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第18講 聖霊による新しい誕生への喜びの言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第18講:聖霊による新しい誕生への喜びの言葉 (ルカ1章26~38節、2012年6月3日)


【今週のキーワード:聖霊による新しい誕生】

 主イエスは聖霊によってマリアの胎に宿られた、だから生まれた時から罪なくして生ま れられたのであり、それは聖霊の聖さにあずかっておられたからだということが、「聖 霊と処女マリアから肉体を受けて人となり」と告白することです。それはわたしたちの罪 を償うためでした。罪を犯したのは人間ですから、人間が自分の罪を負わなければなり ません。しかしその人間は一人一人自分の罪を背負っているので、他人の罪を担って償う ことができません。罪のない人間だけが、他人の罪を背負って、代わりに償いを果たすこ とができます。そこで神の子が人間となり、しかも罪のない人間としてお生まれくださる 必要がありました。そこで主イエスは、わたしたちの身代わりとなって罪の裁きを受ける ために、マリアからわたしたちと全く同じ肉体を受けて人間となり、しかも聖霊の力に よって罪なき聖なる者としてお生まれくださったのでした。主イエスが聖霊によって、新 しい命となってマリアから誕生されたことは、わたしたちにも起こることです。マリアの 内に起こされた聖霊による新しい命の誕生は、この後、第二、第三の誕生として起こされ ていく新しい命の誕生の初穂でした。わたしたちも、聖霊によって新しく生まれる者と されました。そして聖霊によって新しく誕生した者として、わたしたちの内には、この聖 なる霊の働きが続けられ、わたしたちは聖なる者、神の子としての歩みを続けるようにさ れたのでした。


1.わたしたち一人一人に注がれた聖霊

 先週はペンテコステ礼拝をささげ、聖霊降臨の出来事を覚えました。そこで最初に覚え たのは、詩編51編12~14節でした。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確か な霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでく ださい。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」とい うものです。わたしたちは毎日、朝ごとにこの祈りを必要とします。新しい朝に目覚め て、新しい一日が始まっても、わたしたちの心は依然として古いままだからです。昨日ま での古い自分をひきずったまま、人に対する様々な思いに縛られて目覚めます。昨日抱え ていた、重い問題や苦しい思いをひきずったまま、昨日と同じ気持ちで目覚めます。そし てそうした古い自分を自分自身ではどうすることもできません。だからわたしたちは毎朝 目覚めるたびごとに、この祈りをもって新しい一日を始めていきたいのです。エゼキエルは次のように約束しました。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前 たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わた しはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの 体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(36章25、26節)。ここに「石の心」と 「肉の心」が出てきます。「肉」というと、パウロが使うように霊と対比された肉的なも の、つまり地上のものに捕らわれ、情欲にからめとられた悪しきものというイメージが ありますが、ここはそういう意味ではありません。「石」と対比された「肉」というこ とで、石が硬くなさを象徴するように、肉は柔らかさ、柔軟さ、しなやかさを象徴しま す。頑なに神を拒み、自己中心に生きる古い自分が「石の心」と呼ばれるのに対して、神 に心から素直に従順に仕えていこうとする新しい自分を「肉の心」と呼び、そのような心 が与えられると約束されます。「また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に 従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と(27節)。そしてそのように神に従順に 心から素直に従って生きる、新しい心に変えられるのは、神がわたしたちに新しい霊を授 けてくださることによってだと語られています。聖霊、つまりわたしたちに新しい心を与 え、心の底から新しくする霊が注がれたのが、ペンテコステの出来事でした。


 ペンテコステ以来、わたしたちには一人一人にこの霊が注がれています。だからそれを 踏まえて勧められます。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向 かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい 人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エ フェソ4章22~24節)。「心の底から新たにされる」、これはわたしたちの努力ででき ることではありません。だからここで「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着け」と命じ られますが、それはそうなるように努力して頑張りなさいと言われていることではありま せん。わたしたちはどんなに努力したところで、自分の力で自分を新しくすることはでき ません。なぜならそこで新しい自分になろうと頑張る自分も、依然として古い自分自身で しかないからです。新しい自分、新しい心、新しい人に変えられるのは、自分自身の力や 努力に基づくものではなく聖霊の働きです。神がそうしてくださるのです。だから同じこ とがコロサイ書では、次のように語られます。「互いにうそをついてはなりません。古い 人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ て、真の知識に達するのです」(3章9、10節)。ここでは、そうなるように頑張りな さいと命じられているのではなく、これからそうなっていくと約束されています。わたし たちは古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分になっていくことができるのです。そこでは 日々新たにされていくのですが、それは聖霊の働きによってです。しかしだからといって、何もしないでぼうっとしていたら、知らないうちにそうなるということではありませ ん。そうなるように求めることが求められています。新しい心を与えられて自分が新しく されることを求めることが求められている、つまり祈ることです。だからわたしたちはこ う祈る必要があります。「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かってい る古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に 着け、真理に基づいた正しく清い生活を送る」ことができるように、今日もわたしを新し くしてくださいと。こうして日々祈る中で、わたしたちは確かに古い自分から新しい自分 へと造り変えられていきます。ペンテコステの日に注がれた聖霊が、わたしたちの内に生 きて働き、わたしたちを新しく造り変えていってくださるからです。このことを、主イエ スご自身に起きた出来事を通して、深く考えていきましょう。


