第15課 手を取って導いてくださる方の必要

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第15課:手を取って導いてくださる方の必要(使徒13 章1~12 節、2011 年5月1日)


《今週のメッセージ:真の人生の導き手の必要(イザヤ41章10節)》

 サウロは伝道旅行で、バルイエスという魔術師に会います。サウロの伝道を妨げたバルイエスは、視力を失い、手を引いてくれる人を探すことになり、それがきっかけで総督は信仰に導かれます。この出来事は、これ以降に起こされる出来事の象徴となるものでした。つまりそれは、福音によってこれまで閉ざされていた心が開かれ、信仰の目が開かれるということです。そしてそのことは総督だけではなく、バルイエスの内にも起こされました。魔術で人を騙し、自分自身も騙されて生きていた彼は、一時、体の目が閉じられましたが、それは心の目が開かれるためでした。そして自分の手を引いてくれる人を探しますが、それは自分が誰かによって手を引いてもらい、人生を導いてもらう必要があることを知るためでした。わたしたちも、自分は目が見えていると思い込んでいますが、本当は自分の真の姿を知らず、誰かに手を引いて導いてもらう必要があります。自分の人生の一歩先も見えないわたしたちにも、人生を一歩一歩導いてくださる方が必要なのではないでしょうか。わたしたちには、自分の人生の真の導き手が必要なのです。わたしたちも、エルマと同じように手を差し出して、「主よ、み手もて、引かせたまえ」と求めていきたいと思います。


1.神からわたしたちへの問い

 先々週の二回目の仙台訪問の中では、国際飢餓対策機構のボランティアのミーティングにも出席しました。そこで避難所に行って炊き出しをしたり、瓦礫の撤去や家屋の片付けの手伝いといった現地でのボランティア活動の様子を知ることができました。ただそれらの活動は、一般のボランティア活動と少し違う点があって、たとえば炊き出しをしたグループでは、パンや何かを配った袋の中に、星野富弘さんのトラクトも一緒に入れて渡したということでした。そしてそれに対して反応も上々で、自分は昔、教会学校に行ったことがあるとか、近所にクリスチャンがいて良くしてもらったといった話を相手がしてくれたことなどが紹介されて、感動しました。仙台教会の玄関に置いたトラクトも、震災後は置くとすぐになくなると聞きましたが、そのように今回の出来事を通して、何かを求める人々が現れていることも確かです。こうして神は、便利さに慣れきったまま、神なしに生きているわたしたちに問いかけてこられると共に、少しずつその心を開いて、ご自身へと向けておられるのだと気づかされます。今回の出来事によって、そのように心の目が神へと開かれている人たちが現れているのです。


 たしかに震災の大きな被害に遭われた方々の悲惨を見るにつけても、心が引き裂かれるように痛みます。わたしたちの身近にも、自分の家族や友人が亡くなられたり、依然として行方不明のままであったり、家や財産に甚大な被害を受けた方がいて、本当に心痛みます。そうした方々のお一人お一人に、主の慰めと支えがあることを心からお祈りいたします。ただわたしたちは、そこで心を痛めるだけではなく、そのような事態を見るにつけても、わたしたちは別の方に目を向けがちになります。つまり、神はこんな悲惨な災害を引き起こして、罪もない人々を苦しめるのはおかしいではないかとか、自分もあんな大変な思いをさせられて、神はどうして守ってくださらなかったのかといった問いがわたしたちの心に湧き起こるのです。そのような思いが生じてくることは理解できないではありませんが、やはり目を向ける方向が間違っていると思います。あちらに目をやって非難し、こちらに目を向けて文句を言うというのではなくて、まさにこのことは自分自身に対する問いかけであると考える必要があるのではないかと考えます。他の人のことについて神にとやかく言うことではなくて、このことを通して自分自身が神から問いかけられているのではないでしょうか。


