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第17講 肉をとり人となられた神に対する賛美の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第17講:肉をとり人となられた神に対する賛美の言葉 (ヘブライ2章14~11節、2012年5月20日)


【今週のキーワード:受肉】

 「聖霊と処女マリアから肉体を受けて人となり」という条項の中心にあることは「受 肉」です。受肉とは、永遠の神の御子が聖霊によってマリアから肉体を受けることで、わ たしたちと同じ人間となられた、「神が人間になった」ということでした。こうして「ま ことの神」である方が「まことの人間」ともなってくださり、今や御子は「真の神にして 真の人」であられるということです。肉体を取って人間となられた主は、天に戻られたと き、肉体を脱ぎ捨てて霊になったわけではなく、また人間であることをやめたわけでも ありません。御父の右に座しておられる主は、今も肉体を持ったまま、神であると共に人 間でもあるのであり、そうして天におられる今でも、また永遠に「真の神にして真の人」 でいてくださるのです。永遠の神の御子が、受肉以来わたしたちと同じ肉体を持つ方と なってくださった、これは弱い肉体を抱えながら生きるわたしたちにとって、大きな慰め ではないでしょうか。肉体を持って生きるわたしたちの苦しみを知る方として、わたした ちと同じ肉体を共に背負ってくださるために、神の独り子が人となり、わたしたちの許に まで来てくださいました。こうして肉体を持って生きる中でのわたしたちの苦しみと悩み をご自分のものとして背負い、それを共に担う方となってくださいました。わたしたちの ために肉体を負って人間となってくださった神の独り子に、心からの感謝と賛美をささげ ていきましょう。


1.人間となってくださった神

 今回はニカイア信条の「聖霊と処女マリアから肉体を受けて人となり」という箇所で す。大切な箇所なので2回に分けて考えたいと思います。ニカイア信条の翻訳において は、22種類の翻訳を参照しましたが、本文の脚注⑨に記したとおり、「肉体をとって」 と「肉体を受けて」という訳が半々です。しかしここでは「『受肉』の出来事が告白され ているので、後者(受けて)と訳し」ました。このようにこの箇条の中心は、永遠の神の 御子が聖霊によってマリアから肉体を受けて、わたしたちと同じ人間となられたというこ とにあります。つまり「受肉した」ということです。そしてこの「受肉」ということに よって明らかにしようとしていることは、「神が人間になった」ということでした。信条 のこれまでの箇条が明らかにしてきたことは、イエス・キリストは神の独り子であり、御父と本質を同じくする「まことの神からのまことの神」であられるということでした。その栄光に輝く永遠の神の御子が、天から降って、わたしたちの許にまで降り来てくだ さった、しかもただ降りて来ただけではなくて、わたしたちと同じ人間となってくださっ たということでした。そこで神である御子が人間となるためにとられた方法が、マリア からその人性を受け取るということによってでした。こうして「まことの神」である方が 「まことの人間」ともなってくださり、今や御子は「真の神にして真の人」であられると いうことです。このことをカルケドン信条は、次のように告白します。「我らの主、イエ ス・キリストは唯一かつ同一の御子である。この同じ方が神性において完全な方であり、 この同じ方が人間性において完全な方である。この同じ方が真の神であり、理性的な魂と 肉体から成る真の人間である。この同じ方が神性において御父と同一本体の者であり、か つまた人間性において我々と同一本体の者である。『罪を犯されなかったが、あらゆる点 において、我々と同じである』(へブライ4章15節)。神性においては、代々に先立っ て御父から生まれたが、この同じ方が、人間性において、終わりの日に、我々のため、 我々の救いのために、『神の母』なる処女マリアから生まれた。この方は・・・唯一か つ同一の独り子なる神の御子、言、主イエス・キリストである。1」


