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第19講 わたしたちに対する主イエスのアーメンの言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第19講:わたしたちに対する主イエスのアーメンの言葉 (ガラテヤ3章13節、2012年7月15日)


【今週のキーワード:神の呪いとしての十字架】

 古代世界、身の毛もよだつほど恐ろしがられた処刑法が十字架でした。しかし主イエス を殺そうとしたユダヤ人が、主を十字架につけることに固執したのは理由がありました。 律法では木にかけられた者は神に呪われた者とされていました。彼らは主をただ殺すだけ ではあきたらず、神に呪われた者として殺すことを意図しました。神の呪いの木、それが 十字架でした。地面から離されて宙吊りにされる姿にそれが示されています。それは主 が、人からも神からも呪われたことを意味しました。主は、人々から拒絶され神からも 拒絶されました。主の上に注がれた神の怒りと呪いが、どれほど激しく厳しいもので あったかは、十字架の上での叫びに明らかです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨 てになったのですか」と叫ぶほど、主の上に降された神の呪いと裁きは厳しく過酷なも のでした。なぜならここで父なる神は、主イエスを徹底的に裁き尽くし、呪い尽くし、捨 て去ったからです。こうして「キリストは、わたしたちのために呪いとなって」ください ました。そのことによって、わたしたちに対する罪の呪いは取り去られ、裁きは終わりま した。それらを主が身代わりとなって引き受けてくださったからでした。そしてもうその 呪いを誰も受けることがないようにしてくださいました。わたしたちのための十字架、それは主イエスが命をかけて示してくださった、わたしたちに対する「主イエスのアーメ ン」なのです。


1.「十字架につけられ」の告白

 主イエスについての信仰告白は、受肉から受難へと進みます。この受難についてニカイ ア・コンスタンティノポリス信条は、「ポンテオ・ピラトの時に、わたしたちのために十 字架につけられ、苦しみを受け、葬られ」と告白します。それよりも時代の遅い使徒信条 は、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と告 白します。そして使徒信条の基になったローマ信条では、「ポンテオ・ピラトの下で十字 架につけられて、葬られ」となっており1、エルサレム信条やアンテオケ信条でも「十字 架につけられ、葬られ」となっていますが2、カイサリア信条やアレクサンドリア信条で は「苦しみを受け」だけで3、「十字架につけられ」がありません。なにより原ニカイア 信条も「苦しみを受け」だけです。これらの洗礼信条や原ニカイア信条には祖型と言える ものがあると考えられており、それも「苦しみを受け」だけで「十字架につけられ」はありません4。その意味で言えば、主が「十字架につけられ」たことは、「苦しみを受け」 られたことに含まれていたと考えることができます。 そしてその背後に仮現論に対する対抗があったのではないかと考えられます。十字架につけられて死んだのは、キリストや霊がとりついたただの人間であるナザレのイエスにすぎず、イエスが死ぬ前にキリスト・霊は天へと帰って行ったとか、それはただの幻影で、 イエスの十字架を代わりに背負ったシモンと途中で入れ替わったといった誤った教えに対して、「まことの神」でもあられた主イエスが、確かにその肉体をもって十字架にかか り、死なれたことを明確に言い表すためのものでした。教父たちはこうしたグノーシス主 義に対抗して、主イエスの人間性を繰り返し強調していきました。アンディオケイアのイ グナティオスは、次のように語りました。「イエスはダビデの裔、マリアから真実に生ま れ、食べ飲み、ポンティウス・ピラトゥスのもとに真実に迫害され、真実に十字架につけ られて死んだのです。それは天と地と地下の諸霊の眼前で起ったことなのです。彼はまた 真実に死者の中から甦ったのです5」。「そして彼は真実に受難したのです。ちょうど真 実に甦ったのと同じように。ある不信者共が、彼の受難はみせかけだというのとは違い ます6」と。


2.呪いの木の十字架

 さて使徒信条では「十字架につけられ」と告白するところを、ニカイア信条は「わたし たちのために十字架につけられ」と告白します。ナザレのイエスがローマ総督ポンテオ・ ピラトの時に、エルサレムで十字架につけられて処刑されたことは歴史的な事実ですか ら、それは信じるということとは別の事柄です。ですからナザレのイエスが十字架で死ん だということを信じるといっても、それは信仰にはなりません。そのイエスの十字架はわ たしたちのためのものであり、他でもないこの自分のためのものであったと信じると き、初めてキリスト教信仰と言うことができるのです。主イエスの十字架はわたしたちの ためのものであり、わたしたちの罪のための十字架であったと信じることで、初めて主イ エスを信じたと言うことができます。わたしのために主が十字架にかかってくださった、 それが主イエスを信じるということです。なぜ主イエスは、わたしたちのために十字架に かかってくださったか、それはわたしたちの罪を担い、身代わりとして背負うためでし た。主がわたしの代わりに、わたしの罪を背負って死んでくださった、それによってわた しの罪に対する裁きは終わり、呪いは取り除かれたのでした。


