第12課 自分に与えられた役割を果たす

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯

 

第12課:自分に与えられた役割を果たす(使徒11 章19~26 節、2011 年3月27 日)

 

《今週のメッセージ:自分の務めを果たしていく(2コリント4章5節)》

 福音が世界へと広げられていったことは、使徒パウロの働きに負うところが大きいですが、かつての教会の迫害者サウロが異邦人の使徒パウロへと変えられ、また用いられていくためには、彼を信仰へと導き、成長を促していった先輩たちの背後の働きと隠れた協力がありました。そういった隠れた働き人たちの忠実な奉仕があったからこそ、さらに大きな働きを担う器が整えられていきました。「神の国」の働きとは、そのようなもので、一人だけが目立ち、評価され、用いられていくのではなく、その背後にあって目立たず、誰からも評価されず、しかしそうした自分の務めを忠実に果たしていく働き人によって担われ、その奉仕が集約されて一つとなることによって前進していくものです。そのためそれぞれに賜物が与えられています。そしてそれは同じ働きをするものではない点が大切です。他の働き人の賜物をうらやまず、その奉仕をねたまず、自分に委ねられた務めに忠実に、熱心に取り組んでいくことで主の業が実現し、進められていきます。自分の働きが認められなくても、評価されなくても、用いられなかったとしても、それでも今自分が果たすべき役割をきちんと果たしていく「忠実な僕」として、自らを主に献げていきたいと思います。

 

1.忠実に主に仕えた無名の奉仕者たちの働き

 朝の礼拝では、使徒パウロの生涯をたどっていますが、午後の礼拝では、朝の礼拝を補完する意味で、パウロをめぐる他の働き人についての学びを始めました。それによってパウロをさらに別の角度から考えることができたらということで、前回はステファノについて考えました。そしてその次はアナニアそしてバルナバと、いわばパウロの先輩であり、彼に影響を与えていった人々を順々に取りあげていこうと考えていましたが、午後の礼拝は、さらにその先を行くことにして、ここではそのアナニアとバルナバについて考えたいと思います。前回は、故郷タルソスに戻ったサウロについて考えました。使徒9章30 節で、「兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」という記事の後、サウロは使徒言行録からしばらく姿を消し、次に登場するのは11 章25、26 節です。「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」。サウロがタルソスに戻ったのは35 年で、バルナバに連れられてアンティオキアに行ったのは46 年ごろですから、その間、実に十年以上の年月が流れていたわけですが、その間のサウロについて思いを巡らしていきました。こうしてサウロが、アンティオキアに登場するところから、いよいよ「異邦人の使徒」としての働きが本格的になっていくわけですが、そのように教会の迫害者サウロが異邦人の使徒パウロへと変わっていくためには、その背後で彼を導いていった人々がいました。彼らはいずれも、偉大な伝道者パウロの陰に隠れてしまうことになり、パウロばかりが脚光を浴びる形になりますが、そのパウロのために主によって召され、立てられ、用いられていった人々がいたことを忘れてはなりません。彼らの働きなしに、後の大伝道者パウロは生み出さなかったのですから、隠れた働きを忠実に果たした彼らこそ、この後の世界宣教の隠れた功労者だということができるのです。

 

 これまで考えてきたように、教会の迫害者サウロが大伝道者パウロとなっていくためには、受けなければならない訓練と準備期間がありました。ダマスコ、アラビア、ダマスコ、エルサレム、タルソス、そしてアンティオキアを経て、この後にはバルナバと共に世界宣教へと旅立つことになるわけですが、そのためにはまだ訓練と準備が必要でした。こうして一人の人が成長して、用いられる器となっていくためには、本人の努力と忍耐、そしてそのための訓練と準備が必要ですが、それはただ一人で耐え、ただ一人で成し遂げていくことではありません。その背後で、実は多くの人の協力と助けがあり、また慰めと励ましがあって、その中で支えられていくものでもあります。サウロが伝道者パウロとして成長し、また宣教の業に用いられていくためには、彼を励まし、支え、導き、助けてくれた多くの信仰の友や先輩の働きがありました。そして信仰における兄弟姉妹との交わりと助け、そこにある祈りが、一人の人を、役に立つ器として成長させていくことになるのです。サウロがパウロへと変えられていくために用いられた器、それがアナニアでありバルナバでした。アナニアは目立たないけれど、大変重要な働きをしました。すでにサウロは名うての悪党として、ダマスコのキリスト者の間でも評判となっていましたから、もしここでアナニアが恐れて、サウロの許に行くようにとの主の言葉に忠実でなかったら、サウロが主イエスへの信仰に正しく導かれて生まれ変わるということもなかったかもしれません。このように一人の人が主の器として用いられるようになり、その人を通して主の御業が成し遂げられ、それがさらに前進していくためには、名を知られることのない無数の無名の信仰者たちの献身があるのです。福音が世界に広げられていくためには、目立たないけれど忠実に自分の務めを果した弟子たちがいたことを忘れてはなりません。福音が世界に、また異邦人に広げられるためにはパウロが必要でしたが、それはパウロ一人の働きではなく、無数の無名のキリスト者たちの忠実な働きがあってのものでした。こうして神の救いの働きは、一握りの目立つ働きをする賜物溢れた才能豊かな人たちによって成し遂げられる働

