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第14講 命の光に対する希望の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」 -信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)


第14講:命の光に対する希望の言葉(ヨハネ1章1~18節、2012年4月22日)


【今週のキーワード:光からの光】

 御子は「光からの光」、つまり光である御父から生み出された「まことの光」として 「光から生じた光」である方と告白されます。そこで言おうとしたことは、「まことの神 からのまことの神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質」と告白したことと同じ で、まことの神から出たまことの神として、御子は御父と本質を同じくする永遠の神であ られるということです。つまり御子の神性、「まことの神」であることが明らかにされて いきます。また「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」として、見え ない御父を映し出して見えるようにする「曇りのない鏡」でもあります。御子は、「無知 の暗闇に閉ざされている人々を照らす」『まことの光』であり、人の心の闇を追い払って くださる「人間を照らす光」、「世に来てすべての人を照らす」光でした。だからこの方 こそ「世の光」であり、闇に閉ざされた世を明るく照らす「まことの光」として来られた 方でした。しかしこの光は、ただこの世を明るく照らし出すだけではなくて、逆に暗闇を 際立たせ、隠されていたものを明るみに引き出し、覆われていたものをあらわにするもの でもあります。そこでこの「世の光」である方との交わりに生き、「まことの光」である 方と共に歩むとき、わたしたちはもはや暗闇の中を歩くことはありません。主に従う者 は「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」からです。そこで光の子として、光の中を歩くこ とが勧められるのです。


1.御父と本質を同じくする御子

 ニカイア信条の学びは、第二条項の御子イエス・キリストに対する信仰告白の前半部 分、「そして、唯一の主イエス・キリストを〔信じます〕。〔主は〕独り子である神の 子、すべての時に先立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からの まことの神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方 によって成りました」について考えています。ここでは「御父と御子との関係」が、父と 子として区別されながら、しかも「一つ」であるとされる中で、「御子キリストが父なる 神と全く同じ意味で真の神である」ということが告白される、それが中心点です。そのた めに、「唯一の主イエス・キリスト」が「神の子」であるだけではなくて「独り子」でも あると告白され、この方は「すべての時に先立って父から生れた・・・まことの神からの まことの神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質」と言い表されました。「父から生まれた」から、「父と同じ本質」を持つ方であり、つまり「まことの神からのまこ との神」ご自身であるということで、それは「御子も御父と同じ神であられる」というこ とを明確にするためでした。そのために、永遠の初めから生まれた、つまり永遠において 生まれた方として、「御子の先在」が言い表されます。つまり御子はすべてのものに先 立って存在しておられたということです。しかもそこで生まれたとは造られたということ ではなく、つまり被造物ではなく御父からその本質を受けた方として、「まことの神」で あることが告白されていくのでした。それが「御子は御父と同質である」と告白された意 味で、それは「本質を同じくする」ということでした。しかしここでは、そもそも「本質」という言葉が難しいかもしれません。


 「本質」とは、「存在が存在として成り立つためにどうしてもなければならないもの」 のことで、「そのものをそのものたらしめているもの」です。つまり「イエス・キリスト をイエス・キリストたらしめているものであって、それを抜きにしてしまうとイエス・キ リストがイエス・キリストでなくなってしまうというもの、あるいはイエス・キリストの 存在そのものが消えてしまうようなもの」のことです1。その本質を御父と同じくすると いうことが、「同質」(ホモウシオス)ということで、それは「本質(ウシア)を同じく (ホモ)する」ということです。この箇所を、ある英語の翻訳は次のように訳しているそ うです。…being of one substance with the Father,…これを翻訳すると「本質を一つに する」と訳すことができます。「日本語では『同質』と言いまして父なる神と本質が同じ だという言い方をするのですが、『同じ』という意味のsameという言葉を退けているの です。これは本質が別々なのだけれどもよく似ているとか、よく見ると同じだとかいうこ とではなくて、まさに『ひとつの本質』だということを言い表す」ものです2。それは主 イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたことを、厳密な表現に言い換えたもの ですが、しかしそれだけではなく、歴史的背景のあることでもありました。ニカイア会 議前後、大雑把に言うと三つの立場がありました。御子は御父と「異質」(アノモイオ ス)であるとするアレイオスの立場と、それとは正反対に御子は御父と「同質」(ホモウ シオス)であるとするアタナシオスを初めとした正統的な立場の他に、御子は御父と類似 するとする「類質」(ホモイウシオス)を主張する中間的な立場があって、それが多数派 でした。そのような中で、御子は被造物ではなく(異質論者に対して)、御父と似た存在 だということでもなく(類質論者に対して)、「御子は御父と本質を一つにする」、その 意味で「同じ」だと明言することにより、御子は(最高の)被造物だというのではな く、また神に似た「神らしきもの(神的存在)」というのでもなく、「まことの神」で あることを明らかにしていったのでした。


