

 パウロが語った福音は、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ」ようになるというものでした(ガラテヤ3章14節)。こうして、「義を求めなかった異邦人が、義、それも信仰による義を得」ました(ローマ9章30節)。こうして異邦人に無償で与えられた恵みは、本来は彼らユダヤ人のものでした(9章4、5節)。ところが、その本来の享受者であるべき「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」(9章31節)。そこでパウロは、同胞ユダヤ人のために深く悲しみ、絶え間ない痛みで苦しみました。しかしそこでなおパウロは確信したのです。①このように異邦人に救いが広げられたのは、ユダヤ人が神から捨てられたためではないということ(11章1、2節)、②ユダヤ人の中からも、主イエスの福音に心を開き受け入れる「残りの者」が起こされること(11章4、5節)、③ユダヤ人のつまずきによって、福音が異邦人にもたらされることになったこと(11章11節)、④そしてこのように異邦人への救いが起こされたのは、それによって「全イスラエルが救われる」(11章26節)ためであるということをです。⑤だからパウロはここではっきりと断言するのです。「神の賜物と招きとは取り消されない」と(11章29節)。つまりイスラエルを召し、救いにあずからせるとの神の約束は、変えられたわけではなく、今は福音を拒絶しそれに頑なになっているイスラエルも、異邦人の救いと共にやがて救われていくのです。そして「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っている」と約束されるのでした(11章5節)。それはかつて「イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世で希望を持たず、神を知らずに生きていた・・・異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたち(イスラエル)と一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」ということでした(エフェソ2章12節、3章6節)。この「神の賜物と招きとは取り消されない」ので

す。捨てられたと思われたイスラエルさえ、そうではありませんでした。このように神の選びは、決して変えられることがないのです。人間の応答次第で変更されてしまうというようなものではありません。「予定についての信仰の宣言」では、次のように宣言されます。


 御国への途上にあるわたしたちは、試練の中で苦しみ、残存する罪と肉の弱さのために、また恵みの手段を怠ることによって、世とサタンの誘惑に屈し、時には深刻な罪さえ犯します。それによって、神の怒りをひき起こし、聖霊を悲しませ、良心を傷つけ、受けている恵みや慰めをある程度失う時もあります。・・・しかし、神の永遠の御計画は不変であり、神の選びの愛は揺るぎません。選民のためのキリストの贖いと執り成しは有効です。選民のうちの聖霊の証印は確かです。わたしたちのうちに救いの業を始められた恵みの神は真実であり、恵みの状態から全面的にも最後的にも堕落することのないように、わたしたちを終わりまで確実に保持し、その業を成し遂げてくださいます。この神の恵みの業に支えられて、わたしたちはキリストにつながって、真の信仰のうちに最後まで堅く耐え忍ぶことができます。


 この確かな「神の恵みの選び」の中に、自分自身が選ばれているだけではなくて、これまで導かれてきた人たちも選ばれている、そう確信することができるのです。今は信仰から離れ、教会から足が遠のいてしまっている兄弟姉妹も、きっといつの日か主によって導かれ、共々に主を喜び、祝うことができるようになるのです。ここでは、「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である」と約束されています。そのことを信じて、いよいよ彼らのために祈り続け、執り成し続けていきましょう。