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第27講 終わりのない御国をもたらす主への希望の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第27講:終わりのない御国をもたらす主への希望の言葉 (黙示録21章1~8節、2012年9月9日)


【今週のキーワード:新しい天と新しい地】

 再臨の日、すべての人はキリストの裁きの前に出て申し開きをすることになります。し かしこの審判の日は、主を待ち望むわたしたちにとっては慰めと希望の日です。なぜなら キリストは、わたしたちのためにすでに神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわた したちから取り去ってくださったからです。そしてそこでわたしたちは、審判者自身がわ たしたちの救済者として、わたしたちを弁護してくださることで無罪を宣言されます。こ うしてキリストの再臨は、わたしたちをあらゆる苦しみの中で頭を上げさせていくものと なります。なぜならそこでは神の正義に基づく公正な裁きが為されることで、不当な苦し めにあった者が報われるからです。何よりその日、キリストに結ばれて死んだ人たちは一 人も失われることなく、朽ちるものから朽ちないものに復活し、キリストご自身の栄光 と同じ形に変えられます。そして万物が新しくされ、罪と汚れから完全にきよめられた新 しい天と地が現れ、神の国は栄光の王国として完成されます。わたしたちは、キリストに ある神との交わりとしての永遠の命の完成にあずかり、神は自らわたしたちと共に住み、 わたしたちの神となられ、わたしたちの涙はことごとくぬぐい去られ、もはや死も悲し みもなくなります。罪と悲惨から解放され、栄光化され、まったき安息が与えられます。 そこでわたしたちは希望をもって祈ることができます。マラナ・タ(主よ、来てくださ い)と。


1.審判者は弁護者でもある最後の審判

 前回は「生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られます」と いう再臨と最後の審判について考えました。これは、すべての人が例外なく直面すること で、わたしたちもいずれはそこに居合わせることになりますから、その日に備えて日々を 真剣に生きることが求められます。『終末の希望についての信仰の宣言』では、「天上の 主キリストは、終わりの日に、大いなる力と栄光を帯びて、肉体をもって目に見える姿で 天から到来されます。・・・再臨の日に、主キリストは、・・・死人をよみがえらせた後 ただちに、御父から委ねられた裁きの権能により、義をもって審判を行なわれます。すべ ての人は、キリストの裁きの御座に進み出て、彼らの思いと言葉と行いについて申し開き をし、また善であれ悪であれ、自分が行ったことに応じて報いを受けます」と宣言され ます(四(一)、(三))。しかし同時に、この「審判の日は、主を待ち望むわたしたちにとっては大いなる慰めと希望の日」であるとも言われます。なぜなら「救い主キリス トは、わたしたちのためにすでに神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしたち から取り去ってくださったから」だと。そしてそこで「わたしたちは、その審判者キリス トによって、公に受け入れられ、無罪を宣言されます。そればかりか、弱さと欠けを伴う わたしたちの行いでさえ、キリストのゆえに報いが与えられ、義の栄冠が授けられます。 こうして、わたしたちは、天地創造の前から用意されていた神の国の喜びと祝福の内へと 招き入れられ、それによって神の憐れみの栄光が現されます」(四(三))。なんと感謝 なことでしょうか。最後の審判を免れる人は一人もいません。しかしその恐ろしい場所 で、考えられないような出来事が起こるのです。審判者自身が、わたしたちの救済者とし て、わたしたちを弁護してくださり、そこで無罪判決が下されるのです。ですから、キリ ストに結び合わされた者たちにとって、最後の審判は恐ろしいものではなく、逆に永遠の 命へと招き入れられる幸いな場所とされていくのです。


 カルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』の中で、ポンテオ・ピラトの許で裁判を受け た主イエスについて、それがやがてわたしたちが臨むべき「天の法廷」であることを指摘 して、次のように語ります。「かれはわたしたちが負うべき刑罰を受け、そのことによっ てわたしたちを刑罰から免れさせるために死んだのです。なぜなら、わたしたちは神の法 廷において、悪人として有罪ですので、わたしたちが天の法廷で無罪宣告を受けるため に、主はわたしたち自身の代表として、地上の裁判官の前に出頭し、その口から有罪宣告 を受けることを望んだのです」と(問57)1。そしてそこでかけられた十字架は、わたし たちを救い出すために、わたしたちの罪の呪いをご自身に引き受けられたものでした。 「かれはわたしたちへの呪いを自らに移して、わたしたちを救い出すために木にかけられ た」のであり(問60)2、こうして「かれは呪いを自らに引き受けつつ、力をもってこれ を無効にし」てくださいました(問61)3。そして「その犠牲によって、かれはわたした ちのために神の裁きを満たし、それによって神の怒りを和らげ、わたしたちを神と和解さ せ」てくださいました(問71)4。そして天に昇られた主は、「神の御前で、わたしたち の仲介者、弁護人として現れ」てくださいました(問77)5。そうして、今でもわたした ちを執り成してくださっている方が、おいでになるのです。「ですから、わたしたちは、 最後の審判を恐れるべきではありません」と明言します。「なぜなら、わたしたちがその 前に出頭すべき審判者は、わたしたちの弁護人であり、わたしたちの訴訟を弁護するため に引き受けた方にほかならない」からです(問87)6。


 そこで『ハイデルベルク教理問答』も、生ける者と死ねる者とを審かれるためのキリストの再臨は、わたしたちにとって「慰め」であるとして、次のように告白します。「わた しがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを 差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から 来られることを待ち望む」と。なぜなら「この方は、御自身とわたしの敵をことごとく 永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべっての選ばれた者たちと共にその御許 へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださる」からだと言うのです(問 52)7。罪と死を滅ぼして再び世においでくださる、その方とは「かつてわたしのために 神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった」方だか ら、わたしたちはこの神の裁きを恐れおののく必要がないのです。キリストによる最後の 審判とは「わたしたちの救いのためにほかならない」からです(『ジュネーブ』問86) 8。主は「わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄 光の中へと迎え入れてくださる」ために再臨されるのです(『ハイデルベルク』問 52)。これらのすべては、わたしたちの救いのためでした。なぜなら「神は、わたした ちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずか らせるようにと定められた」からでした(一テサ5:9)。


2.敵を滅ぼすための再臨

 こうしてキリストの再臨は、わたしたちを「あらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げ」 させていくものともなります。キリストへの信仰のゆえに迫害を受け、苦しめられ、悲し みを負った者たちにとって、彼らを慰め、励まし、大胆に強めていったのは、この苦しみ の世をも支配しておられるのは主御自身であり、その主が再びおいでになって、彼らを迎 えに来てくださるという信仰でした。この方の再臨は「御自分とわたしの敵をことごとく 永遠の刑罰に投げ込まれる」ためであり、こうして神の正義に基づく公正な裁きと不当な 苦しめにあった者の報復のためです。この世にあって不当な苦境、悪評、刑罰に苦しめら れ、しいたげられた者のために、神が正しくその訴えを聞き、正義の報復をしてくださる のです。すなわち、「邪悪な人々によって不正に裁かれ断罪されたかれが、義をもって世 を裁くために、終わりの日に、大いなる力をもって、御自分と父との栄光をあますところ なく現しつつ、すべてのかれの聖なる天使たちとともに、号令と大天使の声と神のラッパ に合わせて、再臨され」るからです(『ウェストミンスター大教理問答』問56)9。「そ の日は、福音の招きを最後まで拒み続けた者たちにとって、・・・主とその御国に背くす べての者たちにとっては、大いなる恐れの日です。罪と不信仰のゆえに恥辱へとよみがえ らされた彼らは、審判者キリストによって公に有罪の判決を受け、永遠の刑罰のもとに置 かれ、それによって神の正義の栄光が現されます」(『終末の希望についての信仰の宣言』四(三))。パウロは語りました。「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦 しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わ たしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて 天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来 られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、 罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離さ れて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」と(二テサ1:6~9)。