 2.「光からの光・まことの光」である御子

 こうして「唯一の主イエス・キリスト」は、「独り子である神の子、すべての時に先 立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られ たのではなく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りまし た」と告白されることで、御父から生まれ、御父と同じ本質を持つ方として「まことの 神」であることが明らかにされました。それに先立ってある、「父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神」と続く言葉は、同一の「から(エク)」という語を用いた句の連鎖ですが、同じ主旨の表現の反覆であり、「父の本質から受けたものが子の本質をなし、したがって御子の本質は御父と等しいという」ことに他 なりません3。そしてこれまでの学びでは、「独り子である神の子、すべての時に先立っ て父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られた のではなく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」 の赤字の部分を考えていきましたので、ここでは残りの「光からの光」について考えて いきましょう。この表現は、カイサリア教会で使用されていたと考えられる洗礼信条や 4、カイサリアのエウセビオスがニカイア会議に提出した信条5、ニカイア後に開催された アンテオケ会議の信条の第4形式(341年?)6、フィリポポリス会議(343年)7、第2 シルミウス会議(351年)8、サラミスのエピファニウスが著書『アンコラトゥス』(372 年頃)に掲載した信条9などにも見られるものです。また「光からの光」という表現では ありませんが、御子が「光」であることを告白する信条もあります。アンテオケ会議の信 条の第2形式10と、先に紹介した第4形式、フィリポポリス会議の信条の中に、「まこと の光」という表現が見られます。こうした表現は、御父が光であることについては、「神 は光であり、神には闇が全くない」(1ヨハネ1章5節)、「近寄り難い光の中に住ま われる方」(1テモテ6章16節)、「光の源である御父」(ヤコブ1章17節)、「光を 衣として身を被っておられる」(詩編104編2節)といった御言葉に由来し、また御子が 光であることについては、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」 (ヨハネ1章9節)といった御言葉に由来するものです。


 「光からの光」ということで言い表そうとしたことは、「まことの神からのまことの 神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質」ということと同じく、「まことの神か ら出たまことの神として、御子は御父と本質を同じくする永遠の神ご自身であられるとい うことです。つまり「御父は光であられ、御子は反映(輝き)であられ、真の光であられ ます。御父は真の神であられ、御子も真の神であられます」(アタナシオス)11ということです。「実に、神が父でなかった時はなかった。・・・言、知恵、力である方としてキ リストは常に存在しておられると〔言わねばならない〕。〔かつて〕神はこれらのものを 生まないでおられたが、後に子をもうけられたのではない。また、御子は自ら〔存在を有 しておられる〕のではなく、御父に由来するものとして存在を有しておられる。・・・永 遠の光の輝きであるので、必ずや〔御子〕ご自身も永遠のものとして存在しておられる。 光が常に存在するなら、輝きも常に存在することは明らかだからである。実に、この 〔輝き〕によって、照らす光が存在することが認識され、照らすことがないなら〔光は〕 光として存在しえないのである。・・・神は、はじめもなく絶えることも決してない永遠 の光である。それゆえ、はじめもなく、常に生まれ、〔神の〕御前に照りわたる輝きは 永遠に〔神の〕御前にあり、〔神と〕ともにある。〔この輝きは〕『私は〔神が〕そこ に喜びを見出す者として存在し、日々、あらゆる時に、御前で楽しんでいた』と語る知恵 である。・・・従って、御父は永遠に存在されるのであるから、光からの光である御子も 永遠に存在される。生む者が存在するのであるから、子も存在する。仮に子がいないと すれば、どうして、その者が生む者でありえよう。両者が存在し、しかも常に存在するの である。・・・御子ただひとりが御父と共に存在され、しかも存在しておられる〔御父〕 に満たされており、御父に由来するものとして〔御子〕ご自身は存在しておられるのであ る」(アレクサンドリアのディオニュシオス)12。御子は、光である御父から生まれたか ら「光からの光」であり、御父に由来する「まことの光」として、光である御父と同じ神 性を持ち、御父と共に永遠に存在する方であることが言い表されているということです。


