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第18課 神による新しい人への復活

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第18課:神による新しい人への復活(使徒13 章26~37 節、2011 年6月26 日)


《今週のメッセージ:神による新しい人への復活(2コリント4章1 4 節)》

 パウロは主イエスの復活を宣べ伝えましたが、そこでパウロは、「主イエスが死から復活した」とは言わず、「神がイエスを復活させた」と語っていきます。復活という出来事において、主イエスはどこまでも受動的です。死から命へとよみがえる出来事は、主イエスがご自分の力によって実現し、ご自分の力によって復活したと言うのではなくて、神が主イエスを復活させてくださった、つまりご自分の力ではなくて神の力によってであることを明らかにするのです。そしてパウロは、主イエスを復活させた神が、今度はわたしたちをも復活させてくださると約束していくのです。主イエスの復活は、単に過去の出来事ではなくて、それを信じる者たちにも実現する出来事です。主イエスの復活を信じるとは、ただ主イエスの復活を信じるというだけではなくて、この方に結び合わされているわたしたち自身の復活を信じるということでもあるのです。そしてこの復活は、遠い未来、死んだ後に起る出来事だというだけではなくて、実は生きている今、すでに起こされている出来事なのです。罪に縛られた古い人に死に、キリストにある新しい人として生まれ変わり、新しくされる、そういう復活です。洗礼あるいは信仰告白は、そのしるしなのです。


1.洗礼は「いただく」もの

 しばらくの期間、ベネディクト修道院に滞在させていただきましたが、そこでは修道士だけではなく修道院を訪れる様々な人とも会い、交わりが与えられました。色々お話ししていくと、実は自分も元々はプロテスタントだったけれどもカトリックに改宗したという方が意外と多く、ちょっと残念にも思ったのですが、そうした方々が一様に言われたことは、「カトリック教会で洗礼をいただいた」ということで、この表現は面白いと思いました。プロテスタントのわたしたちからすると、洗礼というのは、いただくとか、もらうといったものではなくて、自分の意志で受けるものであり、洗礼へと至るのはそれを自分自身が求めるからではないかとどこかで考えてしまうのですが、彼らは「洗礼をいただいた」と言うのです。あまり主体的な信仰ではないなと思ってしまう反面、しかし考えてみますと、実はその方が正しいのかもしれないとも思います。キリスト教の洗礼というものが、どのようなものから生み出されてきたのかということは、聖書学の世界でも色々な理解があり、ユダヤ教(エッセネ派)の沐浴から生まれたとか、当時の他の異教のそうした習慣から借用したとか、色々です。しかしそうしたユダヤ教や異教と根本的に違うことは、キリスト教の洗礼は誰かから「授けられる」ものだという理解に立つことです。長い歴史の中で教会は、その点を大切にしてきました。それを志願するのはもちろん自分ですが、自分で自分に洗礼を授けるという風に洗礼を授けるのは自分自身だというのではなく、どこまでも誰か他の人によって授けられるのであって、そこでは自分はあくまでも受動的、受身であるということです。先ほどの「洗礼をいただいた」という言い方は、そうした洗礼理解が背景にあるのではないかと思います。つまり洗礼を、何か自分によって獲得するといった自分主体のものであるよりも、神によって与えられる神からの恵みとして理解するということです。そしてこのことは、とても大切なことだと思います。プロテスタントのわたしたちは、「ただ信仰のみ」ということで、信仰の主体性あるいは個人性を重んじるあまり、信仰の恩恵的側面、つまり自分がどうだということではなくて、あくまでも神の恵みによって与えられるという側面を、いつの間にか見失っているのではないかと考えさせられました。確かに洗礼は、自分から志願し、自分がそれを求めて受けるものです。しかしそこでそのように志す思いも、またそれを求める信仰も、すべては神から与えられたものであり、ただ神の恵みによって信仰を与えられ、その信仰によって救われ、そのしるしとして洗礼を授けられるということを忘れがちではないかと思わされます。洗礼は、自分で受けるものである以上に、誰かから授けられるものであり、それはただ神の恵みによって「いただく」ものに他なりません。だからやはり洗礼は、いただくものなのです。