2.目が閉ざされたことの意味

 バルナバによってアンティオキア教会に連れてこられたサウロは、そこで「丸一年の間」バルナバの同労者として奉仕します(12 章25、26 節)。こうして教師の一人として奉仕していたサウロとバルナバに、聖霊によるお告げが与えられ、「前もって二人に決めておいた仕事に当たらせる」ことになります(13 章2節)。そこで二人が当たって仕事とは、アンティオキアを出発して世界宣教へと遣わされることで、そこで二人が最初に赴いた場所はキプロス島でした。彼らがまずキプロス島に赴いたのは、そこがバルナバの生まれ故郷だったからだと考えられます(5章36 節)。そこには親族や友人、幼馴染が暮らしており、そういった人々を手がかりとして福音宣教を開始しようとしたからかもしれません。また二回目の宣教旅行でも、バルナバはマルコを伴って再びキプロス島に赴きますから(15 章39 節)、バルナバはキプロス島での福音宣教に特に重荷を持っていたのかもしれません。そこで出会った人物が地方総督セルギウス・パウルスとバルイエスでした。このバルイエスという人は、魔術師とあるように、魔術の力を利用して巧みに総督に取り入り、彼の政治顧問の地位に居座っていた偽預言者で、エリマとも呼ばれていました。政治顧問という大切な役職に、魔術師が就くことを奇妙に思われるかもしれませんが、古代世界では普通のことでした。創世記や出エジプト記では、エジプトのファラオに魔術師がいたことが記されていますし(創世記41 章8節など)、アッシリアやバビロンといった帝国の大王にも、戦争をするとか条約を結ぶとか国家を左右する大切な事柄を決めるとき、魔術師や占い師の意見を聞きました(ダニエル2章2節など)。ローマ帝国にも、占い専門の高官がいましたから、総督に魔術師がいることはごく普通のことでした。


 もっともこのエリマという名自体が、魔術師という意味だそうですから、「魔術師・魔術師」という奇妙な名前なのですが、それはまさに自分が自他共に認める「ザ・魔術師」、つまり魔術師中の魔術師であることを吹聴していたということなのでしょう。ところが総督が二人を招いて、熱心に神の言葉に耳を傾ける姿を見て、危機感を覚えたようです。これまでうまく騙しながら、総督の心をわしづかみにしてくることができたのに、後からやって来たこの新参者によって、自分の悪事があばかれ、彼らに自分の地位を奪われてしまうのではないかと思ったからでした。そこでなんだかんだとけちをつけては、何とか二人を貶めようとして、二人に対抗します。しかしそこで、福音宣教の妨げをする彼に向かって、パウロとも呼ばれていたサウロが、言葉を投げかけます。するとその言葉どおり、この魔術師でもある偽預言者は、たちまち視力を失って、自分の手を引いてくれる人を探すことになります。そしてこうした一連の出来事に驚いた総督は、パウロが語る主イエスの福音を信じて、信仰に入ったのでした。そしてこれが第一回伝道旅行と呼ばれる働きの最初の成果でした。この出来事は、彼らが最初に赴いたキプロス島で実際に起きた出来事であるから、ここで最初に記されているというだけではなくて、実はこれから開始されていく伝道旅行において繰り返し起こされていく出来事であり、また伝道旅行の働きの意味そのものを象徴しているゆえに、ここで最初に記されたということができると思います。パウロの伝道旅行において起こされていく出来事、それはどこまでも霊的な出来事であり、信仰的な出来事であるわけですが、それはまさしくこれまで閉ざされていた心の目が開かれていくという出来事だということです。そしてそれは、ここでこれまで魔術に騙されていた総督の目を開いただけではなく、魔術師でもある偽預言者の目をも開いた出来事であったということです。


 しかしそれにしてもこの魔術師の目を見えなくされてしまうとは、ずいぶんひどい話だと思われるかもしれません。この箇所については、以前「使徒言行録」の講解説教をしたときに、すでにお話ししていますから、詳しくはそちらを参照していただいたら良いと思います(第45 講)。そこでも紹介したように、教会の伝説では、実はこのバルイエスという魔術師は、後に信仰を受け入れてキリスト者になったとされています。もちろんそれが本当かどうかは確かめようがありませんが、おそらくそうではないかと考えて良いと思います。彼はここで視力が衰えて、目が見えなくされたわけですが、それはこれ以降ずっとそうだったというものではないことは、パウロ自身の言葉からも分かります。パウロはこう言いました。「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と。ここでパウロはずっと見えなくなると言ったのではなく、「時が来るまで」と言いました。それは目が見えなくなるのはあくまでも一時のことで、いずれふさわしい時が来れば、再び視力を回復して、目が見えるようにされることを意味しています。しかしそれがたとえ一時的なものであるにせよ、どうして彼はこのような目に遭わなければならなかったのでしょうか。確かに彼は「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵」であり、「主のまっすぐな道」をゆがめようとする者でした。しかしだからといってこのような裁きや罰を受けるのは、酷ではないかとわたしたちは思ってしまいます。ただこのことは、主ご自身が深い思いの中で、ご自身のご計画のうちに行われたことでした。彼が一時的にもせよ、体の目が閉ざされたのは、彼が本当の意味で心の目が開かれていき、自分の真の姿を知るためでした。自分は目が見えると思い込んで生きていた彼が、実はそうではない自分の本当の姿に気づいて、本当の意味で目が開かれるようにとなされたことだということです。そしてそれはまさしく、このことを宣告したパウロ自身にも、かつて起こされたことなのでした。かつての教会の迫害者サウロは、ここでかつて彼自身のうちに起こされた出来事を目の当たりにしながら、改めて自分自身のうちに主が起こしてくださった恵みの御業を覚えることができたのではないでしょうか。とにかくこの出来事を境に、サウロはパウロと呼ばれるようになります。このとき改名したというのではなくて、生まれた時から両方の名前を持っていたわけですが、これ以降彼は、サウロではなくパウロと呼ばれるようになったのでした。それは、魔術師エリマに起