3.御父の反映として御父を映し出す鏡としての御子

 「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であるとも言われます (ヘブライ1章3節)。また「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」が語ら れ(2コリント4章4節)、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたち の心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいま した」と続けられます(同6節)。こうした理解の背景には、知恵の書の言葉があるの かもしれません。「知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿 である」(7章26節)。言うまでもなく、この「知恵」は、人格化された存在として、 「ロゴス(言)」と同一視されるようになり、そのロゴスが御子と見なされるように なっていきました。つまり御子は、御父の反映であり、その本質の現れとして、見えない 御父を映し出して見えるようにする鏡と理解されるのです。そこでアタナシオスは語りま した。「子は父の『輝き』(知恵7章26節、ヘブライ1章3節)であり、子において万 物は照らされ、みこころに叶う人々にご自身を啓示される」と13。御子は、見えない御父を見えるものとして啓示する方であるということです。だから主は、「わたしを見た者 は、父を見たのだ」と言うことができました(ヨハネ14章9節)。「あなたがたがわた しを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を見る。 いや、既に父を見ている」と(同7節)。この「『光』というメタファーは『見る』こと と関係しています。信仰が『聞く』ことのみならず、『見ること』と関係している点は注 目して良いでしょう。ヨハネによる福音書第1章14節は『言は肉となって、わたしたちの 間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た』と記しています。ニカイア信条は、東方ギ リシャ的な特質をこのような言語に反映させているのです」14。そして「《光》とは、ま さに出来事として、神の行為としての啓示であり、人間に対する真理の開示」を意味する ものでした15。しかもここで「真理を認識する」とは、「一方では、真理は命の光であっ て、神の子となる力を与えるということから明らかになるし、また他方では、この世に関 する神の行為の意図は主観的にはこの世に対する神の愛であり、客観的には世の罪を除 き、世を救い命を世に与えることであるということから明らかになる。だから『世の 光』という表現において、啓示、和解、救済が一点に凝縮している」ということができる のです16。


 御子は御父の反映、その本質の完全な現れとして、ご自身が御父と同じ神であられるこ とを啓示されるだけではなくて、御父をも啓示してくださる方でした。こうして御子は、 「無知の暗闇に閉ざされている人々を照らすので、『まことの光』」と呼ばれるのであり (バシレイオス)17、「世界の最初の闇を照らし、また、その到来によって、人のこころ の闇を追い払った」のでした(レメシアのニセタス)18。それが、「人間を照らす光」 (ヨハネ1章4節)、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(同1 章9節)、「光が世に来た」(同3章19節)、「わたしは世の光である」(同8章12 節)、「わたしは、世にいる間、世の光である」(同9章5節)、「光は、いましばら く、あなたがたの間にある」(同12章35節)、「わたしは光として世に来た」(同46 節)、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」(1ヨハネ2章8節)、「異邦人を 照らす啓示の光」(ルカ2章32節)といった御言葉によって語られていることです。光は 「人間にとって古来『救い』を表すシンボルとしての意味を持っていました。旧新約聖書 を通して、神の救いを『光』と表現する箇所は、かなり多いのです」19。「主はわたしの 光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前にお ののくことがあろう」(詩編27編1節)。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わ たしたちは光を見る」(同36編10節)。「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願い をかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(同37編 4~6節)。「神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔い てくださる」(同97編11節)。このように聖書には「光」という言葉が溢れています が、その多くは神による救いを指して用いられます。ニカイア信条にある「光からの光」 という言葉は、こうした御言葉に由来する表現です。そこでこの「光からの光」という言 葉の、前の「光」は言うまでもなく御父であり、後ろの「光」は御子を意味します。光の 源である御父から、まことの光である御子が生まれてくるということです。御父が光であ ることについては、「神は光であり、神には闇が全くない」(1ヨハネ1章5節)とあり ます。そして御子が光であることについては、先に記したようにヨハネが様々に語ってい ます。そしてこの光が、先の光と重ねられていきます。つまりここで「まことの光」とし ておいでくださった御子とは、「主はわたしの光、わたしの救い」とか、「命の泉であ るあなたの光をわたしたちは見る」とか、わたしたちを「真昼の光のように輝かせてくだ さる」と約束された光であり、その方こそ主イエス・キリストであると約束されているの です。