 この礼拝で信仰告白式が行われます。それはかつて幼児洗礼を授けられた者が、今度は自分の意志で主体的に信仰を言い表し、自分の口で主に対する信仰を告白して、自分の願いにおいて主の弟子として生きていくことを表明するものです。しかしそのような志と思いを与えられたのは主であって、そのように信仰告白することができること自体、神からいただいたもの、神の恵みの賜物であることを、もう一度覚える必要があるのではないでしょうか。信仰というのは、自分の力でそれを獲得し、自分の熱心でそれを維持していくものと考えるなら、それはただの驕りです。自分が熱心に求めたから得られたものではなく、自分の努力に基づくものでもありません。その意味では、自分の信仰は弱いとか、小さいなどと考えること自体、そこで信仰を自分の力で維持していると見なしているわけで、そこにも自分の驕りがあるということができるかもしれません。たしかに今日の出来事の背後にはご両親の熱心な祈りがあったと思います。また教会の多くの人々からの熱心な関わりがあったと思います。この姉妹を小さいときから愛し、祈り、導き続けてきてくださった多くの方々の働きが、そこにはありました。しかしそこで間違ってはならないのは、そうしたことのゆえに一人の人が洗礼に、また信仰告白に導かれるのではないということです。それらはどこまでも用いられたものであって、神がそのような恵みをその人に、両親に、教会に与えてくださったということであり、わたしたちはそのために用いられたにすぎません。ですからわたしたちは、これはわたしがしたことだという驕りから解放されて、このような恵みを惜しむことなく与えてくださった神を、心から賛美し感謝したいと思います。そして今ここに集っているすべての者が、一人の人を洗礼や信仰告白に至らせてくださったという主の恵みを覚えて、そのことを心からほめたたえて感謝したいと思います。それは自分の力や熱心、努力や願いに基づくものではないからです。そしてそれは自分の力で得たのではないということだからこそ、そこに確かさがあるのです。もし自分の力や熱心に基づいたものであるなら、一体いつまでそれを維持していくことができるでしょうか。人間の熱心さというものほど、あてにならないものはありません。自分の救いと信仰が、そうした自分の力に依存するのだとしたら、早晩わたしたちは救いから離れてしまうでしょう。そうではなく、神からの一方的な恵みと憐れみによって、これが与えられたからこそ、たとえ自分の信仰の状態がどうであれ、安心して信仰の道を歩き続けていくことができるのです。自分の力ではなく、神の恵みが支え続けてくださるからです。洗

礼も信仰告白も、それは神からいただいたものだということを覚えていきたいと思います。


2.神の力による主イエスの復活

 ピシディアのアンティオキアの会堂でした説教の中で、パウロは繰り返し主イエスの復活の事実を宣べ伝えました。「神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(使徒言行録13 章30 節)。「神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです」(同33 節)。「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさった・・・」(同34 節)。「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」(同37 節)。しかしここでパウロは、ただ主の復活を語っただけではなく、同じことを繰り返して主張しています。これらの言葉の主語が何かをよく見てください。パウロは「主イエスが死から復活された」とは言わず、「神がイエスを復活させた」と語っているのです。復活という出来事において、主イエスはどこまでも受動的、受身であることに気づいてください。死から命へとよみがえる出来事を、主イエスがご自分の力によって実現し、ご自分の力によって復活したと言うのではなくて、神が主イエスを復活させてくださった、つまり主イエスが復活できたのは、ご自分の力ではなくて神の力によってであることを明らかにするのです。この言い方は、これ以降のパウロの手紙の中で繰り返されていきます。パウロが主イエスの復活について語る場合、全部とはいいませんが、そのほとんどにおいて神が主語であるか、主イエスが主語である場合は受動態、受身です。主イエスご自身がというよりも、神が主イエスを復活させたと語ります。そしてこれは大きな違いであると共に、とても大切なことなのです。


 パウロの言葉を見てみましょう。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(1テサロニケ4章14 節)。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべきはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマ8章11 節)。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」(1コリント6章14 節)。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(2コリント4章14 節)。ここでパウロは、神がイエスを復活させたということと同時に、その同じ神が、主イエスと同じように、今度はわたしたちをも復活させてくださると約束していることに気づいてください。主イエスの復活という出来事は、単に過去の出来事ではなくて、それを信じる者たちにも同じように実現する出来事だということです。主イエスの復活を信じるということは、ただ単に主イエスの復活だけを信じるというのではなくて、この方に結び合わされているわたしたちの復活、自分自身の復活を信じるということでもあるのです。なぜなら主イエスは、わたしたちが復活するために、その初穂となるために、死を打ち破って復活されたからです。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(1コリント15章20 節)。


3.主の復活を信じるとは自分の復活を信じること

 そしてこの復活は、遠い未来、死んだ後に起る出来事だというだけではなくて、実は生きている今、すでに起こされている出来事なのです。罪に縛られた古い人に死に、キリストにある新しい人として生まれ変わり、新しくされる、そういう復活です。洗礼あるいは信仰告白は、そのしるしなのです。今日信仰告白される姉妹は、もう一つの新しい誕生日を得るのです。体がこの地上に生まれ出た体の誕生日と共に、罪のままに生まれた古い自分が、主イエスによって新しくされ、生まれ変わった自分となって新しい一歩を踏み出していく、霊の誕生日です。体の誕生日を覚えていないし、自覚できないのと同じように、霊の誕生日も、必ずしも自分の中で何か心境の変化が起きるとか、急に顔つきが変わるといったことが起こるわけではないかもしれません。しかしそのようなことがなかったとしても、確実に霊において新しくされ、新しい自分となって生まれ変わる、その復活の出来事は今日ここで起こされていきます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5章17節)。そしてそれは自分の力や熱心に基づくものではなくて、ただ神の憐れみによって起こされていく恵みの出来事であることを覚えていただきたいと思います。今日を境として、新しい信仰の一歩が始められていきます。しかし忘れないでください。あなたをそのように導かれた主が、これからの一歩一歩を導いてくださり、自分の力でも熱心でもなく、ただ神の憐れみによって支えられ、守られ、導かれていくということを。ただこの方の導きの中で、信仰の道を歩み続けていくことができるのです。だから肩の力を抜いて、この方の憐れみの御手に委ねながら、新しい一歩を踏み出していってください。祝福を心からお祈りいたします。