 十字架、それは最も長く苦しませながら、いたぶるようにして死に至らせていく処刑法 で、当時最も恐れられた死刑でした。ですからローマの市民権を持つ者には適応されず、 奴隷などに適応されるもので、それもローマに敵対した政治犯や反逆者に執行されたもの でした。ここでも主イエスはローマ帝国に反逆を企てた「ユダヤ人の王」として、国家反 逆者として処刑されます。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたが、サンヘド リン(最高法院)を中心にしてそれなりの自治を認められていました。しかしそれでも人 を死刑にする権限は認められていませんでした。主イエスを引き出してきたユダヤ人たち に向かって、ピラトは「自分たちの律法に従って裁け」と問いますと、それに彼らは「わ たしたちには、人を死刑にする権限がありません」と応答します(ヨハネ18章31節)。 そして主イエスには罪を見出せないと主張するピラトに対して、「わたしたちには律法が あります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と答 え、主イエスを処刑するように詰め寄っていきます(同19章7節)。ここで彼らは主イ エスを神を冒瀆した罪で訴え出ます。彼らに死刑の権限がなかったのは事実ですが、律法 に従えば神を冒瀆した罪には石打ちの刑が適応されますので、別にピラトの許可をもらわ なくても、律法に従って主イエスを石打ちにしてしまえば良かったはずでした。事実その 後ステファノは、民衆の暴動の中で石打ちによって殺されます。いわばリンチ殺人という ことです。主イエスにもそうすることができたはずなのに、彼らはそうしませんでした。 そしてあくまでも十字架による処刑を要求し続けました。そこに彼らの意図があったから でした。


 ローマ人のピラトからすれば、十字架は身の毛もよだつほど恐ろしい処刑ではありまし たが、それ以上の意味はありません。しかし主イエスを訴え出たユダヤ人にとっては、特 別な意味がありました。律法では、木にかけられた死体は神に呪われたものだからでし た。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木 にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21章22、23節)。神冒 瀆で訴えられたステファノと同じように、主を石打ちで処刑しなかったのは、主イエスを ただ単に殺すだけではあきたらず、神に呪われた者として死に至らせることが目的だった からでした。そうすることで主イエスをとことん呪い殺そうとしたのです。主は呪いの木 である十字架につけられる前、神に呪われる前に、人々からも呪われました。こうして主 が十字架につけられたとは、人々から呪われ、また神からも呪われて殺されたことを意味 しました。そこで主は、人からも神からも呪われたのであり、それは地面から引き離さ れて宙吊りにされる姿に示されます。主は、人々から拒絶され、神からも拒絶された、それが十字架でした。パウロはそのことを深く瞑想して、先の申命記の律法を引用して次の ように語ります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の 呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われる』と書いてあるか らです」(ガラテヤ3章13節)。神に呪われる者となった、それが主が十字架にかけら れたということでした。それは主が、十字架の上で神からの徹底的な呪いと裁きを受けられたということでした。そしてそれはわたしたちのためでした。本来なら、わたしたち が受けるべき自分の罪に対する神の呪いと裁きを、主イエスが身代わりとなって引き受け てくださり、そのすべてを代わりに身に受けてくださることで、わたしたちに対する神の 呪いと裁きのすべてを取り除いてくださった、それがゴルゴダの上の十字架でした。そし てそれが、ニカイア信条が「わたしたちのために十字架につけられ」とあえて強調するこ となのでした。


3.わたしたちの代わりに呪いとなられた主イエス

 福音書は、その様子をただ淡々と語っていきます。「さて、昼の十二時に、全地は暗く なり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レ マ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのです か』という意味である」(マタイ27章45、46節)。主イエスの上に注がれた神の怒りと 呪いが、どれほど激しく厳しいものであったかということは、この主の十字架の上での 断末魔の叫びによっても明らかです。主が思わず「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨 てになったのですか」と叫ぶほど、主の上に降された神の呪いと裁きは厳しく過酷なもの でした。ここで父なる神は、子なるイエスを徹底的に裁き尽くし、呪い尽くし、そして捨 て去りました。主は、ご自分が父から捨てられたと呻きました。だからもはや父と呼ぶ ことができず、「わが神」と呼ぶしかありませんでした。このように父が愛する我が子を 捨てた、それが十字架という出来事でした。この様を、ファン・リューラーは、次のよう に語ります。「イエス・キリストは、全人類の罪に対する神のこの怒りを担います。そう です。イエス・キリストは、罪の上に下され、燃え上がる神の怒りをも引き受けます。キ リストは人間と世界の住まいにとっての偉大な避雷針なのです。・・・彼が神に捨てられ ることで、神の裁きはいわば徹底的に荒れ尽くすのです。イエスはそこで滅びます」と 7。