きた出来事が、彼自身にも起こされたものであったことを踏まえて、これを機にサウロを卒業し、新しくパウロとされたということを意味するものでもあったと言うことができると思います。いずれにしてもここで起きたことは、サウロに起こされたことがエリマのうちにも起こされたということを指し示し、それによって彼も心の目を開かれる者とされていったということなのでした。目が見えなくされたのは、彼の悪に対する罰であるよりも、むしろ彼を取り戻そうとするための神の恵みなのでした。


3.魔術に生きるわたしたち

 しかしこのように魔術によって生きてきた人物に起きた出来事が、わたしたちと何の関わりがあるのかといぶかる方もおられるのではないでしょうか。確かにわたしたちは別に魔術を行うわけではありませんし、視力を失うわけでもありませんから、このテキストはわたしたちとは何の関わりもないように思います。しかしそもそも「魔術」とは何でしょうか。めんどくさいことやわずらわしいことを避けて、すぐに自分の欲しいものを手に入れる手段です。途中にあることは全部ショートカットして、すぐに欲しいものが手に入ることです。そうしますと実はわたしたちは、魔術に取り囲まれて生きていることに気づかされます。3週間前の4月11日に、家内の親戚の葬儀があって小名浜に戻りました。そしてお通夜に出ようとちょうど玄関を出ようとしたところで、あの震度6弱の余震に見舞われました。外は稲光がして、あちらこちらに雷が落ち、雨が降りしきる中での大地震で、すぐに停電になりました。信号は止まっていたため、危ない思いをしながら葬儀会場に向かいましたが、もちろん会場も停電中で真っ暗、結局お通夜も葬儀も中止となったわけですが、帰ることもできず、繰り返し余震が続く中、真っ暗な中で寒い思いをしながら、しばらくそこにいました。そして必死の思いで実家に戻りましたが、断水していて水は出ず、トイレも流せないということで往生しました。近くに寄ると自動的に蓋が開くという最新式のトイレも、水が流せずウォッシュレットも使えないということで、役立たずでした。そして何度も余震がある中、真っ暗な中で一晩を過ごしました。一番往生したのは、停電したために電話が使えず、どこにも連絡できなかったことと、テレビやラジオも使えず、情報を手に入れることができなかったことでした。そこは津波の危険がありましたから、震源地がどこで、震度がどのくらいで、津波が来るのかどうか、逃げた方が良いのかどうかもまるで分かりませんでした。しばらくして藤田長老と持田先生、そして息子と娘から、心配するメールが届いて、そのメールで自分たちがまさに震源地にいたことを知りました。またお通夜に来た人の情報で、高速道路が土砂崩れで通行止めになったことなども聞きましたが、詳しい情報は翌日、やっと電気がつくようになってからでした。教会員の皆さんの中にもこういった不便の中を生活されていた方々がおられたわけで、わたしもたった二日間だけですが、それを味わわせていただき、つくづく自分たちの生活というものが電気や水道やガスといったものに依存しており、こうしたライフラインが断たれた途端、どれほど往生することになるかを思い知りました。なんでも便利なものがすぐに手に入ること、それが魔術なのですが、まさしくわたしたちは現代の魔術の中で生きていることを実感した次第です。そういったものを当たり前のようにして、湯水のように浪費しながら、感謝もしないでこれまで暮らしていたわけです。しかしそれらがなくなって初めて、わたしたちはどれほど恵まれた環境の中で暮らしていたかを思い知らされました。