きなのではなくて、彼らを陰にひなたになって支え続けていった、無数の無名の忠実な人たちとの共なる共同の働きとしてなされたものなのでした。


2.慰めの子バルナバ

 そのことはなによりもバルナバに当てはまることでした。少し前に戻っていただきますが、ダマスコから命からがらエルサレムへとたどり着いたサウロは、「弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(使徒9章26 節)とあります。それはもっともなことでしょう。ダマスコの弟子たちは、彼についての悪いうわさは聞いていても、実害を経験したわけではありませんでしたから、洗礼を受けたサウロを仲間に加えることに大きな抵抗はなかったと思います(同19 節)。しかしエルサレムは別です。サウロは、まさしくそこで過酷な迫害を展開し、エルサレムの教会とそこに集うキリスト者たちに甚大な被害を及ぼしていたからです。「その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました」とアナニアさえ主に答えています(同13 節)。サウロは、「エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男」(同21 節)だったのですから、三年経った今でもなお警戒心をもって見つめられたのは当然でした。回心を装った敵のスパイではないか、そんな疑いの目で見られもしたでしょうし、自分の近しい者、いや自分自身がこのサウロによって被害をこうむった人も現にそこにいたとすれば、いくらサウロが回心したからといっても、両手を広げて彼を迎え入れる気持ちにはすぐにはなれなかったことでしょう。サウロがエルサレムに赴いた当初は、かつての迫害者であったサウロに対して、どこかしらよそよそしく冷たい、あるいはとげとげしい雰囲気があったかもしれません。身から出た錆であるとはいえ、サウロとしても、そこで辛い思いを抱いたのではないでしょうか。

 

 このようなサウロの苦境の中で登場するのが、バルナバでした。当初はエルサレムの信徒たちが、だれ一人サウロに近づかず、親しくしようとさえしなかった時、バルナバだけはサウロに手を差し伸べ、兄弟としての交わりをしたばかりか、他の信徒や使徒の許に連れて行き、彼を紹介する労をさえとったのでした。そしてサウロが、たしかに「旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した」(同27 節)のでした。バルナバは、苦しんでいる兄弟に手を差し伸べていきました。バルナバのこのような働きがなかったら、後の大伝道者パウロは生まれなかったのではないでしょうか。主のために労苦し、伝道の大きな成果を収めたのはパウロですが、そのパウロは、しかしバルナバなしには登場しえなかったということもできます。アナニア同様、バルナバも主に忠実に自分の務めを果したのです。それぞれの人がサウロに対して、人間的な思いで接する中で、アナニアとバルナバは、そうした自分の思いを越えて、主の思いの中でサウロと接していきました。ここに二人の主に対する献身の姿を見ることができます。主の働きは、実は表面に見える、目立った賜物溢れた人の活躍によって成り立つだけではなくて、逆にそれを裏側で支える、忠実で献身的な無数の無名の信仰者たちの祈りと働きによって成り立たせられていくものでもあります。アナニアやバルナバの隠れた働きがあったからこそ、サウロが主の器として用いられるようになり、パウロとして活躍し、労苦しましたが、その背後には彼を援助し、祈り、励まし、協力した、多くの忠実な信仰者たちの働きがあったのでした。そしてパウロは、そういった人々の背後にあっての隠れた働きなしには、伝道者としての働きを成し遂げていくことはできませんでした。「教会はキリストの体」であると言われるとき、それは一方では頭であるキリストとわたしたちとの密接不可分な関係が言い表されていますが、もう一つはこのキリストを頭として相互に結び合わされた、わたしたち相互の密接な関係も語られているのです。このときサウロは、バルナバの慰め深い主の働きに、どれほど心癒され、励まされ、慰められたことでしょうか。まさにバルナバはその名の通り「慰めの子」(4章36 節)となっていったのでした。

 

