第11課 待機という熟成のための訓練

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第11課:待機という熟成のための訓練(使徒9章26~30 節、2011 年3月20 日)


《今週のメッセージ:熟成という訓練(哀歌3章2 5~ 2 7 節)》

 故郷タルソスに戻ったサウロが、次に姿を現すのはバルナバによりアンティオキアに連れて行かれたときで、十年以上の年月が過ぎていました。タルソスでサウロは一体何をしていたのでしょうか。挫折感を覚えて部屋に閉じこもり、悶々とした、鬱々とした日々を送っていたのでしょうか。アラビア伝道が実を結ばず、そこで彼が深い挫折感を抱いたことは確かでしょう。自分に豊かな資質と賜物、深い教養と能力があることは、ダマスコで証明されたにもかかわらずです。主イエスから「異邦人の使徒」としての召命を受けながら、その先の道が開かれていかず、サウロは自分の行くべき方向を喪失した状態に陥ったのではないでしょうか。目指すべき道ははっきりしているのに、そこに行き着く道筋が分からず足踏み状態となってしまったのでした。しかしこうして長く待機させられることは、彼に内省し、黙考する時間を与えました。そこでわたしたちは、神に用いられる人が受けなければならない、一つの訓練であることを覚えさせられます。それは「熟成」させるということです。わたしたちも熟成の期間を経て、キリストの芳醇な香りを豊かに放つものとして内側から変化し、成長させられることで、豊かに用いられていくようになるのです。


1.神の言葉へと思いを集中させること

 今朝の招きの言葉は詩編94編17~19節で、「主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。『足がよろめく』とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました」という言葉です。先々週の地震以来、わたしたちの日常生活は大きく変わってしまいました。教会員の中には、下水が使えなくて近くの施設や仮設トイレで用を足さなければならない方もおられましたし、断水したため給水所まで水をもらいに行かなければならない方もおられましたし、電気、ガスが止まって往生された方もおられました。このような直接の被害にあわなくても、計画停電の影響で不便な思いをしたり、日用品やガソリンがなくなって、ずっと並ばないと手に入れられなかったり、なによりもテレビなどの報道により、被災地の惨状を目の当たりにして心が痛むと共に、放射能汚染の危険などもあり、これからわたしたちの生活はどのようになっていくのだろうかと、不安な思いが広がっているというのが実情ではないでしょうか。今朝のこの礼拝でも、どこか心がざわつき、胸騒ぎがする思いの中で、ここにいるというのが正直なところだと思います。心が騒いで、色々なことに集中できず、手につかなくなっている、そんな状況だと思います。しかしこのような状況だからこそ、もう一度わたしたちがどこに思いを定め、心を向けていくべきかを考える必要があると思います。このような危機的な状況においては、たしかに常に最新の情報を得て、次の行動を考えることは大切なことです。しかしまたそれによっていかに自分たちが振り回されてしまっているかということにも思いを向ける必要があるのではないでしょうか。向けるべきところに思いを向けず、そうではないところに心を向けて、それによりわたしたちは落ち着きを失い、振り回されていないかどうか、思いめぐらす必要があると思います。


 こんな危機的なとき、とても悠長に聖書など読んではいられないという方もいるかもしれません。しかし最初に開いた詩編は、まさにそのような危機的状況の中で語られたものであることに気づいてほしいと思います。3~7節「主よ、逆らう者はいつまで、逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。彼らは驕った言葉を吐き続け、悪を行う者は皆、傲慢に語ります。主よ、彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し、みなしごを虐殺します。そして、彼らは言います。『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」。神の民は今、虐殺されようとしている、大きな危機にさらされた中での詩編なのです。そこで慌てふためいて逃げ出すのでしょうか。もう逃げ場もないほど窮地に追いやられているのです。助け出してくれる人は誰もいません。様々な情報に右往左往し、それに振り回されていくのか、まさしくそこで呼びかけられていくのです。16節「災いをもたらす者に対して、わたしのために立ち向かい、悪を行う者に対して、わたしに代わって立つ人があるでしょうか。主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。『足がよろめく』とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました」と。今わたしたちの心は何によって一杯にされているのでしょうか。今わたしたちの思いはどこに向けられているのでしょうか。今こそ心を静めて、神の言葉に聞く必要があるのではないでしょうか。今日のテキストは、わたしたちに何を語りかけてくるのでしょうか。思いを静めて、御言葉に心を向けていきたいと思います。