 先日行われた中会の閉会礼拝で、ある教師が最後に祈った言葉が今でも心に響きます。「わたしたちは湯水のように電気や水を浪費して、感謝もしないで生きてきたことを懺悔します」と。本当にそうではないでしょうか。蛇口をひねればきれいな水が出てきて、スイッチを押せば電気がつく、こうした便利さを当たり前のようにして、感謝することもなく生きてきたわけです。ところがそれが使えなくなり、不便になった途端に文句を言い始め、口を尖らせていくのです。それを受けていたときには、少しも感謝することもなかったのに、それが受けられなくなると、どうしてこのようなひどい目に遭わせるのかと、神に文句を言い始めます。そうして自分たちが、そうした便利さに慣れてしまって、それを当たり前のものとし、感謝することも、それを与えてくださる源はどこか、どなたからのものかもわきまえないで、湯水のように自分勝手に浪費し続けてきたのです。今回の出来事は、そのようなわたしたちの姿を明らかにするものなのではないでしょうか。確かに祈らなくても、パンは手に入るのです。神なんかいなくても、普通に仕事をこなすことができ、毎日の生活は成り立っています。神を信じてはいるけれど、実のところ神など必要とせずに生きており、祈ることもなく生活しているのです。そうして別に神に頼るのではなく、便利な生活という魔術に頼って生きている。欲しいものがすぐに手に入る便利な毎日の中で、神など必要とせずに生きている、そんなわたしたちこそ、実は魔術師エリマそのものだったのではないでしょうか。わたしたちは今回の出来事を通して、自分が本当に頼るべき方は誰かを教えられたのではないでしょうか。自分でも、この世でも、便利な世の中でもなく、本当に頼ることができる唯一の方は、神お一人であるということを。そしてあちらに目をやって非難し、こちらに目を向けて文句を言うというのではなくて、まさにこのことは自分自身に対する問いかけであると考える必要があるのではないでしょうか。このことを通して自分自身が神から問いかけられているのではないでしょうか。


 あなたは、本当は何に依り頼んで生きていたのか、あなたをこれまで豊かな生活で潤し、満たし、祝福してくださっていたのは、一体誰だったのか、そのことを知って、本当にその方に依り頼んで生きていたのかという問いかけが、生き残ることができたわたしたち一人一人になされているのではないでしょうか。そうしてわたしたちは、神ではなく、実は便利な生活という魔術に依り頼んで生きていたということが明らかにされて、そのことが問いかけられてくるのではないでしょうか。神など必要とせず、祈ることもしないで、感謝もなしに生きてきた自分の姿があらわにされる中で、そのような生き方が問い直されてくるのではないでしょうか。黙示録3章17節では「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と問いかけられます。今回の出来事は、まさしくそのことを、つまりわたしたちも本当は「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であること」を、一人一人に深く問いかけてくるものなのではないでしょうか。


4.真実な人生の導き手の必要

 このエリマは視力がなくなって、自分の目が見えなくなったことで、「だれか手を引いてくれる人を探した」とあります。とても象徴的な姿です。自分では歩くことができない、だから自分の手を引いて、自分が行くべき道へと導いてくれる人を探しました。しかしまさにそのことこそ、彼の心の目が開かれるということなのでした。彼は自分の目が本当は見えていないという自分の本当の姿を知りませんでした。そして目が見えない彼は、自分を導いてくれる人を必要としたのです。それはわたしたちも同じではないでしょうか。本当は目が見えないのです。霊的なこと、信仰の世界について、わたしたちの心の目は閉ざされたままです。だから何かことが起こると、目先のことで判断し、神がなさろうとすることを理解できません。途端に不信仰になって、神に文句を言いはじめます。信仰の目が開かれていないからです。それは今でもそうなのです。目が見えないわたしたちが必要とするのは、自分の手を取って、ふさわしい道へと導いてくれる方です。わたしたちは、自分の人生さえ、その一歩先も知らないのですから、人生の真の導き手を必要とします。それは誰でしょうか。他でもない、わたしたちの手を取って、一歩一歩導き続けてくださる神ではないでしょうか。


 わたしたちはどうでしょうか。今回の出来事はわたしたち一人一人にも問いかけてきます。自分は本当のところ、何に依り頼んで生きてきたのかということです。そこでわたしたちは、実は自分は何も見えなかったし、今も見えていないことを認める必要があるのではないでしょうか。そして自分の人生の一歩先も見えないわたしたちには、自分の人生の道筋を一歩一歩導いてくださる方が必要なのではないでしょうか。わたしたちには、自分の人生の真の導き手が必要なのです。そしてこれから先の一歩一歩を、そこで真実な道へと導いてくださる真の導き手に手を取っていただき、導いていっていただく必要があります。今朝の礼拝の招きの言葉は、詩編37 編23、24 節で、そこでは「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」と約束されました。旧約聖書はイザヤ41 章ですが、10 節「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」。13 節でも「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける」と約束されます。ですからわたしたちも、エルマと同じように手を差し出して、「主よ、み手もて、引かせたまえ」(讃美歌21‐504番)と求めていきたいと思います。