 義なる神がわたしたちの罪をどれほど嫌い、怒り、それを呪われるかということにつ いて、わたしたちはあまり理解していません。罪に対する神の怒りと呪いは、この主の十 字架においてはっきりと示されていきます。「十字架は神の怒りの啓示であります。この怒りがいかに恐ろしいものであるかを認識するためには、神ご自身がその怒りをわたし たちにではなく、ご自身に向けたもうたという驚くべき事実によって、真に明らかになる のです。神がいかに激しくわたしたちの罪を憎み、同時にそれを解決しようとされたかを わたしたちは忘れることができません。このことは、主イエスが死に直面した場面にあら われています(マコ14:32以下)。ルターは『この男以上に死を恐れたものはいない』 と言いました。十字架上の主イエスの死は、神と罪人の間に生じた裂け目を示すのではな く、一にして永遠なる神ご自身の存在、つまり決してこわされることのない統一の内側に 広がるおそろしい裂け目を意味するのです。主イエスの『わが神、わが神、どうしてわた しをお見捨てになるのですか』(マコ15:34)という叫びは、この点をよく表していま す」8。


 父なる神が子なるイエスを、十字架において、わたしたちの罪のゆえに徹底的に打ち砕 いていかれた、そのことによってわたしたちの罪の償いは果たされ、贖いが成し遂げられ たのでした。この主イエスの十字架を予告して、イザヤ書では次のように預言されていま した。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたの は、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が 与えられ、彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道 を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わ せられた。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの 人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53章5、6、11節)。 主イエスの十字架、それは主がわたしたちの罪を背負い、神による罪の裁きを一身に引き 受けて、代わりに裁かれてくださった出来事でした。そのために主は、わたしたちの代わ りに、わたしたちが受けるべき罪の呪いをも背負ってくださいました。そして主が呪いの 木である十字架にかかってくださることで、あの善悪の知識の木の呪いを取り除いてくだ さったのです。神の呪いを受ける場、それが十字架でした。このようにして主イエスが 「わたしたちのために十字架につけられ」たのは、罪の贖いという究極的な救いのため であり、そのために主はわたしたちの罪の呪いのすべてをご自身に引き受けてくださった のでした。


4.主イエスによるアーメン  

 ニカイア信条のこの箇所を解説する中で、加藤常昭先生は次のように語っておられま す。「つまり『まことの神』であられる方が神に捨てられ、呪われたのです。罪人として の苦しみにさらされたのです。・・・イエスが十字架の上で神に対して『わが神』と叫びながら、しかし自分はあなたから見捨てられている、それはなぜですか、と呻くような叫 びを挙げておられる。・・・神に捨てられたことは呪われたことだと・・・。もっとも 恐るべき罪を犯していると思われる人のためにこそ、主イエスはここで、その人がそのま まであるならば置かれていなければならなかった呪われた者、神に捨てられる者のところ に立って苦しみを受けられたということです。『まことの神』が父なる神に捨てられると ころに立たれた。そしてもうその呪いをいかなる人も受けないで済むように道を開いてく ださった。・・・別の面から語ると『我らのため』の苦しみということだと思いま す。・・・『我らのため』を添えることによって、この出来事が、『わたしたちのための 呪い』(ガラテヤ3:13)であることを明らかにした。まことの神が、私どものための 存在であり、私どものために、十字架につけられた。・・・だからニケア信条も、『我 らのため』十字架につけられたと言うのであって、この・・・我らのために十字架につけ られた、それは我ら罪人のため、ということに他ならなかったと思います」9。宗教改革 者ルターは、ガラテヤ書注解の中で、この3章13節について、次のように述べます。「私 どもが犯した罪、これからも犯すかもしれない罪が、皆キリストのものになっている。ま るでキリストがこれらの罪を犯されたかのように。私どもの罪は、すべてキリストご自身 の罪にならないわけにはいかなかった。そうでなければ、私どもは滅びてしまっていたで あろう。永遠に」10と。