2.サウロのタルソスでの逡巡

 教会の迫害者サウロは、ダマスコ途上で主イエスと出会って回心した後、ダマスコ、アラビア、そしてダマスコで福音宣教し、そのダマスコからエルサレムへと逃亡し、そこでペトロたちと交わりをもったまでを見てきました。その後サウロはどうしたかというと、エルサレムからカイサリアを経て故郷タルソスへ旅立っていきます。使徒9章29、30節、「また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」。こうして故郷タルソスに戻ったサウロが次に登場するのは、11章25、26節です。「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」。サウロがタルソスに戻ったのは35年で、バルナバに連れられてアンティオキアに行ったのは46年ごろですから、その間、実に十年以上の年月が流れているわけです。ところがタルソスに戻ってからのこの十年以上もの間のサウロについて使徒言行録は沈黙したままで、詳細は分からないのです。サウロは一体何をしていたのでしょうか。この期間のサウロについては様々な説がありますが、どれも想像の域を出ません。アラビアでの伝道の失敗に挫折感を覚えて、部屋に閉じこもり、悶々とした日々を送っていたのでしょうか。自分は人生の失敗者だと、鬱々と日々を過ごしていたのでしょうか。たしかにダマスコでの最初の働きはいささか成功したわけですが、それに気を良くし、血気盛んで始めたアラビア伝道は実を結ばなかったのも事実です。そしてこのことは、これまで成功しか知らなかったエリート・サウロにとって、初めて深い挫折感を覚え、心に深い痛手を負ったことは確かでしょう。自分に豊かな資質と賜物、深い教養と能力があることは、ダマスコでの働きで証明されました。しかしそれがすぐに用いられるわけではないことで躓いてしまい、挫折を覚えたのも事実で、おそらくサウロは、そのことを思い巡らしながら、どこが悪かったのだろうか、どうしたら良かったのだろうかと、これからの働きやその方法について、もう一度深く考えなおしていく機会となったのではないでしょうか。わたしたちは、世界を駆け巡ってうむことなく福音を語り伝えた「大伝道者パウロ」しか知りませんが、そのパウロが生み出される前には、この「不遇の十年間」という期間があったことを忘れてはなりません。しかもその十年は、サウロにとってとても苦しい期間であったはずでした。なぜなら自分が「異邦人の使徒」として主イエスから召されたことはたしかなことなのに、それをどのように果たしていったらよいのか、その先の道が見えず、また開かれてもいかないまま、自分の進むべき道をあちらこちらと模索し続けた期間でもあったからでした。どんなに苦しくても、目標が見えるなら頑張ることができます。一番苦しいのは、先が見えないことです。これはいつ終わるのか分からず、どうしたら良いのかも分からない闇の中で暗中模索し、試行錯誤を繰り返す、それがタルソスでのサウロなのでした。


