· 

第24講 天へと上げられた臨在の主への信頼の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第24講:天へと上げられた臨在の主への信頼の言葉 (1テサロニケ5章10節、2012年8月19日)


【今週のキーワード:主と共に生きる】

 復活された主は、弟子たちの前で天へと上げられていき、見えなくなってしまいまし た。彼らは、その様子をいつまでも見つめ続けていました。それは彼らにとってどれほど 淋しく、心細く思う出来事だったことでしょうか。これからは自分たちだけでやってい かなければならないのです。大丈夫だろうかと、これからのことを考えると、不安と心配 で心が一杯になったのではないでしょうか。どうしたら良いのかと、立ちすくむ思いでそ こに立ち続けていたのではないでしょうか。しかし主が天へと昇って行かれたのは、彼ら の許を離れ去るためではなく、孤独にさせるためでもなく、むしろいっそう身近に彼らと 共にいてくださるためでした。それは彼らの許に、いつまでも共にいてくださる聖霊を遣 わすためでした。そして彼らのために場所を用意しに行くためでもありました。「行って あなたがたのために場所を用意」すると。そして「戻って来て、あなたがたをわたしのも とに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とも。このよ うに主が天に昇られたのは、よりいっそう身近にわたしたちと共にいてくださるためでし た。物理的にこの地上におられることよりも、さらに効果的に共にいてくださるために、 天へと昇られたのでした。このように「主は、わたしたちのために死なれましたが、そ れはわたしたちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるため」な のでした。


1.栄光の神の許へと携え上げられた主

 三日目に復活された主は、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒た ちに示し、四十日にわたって彼らに現れ」ました(使徒1章3節)。その間に、ケファ (ペトロ)、十二人の弟子たちに現れ、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、ヤコブ、 すべての使徒たちにも現れました(1コリント15章5~7節)。そして「父の約束され たもの」である「聖霊による洗礼」の約束が語られた後(使徒1章4~8節)、「彼ら が見ているうちに天に上げられ」ていき、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなっ」て いかれました(同9節)。そこで信条は、「三日目によみがえり」の後に「天に昇り」と 告白します。初めて有人宇宙船、人を乗せた宇宙船を打ち上げたのはソ連でしたが、そこ で最初に地球の外から宇宙を見た宇宙飛行士は、「宇宙には神はいなかった」という有 名な言葉を語りました。ここで主は、たしかに上空高く上がって行かれたわけですが、空の上を突きぬけた宇宙が、天なのではありません。天とは、どこかにある物理的な空間 のことではなく、こうした被造世界とは全く別の、神がおられる場所を意味します。主は 宇宙に行かれたのではなくて、父なる神の許へと赴かれた、それが昇天でした。そのこと を表すのが、雲です。主は「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と記されます (同9節)。この雲は、そのとき空に浮かんでいた自然現象の雲のことではありません。 かつて幕屋や神殿が建てられたとき、そこを雲が覆ったと記されています。この雲は、そ こで現された神の栄光と臨在の象徴、シェキナーでした。「雲は臨在の幕屋を覆い、主の 栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にと どまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(出エジプト40章34、35節)。「祭 司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続 けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王記上8章 10、11節)。主を天空で覆い包んだ雲は、この神の栄光を現すものでした。そのときソ ロモンはこうも言いました。「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった」と(同12 節)。神は雲の中に現れると。そしてさらに言いました。「神は果たして地上にお住まい になるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建て たこの神殿など、なおふさわしくありません」と(27節)。天とは、聖なる神がおられ る場所を意味しますが、その神は「天も、天の天も」お納めすることができないほど、聖 い方だと言うのです。ですからここで主が「雲に覆われて」見えなくなったというのは、 雲に邪魔されて見えなくなったということではなく、主が「天に上げられた」ことを意味 するものでした。そしてそれは地上のご生涯の中で一度現されたことでもありました。主 が高い山に登られ、そのお姿が変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白く なった」ときのことでした。そしてモーセとエリヤと共に語り合っていると、「光り輝く 雲」が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子」という声が聞こえます(マタイ17章5 節)。ここで3人を覆い包んだ「光り輝く雲」が、昇天する主を覆い包んだ雲でもあり ました。それは主が天、神の許へ行かれたということ、つまり父なる神の右に座し、そ の栄光の中に迎え入れられたということを意味するものなのでした。