2.神の子が人間として生まれたということの信仰的言語

 ペンテコステに注がれた聖霊は、実は天へと昇られた主イエスご自身から与えられたも のでした。かつて主は弟子たちに次のように約束されました。「実を言うと、わたしが 去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあな たがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに 送る」と(ヨハネ16章7節)。この弁護者とは、「父がわたしの名によってお遣わしに なる聖霊」であり(同14章26節)、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとし ている弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊」のことです(同15章26節)。ここ で主イエスと聖霊との間には二重の関係があります。つまり主イエスは、聖霊を豊かに注 がれ、聖霊に満たされた方として、聖霊を所有された「霊の担い手」です。しかしもう一 方で主イエスは、ご自身を満たした聖霊を派遣される「霊の派遣者」でもあります。この ような両者の密接な関係は、三位一体の神の内的関係において永遠に持っておられるもの であることは言うまでもありませんが、わたしたちへと向けられた関係においても、その 生涯の最初からあったもので、それが聖霊による受胎ということで、言い表されたことで した。そもそもキリスト(メシア)とは油注がれた人、つまり聖霊を注がれ、それに満 ち溢れた人のことでした。主イエスは聖霊に満ち溢れ、その聖霊の特別な働きの中で導か れた方でしたが、そのことは地上における誕生、いやそれ以前のマリアにおける受胎か ら始められたものでした。それが、ニカイア信条が、「聖霊と処女マリアから肉体を受 けて人となり」と告白し、また使徒信条が「聖霊によりて宿り、処女マリアより生ま れ」と告白することなのです。 


 ここで両者を比較すると、ニカイア信条の方が何かごつごつした感じで、使徒信条の方 が洗練された表現となっているという印象を受けます。使徒信条の原型である「(古) ローマ信条」も、ここは「聖霊と処女マリアより生まれ」となっていました。ちなみに、 ここでニカイア信条が「~より肉をとり」としているところを、使徒信条・ローマ信条は 「~より生まれ」と告白しますが、実はそれが東方と西方の信条の違いでもあります1。 ここでの中心主題は「受肉」ですが、それは「西方教会が、信条が示しているように、キ リストの受難と復活の証言に集中しているのに対して、東方の信仰や神学には紛れもな く、神の受肉というテーマが中心にある」からです2。しかしその違いはともかく、この 「聖霊とマリアから」という表現が「聖霊よりマリアから」という表現に変わったの は、「一方でイエスが聖霊を父として生まれたかのような印象を与えることを避け、他方 でしかし母についてはたしかにマリアより生まれたということを明確にし、もって聖霊の 役割とマリアの役割との根本的な違いを強調する」ためでした3。ロッホマンは、かつて ユーゴスラビアのある反教会的詩人が、この点を茶化して、次のような文章を記したこと を紹介します。「聖霊はマリアの上になり、処女は聖霊に口づけし、彼の強い手首に口づ けし・・・」4。ここで「信条は『父なる神によって宿り』とは述べていないことであ る。イエスは神を父とし、マリアを母として生まれたのではない。神と人間が交わること によって神人が生まれるという神話的解釈は、この条項によって明確に否定されている。 しかし同時に、聖霊もまた父の役割を果たしてはいない」5。つまりここでは、聖霊とマ リアとの間に性的交渉があったわけではない6ということが明確に否定されるということ です。ここで「聖霊がマリアに降るのは、聖霊がマリアの胎内に子として実体化するため ではなく、いと高き方の力がマリアを包むため」でした。つまりこれは「マリアの受胎 が神の霊の力(のみ)によることの表明」であり、「イエスが完全な神性を有するという ことの信仰的表現なのであって、その過程あるいは様態は神の神秘に属している」ことな のです7。処女降誕の教えは、「イエスが受洗の時に神の子とされたのではなく、復活に よって神の子と受け入れられたのでもなく、生まれた時から神の子であったという神学的 確信を表明」したものであり、「神の子がイエスという人となって生まれたという信仰的 確信」です8。つまり「処女降誕は、人が神の子として受け入れられたのではなく、神の 子が真に人となって生まれたということを、神秘性を失うことなく最も明白な仕方で語る ための、唯一可能な言語」なのでした9。