4.暗闇の中にある者たちを照らす光

 そこでイザヤは、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの 上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が 輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と呼びかけました(60章1、2節)。そし てこうした約束に基づいておいでくださったのが主イエスでした。同じイザヤの預言の成 就として、クリスマスの時に聞く言葉を思い出すことができます。「暗闇に住む民は大き な光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4章16節、イザヤ9章1 節)、「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照ら し」たと(ルカ1章79節)。ここで注意してほしいことは、ただ光がやって来たという だけではなくて、どのようなところに来たかということです。つまり光は「暗闇に住む 民、死の陰の地に住む者、暗闇と死の陰に座している者」の許にやって来て、彼らを照ら したというのです。これは誰を指すのでしょうか。自分は明るい光の中を生きているから 関係ないと思える人は幸いです。心に希望が溢れ、喜びでみなぎっている、自分は光の中 を生きているという人は、本当に幸せです。しかしいつもそうだとは限りませんし、むし ろそうでないときの方が多いのではないでしょうか。今日の天気のように、心がどんより と曇り、喜びも希望も抱けないまま、鬱々と毎日を過ごすということがあります。親のこ と、子供のこと、自分のことを考えると、不安や心配が心を一杯にして、この先の希望を 抱けないと、心が沈み込んでしまうわたしたちであるかもしれません。しかしここで覚えていただきたいことは、光はもうすでに到来したということです。確かに自分の内側をど んなに覗き込んでも、光を見いだすことはできません。しかし大丈夫です。なぜならわた したちを照らす光は、すでに到来し、わたしたちを照らし出しているからです。クリスマ スにおいでくださった御子こそその光で、心の暗闇に閉ざされたまま暗さの中をうごめく わたしたちを照らしてくださり、闇を照らすことでわたしたちの心の中から闇を追い払ってくださる方なのです。


 しかしこの光は、ただこの世を明るく照らし出すだけではなくて、逆に暗闇を際立た せ、隠されていたものを明るみに引き出し、覆われていたものをあらわにするものでもあ ります。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。・・・悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の 方に来ないからである」(ヨハネ3章19、20節)。それは「人間が、光に耐ええない自 分の汚れと醜さとを持っているからであり、光に照らされて初めて、人は自分の汚れを知 るのです。しかし人は、光の明るさに耐えられず、ふたたびもとのやみの中に安住する気 持ちを好む心性を持っています。・・・キリストが『世の光』であるとは、世を照らし、 明るくする道しるべとしての光であると共に、また私たちの心の奥の隠れた罪を照らし出 し、あばき出す光でもあるということです」20。そこでトマス・ア・ケンピスは『キリス トに倣いて』の中で、次のように語りました。「『私に従う人は闇のなかを歩かない』 (ヨハネ8章12節)と主は言われる。これはキリストのみことばである。もし私たちが まことの光に照らされ、心の暗やみを抜け出したいなら、その生涯とおこないにならわ なければならない。したがって、私たちの第一の務めは、イエス・キリストの生活を黙想 することにある。キリストの教えは、聖人たちのすべての教えにまさる。その教えの精神 をくみ取ることができる者は、そこに『隠れたマンナ』(黙示録2章17節)を見いだす であろう。ところが、多くの人は、しばしば福音のみことばを聞いていても、それほど心 に響かない。それは、キリストの精神から遠ざかっているからである。キリストのみこと ばを十分理解して、それを味わおうとする人は、自分の全生涯を、キリストに一致させる ように努めなければならない」と21。