 しかしこの主の昇天は、わたしたちに戸惑いを与えます。主は昇天される直前、マタイ 福音書によれば「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してく ださいました(28章20節)。そしてそのように主がわたしたちと共にいてくださること こそ、弱いわたしたちがこの世にあって信仰の道を全うしていける支えです。ところがそ の主は天に昇り、父の許へと戻って行かれ、今はわたしたちの目の前にはおられません。 それではこの約束は、一体どうなってしまったのでしょうか。それは弟子たちも同じでした。このときの弟子たちの気持ちを考えてください。彼らは、主が自分たちの許を離れて 天に昇っていかれる様をいつまでも見つめ続けていました。「イエスが離れ去って行かれ るとき、彼らは天を見つめていた」(使徒1章10節)とか、「天を見上げて立ってい る」(同11節)という表現の中に、そのときの彼らの思いを知ることができます。これ までは主がいつも彼らと一緒でした。そして彼らがどれほど落胆し、失敗したとしても、 主が共におられることで、そこからまた立ち上がっていくことができました。しかし今 や、その主がいないのです。主は彼らの許を「離れ去って行かれ」たからです。それは彼 らにとって、どれほど淋しく心細く思う出来事だったことでしょうか。これからは、自分 たちだけでやっていかなければならないのです。大丈夫なのだろうか、彼らはこれからの ことを考えると、不安と心配で心が一杯になったのではないでしょうか。主との別離の悲 しみ、これまでの思い出と惜別の情、そしてこれから先の不安と恐れといった思いを抱き ながら、弟子たちは天へと昇っていかれた主の姿をいつまでも眺めつつ、これから先、自 分たちはどうしたら良いのかと、立ちすくむ思いの中でそこに立ち続けていたのではな いでしょうか。主はもう自分たちとは共におられないのです。しかしそこで呆然として立 ち尽くしている弟子たちに、御使いが語りました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げ て立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあ なたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と(同11節)。主は再びおいでく ださる。この約束が、呆然と立ち尽くす弟子たちを励まし、そこから立ち上がらせてい くことになります。主がおいでくださる、そのときまで、自分たちの使命を果たしていこ うと立ち上がらせていったのでした。それは主の復活の証人となることでした。しかし そのためには、聖霊が必要でした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力 を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果 てに至るまで、わたしの証人となる」(同8節)。


2.聖霊を遣わされるために天に戻られた主

 これまでニカイア信条の、「十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、三日目によみ がえり」という箇条を考えてきました。そこではこれまでとは違う視点から、これらの信 仰の内容を考えました。それはいずれもこれらの出来事が、「主がわたしたちと共にいて くださる」ことの具体化であるということでした。十字架上の苦しみも、葬られ、陰府 にまで降って行ったという死の世界の苦しみも、復活も、それらのすべては、主が今を生 きるわたしたちと同じ苦しみを共に担い、苦しむわたし自身を背負ってくださったことな のだという視点で受けとめてきました。しかし昇天は、さすがにそのように言うことはで きないのではないかと考えさせられてしまいます。主は弟子たち、そしてわたしたちの許から離れて、天へと行ってしまわれたことだからです。しかしそれでは、「わたしは世の 終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束は、どのように実現されるのでしょうか。


 しかしかつて主は弟子たちにこう約束されていました。「わたしが去って行くのは、あ なたがたのためになる」と言われた主は、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあな たがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに 送る」と約束してくださっていました(ヨハネ16章7節)。そして主は「わたしは父にお 願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくだ さる。この方は真理の霊である。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたが たの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたが たのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがた はわたしを見る」とも約束してくださいました(同14章16~19節)。その時には、主は わたしたちをご自身のおられる天へと引き上げ、迎え入れてくださるのです。「わたしの 父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに 行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あ なたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいること になる」(同2、3節)と。このように主が天に昇り、父の許におられるのは、わたし たちのためであり、よりいっそう身近にわたしたちと共にいてくださるためでした。もし 主が依然として地上におられたら、世界中に散っている信仰者たちは、どうやって主にお 会いし、主と交わり、主からの知恵と力をいただくことができるでしょうか。主も大変 お忙しい毎日を過ごさなければならず、それでもわたしたちに与えられる時間は、ごく限 られたものとなってしまうでしょう。このように物理的にこの地上におられることが、わ たしたちと共にいてくださることなのではなく、それよりもさらに効果的に共にいてくだ さるために、天に昇られたのでした。それは聖霊によって、わたしたち一人一人と共にい てくださるということでした。ですからここで主が、弟子たちの許に「戻って来る」と言 われたのは、第一義的には主が再びおいでくださる再臨のことを意味しますが、しかしそ れだけではなく、主イエスが聖霊によって彼らの許に戻り、彼らの内に共にいてくださる ということでもありました。「かの日」とは再臨の日、世の最後の日のことであるだけ ではなくて、聖霊降臨の日のことでもあるということができます。