 ここでは「人間の本性がマリアより受け容れられるのです。・・・それは教父たちが 言っているように『摂取』であり、すなわち『付加』です。イエスの人格においては、人 間的な本性が神的な本性に付加されるのです。・・・御子なる神はその神存在に人間存在 を付加するのです2」。このことを『ハイデルベルク教理問答』は、次のように語りま す。「永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神でありまたあり続けるお方が、聖霊 の働きによって処女マリアの肉と血から、まことの人間性をお取りになった、ということ です。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしてはすべての点で 兄弟たちと同じようになるためでした」(問35)。ここで大切な点は、「神が神である ことをやめることなしに、それと同時にまた人となりたまい、人でありたもう3」という ことです。わたしたちはどこかで主イエスを、自分たちとは違う特別な存在と考えてしま いますが、人間としての主イエスは、そうではないということです。肉体を取って人間と なられた主は、天へと戻られたとき、肉体を脱ぎ捨てて霊になったわけではなく、また 人間であることをやめたわけでもありません。天に昇られ、御父の右に座しておられる主 は、今も肉体を持ったまま、神であると共に人間でもある方として、天におられるので す。だから「わたしたちはその肉体を天において持っている」ということができるのです (『ハイデルベルク教理問答』問49)。主イエスは、復活された肉体を持ったまま昇天 されたのであり、そうして天におられる今でも、また永遠に「真の神にして真の人」でい てくださるのです。永遠の神の御子は、受肉以来、わたしたちと同じ肉体を持つ方となってくださったのであり、そのような意味でもわたしたちと同じ人間であられるのです。こ れは、弱い肉体を抱えながら生きるわたしたちにとって、大きな慰めではないでしょう か。「この『肉体』こそ、神に敵対し、堕落し、己れの欲望のとりこになる『惨めな』存 在そのもの4」だからです。「『肉体』、それは抽象的な人間ではなくて、現実の人間の 存在のすべてを意味します。神にそむき罪を犯している人間の全存在です。つまり人間の 存在の一部分だけを共有なさったわけではないということです。・・・そのような肉体を 持った『人間』となってくださった、完全に人となってくださった5」ということでし た。


2.御子の人間性を否定する異端への対抗

 しかも信条はそのことを二つの言葉、「肉体を受けて人となり」と重ねて告白します。 このように「肉体を受けた」ないしは「肉体をとった」ということと、「人となった」 「人間となった」ということをわざわざ重ねて告白するのには理由がありました。それは 「何よりも主が人となられたことがどれほど現実的なものであったかをまず明らかにす ると言えます。『仮の人』となられたのではないのです。『仮の人』というのは、『まこ との人』の反対の言葉です。これが初代の教会からときどき起こった誤解です。神が人と なられたということは認めるけれども、それは仮の姿に過ぎないということなので す。・・・主イエス・キリストがそのような仮の人ではなかったということが大切です。 そのときに、『肉体を持っておられた』ということが重要なのです6」。主イエスの神性 を認めつつも、人性を認めようとしない異端がありました。主イエスの地上での様は、あ くまでも「かりそめ」のものにすぎないとする仮現論であり、それを主張するグノーシス 主義でした。


 すでにその傾向は聖書時代からあり、ヨハネは次のように主張します。「イエス・キリ ストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」 (1ヨハネ4章2節)。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからで す。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。 こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(2ヨハネ7節)。このように「神の子が 人間になったこと、御言葉が、この世において肉、すなわち地上における肉と血から成る 人間になったことを、グノーシス派は認めようとしなかった。世に現れた神の子は、せい ぜい影の体しか担えず、仮の姿で人間とともに飲食し、仮の姿で苦難を受けたにすぎない という。もし本当に神の子が地上的な物質にまで低くなって入ったとするなら、それは、 グノーシス派に言わせれば、神の子としてふさわしくなかったのである7」。なぜならグノーシス派にとっては、地上的なものや物質は悪とみなされており、肉体も悪の座と考え られていたからでした。そこで教父たちはグノーシス主義に対抗して、主イエスの人間性 を繰り返し強調することになります。アンディオケイアのイグナティオスは、次のように 語りました。「イエスはダビデの裔、マリアから真実に生まれ、食べ飲み、ポンティウ ス・ピラトゥスのもとに真実に迫害され、真実に十字架につけられて死んだのです。それ は天と地と地下の諸霊の眼前で起ったことなのです。彼はまた真実に死者の中から甦った のです8」。「そして彼は真実に受難したのです。ちょうど真実に甦ったのと同じよう に。ある不信者共が、彼の受難はみせかけだというのとは違います9」。