 なによりサウロは、復活の主イエスと出会って、自分が「異邦人の使徒」として遣わされることの召命を受けます。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」と(26 章17 節)。この「異邦人の使徒」としての召命は、エルサレムでも受け、そこで主イエスから「行け、わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」と命じられるわけですが(22 章21 節)、それではそれは具体的にはどのようにして道が開かれていくのでしょうか。自分の使命ははっきりしていながら、それを具体化する手立てがなく、どうしていいか分からず自分の進んでいくべき道が分からないと、このときサウロは自分の行くべき方向を喪失した状態に陥ったのではないでしょうか。目指すべき道ははっきりしているのに、そこに行き着く道筋が分からず、そこで足踏み状態となってしまったのでした。暗中模索、霧の中をさ迷い、あれこれ試行錯誤するけれども、もがいてももがいても道が見えてこない中で、サウロは焦りもし、迷いもし、挫けそうにすらなったかもしれません。サウロは、自分に豊かな賜物と資質が与えられていることは自覚していました。それが、これからの使命のためのものであるということもです。ところがそれをいざ実践に移した時、さっそく失敗し、挫折します。果たして主が自分に与えられた使命は、一体何だったのか、迷いだし、分からなくなってしまった、そんな時期であったかもしれません。このときサウロは、傷ついた心を癒すために瞑想し、沈思黙考していたのか、あるいはいじいじと投げやりに時を過ごしていたのか、あるいは焦る思いを募らせながらいたずらに時を過ごしていたのか、いずれも否でしょう。確かにタルソスでの生活は、これまでの一切のことを内省する期間とはなったはずです。そしてそこでの深い内省が次のアンティオキアでの働き、そして最初の伝道旅行へと結実していくことにもなります。しかしサウロはこのとき、ただいたずらに時を過ごしていただけではなかったことも、後の記述で分かります。


3.もがきながらのキリキア・シリアでの働き

 ガラテヤ書では、このときのパウロの行程が想起されていますが、エルサレム訪問の後「わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました」(1章21 節)と語ります。タルソスはキリキア州、アンティオキアはシリア州の大都市でした。このときサウロは、ただタルソスに留まり、そこでいじいじと時を過ごしていたのではなくて、その地域を行き巡り、伝道をしたことが語られています。なぜそう言えるかというと、それより十年後に開催されたエルサレム会議の後、パウロとバルナバはその使徒会議の決議事項を伝えるために「アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たち」の許を訪れますが(15章23、41 節)、そこではすでにそこに異邦人の教会が存立していることが前提されているからです。それらの教会の設立がサウロ一人の働きではないとしても、少なくともキリキア・シリア州にある教会にサウロは顔を知られた存在となっていました。そこからはサウロもそれらの教会で働いていたことが示唆されます。つまりこのときサウロは、ただタルソスに留まり、そこでいじいじと時を過ごしていたのではなくて、その地域を行き巡り、伝道をしたことが語られています。サウロは、タルソスで一人悶々と悩み、苦しみながら、鬱々とした日々を送っていただけではないのです。しかしまたそこでの伝道の成果については、パウロの手紙にも使徒言行録にも語られていません。それはおそらく、アラビア伝道と同様、語るべきほどの成果を見ることができなかったからではないでしょうか。色々と手を変え品を変えて、様々なことを試みるけれども、なかなか思うように成果を見ることができない、そんな中で必死にもがいている伝道者サウロの姿が見えるようです。必死にやっているのです。自分の使命もはっきりしています。しかし実を結んでいかない。自分は果たして本当にこの働きに召されているのだろうかと、迷い、悩み、苦しみながら、それでもなお自分の務めは何かを模索して、必死に働くサウロの様子を見て取るようです。しかもそれは十年にも及びました。暗中模索の十年、試行錯誤の十年、先の見えない中でもがき苦しむ十年、けれどもこの十年が、本当の意味での伝道者パウロを生み出していくものとなっていくのです。


