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第20課 神の恵みの選びによる確かさ

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第20課:神の恵みの選びによる確かさ(使徒13章42~52節、2011年7月17日)


《今週のメッセージ:神の恵みによる選び(エフェソ2章8節)》

 「人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて信仰による」というのは、わたしたちの救いがどこまでも「神の恵み」に基づくものであることを明らかにするものです。この「信仰による義」を言い換えたものが「神の選び」で、それはわたしたちが救われるのが、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」ということ、そして救いがどこまでも神の恵みによるということで、自分の何かをよりどころとするものではないことを表します。「神の選び」とは、本来なら「愛されなかった者を愛された者」としてくださる「神の憐れみ」に他なりません。つまりそれは、わたしたちの信仰の歩みが自分の力や努力によってではなく、「神の恵み」によって成り立っていることを教える教えであり、わたしたちのこれからの信仰の歩みが、この恵みの神によって確かに支えられ、確実に導かれていくということへの信頼と平安を与える教えでもあるのです。ですからわたしたちは自分自身の信仰生活について、何も心配する必要がありません。たとえ自分がどれほど弱く、その信仰がどれほどか細いものであろうとも、その信仰さえ与えてくださった恵みの神ご自身が、わたしたちをこれから支え続け、守り続けていってくださるからなのです。


1.神の恵みによって義とされる

 成人してから教会に来られるようになる方に色々と伺ってみますと、小さいときに教会学校に行っていたとか、クリスマス会に出たことがあるという方が、割りと多くおられます。先日も、かなり年輩になられてから教会に来られるようになったある方とお話ししていましたら、実はその方のご両親がクリスチャンで、小さいときは教会学校に行っていたとお話しされまして、なるほどと思いました。途中離れてしまっても、またいつか神さまの許へと戻されていく様子を見るにつけても、そうやって神さまは、その方を捕らえて離さず、忍耐強く導き続けてこられたのだと思わされ、神さまの憐れみ深さに感謝せずにはおれませんでした。そしてこうした神さまの忍耐強い導きの背後に、「神の恵みの選び」があるのだと思わされます。今日はこのことについて考えていきたいと思います。ピシディア州アンティオキアでのパウロの説教を3回に分けて考えてきました。そこでパウロは、イエス・キリストの十字架と復活により、わたしたちに「罪の赦し」が与えられ、それを「信じる者は皆、この方によって義とされる」ことを力強く説教しました(使徒13章38、39節)。それはわたしたちが、「信仰による義」をいただくということで、「律法による義」ではなく、ただ神の恵みによって、信仰のゆえに救われるということでした。ユダヤ人は、それは律法によってだと考えました。「律法による義」、それは自分が善い行いをすることによって義を獲得しようとする「行いによる義」、つまり「行為義認」であり、自分で自分を義とする「自己義認」でした。功徳を積み、善行を積み上げることで自分を義とする、あるいは自己修練や功績を重ねることで自分を義人としていくことです。それは自分の力と努力によって救いを獲得しなければならないということでした。ですから、これまで「律法による義」を得ようと大変な苦労を積み上げながら、なお心に平安を持つことができず、律法を守ることに汲々となっていたユダヤ人をはじめ、まことの神に立ち帰ろうとしていた神を畏れる異邦人にとって、それは朗報であり福音でした。そこで彼らは、このことをもっと詳しく聞きたいと、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」のです(42節)。そしてそのことはわずか一週間の間に町中の話題となったようで、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」のでした(44節)。パウロの語った福音は、口から口へと語り伝えられて、町中の人の耳に届いていったことが分かります。そしてパウロとバルナバは、もっと詳しく知りたい、聞きたいと彼らの後についてきた人々に、「神の恵みの下に生き続けるように勧め」ます(43節)。ところが、「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対し」(45節)、「神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」のでした(50節)。そこでこうしたユダヤ人の激しい反対に直面したパウロは、イザヤ書49章6節、42章6節を根拠に宣言します。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と(46、47節)。これがピシディア州アンティオキアでの、おおまかな出来事です。


 このときを境として、パウロは「異邦人の使徒」として、ユダヤ人だけではなく異邦人にも福音宣教していくことになります。まずユダヤ人の会堂に入って福音を語り、そこで強い反対を受けて迫害され、異邦人に語るという構図は、これ以降の伝道旅行において繰り返されていくことになります。その意味で、このピシディア州アンティオキアでの働きは、これからのパウロの働きを象徴するものとして重要ですが、それ以上にそこで語られた使信も大切です。丁寧にたどっていくと、ここで語られた説教や出来事は、後にそっくりそのままローマ書となって展開されていくとなっていることに気づかされます。


  〔ピシディアのアンティオキアでの出来事〕

 1.イスラエルの罪の指摘(13章16~22節)

 2.主イエスへの信仰によって「義とされる」ことの宣言(13章23~41節)