3.新しい「霊の体」への待望

 そしてさらにパウロは、「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間 であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あな たがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです」と語りました(同10)。ここ では、もう一つの約束が語られます。無からこの世を創造し、わたしたちを造られた神 は、わたしたちの身体を新しく創造し、新しいわたしとして造りなおしてくださるという のです。「再臨の日に、主キリストは、すべての死者をよみがえらせ、最後の敵である死 を滅ぼされます。キリストに結ばれて死んだ人たちは、一人も失われることなく、朽ちる ものから朽ちないものに復活し、キリストご自身の栄光と同じ形に変えられます。その日 に、生き残っている人たちは、一瞬にして変えられます。これは『命を与える霊』となら れたキリストの力によります。復活の体は、墓に葬られた血肉の体とは性質において異な り、神の国を受け継ぐにふさわしい朽ちない霊の体です」と(『終末の希望についての信 仰の宣言』四(二))。このことについてパウロは次のように語りました。「蒔かれると きは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かし いものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つま り、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですか ら、霊の体もあるわけです。『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてあり ますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではあり ません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。・・・わたしたちは皆、今と は異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにで す。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。こ の朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着るこ とになります」と(一コリ15:42~53)。ここでは「霊の体」という言い方で、聖霊に よる新しい創造が約束されていきます。そしてその新しい創造とは、ただ心が新しくされ るだけではなくて、身体も新しくされるということなのです。


 考えて見ますと、わたしたちの悩みの多くは身体に由来するものが多いのではないで しょうか。更年期を迎えたり、少しずつ老いていき弱っていく自分の身体に心も悩まされ ていきます。健康の不安やこれから先の生活への心配がありますが、その多くは身体を もって生きる自分のこれからについての心配です。老いていく親や配偶者への心配も含 め、その多くは身体についての心配なのです。そのように身体を抱えながら生きるわたし たちの不安と心配の中に、このことが語られていくのです。パウロはこう書きました。 「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」と。そこには連続と同時に、断絶があります。 「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」のです。復活の身体は、今の朽ちていく 弱い身体とは無関係ではなく、その身体自身が変えられるのです。しかしまたこの弱く朽 ちていく身体の延長・連続にあるのではなく、それが全く新しくされ、更新されていくの です。つまり自分は、全く自分であるわけですが、それが全く新しくされた自分となるの です。身体というわたしの存在が、自然のままの状態ではなく、霊によって一新され、全 く更新されるのです。土によって造られたわたしが、霊によって新しいわたしとされるの です。わたしたちは、神の霊によって心と身体としてのわたしの全身体が全く新しくされ て、自然の命ではなく神の命によって生きるのです。それは罪にある古い自分が死ぬこと であり、神の霊が自分自身の主人となって、自分を満たし支配することなのです。「霊の 体」とは、聖霊によって新しく生まれ、聖霊の命の支配にあずかっているわたし自身のこ とです。しかもこの身体のよみがえりと永遠の命は、死んだ後だけではなく、実はもうす でに始められています。キリストによって新しく生まれ変わったわたしたちは、すでにこ の永遠の命に生きているのです。そして今なお罪のうちに捕らわれているわたしたちの心 と身体もろとも、霊の身体として完成することを待ち望んでいるのです。