4.キリストの香りを放つための熟成

 主は、なぜサウロをすぐに伝道へと派遣されるのではなく、このような試行錯誤の期間、内省し、黙考する期間をサウロに与えたのでしょうか。なぜ、資質と賜物に溢れたサウロをただちに伝道の最前線に送り出し、豊かな収穫へと送り出そうとされずに、いわば足踏みさせるようなことをされたのでしょうか。それは、わたしたち自身の問題でもあります。わたしたちにもそれぞれに目指すべき目標があり、自分なりに果そうとする使命があります。しかしそれにすぐに遣わされるのではなく、むしろ迷いの時間、悩みの時期を通り過ぎることもあります。目指す先は分かっているのに、そこに行き着くためにどうしていったらよいか分からず、試行錯誤し暗中模索する時があり、悩みつつ道を求めても開かれず、導かれず、自分の使命さえあやふやに迷い出していく、そんな時もあります。また自分にはそれなりの力があるはずなのに、それが生かされていかないことに苛立ちを覚えず、用いられていかないことに、鬱屈した思いになる時もあります。それでもと思って勝負に打って出て、逆に大きな失敗をしてしまい、挫折して、すっかり落胆し、その先の道に失望してしまうこともあります。タルソス時代のサウロとは、道を行き悩むわたしたち自身のことではないでしょうか。使命は与えられながら、その先が見えてこない、道が開かれていかず、どう進んだら良いかも分からない、なぜ主はそのような時を過ごすようにわたしたちを導かれるのでしょうか。ここで主はわたしたちに、「待つ」ということの大切を覚えさせていかれるのではないでしょうか。足踏みをしたり、遠回りをさせられる、そうすることでわたしたちは、「待つ」ということを教えられていくのです。わたしたちはなんと待つことに乏しいことでしょうか。忍耐がなく待ちきれないで失敗することがなんと多いことでしょうか。


 大学生のとき、いろいろなアルバイトをしました。家庭教師、ガードマン、測量助手、中でも一番長く働いたのが味噌工場でした。工場には巨大なタンクがあって、味噌の材料となる大豆とかもろみとか麹とかが色々な行程を経て、そのタンクに入れられます。初めてアルバイトに行った日、工場長から、このタンクは3年もの、このタンクは1年もの、そしてこのタンクは半年といった話を聞きました。そのタンクで何をするかというと、「熟成」させるというのです。味噌なんてみんなように作るのかと思っていましたが、そうではなくて、熟成期間が長い方が芳醇な良い味噌になるそうです。それではみんなそうすればいいと思うのですが、そうすると商品がすぐに作れない、そんな何年も熟成させていったら商売にならないということで、早く切り上げて売り出してしまうということでした。半年ものは、本当はそんな短期間では熟成しないのですが、薬品を使って強制的に熟成させるというか、熟成したのと同じような状態に薬品でしてしまうということで、自分たちはそんなものを食べているのかと恐ろしくなりました。しかしそのことはわたしたちの問題でもあります。世の中は何でもインスタントを求める時代で、すぐに結果を求めます。そこでじっくり物事を考えるとか、それに取り組んでいくということがなく、目先の結果ばかりを求めます。そこで出てくるのは上っ面のことばかりで、深めていくとか掘り下げていくということが失われてしまっています。あれほど有能なサウロが、すぐに生かされることなく、用いられることもなく、足踏みさせられ、じっと待機させられていった、このタルソスの経験は、有能なサウロに必要なものでした。それは「待つ」ということを学ばされる貴重な時間でした。それによってサウロは、これまで自分が学び、考えてきたもの、そして経験したものを真実に自分自身のものとして身につけていき、自分の中で深められたものとなるために、それを「熟成」させていくための時間でした。それはそれらが真実にサウロ自身の体の一部のようにして、まさに「自分の言葉」として語りだされていくようになるための時間でした。与えられた資質と、これまで受けてき学習の成果は、この「もうひとのし」によってさらにサウロの中に深められ、サウロ自身のものとして身につき、これからの働きに本当に役立つものとして、「熟成」していくための期間だったのでした。「熟成」には時間が必要です。ある一定の期間、静かに「ねかせて」おく、しかしそれによって、より味わいのある、深みのあるものとなっていきます。こくを増した、味わい深いものへと変えられていきます。わたしたちは、あまりにも「今、すぐ」の結果を求めすぎて、インスタントに事柄を押し進めがちです。だから出て来る結果も上っ面のもので終わってしまい、味わいも深みもないものとなってしまうのです。