 聖霊とは、「わたしが父の許からあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(同15章 26節)として、どこまでも神の子、主イエスとは別の人格であると共に、しかも主イエスご自身を生かし、主イエスと不可分の霊として、わたしたちの内に宿り、わたしたちの 内に主イエスをもたらしてくださる方でもあります。そこで聖書は、聖霊を「イエスの 霊」という言い方で、まるで主イエスご自身であるかのように見なします。聖霊は、わた したちを主イエスと深く結びつけ、結び合わせてくださる方です。聖霊が生きて働く時、 そこでわたしたちは聖霊の働きを覚えるだけではなくて、むしろ主イエスご自身の働きを 覚えさせられます。ここで主が、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが 話したことをことごとく思い起こさせてくださる。その方がわたしについて証しをなさる はずである。真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方 はわたしに栄光を与える」と言われているとおりです(同14章26節、15章26節、16章 13、14節)。聖霊がわたしたちの内に宿るとは、聖霊がわたしたちの内にいるというこ とだけではなくて、聖霊によって主イエスご自身がわたしたちの内に宿ってくださるとい うことでもあります。そしてそれが、パウロが「生きているのは、もはやわたしではあり ません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語ったことで(ガラテヤ2 章20節)、それは聖霊がわたしたちの内に豊かに宿り、働いてくださることによって、主 イエスご自身が共にいてくださり、主によって内側から支えられ、強められて生かされて いくということです。そして主イエスへの深い熱い思いを与えられて、「栄光から栄光へ と、主と同じ姿に造りかえられて」いき、わたしたちが内側から新しく造り変えられてい くことを言っています。それは「主の霊の働き」です(2コリント3章18節)。このよう にして主が身近に、そば近くわたしたちと共にいてくださり、いっそう豊かに深く働いて くださるために主は天に戻られ、聖霊を遣わしてくださったのでした。こうして昇天にお いても、主はこの地上に生きるわたしたちと共に歩んでくださることを明らかにしてくだ さるのでした。


3.共にいてくださる主を目指し、主と共に歩む

 申命記31章には、イスラエルの民をエジプトから連れ上ってきたモーセが、約束の地 を目前にして、自分の最後の使命を果たそうとする場面が記されています。それは自分に 代わってイスラエルを導く新しい指導者を任命することでした。そこでモーセが新しい指 導者ヨシュアと民に語ったことは、「恐れるな」ということでした。「強く、また雄々し くあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あ なたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(6節)。なぜ 「恐れるな」と語ったというと、ヨシュアもイスラエルの民も恐れていたからでした。こ れまでイスラエルを導いてくれた偉大な指導者モーセがいなくなることで、先行きを心配 し、おののいていたのでした。モーセと比べると新しい指導者ヨシュアは見るから頼りなさそうにしか見えませんでした。とてもモーセの後継者にふさわしいようには見えない、 そこで民もヨシュアも恐れたのです。そこでモーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエル の前で彼に言いました。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与える と誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。 主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放 すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」と(7 節)。モーセがいなくなった後、残されるヨシュアとイスラエルが、それでもなお恐れる ことがないのは、「主が共にいてくださる」ということでした。そこで恐れることのない 秘訣は、「わたしはいつもあなたと共にいる」ということでした(23節)。ですからヨ シュアに対して、このように約束されていきます。「一生の間、あなたの行く手に立ちは だかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あな たを見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア記1章5節)。「モーセと共にいた ように、あなたと共にいる」、これがヨシュアが恐れることがない秘訣でした。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならな い。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(同9節)。「わたしはいつも あなたと共にいる」。この約束こそ、無力で弱いわたしたちが、それでもなお「強く、雄々 しく」あることができる秘訣なのです。昇天する前に主は、「行ってあなたがたのために 場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と約束してくださ いました(ヨハネ14章3節)。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻って来る」(同18節)、「わたしは去って行くが、また、あな たがたのところへ戻って来る」とも(同28節)。そしてこの言葉を実現するために、主は天へと昇られ、聖霊を遣わしてくださいました。主は天におられます。しかしそれに よって主は、もっと身近に、わたしたちと共にいてくださる神となってくださいました。 今週も、新しい出発が始まります。不安もあれば、恐れもあるでしょう。しかし主は約束 してくださいました。「わたしはいつもあなたと共にいる」と。主が共にいてくださる、だ からわたしたちは恐れないで、新しい一週間を迎えることができるのです。