4.栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる希望

 わたしたちは、この世に生きていますが、それは身体をもっての歩みです。ですからそ こには肉と身体をもつことの誘惑と戦いがつきまとい、様々な失敗が伴います。この地上 にあるかぎり、わたしたちは朽ちていく肉と身体の弱さを背負いながら呻き、苦しみつ つ歩んでいきます。しかしそこには希望があります。まさにそこで、その身体もろともよ みがえり、完成されていく希望を与えられているからです。この朽ちゆく身体が全く新し くされて、朽ちることのない栄光の身体に変えられていくという希望です。わたしたちは 「主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきま す」(二コリ3:18)。そこには、「わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリ ストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光 の御体と同じ形に変えられる」という希望があります(『ハイデルベルク教理問答』問 57)10。ですからわたしたちが今、蒙っている苦しみが、どんなにつらいものであったと しても、それには終わりがあるのです。わたしたちが苦しめられている試練や問題は、そ れがどれほど大きなもので、現実に今わたしたちを押しひしぐものであるとしても、それ にも終わりがあるのです。自分を襲う病気や死の恐怖がどれほど深いものであったとして も、それにもピリオドが打たれていく、そうしてそれらすべての苦しみと悲しみと悩みと が終わらせられていくと共に、永遠の喜びと平安へと迎え入れられていくのです。だから 今はなお試練に苦しめられていますが、その中でなおわたしたちは頭を上げて、この終わ りのときを待ち望むことができるのです。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねば ならないかもしれませんが・・・言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて います」と(一ペト1:6~8)。


 そしてそこでは、わたしたちを絶望と恐怖と悲しみによって支配している死が、主に よってのみこまれ、打ち破られていきます。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝 利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(一コリ15:54、55)と、 わたしたちも高らかに勝利の宣言をすることができるのです。それは、この身体をもって 果たした地上の働き全身体、人生の問題でもあります。だからわたしたちは、堅く立って 動かされることなく、主の業に常に励んでいくことができます。この地上での身体によっ て果たした「自分たちの苦労が決して無駄にならないこと」を知っているからです(一コ リ15:58)。わたしたちの信仰の希望は、まさしくここにあります。わたしたちは、あ まりにも地上の事柄に心が捕らわれすぎていて、この希望を見失ってしまっていないで しょうか。わたしたちは、自分がどこを目指して歩んでいるか、何を目的として生きてい るかを問いかけられていきます。わたしたちは御国を目指して毎日を歩んでいるのであ り、今はまだその途上にすぎないということ、しかしまたその地上での働きも、決して無 駄にはならないということを教えられます。こう約束されています。「書きしるせ。『今 から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労 苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。』」 (黙14:13、新改訳)


5.新しい天と新しい地に対する希望

 ニカイア信条は、「生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られ ます」と告白した後、さらに「その国は終わりがありません」と続けます。これはこの信条に固有の言葉で、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主 は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わる ことがない」という御言葉に由来します(ルカ1:32、33、ダニ2:44、7:14、18、 27)。原ニカイア信条にはなく、キュリロスによるエルサレムの信条やエピファニウス による信条には、この言葉が含まれます11。それはこの信条の時代、四世紀後半に、「キ リストの御国には終わりがある」と主張する教説が流布するようになり、それを論難す る目的が生じてきたからでした。アンキュラの「マルケロスは、父なる神と子なるキリス トの・・・同質性を強調する余り、御子の受肉のときを限定し、御子の先在を認めない という立場をとりました。そのために、受肉以前には、御子は存在しなかったことにな り、ただロゴスだけが存在したと考えました。マルケロスによれば、ロゴスは神に固有の 理性であり、永遠で神と不可分な力なのです。このロゴスの力と永遠性にアクセントが置 かれると、御子の役割そのものが限定されて、御国の到来に際しても、御子は役割を終え ると父なる神にそれを引き渡すと考えた」のでした12。信条の「その国は終わりがありま せん」という告白は、そうしたマルケロスらの主張を拒絶するもので、「キリストの主権 と神性は、いかなるものにも制限されることなく、終わることなく続く」ことを明らか にするものでした13。