3.自分を献げたバルナバの忠実な働き

 バルナバの慰めに満ちた働きは、すでにエルサレム教会では評判になっていました。バルナバは教会の中にいる貧しい人々のために、自分の財産を献げていきました。それは単にあり余る中から、これみよがしに慈善の業、施しをしたということではなくて、自分自身も彼らと同じ貧しさの中に共に生きる者となったということでした。彼は全財産を売り払い、それを教会の共同の財産として献げました。それは自分自身も、それによって養ってもらい、そうして貧しい者の一人となるということを意味していました(4章34~37節)。困っている人に手を差し伸べていく彼の働きは、このときから始められていたわけで、このような真実な生き方があるからこそ、バルナバの働きは人々に認められたのであり、このバルナバのゆえにサウロが受け入れるようになったのです。サウロが受け入れられたのは、彼を紹介したバルナバ自身の日々の忠実な信仰生活と証しがあったからでした。わたしたちの日々の証しはどのようなものであるかが、問われるところです。後にバルナバは、今度はエルサレムを去ってタルソスにいたサウロを探し出し、アンティオキアの教会に紹介して、そこでの同労者とします。そしてこのアンティオキアから、後に世界宣教へと派遣されていくことになるわけですが、そこでも困っているサウロに手を指し伸ばしたのは、バルナバでした。そこから始まった宣教旅行のイニシアティブをとったのはバルナバでした。第一回宣教旅行の始めは、「バルナバとサウロ」という言い回しで二人が紹介されます(13 章4節)。ところが、キプロスを出立して以降は「パウロとその一行」(同13節)「パウロとバルナバ」(同14 節)となっていて、旅行の主導権をパウロがとっていったことを明らかにします。バルナバは、サウロを導き、成長させていった信仰の先輩でした。ですからこれからもバルナバが主導権をとっていっても良かったはずです。しかし後輩パウロの並々ならぬ才能を見い出したバルナバは、むしろパウロを立てていくようになります。それも、単に自分が身を引くということではなくて、協力を惜しまず与えることでパウロを引き立てていくということによってでした。自分の働きと活躍が、自分自身を引き立たせ、目立たせ、評価させるのではなくて、他のさらに有能な働き人を引き立たせ、有効に働かしめさせていくのです。こうしてバルナバは、自分の分をわきまえて、パウロによって主の業が大きく前進していくことに全力を注いで協力していったのでした。

 

 ここに、バルナバの真実で忠実な働きを見ることができます。もしバルナバに、「おれが、おれが」という思いが強かったら、あるいは先輩風を吹かせて自分がすべてを握りしていこうとしたら、パウロによる世界宣教の働きの実が、これほど大きく結ぶこともなかったかもしれません。教会とそこから為される主の業とは、それぞれが自分の分をわきまえた中で、真実にまた忠実になされていく共同の業なのです。誰もがナンバーワンになりたいでしょう。しかし皆がそうなったら、教会は成り立たないのです。誰かがナンバーツーの働きを担わなければならないし、さらに多くの人たちは背後の働き、裏方役に徹することになるかもしれません。しかしそれによって全体が生きた働きとなっていくことになるのです。各自が自分に委ねられた務めを、いやいやではなく、仕方なくでもなく、喜んで担っていくのであり、誰かがほめられたり評価されたりすることをうらやんだり、妬んだりするのでもなく、ただ主の御名が崇められ、神の栄光が現されていくためになすのです。そうして、皆で共に「一つ」の主の業を果していくときに、神の国は前進していくのであり、そのためにわたしたちは用いられていくものとなるのです。バルナバを純粋無垢な聖人君子のように考える必要はありません。おそらくはバルナバだって悩んだでしょうし、苦しんだことでしょう。嫉妬を抱くことも、妬む思いに駆られることもあったかもしれません。苛立ちを覚え、自己主張したくなることもあったことでしょうし、パウロと激しくぶつかり合ったこともありました。しかしそのような自分の肉の思いを越えて、主の思いが優先し、主の御業が成し遂げられていくことのために、自分を神に献げていきました。だから、パウロとバルナバによって、主の業は大きく前進していくことができたのです。

 