3.肉をとり人となられた神の御子に対する賛美

 アタナシオスは、わたしたちと同じ肉体をとって、わたしたちと同じ人間となってくだ さった神の御子を仰ぎつつ、感謝をもって次のように語りました。「割礼を授けられ、腕 に抱かれ、食事をし、疲れ、〔十字架の〕木に釘づけにされ、苦しみを受けられた肉体 の内に、苦しむことのない、肉体を持たない、神の言が存在されたのです。・・・実に、 言の人間的な〔肉体〕が服したことを、それ〔肉体〕にご自分を結び合わせた言はご自分 のこととして担われたのです。それは、私どもが言の神性にあずかることができるためで す。全く逆説的なことですが、この方は苦しむ方であり苦しまない方であられました。ご 自分の肉体が苦しんだことで苦しまれ、苦しむご自身の肉体の内におられましたが、本 性において神であり、苦しみ得ない言である方としては、苦しまれなかったのです。一方 では、肉体を持たない方が苦しみ得る肉体の内におられ、他方では、肉体は自分の内 に、肉体の弱さを消滅させる苦しみ得ない言を有していたのです。このようなことをなさ れ、行われたのは、次のようなわけです。即ち、〔言〕は、私どもの〔弱さ〕を受け入 れ、それを供え物として献げることで滅ぼし尽くし、私どもをご自分のものとしてまとわ れることで、使徒〔パウロ〕が言っているようになさるためでした。〔パウロは言ってい ます〕『この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを 必ず着ることになります』(1コリ15章53節)。これは、ある人々が考えているよう に、虚構ではありません。断じてそうではありません。真に救い主が真の人間になられ たので、人間全体の救いが成就されたのです。彼らの言うように、言が人間の内におられ たのは虚構であったとすれば、虚構として語られたことは想像の産物ですから、・・・ 人々の救いと復活は見せ掛けのことになるでしょう。しかしながら、私どもの救いは想 像の産物ではなく、また単に肉体の〔救い〕ではなく、人間全体、即ち、魂と肉体の救 いが真にこの方の内に成就されたのです。聖書によれば、マリアから〔生まれた〕救い主 の肉体は、本性によって、人間の〔肉体〕であり、真の〔肉体〕でした。それは真の〔肉体〕でした。私どもの〔肉体〕と同じものだったからです10」。


 そして「言の受肉」の目的について、次のように語ります。「実に、この方〔言〕が人 となられたのは、われわれを神とするためである。また、この方〔言〕が肉体を通してご 自分を現されたのは、見えない父の認識をわれわれが得るためである。また、この方 〔言〕が人々の侮辱を耐え忍ばれたのは、われわれが不滅を受け継ぐためである。この 方〔言〕は、苦しみえぬ方、朽ちざる方、言そのものである神として、いかなる点でも損 なわれることのない方であったが、人々のためにこれらの苦悩を耐え忍ばれたのであ り、ご自分の受苦不能性によって人々を守り、救われたのである11」。こうして本来は栄 光に輝く神ご自身であられた方が、わたしたちのためにその栄光をかなぐり捨てて、天の 御座からこの地上に降り、わたしたちと同じ人間となってくださいました。なぜならわた したちは「血と肉を備えている」ので、「イエスもまた同様に、これらのものを備えられ ました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖 のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブライ2章 14、15節)。主は「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねば ならなかった」のでした(同17節)。そして「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情 できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に 試練に遭われたのです」(4章14、15節)。そのように「御自身、試練を受けて苦しま れたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」方となってくださ いました(2章18節)。肉体を持って生きるわたしたちの苦しみを知る方として、わた したちと同じ肉体を共に背負ってくださるために、神の独り子が人となり、わたしの許に まで来てくださいました。こうして肉体を持って生きる中でのわたしたちの苦しみと悩み をご自分のものとして背負い、それを共に担う方となってくださいました。このようにわ たしたちのために天から降り、肉体を負って人間となってくださった神の独り子に、心か らの感謝と賛美をささげていきましょう。




1 カルケドン信条、小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ教父、2000年、 教文館、412~413頁

2 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか』、2000年、教文館、152頁

3 カール・バルト、『われ信ず』、2003年、新教出版社、63頁

4 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、113頁

5 加藤常昭、『ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』、2006年、教文館、228頁

6 同上、

7 ユングマン、『古代キリスト教典礼史』、1997年、平凡社、126頁

8 アンディオケイアのイグナティオス、「トラレスの教会への手紙」9:1~2、小高編 『原典 古代キリスト教思想史』1 

 初期キリスト教思想家、1999年、教文館、37頁

9 同上、「スミュルナの教会への手紙」1:1~2、前掲書、37頁

10 アタナシオス、「エピクテトス宛ての手紙」1:1~11:4、小高編『原典 古代キ リスト教思想史』2 ギリシャ教父、2000年、教文館、

 65~66頁;12講でも収録。

11 アタナシオス、「言の受肉」54:3、『中世思想原典集成』2巻 盛期ギリシア教父、1992年、平凡社、134頁;

 小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ 教父、2000年、教文館、38頁