3.真の人間として、しかも罪なくして生まれられた方

 主イエスは、聖霊によってマリアの胎に宿られた、だから生まれた時から罪なくしてお 生まれになられたのであり、生まれた時から聖霊の聖さにあずかっておられたわけですが、それはマリアに約束されたことでした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力が あなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と(ルカ1章35 節)。マリアの胎に宿された子が聖なる霊の働きに包まれることで、聖なる者、神の聖さ にあずかる者となるということです。ここでマリアは、「あなたはみごもって男の子を産 む」と言われますが、それは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」 ことによって実現すると約束されます。マリアから生まれる男の子は、自然な誕生と出生 ではなく、聖霊の力によるものだというのです。同じことがヨセフにも伝えられました。 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって 宿ったのである」と。だからマタイは、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一 緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と伝えます(マタイ 1章18、20節)。主イエスは、新しい命となってマリアの胎に宿られたわけですが、それは男性との結合による自然な出生ではなくて、聖霊によるというのが聖書の主張であ り、また信条が告白することです。それがどのように宿ったのか、それは医学的・生物学 的に可能かどうかといった詮索は、一切しません。聖書が告げることは、永遠の神の子 が人間となって地上へと生まれ出るにあたり、マリアの体を用いたということ、そしてそ れは人間には理解し得ない神秘であるということです。そしてそのことを、「神にできな いことは何一つない」というただの一言で決着をつけてしまいます。


 ここで注意深く告白されることは、「マリアが聖霊の側から受胎したこと、つまり神 の霊がここで全く特別な仕方で働いたということです。・・・聖霊はマリアの母胎を子を 宿すことができるようにしたのです。・・・こうして聖霊はマリアの胎の中からイエスの 人性を形成しました。そのようにして聖霊はイエスの人性を聖としましたが、それは人間 としてイエスがあらゆる点で罪から免れ、罪の負い目や辱めから自由であるためでし た。・・・イエスは罪人として生まれず、この世にあっても罪なしにあり続け・・・た、 ただ独りの人」だということなのです10。どうしてこのような不思議な誕生をされたかと いうと、それは主イエスがわたしたちと全く同じ人間となられるためであり、しかも罪な くして生まれられるためでした。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスも また同様に、これらのものを備えられました」(ヘブライ2章14節)。「それで、イエス は、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべて の点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」とあるとおりです(同17 節)。そこで「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さ れなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」とも語 られます(同4章15節)。このことをパウロは「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同 じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と語りました (ローマ8章3節)。「罪深い肉と同じ姿」とは、主イエスも罪人であるということでは なく、罪人であるわたしたちと同じ肉体をとって人間となられたということです。しかも ご自身には罪がないから「その肉において罪を罪として処断」することができたのであ り、こうしてわたしたちの身代わりとなって罪の裁きを受けることで罪を取り除いてくだ さったのでした。そのために一方ではマリアからわたしたちと全く同じ肉体を受けて人 間となり、しかも聖霊の力によって罪なき者、聖なる者としてお生まれくださったのでし た。


4.聖霊による新しい命の誕生

 この処女降誕という出来事は、マリアだけに特有のことです。男性はもちろんのこと、 他のどんな女性もマリアのような経験をした人はいません。それは確かにそうですが、こ のことはわたしたち一人一人にとっても意味をもつ出来事だということができます。誤解 を恐れずに言うならば、主イエスに起きたこと、というよりもマリアに起きたことは、わ たしたちにも起こされるということであり、これはただ主イエスについて起きた歴史的な 事実を信じるという事柄であるだけではなくて、わたしたちの内にも実現していく恵みの 出来事だということです。どういうことかというと、主イエスが聖霊によって、新しい命 となってマリアから誕生されたことが、わたしたちにも起こるということです。男性と女 性の結合による自然な形の命の誕生、妊娠、出産というのではなくて、聖霊による、神の 力による超自然的な形での新しい命の誕生、妊娠、出産ということが、わたしたちにも 起こるということです。マリアのうちに起きた、聖霊による新しい命の誕生は、この後、 第二、第三の誕生として、次々と起こされていく新しい命の誕生の初穂だということで す。そうしてわたしたちも、聖霊によって新しく生まれる者とされたのでした。そして聖 霊によって新しく誕生した者として、わたしたちの内には、この聖なる霊の働きが続けら れ、わたしたちは聖なる者、神の子としての歩みを続けるようにされているのです。