 3.神の恵みの許に生き続けるようにとの勧告(13章42、43節)

 4.ユダヤ人が拒絶したことで福音が異邦人にもたらされるとの宣言(13章44~48節)


 ①まず最初にイスラエルの罪が明らかにされた後(16~22節)、②それがメシアとしての主イエスの到来に至るものであり、その主の十字架と復活によって「罪の赦し」が与えられ、この方を信じるものが「義とされる」ことが明らかにされました(23~41節)。④しかしその恵みの言葉を聞いたユダヤ人は、喜ぶどころかそれを拒絶することで、福音が異邦人にもたらされるものとなりました。しかもその背後には、「永遠の命を得るように定められている」とあるように(48節)、「神の恵みの選び」があることが明らかにされます。③そしてこうしたユダヤ人の反対と迫害の中にあっても挫けることなく、「神の恵みの下に生き続けるように」と勧められていくのです(43節)。これはそのままローマ書の見事な要約となっています。


  〔ローマ書の構造〕

 1.異邦人とユダヤ人の罪の指摘(1~3章20節)

 2.主イエスへの信仰によって「義とされる」ことの宣言(3章21節~8章)

 3.ユダヤ人が拒絶したことで、「信仰による義」が異邦人にもたらされるとの宣言(9~11章)

 4.「義とされた」者の感謝の生き方についての勧告(12~16章)


 ローマ書は、大きく4つに分けられることができます。第一部は1~3章20節までで、そこではユダヤ人をはじめとする人類の罪について語られます。第二部は3章21節~8章までで、主イエスによる「信仰義認」が語られます。第三部は9~11章で、この福音を提供されながら、それを拒んで退けられたユダヤ人の問題が論じられ、そこで「神の恵みの選び」が語られていきます。最後は12~16章で、神の恵みによって救われたわたしたちが、どのように感謝して生きるかという信仰者の生き方が語られていきます。こうして比較すると、まさしく同じ内容となっていることに気づかされます。ここでの出来事は、やがて後、ローマ書となって展開していったということができるのではないでしょうか。


 パウロはローマ書において、異邦人とその異邦人を糾弾するユダヤ人の罪を指摘し、糾弾します。律法を完全に守り行う人は一人もいないので、ユダヤ人も異邦人も皆、罪の下にあり、義人は一人もおらず、「全世界が神の裁きに服する」ものとなっています。しかしまさにそこに、「福音」が伝えられます。つまり律法によっては義とすることができなくなってしまった、その罪人を義とする「神の義」があるという「良い知らせ(福音)」です。この「神の義」は「初めから終りまで信仰を通して実現される」義(ローマ1章17節、以下断りがない限りローマ書)で、人間が自分の善き業や功績によって獲得する義ではありません。それは神から与えられる神ご自身の義であって、それをいただく手段が「信仰」です。「す

なわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です(3章22節)。ここでは選びの民イスラエルと異邦人という区別はありません。ユダヤ人も異邦人も、神の前に等しく罪人であったように、神の恵みも両者に等しく与えられ、何の差別もないからです。この神の義は、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」です(フィリピ3章9節)。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」のであって(3章19節)、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」のです(ガラテヤ2章16節)。こうして「主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」からでした(4章25節)。キリストは律法を成就して、その要求を完全に満たしてくださったことで、彼を信じる者も律法を完全に満たした義人とみなされます。「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得る」ことになり、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」のです(5章18、19節)。こうしてイエス・キリストが、神の要求する律法の義を成就してくださったゆえに、このキリストに信仰によってつながる者は、すべて義とされるのです。信仰による義の根拠は、わたしたちの代わりにキリストが律法の要求を完全に満たしてくださったことにあり、この「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(3章24節)のでした。


2.神の恵みの選び

 こうして「信仰による義」を語ったパウロは、彼の心から拭いさることのできない問題、つまりこの福音を拒絶しつづける同胞イスラエルの救いの問題へと話を転じていきます。パウロが語り伝えた「福音」とは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ」ようになり(ガラテヤ3章14節)、「神の救いは異邦人に向けられる」ものとなったということでした(使徒28章28節)。それはかつて「イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世で希望を持たず、神を知らずに生きていた・・・異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたち(イスラエル)と一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」ということでした(エフェソ2章12節、3章6節)。こうして、「義を求めなかった異邦人が、義、それも信仰による義を得」ました(9章30節)。ところが、その本来の享受者であるべき「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」(9章31節)。その根本にあったのが「行いによる義」という誤った律法理解であり、「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えた」ことにありました(9章32節)。ユダヤ人は、律法を「行いによる義」と誤って理解し、誤った熱心によって追求しました。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義をもとめようとして、神の義に従わなかったから」だとパウロは断言します(10章2、3節)。こうしてイスラエルは「神の義」を切に求め、それを熱心に追求しながら、しかし誤った認識のための「自分の義」を追求し、そのために彼らは求めてきた義、「神の義」に到達することができなかったのでした。