 こうした教理史上の問題はともかく、新しい天と新しい地がもたらされ、そこで完成 する「神の国」は永遠に終わることがないという信仰は、今なお地上にあるわたしたち にとっても慰めでもあります。この地上にあってわたしたちは様々な困難に直面し、それ に振り回されながら苦しみます。悩まされ、不安に駆られ、心が押しつぶされそうにな り、立ちすくみます。自分のこと、家族のこと、仕事のこと、将来のことと際限のない問 題に悩み続け、苦しみ続けます。けれどもそこには終りがあります。そして終わったその 先には、輝く希望と喜びに満ちた豊かな交わりが備えられています。わたしたちは、そこ を目指しながら、苦しみの渦中を通り過ぎているのです。それがどんなに苦しい道のりだ としても、それはこの永遠の命、輝くような希望と喜びの途上にすぎません。やがてわた したちは、目の涙をすっかり拭われて、もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない永遠 の喜びに迎え入れられていくのです。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を 聞きます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。 神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ る。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったから である」(黙21:3、4)。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神 の民となる」とは、神がわたしたちと共にいてくださる(インマヌエル)という約束の実現であり、神とわたしたちとの交わりが完全なものとして完成されることを意味します。 天国とは、神とわたしたちとの交わりが完成し、その安息の中で永遠に神を喜ぶことが できる世界です。そこでは、地上でのすべての苦しみと涙が拭い去られていき、そこでの 労苦に報いが与えられるのです。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、 種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白 い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう 叫んだ。この白い衣を着た者たちは、大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で 洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神 に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢 えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の 中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をこ とごとくぬぐわれるからである」(同7:9~17)。こうして「神がわたしたちと共に おられる」という神とわたしたちとの交わりが完成します。この地上の歩みにおいても、 死の先にもわたしたちと共にいてくださる主は、最後の完成において共にいてくださる方 となってくださるのです。


 イザヤもそのことを預言しました。「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布 と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、す べての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。・・・そ の日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。 この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その 救いを祝って喜び躍ろう」と(イザ25:7~9)。「顔を包んでいた布」とは、死者の 顔にかぶせる布のことで、神はそれを取り去ってくださると約束してくださるのです。こ うして死を永久に滅ぼしてくださる。だからもう二度と神と分離し、切り離されることは なく、また愛する者同士が生き別れ、引き離されることはない、そうして永遠の交わりの 中で、喜びに輝き続けていくことができる、それが永遠の命です。そしてわたしたちは、 この輝く命が完成することを目指して、今日の戦いへと押し出されていくのです。「最後 の審判の日に、現在の天と地は過ぎ去り、万物は新しくされ、神の裁きによって罪と汚れ から完全にきよめられた新しい天と地が現れ、神の国は栄光の王国として完成されます。 被造物は、今や虚無と滅びへの隷属から解放され、回復され、完成に至り、神の栄光に 満たされます。・・・新しい人類であるわたしたちは、キリストにある神との交わりとし ての永遠の命の完成にあずかります。神は自らわたしたちと共に住み、わたしたちの神と なられます。わたしたちの涙はことごとくぬぐい去られ、もはや死も悲しみもありません。わたしたちは、完全にまた永遠に罪と悲惨から解放され、体と魂の両方において栄光 化され、まったき安息が与えられます。わたしたちは、無数の聖徒たちと御使いたちとの 交わりの中で、神の御顔を仰ぎ見、完全な知識と愛において永遠に神を礼拝し、考えも及 ばない喜びに満たされて神の栄光をほめたたえます」(『終末の希望についての信仰の宣 言』四(四))。世の終わりとそれをもたらす主の再臨は、わたしたちにとって大きな希 望です。その時には、主イエスが、「勝利の王としてやがて戻ってこられ、全世界を治め てくださる」ばかりか、わたしたちは、そこで「新しく創造された世界」に、主と共に住 むことになるからです。こうしてわたしたちは希望をもって祈るのです。マラナ・タ(主 よ、来てください)と。




1 石引正志訳、『ジュネーブ教会教理問答』、「改革派教会信仰告白集I」、2011年、 一麦出版社、424頁

2 同上、425頁

3 同上、426頁

4 同上、429頁

5 同上、431頁

6 同上、433頁

7吉田隆訳、『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、2005年、新教出版社、97頁

8 『ジュネーブ教会教理問答』、433頁

9 松谷好明訳、『ウェストミンスター大教理問答』、「改革派教会信仰告白集Ⅳ」、 2012年、一麦出版社、300頁

10 『ハイデルベルク信仰問答』、110頁

11 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、175頁

12 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、145頁

13 同上、146頁