 先週のペンテコステ礼拝でわたしたちは、新しい自分、新しい心になることは自分の努 力や力に基づくものではなく、聖霊によることを教えられました。わたしたちは自然の力 によってではなく、聖霊の力によって新しく生まれるのです。自然の力とは、つまり自分 の努力や熱心ということです。このことについて主イエスは、ニコデモと会話をされた中 で、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言明されました。 そして主は、霊から生まれることについて話されました(ヨハネ3章3~8節)。新しく生まれるということは、どこまでも聖霊の働きによることです。マリアの胎に新しい命を 宿らせた聖霊は、その新しい命が聖なる者、神の子となるようにも育んでいかれました。 同じようにわたしたちをも、ご自身の働きの中でそのようにしてくださっています。わた したちを新しく生まれ変わらせるのは、聖霊です。そしてそのように命を生み出す聖霊の 働きがわたしたちの内にも働いて、わたしたちを聖なる者、神の子にしようとする働きが 今も続けられています。そしてそこでわたしたちが新しい人として生まれるとは、わたし たち自身の内に主イエスが誕生し、宿ってくださるということによってです。


 そこで最後に考えたいことは、わたしたちが新しい人とされるとは、実はわたしたち 自身の内に主イエスが誕生し、宿ってくださることによってだということです。パウロ は、わたしたちが新しい人として成長していくようにと、次のように勧めています。「あ なたがたは・・・キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの 内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、 滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られ た新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりませ ん。」(エフェソ4章20~24節)わたしたちが新しい人として生きることの具体化は、こ こでは「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」ることだと言われます。この「神 にかたどって造られた新しい人」とは、主イエスのことです。主イエスを心にお迎えし て、主イエスが誕生してくださる、それが救いであり、新しい人です。主イエスが心にお いでくださることで、心の中に宿ってくださるようになる。そしてその主イエスが心の中 でどんどん大きくされていくこと、それが新しい命の成長、信仰の成長です。同じことは コロサイ書において、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を 身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」と語られています(コロサイ 3章9、10節)。


 さらにエフェソ書では、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識にお いて一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで 成長するのです」とも語られます(4章13節)。新改訳では、「キリストの満ち満ちた 身たけにまで達するためです」となっていて、キリストの背丈までわたしたちが成長して いくことが求められます。それはまた、わたしたちの内におられるキリストが、わたした ちの内にあって大きくされていき、満ち溢れるまでになっていっていただくということで もあります。わたしたちの内にあって、まことの神の像であるキリストが大きくされてい き、わたしたちがそれに感化され、影響を受けて、キリストのように生きる者へと変えられていく、それが新しい人として求められていることなのです。そのためにはまず、この キリストを心にお迎えする、心に誕生していただく必要があります。それは聖霊の働きで した。こうして聖霊によって主イエスを胎に宿したマリアに起きたことは、わたしたちに も起こされていくことであり、そのためにはわたしたちも、この主イエスを心に迎え入れ、主イエスこそが心の中心を占めてくださり、キリストの思いで心が満たされていくよ うに祈り求めていく必要があります。マリアに起きたことは、わたしたちにも起こされる ことです。わたしたちも第二、第三のマリアとなって、主イエスを宿すようにされ、主イ エスを心に誕生させていくのです。それにより、パウロが、「生きているのは、もはやわ たしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2章 20節)と言い得るような新しい生き方を歩み始めていくのです。「わたしたちは皆、顔 の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ 姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3章18 節)。主イエスを宿し、誕生させていく、そしてその主イエスがわたしたちの内にあって 大きくされていく、聖霊の働きが、わたしたちの内で豊かになされていくことを、祈り求めていきましょう。




1 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、170頁

2 ロッホマン、『講解・使徒信条』、1996年、ヨルダン社、150頁

3 森本あんり、『使徒信条』、1995年、新教出版社、59頁

4 ロッホマン、前掲書、156頁

5 石田学、『日本における宣教的共同体の形成』、2004年、新教出版社、95頁

6 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか』、2000年、教文館、126頁

7 同上、

8 同上、92~93頁

9 同上、100頁

10 ファン・リューラー、前掲書、126~127頁