5.神を信じて「待つ」こと

信仰には熟成が必要であり、働きのためにも熟成の期間が必要です。主は、わたしたちが本当に使い物となる器となるために、熟成の時間を与えられます。それは静かに「ねかせられている」時間ですが、決して寝ているだけの、何も無い時間なのではありません。外側はただそこに置かれたままで、何一つ変化も動きもありませんが、内側は激しく活動しています。「発酵」という作用が内側で活発に働き続け、内部は激しい運動をし、変化を続けているのです。この先どうしたらよいか分からずに迷い、悩み、足踏みをしている時期、それは無駄な時間でも無意味な経験でもなくて、まさにこれまでのすべてが「熟成」されていくための、そして内部が大きく変化し、成長していくための大切な時間なのです。この迷いの霧を出た先には、これまでの迷いを吹っ切るような晴れやかな時を迎え、これまでの迷いや悩みが嘘のように晴れて、それからは決然として迷うことなく、その先の道を確信をもって歩み始めていくようになるのです。その時期を十分にすぎないまま、慌ててそこを飛び出し、十分に発酵しないままで止めてしまうと、熟成するに至らないまま中途半端で終わってしまうのです。モーセは、荒野の四十年間イスラエルを導くために、八十年の訓練を与えられました。四十年間は王子としての教育を受け、次の四十年間は羊飼いとしての訓練でした。王子として、指導者となるために必要な学びと訓練を受け、次にそれを荒野という苛酷な環境の中でそれを実践するための訓練を受けたのです。その期間は、モーセにとってはとまどう時間だったことでしょうが、それが最後の四十年間に生かされていくことになりました。ダビデもイスラエルの王となるために、三十八年間の訓練を受けました。初めの十数年は羊飼いとして、次の十数年は兵士として、最後の七年間は一部族の王としてです。羊飼いとして弱い羊をいたわり、身を呈して守り抜くすべを学び、次にサウルの家臣として闘いの術を身につけ、サウルに命を狙われてからは荒野をさ迷いながら民を導くことを教えられました。そしてそれをまずユダという一部族に実践する期間が与えられて後、初めてイスラエル一二部族の王とされました。初めからとんとん拍子に出世して苦労なく王となったわけではありません。むしろ王になるまでに実に様々な苦労と経験があったからこそ、イスラエルを正しく治めることができるようになったのでした。その苦労をしらない者が王となったとき、それがどれほど民を圧迫し、苦しめる悪政となるかはイスラエルの歴史そのものが証明します。ダビデは苦しみましたが、その苦しみは彼が王としての務めを真実に果すようになるために必要だったからであり、それが見事に生かされて、ダビデは神の御心にかなう働きをしていったのでした。主イエスすら、メシアとして立つまでに三十年もの時と経験を必要とされました。ましてやわたしたちが、賜物があるから、資質が優れているからと、すぐに用いられるようになり、すぐに道が開かれていくと考えるのは、間違っています。むしろ安易に道が開かれず、迷いの中をしばらく過ぎ行かなければならないことこそが、これから豊かに用いられていくための、「熟成」の時であることをわきまえていきたいものです。こうしてサウロは、そしてわたしたちは、熟成の期間を経て、キリストの芳醇な香りを豊かに放つものとして内側から変化し、成長させていただいて、豊かに用いられていくようになるのです。


 今回の地震は、わたしたちの日常生活を大きく変えていきました。そこにどのような意味があるのかは、これから考えていくことになるでしょう。しかしこれまでの日常が止められてしまい、普段の生活が足踏み状態とされて難儀をしている今こそ、ここでわたしたちも「待つ」ということの必要に思いを向けていきたいと思います。しかしそれは無為に待つことではなく、「主を待つ」ことであり、主がこれからどのように道を開いてくださるかを待つということです。今なお先は見えなくても、そこで「主に希望をおいて待つ」のです。こうして「待つ」ことの中で、わたしたちの信仰は「熟成」していくことになるのです。この時期をどう過ごすでしょうか。迷いつつ、悩みつつも、そこでなお自分を導いてくださる主を見上げ、主に信頼して、待ち続けていきたいと思います。焦ったり、あわてたり、右往左往したり、振り回されたりしないで、「主を信頼して待つ」ものとされていきたいと思います。「主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。『足がよろめく』とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました」。「主を信じて待つ」ことを深めていただきたいと思います。