 その同胞ユダヤ人の頑なさと彼らの滅びで、パウロの心は深く悲しみ、絶え間ない痛みで苦しみました(9章2節)。異邦人が無償で与えられたこの恵みは、本来なら彼らユダヤ人のものでした(9章4、5節)。しかしその上で、パウロが明らかにするのは、それは「神の選び」に基づくということでした。「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」(9章11~12節)。ここには「自由な選びによる神の計画」とありますが、それは「人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められる」ということが大切なことでし

た。そしてこの「自由な選びによる神の計画」ということでパウロが語りたかったことは、わたしたちが救われるのは、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」ということであり(9章16節)、救いがどこまでも神の憐れみと恵みにより、自分自身の功績に基づくものではないということでした。それは「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2章8、9節)ということの言い換えです。イスラエルは、この神の選びを誤って受けとめ、自分たちが神から選ばれるに価する何かがあることを誇り、歪んだ選民意識を抱くようになっていきました。しかし「神の選び」は、人間をそのように誇らせるものでなく、逆にへりくだらせます。自分が神の恵みを受け、神の民とされているのは、自分のうちに何らかの根拠があるからではなく、ひとえに神の憐れみであり、恵みによるということを明らかにするからです。「神の選び」とは、「『わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 「あなたたちは、わたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる』」とあるように(9章25、26節)、本来なら「愛されなかった者を愛された者」としてくださる「神の憐れみ」に他なりません。そしてこのことを端的に表したのが、神の恵みがイスラエルではなく、その資格のない異邦人にまで広げられるということなのでした。


 確かにパウロは、同胞ユダヤ人からの激しい反対の中で、「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と語らざるをえず(使徒13章46節)、「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」と宣言しました(使徒28章28節)。しかしそこでなおパウロは確信していました。このように異邦人に救いが広げられたのは、イスラエルが神から捨てられたためではないということ(11章1、2節)、イスラエルの中にも、主イエスの福音に心を開き受け入れる「残りの者」が起こされること(11章4、5節)、そして異邦人への救いが起こされたのは、それによって「全イスラエルが救われる」(11章26節)ためであるということをです。だからパウロははっきりと断言しました。「神の賜物と招きとは取り消されない」と(11章29節)。つまりイスラエルを召し、救いにあずからせるとの神の約束は、変えられたわけではなく、今は福音を拒絶しそれに頑なになっているイスラエルも、異邦人の救いと共にやがて救われていくのです。そして「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っている」と確信するのでした(11章5節)。こうしてパウロが明らかにしたのは、異邦人にしろイスラエルにしろ、その救いはいずれも彼らの功績や行いに基づくものではなくて、どこまでも「神の恵み」によるということでした。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」(11章6節)。わたしたちの救いは、「神の選び」に基づきます。しかしそれは決して宿命的決定論ではなく、自分の救いの根拠が自分の功績や資格に基づくのではなくて、どこまでも「神の恵み」に基づくことの確信と感謝の告白なのです。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を愛しむ」という約束は、人間を選別することではなくて、わたしたちの救いが、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるもの」であることを明らかにします(9章15、16節)。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(9章25、26節)とあるように、それは本来ならその資格もない者たちが、どこまでも神の「憐れみ」のゆえに召し出されたということなのでした。ここでは、福音を拒絶することによって、「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にして」しまったユダヤ人と(46節)、「永遠の命を得るように定められている」異邦人とが対比されています(48節)。しかしそれはユダヤ人だけの問題ではありません。わたしたちは本来、「永遠の命を得るに値しない者」でした。しかし今や「永遠の命を得るように定められている人」とされたのは、ひとえに「神の恵み」によるのであり、「神の憐れみ」に基づきます。この「神の恵み」が根拠となって主イエスが送られ、この方による「罪の赦し」が与えられると共に、この方を信じることによって「義とされる」ようにされました。そうして「永遠の命を得る」者とされていきました。その背後に「神の恵みの選び」がありますが、それはわたしたちの救いが、どこまでも「神の恵み」に基づくということを表すものです。そして、この「神の賜物と招きとは取り消されない」のです。捨てられたと思われたイスラエルさえ、そうではありませんでした。