4.自分の役割をわきまえて、それを忠実に果たしていく

 こうした信仰の先輩バルナバの協力を得て、世界宣教へと出て行き、各地に教会を建て上げていったパウロは、こう語りました。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と(ローマ12 章3~5 節)。だからわたしたちは「キリストの体であり、また、一人一人はその部分」と言われるのです(1コリント12章27 節)。そこでは、ある人は「金や銀の器」として「貴いこと」に用いられ、またある人は「木や土の器」として「普通のこと」に用いられます(2テモテ2章20 節)。しかしそこで皆が金や銀の器になりたがったら、どうして日常生活が成り立つでしょうか。木や土の器があるからこそ、金や銀の器も尊ばれ用いられますが、普段は木や土の器こそ用いられていくのです。自分がどのような器であれ、それを主ご自身から委ねられた働きとして受け取り、感謝しながら果していく時、それによって主の業が前進していくのです。そしてわたしたちは、そのためにこそ、つまり自分のためにではなくて、主のために生きる者として選ばれ、召された者たちです。そうしてその務めがどうであれ、主のために生き、主の役に立つ者として用いられていくことの喜びと感謝の中で生きていく者とされていきたいと思います。主の働きのために召し出され、その働きを担う器は、ただ一人で登場し、働くのではなく、その背後で多くの人々の助けと協力、励ましと支えの中で見い出され、成長し、用いられていくようになるのです。そこでは自分がどのような役割であれ、それを主ご自身から委ねられた働きとして受け取り、感謝しながら果していく時、それによって主の業が前進していくのです。わたしたちも自分の務めがどのようなものであれ、主のために生き、主の役に立つ者として用いられていくことで喜び、感謝して生きていく者とされていきたいと思います。

 

 キリスト教が世界へと広げられていったのは、ひとえに使徒パウロの働きです。しかしそのパウロが登場し、奉仕するためには、その背後で自分がナンバーツーであることをわきまえ、その働きに忠実だったアナニアやバルナバがいたのです。彼らの忠実な献身なしにはパウロも登場しませんでした。こうして実は、パウロ一人が活躍し、用いられたのではなく、皆がそれぞれに自分の務めを果たすことによって、共同の業を主に献げ一つの働きを果していったのです。主の宣教の業は共同の業、それぞれの賜物を活かしあって建て上げていく「一つの業」として実現していくのです。それは一人の人だけが目立った働きをし、華々しい活躍をすることで成り立っていく業なのではなくて、それぞれが自分の分に応じて、自分の役割を果していく中で成り立っていく共同の業なのです。教会も同じです。ある人たちばかりが目立ち、活躍するのではなく、賜物ある人ばかりが評価されるのでもない、目立たない隠れた働きであったとしても、それを皆で共に負い合い、それぞれが自分の分に応じた責任を果たすことで、共に一つの働きを主に捧げていくのです。自分に委ねられた役割に納得できず、受け入れられないときもあるかもしれません。どうして自分ばかりがこのような働きをしなければならないのかと残念に思い、うらめしく思うこともあるかもしれません。自分がしたいと思う役割を他の人が果たしている姿を見て、妬む思いが湧きあがってくるのも正直なところかもしれません。そしてそのことは何も教会の奉仕だけではありません。今、自分が果たすことが求められている、家庭での役割や社会での務めがあります。子供への責任や親の介護、色々な人への配慮や世話といったことに追われます。それは必ずしも自分にとって喜ばしいことや、やりがいを感じられるようなことではないかもしれませんし、できれば逃げたくなるような働きもあります。けれどもそれが自分に委ねられている務めであるなら、それを喜んで担っていく者でありたいと思います。誰かがそれをやらなければなりません。あなたが果たさなかったら、別の他の人がそれを担わされることになり、あなたが抱く思いをその人が抱かされることになるでしょう。しかしそれをあなたが背負ってくださるなら、その嫌な務めを他の誰かに背負わせることはないのです。どんなに自分には願わしくない務めであったとしても、主がそれを求めておられるのでしたら、それを喜んで担う者でありたいと思います。

 

 大学生のころのことなので記憶が朧ですが、「大草原の小さな家」というテレビ番組の中で、このようなシーンがありました。長女のメアリは学校の先生になる希望を抱いて、一生懸命勉強していましたが、あるとき目が不自由であることに気づき、結局視力を失って学校の先生になることを断念しなければならなくなります。ひどく落胆するメアリにお母さんがなだめる場面だったと思いますが、お母さんは彼女にこう言いました。「お母さんも昔、学校の先生になりたいと思っていたの。けれども家が貧しくて学校にいくことができず、あきらめるしかなかったの。それでお父さんと出会って結婚し、あなたがたが生まれたの。けれどもお母さんは幸せよ。だってあなたがた3人の子どもたちの先生になることができたのだから」と。たとえ自分が願わない役割を背負わせられるとしても、それを果たしていくことで、主の業が進められていきます。さあ、また今日から新しい一週間が始まります。自分の為すべき仕事に戻りましょう。そして今週も、自分が果たすべき務めをしっかり果たしていきましょう。