 ある人の説教集に、ヘルンフート派教会の礼拝の様子が記されています。礼拝の終わり ごろに、会衆は立って互いに手を取り合い、大きな輪を作るかのように集まるそうです。 その中央に十字架を立てて、主がそこにおられるかのように十字架を見上げながら賛美し ます。その賛美は、この教会の創立者であるツィンツェンドルフの歌です。「われら今、 十字架の柱を囲み、主のみ苦しみに心を合わせる。主よ、あなたにのみ真実でありたい と、わたしたちは願う。そして、これはまた、あなたが、われらに耳を傾けていてくださ ること、あなたの恵みと愛とが、われらに確かに与えられているのだということのしるし に他ならない。主よ、あなたがおっしゃってください。アーメン、そうだ!と、あなたの 方から、おっしゃってください。そして、今すぐにおっしゃってください。平安があなた がたにあるようにと!」11。確かにわたしたちは、多くの人たちから愛され、受け入れら れています。しかし考えてみますと、その多くは条件付きです。親からも友人からも言わ れることは、この点が良くなったらもっとあなたを受け入れられるとか、こういう点が 変わったら、もっと愛せるということです。わたしたちは、自分のすべてがありのままで アーメン、然り、その通りだと受け入れられているわけではありません。けれども主イエ スは、そのように欠点だらけの情けないわたしを、そのまま受け入れてくださり、ありのまま包み込んでくださるのです。そして罪を抱えたまま、自分の弱さの中に立ち尽くすば かりのわたしに対して、力強くアーメンと言ってくださるのです。然り、あなたをあなた として、そのまま、ありのまま、わたしは受け入れる。あなたの罪、あなたの弱さ、あなたの欠点、それらのすべてを引き受けて、あなたのために十字架で死んだのだからと。た とえ世界中のすべての人から嫌われ、疎んじられ、軽んじられ、呪われるとしても、わた したちは立つことができます。なぜならそうした呪いのすべてを主が引き受けてくださっ たからです。人々からの呪いも、罪に対する神の呪いも、一切合財すべてを、この方が代 わりに引き受けてくださった。そしてあなたに向かってアーメンと言ってくださるので す。罪ある自分です。弱さを抱えた情けない自分です。しかしそのあなたに向かって、わ たしにとってあなたはアーメンだ。わたしがあなたをアーメンとすると。そのしるしこ そ、主イエスの十字架なのでした。わたしたちのための十字架、それは主イエスが命をか けて示してくださった、あなたに対する主イエスのアーメンです。わたしたちは、この主 イエスのアーメンに、アーメンと答えていくだけでよいのです。




1 ユングマン、『古代キリスト教典礼史』、1997年、平凡社、104頁;渡辺信夫、『古代 教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、20頁にも翻訳がある。そこでは「彼はポンテオ・ピラトのもとに十字架に付けられ、かつ葬られ」と訳されている。

2 渡辺、前掲書、108~109頁

3 同上、107、109頁

4 同上、111頁

5 アンディオケイアのイグナティオス、「トラレスの教会への手紙」9:1~2、小高編 『原典 古代キリスト教思想史』1 初期キリスト教思想家、1999年、教文館、37頁

6 同上、「スミュルナの教会への手紙」1:1~2、前掲書、37頁

7 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、2000年、教文館、158~159頁

8 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、120~121頁

9 加藤常昭、『ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』加藤常昭説教全集29 巻、2006年、教文館、246~248頁

10 加藤常昭、『使徒信条』加藤常昭説教全集1巻、1989年、ヨルダン社、307頁からの 孫引き;同じ内容が、『使徒信条・十戒・主の祈り』(上)加藤常昭信仰講話6巻、 2000年、教文館、230頁にも収録されている。それは、以下と同文と思われる。「私にせよあなたにせよ、われわれすべてにせよ、どんな罪を犯したとしても、また、犯す としても、それはあたかもキリストご自身が犯したかのようにキリストのものとなるの である。要するに、われわれの罪がキリストご自身の罪となるか、それともわれわれ は永遠に滅びるかのいずれかなのである」。『ガラテヤ大講解・上』、ルター著作集 第二集11巻、1985年、聖文舎、410頁; 同じ文章は次にもある。「わたしにせよあな たにせよ、われわれすべてにせよ、どんな罪を犯したとしても、また犯すとしても、そ れはあたかもキリストご自身が犯したもうたかのようにキリストのものとなるのであ る。要するに、われわれの罪がキリストご自身の罪となるか、それともわれわれは永 遠に滅びるかのいずれかなのである」。『ルター』、世界の名著23巻、1979年、中央 公論社、502頁

11 加藤常昭、『使徒信条』、308~309頁;同じ内容が、『使徒信条・十戒・主の祈り』 (上)232頁にも収録されている。