3.恵みの神によって導かれるという安心と平安を与える教え

 こうして「信仰による義」、すなわち「人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰による」(ローマ3章28節)というのは、わたしたちの救いがどこまでも「神の恵み」に基づくものであることを明らかにします。それは「自らの力によるのではなく、神の賜物」だということで、こうして自分の救い、自分の義は、自分の力や努力によるのではなくて、神の恵みによって無償で与えられたものでした。「神の選び」の教理は、他の誰かについてとか、人類一般についてではなくて、「わたしがどうして救われたか」という自分個人についての信仰の確信の教理です。他の人はいざ知らず、自分のように弱くて、不熱心、不忠実で、あるかないかのような信仰しか持ち合わせていない者が、それでも今なお信仰の道を歩み、またそれに留まり続けることができていることを覚える時、不思議だと言わざるを得ないのです。あるいは長い間教会から離れていたにもかかわらず、再び教会へと導かれて、今は信仰を求めるようになっているということに、不思議さを覚えます。そしてあれほど信仰熱心だったA兄がいつのまにか教会からいなくなり、あれほど熱心に奉仕していたB姉が、今はすっかり信仰から離れてしまっているのに、信仰があるかないかしかないような弱い自分がなお信仰に踏みとどまることができていることを知る中で、それは自分の力や努力によるのではなく、ただ神の恵みが弱い自分を捕らえて離さなかったからで、神が自分を支え続け、守り続けてきてくださったからだと言わざるを得ない、それを遡ると、自分は神に恵みによって選ばれていたからだ、つまり捕らえられていたからだと思わされていくのです。


 「神の恵みの選び」、それはこの神の恵みに対する感謝の信仰告白です。わたしたちがこれまで信仰の歩みを続けてこられたのは、神がしっかりとこの手を離さないで導き続けてきてくださったからなのでした。もしかすると、途中で道を踏み外してしまうことさえあったかもしれません。それにもかかわらず、また信仰の道を歩み続けることができているのは、神がわたしたちを捕らえて離さず、引き戻してくださったからでした。そうするとわたしたちの信仰の歩みは、その最初から最後まで、ただ神の恵みによると言わざるを得ないのです。自分が強かったからでも、自分が熱心だったからでもない、また自分が神の恵みに値し、救われるだけの功績を積み上げることができたからでもない、自分が救われたのも、その救いの中で守られ支えられているのも、ただ神の一方的な憐れみと恵みのみなのです。何一つ自分の功績や立派さに基づくのではなく、自分を根拠にできない、その自分がそれにもかかわらず神に救われ、信仰の道を守られている、この神の恵みを言い表したのが、「神の選び」という教理に他なりません。「神の選び」という信仰は、わたしたちの救いがただ「神の恵み」に基づく、自分の何かをよりどころとするものではないということで、信仰による義」を言い換えた信仰なのです。それは、わたしたちの信仰の歩みが自分の力や努力によってではなく、「神の恵み」によって成り立っていることを教える教えです。それと共に、わたしたちのこれからの信仰の歩みが、この恵みの神によって確かに支えられ、確実に導かれていくということですから、心からの安心と平安を与える教えでもあるのです。わたしたちはこれからの信仰生活について心配する必要がない、たとえ自分がどれほど弱く、その信仰がどれほどか細いものであろうと、その信仰さえわたしたちに与えてくださった恵みの神ご自身が、わたしたちをこれから支え続け、守り続けていってくださるからなのです。たとえ自分は神から離れようとしたとしても、神は自分の手を捕らえて離さず、ずっと捕まえていてくださる、神の確かな手の中に守られていくことを確信する信仰なのです。改革派教会は、創立50周年を記念して、「予定についての信仰の宣言」を出しました。そこでは、次のように宣言されています。


 御国への途上にあるわたしたちは、試練の中で苦しみ、残存する罪と肉の弱さのために、また恵みの手段を怠ることによって、世とサタンの誘惑に屈し、時には深刻な罪さえ犯します。しかし、神の永遠の御計画は不変であり、神の選びの愛は揺るぎません。・・・わたしたちのうちに救いの業を始められた恵みの神は真実であり、恵みの状態から全面的にも最後的にも堕落することのないように、わたしたちを終わりまで確実に保持し、その業を成し遂げてくださいます。


 慰めに富む神は、選ばれたわたしたちを耐えられない試練に遭わせず、また傷ついた葦を折ることのないように導かれます。・・・そして「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ことさえ、わたしたちは知っています。神は選ばれたわたしたちの味方であって、艱難も苦悩も、迫害も飢えも、死も生も、わたしたちをキリストにある神の愛から引き離すことはできません。


 この神の恵みの業に支えられて、わたしたちはキリストにつながって、真の信仰のうちに最後まで堅く耐え忍ぶことができます。ですから、信仰が生き生きと働いているようには感じられず、神の御顔が隠されているように思われる時でさえ、わたしたちは希望を失いません。・・・わたしたちは恵みに成長し、神を畏れて聖潔を完成していきます。この希望は決して失望に終わることはありません。


 今朝の招きの言葉はイザヤ41章9、10、13節でした。「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける、と」。主が弱いわたしたちの手をしっかりと握り締めて離さず、ご自身の恵みへと導き続けてくださっているのです。この恵みを確信して、その上に立ち続けていきましょう。