4.主に結ばれて光とされたわたしたち

 しかしここでもう一度主イエス御自身の約束に立ち戻りたいと思います。主は約束され ました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」 と(ヨハネ8章12節)。わたしたちは自分が光となって輝く必要はありません。自分自 身の内には光はないし、輝く力もないからです。しかし御子がわたしたちを照らす光として来てくださり、闇に閉ざされたわたしたちを明るく照らす「まことの光」としておいで くださいました。この「世の光」である方との交わりに生き、「まことの光」である方 と共に歩むとき、わたしたちはもはや暗闇の中を歩くことはありません。なぜなら「命 の光を持つ」からです。「命の光」、わたしたちの命を光り輝かせる光、希望の光です。 しかもここで、わたしたちはこの光をどのようにしたら手に入れることができるのかと悩 む必要がありません。なぜならここではっきりと、「わたしに従う者は・・・命の光を 持つ」と約束されているからです。主イエスは教えてくださいました。「わたしと父とは 一つである」と。ですから父なる神と主イエスとは、「わたしのものはすべてあなたのも の、あなたのものはわたしのもの」という(17章10節)、深い結びつきの中にありま す。そしてこの御父と御子との豊かな深い交わりの中に、主イエスにつながる者たちも招 き入れられて、一つとされることが約束されています。「あなたがわたしの内におられ、 わたしがあなたの内にいるように、・・・彼らもわたしたちの内にいるように」される (同21節)、つまりわたしたちも御父と御子の交わりの内にいる者とされるのです。そ して「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」ことで、「彼らが完全 に一つになる」のであり(同23節)、こうして「わたしに対するあなたの愛が彼らの内 にあり、わたしも彼らの内にいるようになる」のです(同26節)。


 こうして「光からの光」という告白は、御父の光が御子の光として、御子の内にあるよ うに、今度はこの御子と結ばれたわたしたちの内にもあり、神の光がわたしたちの内に 宿って、「命の光を持つ」者とされていくということを表していくのです。御子の光が内 に宿る者となり、そうして御父の光が内に宿る者ともなる、こうして御父と同じ光、御子 と同じ光を「持つ」者として、光り輝く者とされているというのです。だから主はわたし たちに、「あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かしなさ い」と呼びかけることができました(マタイ5章14、16節)。「世の光」である方を内 に宿し、その光によって内側から光り輝く者とされているからです。わたしたちを照らす 「まことの光」はもうすでに来て、今でも光り輝いています。そしてその光はわたしたち の内に来て、内側から光り輝いておられます。そこでパウロはこう語りました。「あなた がたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩 みなさい」と(エフェソ5章8節)。だから「光の子となるために、光のあるうちに、光 を信じなさい」(ヨハネ12章36節)。




1 加藤常昭、『ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』加藤常昭説教全集 29、2006年、教文館、189頁

2 同上、176~177頁

3 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、159頁

4 「カイサリアの信条に由来すると思われる」。同上、163頁。なお107、122~124頁に 信条本文が掲載されている。

5 同上、120頁;小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ教父、2000年、教 文館、29頁に信条本文が掲載されている。

6 同上、130~131頁、および小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ教 父、232~236頁に信条本文が掲載されている。

7 同上、132~133頁に信条本文が掲載されている。

8 同上、133~137頁に信条本文が掲載されている。

9 同上、144頁、および146~147頁に信条本文が掲載されている。また関川泰寛、『ニカ イア信条講解-キリスト教の精髄』、1995年、教文館、100頁参照。

10 同上、127~128頁、および小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ教 父、227~228頁に信条本文が掲載されている。

11 アタナシオス、「セラピオン宛ての手紙」2・1~9、小高編『原典 古代キリスト教 思想史』2 ギリシャ教父、48頁

12 アレクサンドリアのディオニュシオス、「反証と弁明」、小高編『原典 古代キリスト 教思想史』1 初期キリスト教思想家、1999年、教文館、408~409頁

13 カルメロ・グラナド、『教父と祈り-キリストの名をめぐって-』、1994年、新世社、80頁

14 関川、前掲書、100頁

15 カール・バルト、『ヨハネによる福音書』、1986年、日本キリスト教団出版局、440 頁

16 同上

17 カルメロ・グラナド、前掲書、95頁

18 同上、144頁

19 森野善右衛門、『世の光キリスト・世の命キリスト ヨハネ福音書による講解説 教』、2007年、新教出版社、173頁

20 同上、175~176頁

21 トマス・ア・ケンピス、バルバロ訳『キリストにならう』第1巻第1章1~2節、 2005年、ドン・ボスコ社、21~22頁