 さて、昇天を目の当たりにした弟子たちは、御使いから「あなたがたがから離れて天に 上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでに なる」と告げられました(使徒1章11節)。それはやがて来たる終末における再臨を意 味します。そしてそのとき「わたしを、すべての選ばれた者たちと共に、その御許へ、す なわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです」(『ハイデルベルク教理問 答』問52)。「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」という主の言葉が成就するのです。ですから主が昇天されたことで、もう一つ大切なことは、わた したちは自分たちの身体をすでに天に持っているということです。「主イエス・キリスト は、私どもと同じ肉をお持ちになりました。それを脱ぎ捨てないでそのまま持って、天に 行かれた。神さまの所へ行ってくださったのです。それは、私どもの身体もあの神の、天 の所に行くことができるのだという確かな保証になっている。・・・主イエス・キリスト を私どものかしらとして、既に天に持っている。私どもの間で肉をとって、私どもの仲間 になってくださったキリストが、天にいてくださるということです」1。このことについ て『ハイデルベルク教理問答』は、次のように告白します。「わたしたちがその肉体を天 において持っている、ということ。それは頭であるキリストが、この方の一部であるわた したちを、御自身のもとにまで引き上げてくださる、一つの確かな保証である、というこ とです」と(問49)。昇天に際して、主は霊となって、あるいは受肉前の状態に戻って、 天に帰られたのではなく、わたしたちと同じ肉体をもってそうされました。肉体を携え て、わたしたちと同じ人間としても天に昇られたのです。だからそれは主が、「弟子たち の目の前で地上から天に上げられ、生きている者と死んだ者とを裁くために、再び来られ る時まで、わたしたちのためにそこにいてくださる」ということをも意味します(問 46、使徒3章21節)。


 しかしそれは、主が派遣される霊の「御力によってわたしたちは、地上のことではな く、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求める」ようになるためでした(問 49)。地上の歩みの中で信仰の闘いをしているわたしたちは、どうしてもこの世に執着し、この地上の生に固着して捕らわれてしまいがちです。もし今なお主がこの地上におら れたら、わたしたちの目は決して天には向かわず、主のいましたもうこの世に向けられる でしょう。しかし主が天に行ってしまわれたゆえに、わたしたちの目は主のおられる天へ と向けられていくのです。「富のあるところに、あなたの心もある」と主が言われたとお り(マタイ6章21節)、わたしたちの主が天におられるゆえに、わたしたちの心は天へ と向かわせられていきます。そしてこの地上の生が、ほんの一時のものにすぎず、天を目 指した途上の生であることを、わたしたちが忘れることがないようにするために、主は天 に昇られました。わたしたちが目指すべきところは、この地上ではなく天だからです。そ してわたしたちの心が天へと向かわせられるために、聖霊が与えられました。あなたがた は「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられます。上 にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死 んだのであってあなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロ サイ3章1~3節)。わたしたちの目指すべきものは、キリストにある永遠の命ではないでしょうか。その命を獲得し、わたしたちに与えられるために、主は天へと昇ってくだ さったのです。こうして「主は、わたしたちのために死なれましたが、それはわたしたち が、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。「このよう にして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(1テサロニケ5章10 節、4章17節)。


 「物理的な天空を見上げていた弟子たちは、信仰的な天を見上げるよう、つまり、心 をキリストのいる天の神の国に向けるよう、天使に促された。信仰によってキリストと一 つに結ばれている者たちは、たとえ地にあって生きているとしても、永遠の絆によって、 神の国のキリストと結ばれている。そこで、キリストを信じる者にとっては、神の国が本 国であり(フィリピ3・20)、天の永遠の住みかを持っているのである(二コリント 5・1)。神の国が本国であり、キリストがわたしたちの初穂としてよみがえって天に 昇ったのであれば、わたしたちは、キリストのいる神の国を見上げ、そこを命の目標とし て目指して行く、天の国を目指す旅人である。神の国を目指して地を旅する旅人であると いうことが、キリストを信じる者を特徴づけるライフスタイルである。この事実の中に は、二つの事柄が含まれている。一つは、究極の目標が神の国にあるのであって、地上の いかなるものも、権力も地位も富も、快適さも成功も繁栄も幸福も、最終的な目標とは ならないということである。・・・もう一つは、わたしたちはこの世を旅しているという 事実である。それはつまらない無意味な旅ではない。旅そのものに大きな意味と現実性 がある。キリスト教徒はこの旅をどのような仕方で続け、なにを喜び、なにをおこない、 なにを創り出すのかが重要な課題である」2。




1 加藤常昭、『使徒信条』、加藤常昭説教全集1巻、1989年、ヨルダン社、388~389頁

2 石田学、『日本における宣教的共同体の形成』、2004年、新教出版社、139~140頁