· 

第13講 父から生まれたまことの神への信仰の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」 -信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)


第13講:父から生まれたまことの神への信仰の言葉 (ヨハネ17章1~26節、2012年4月15日)


【今週のキーワード:同質(ホモウシオス)】

 ニカイア信条では、御子が御父と「同じ本質」であることが告白されます。「同質」 (ホモウシオス)という言葉は、「本質(ウシア)が同じ(ホモ)」という意味で、ここ で言おうとしたことは、「御子は御父と同じ本質の者である」ということで、それは御子 が御父と全く同じ意味で「真の神」であることを意味するものでした。御父から生まれ た方だから、父と「同じ本質」を持つ「まことの神からのまことの神」であるというこ とです。ここで「まことの神からのまことの神」と言うのは、「神からの神」だけでは言 い切れない問題が生じたからで、「神」を、単なる神的存在、すなわち「神のごとき性質 を帯びたもの」とか、「いわば神のごときもの」というように解釈する教説が出てきた からでした。その一つが、御子を被造物とするアレイオス主義で、ニカイア信条は、こう した誤った教説に対抗して、正統的な信仰を告白するためのものでした。しかしこうした ニカイア信条の表現は、あまりにも抽象的で観念的だと感じられるかもしれません。け れどもこうした表現は、主イエスが語られた『わたしは父と一つである』とか『わたしを 見た者は父を見たのだ』という主の言葉を言い表したものでした。わたしたちも、主イエ スと御父とが「一つ」であることを明らかにしたヨハネと共に告白したいと思います。 「わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こ そ、真実の神、永遠の命です」と。


1.御子は「真実の神」である方

 ニカイア信条本文を見ていただきますと、全体は三つに区分されています。それはいう までもなく、父・子・聖霊の三位一体の神を告白するものとなっているということです。 その第二条項は御子イエス・キリストに対する信仰告白となっていて、長い文章ですが、 さらにそれは前半と後半の二つに分けることができます。前半は「そして、唯一の主イエ ス・キリストを〔信じます〕。〔主は〕独り子である神の子、すべての時に先立って父か ら生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでは なく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りました」までで す。後半はその続きから終わりまでで、「この方はわたしたち人間のために、またわたし たちの救いのために天から降り、聖霊と処女マリアから肉体を受けて人となり、わたしたちのためにポンテオ・ピラトの時に十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書の とおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座し、生きている者と死んだ者とを裁く ために、栄光のうちに再び来られます。その国には終わりがありません」までです。この 後半の内容は使徒信条とも近いですし、主イエスの地上のご生涯での働きを告白する部分 ですから、理解しやすいと思いますが、問題は今考えている、前半部分です。それは主イ エスがクリスマスの夜にマリアによって誕生される前の、永遠の神の御子について告白す るものですから、わたしたちの理解を超えた神秘、あるいは奥義と言えるもので、これま であまり聞いたこともないことですから、なかなか理解するのに困難を覚えられるかもし れません。


 前回はわたしたちの「唯一の主イエス・キリスト」が「神の子」それも「独り子」であ ることを考えていきました。ここでは「御父と御子との関係」が告白される中で、御子と はどのような方か、その本質が問われていきます。あれこれの説明に入る前に、押さえて いただきたいことは、こうした様々な言い回しや表現によって信条が告白しようとしたこ とは、要するに「御子キリストが父なる神と全く同じ意味で真の神である」ということ です1。それが単に「神の子」であるというだけではなくて、さらにそれに「独り子」と いう言葉を付け加えて告白した意図でした。そして「御子も(御父と同じ)神であられ る」ということを明確にするために、「すべての時に先立って父から生れた・・・まこと の神からのまことの神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質」と言い表したので した。「父から生まれ」、そこで「父と同じ本質」を持つ方だから、「まことの神から のまことの神」ご自身であるというのです。原ニカイア信条でも、「父から生まれた独り 子、父の本質から生み出された、神からの神」と告白されていました。


 「神からの神」と言えば十分ではないかと考えますが、そこであえて「まことの神から のまことの神」と言うのは、「神からの神」だけでは言い切れない、また表現し切れな い点が生じてきたからでした。ここでの「神」を、単なる神的存在、すなわち「神のごと き性質を帯びたもの」とか、「いわば神のごときもの」2というように解釈する教説が出 てきたことに原因がありました。「神の子」をそのように解釈する、すなわち限りなく神 に近づけられた存在として、神の子とされたという意味で、御子を理解する立場が出てき たのでした。そこでここで言う「まこと」とは、「真実の」という意味であり、それは 「現実性を持った」とか「象徴としてではなく」、あるいは「名目だけでない」「見せかけでない」という意味で告白されます。ですからこれは、御父がそうであるように、御子 も御父と同じように「真実な神」であるということです。そこでこの「まことの神からの 3 まことの神」ということにおいて、「御子の神性がはっきりと告白」3されていくことに なります。なぜなら、御父から生まれた、御父と同じ本質を持つ方だからです。それは 「父の本質から生まれた」ということで、御父の(まことの神としての)本質を受けて、 それをご自分の本質とされたということで4、「父と同じ本質(ホモウシオス)」と告白 されていることです。砕いた言い方をすれば、「かえるの子はかえる」「人間の子は人間」、だから「神の子は神」ということです。神から生まれた方だから、神だということ です。つまり「父の本質から受けたものが子の本質をなし、したがって御子の本質は御父 と等しいという」ことに他なりません5。そしてこのことが、「すべての時に先立って父 から生れ」ということと、「造られたのではなく生まれ」ということで明らかにされてい きます。


2.御子は「永遠」に存在される方

 まず「すべての時に先立って」ということについて考えましょう。「世(アイオー ン)」とは、「時間・空間にわたる『世』であって、『時代』『時期』『世紀』『世界』 の意味で、『いにしえの時』や『永遠』を含みとして表している。『よろず世』(すなわ ち、すべてのアイオーン)は、従って永遠を強調する」6ということです。信条翻訳本文で も脚注として、このように記しました。「『万世(よろず世)、あらゆる世、すべての 世、あらゆる代』といった訳が多いが、ここでは『すべての時』と訳した。すべての時 代・時間に先立ってという意味」と。それは神による「天地創造の前」ということです が、そもそも「時間」も神が創造したものであり、天地創造と共に神がお造りになった 被造物です。天地を創造された時から、時間も存在するようになったものであって、それ 以前には「時間」も存在しませんでした。この「時間」が創造される前ということですか ら、それは「永遠」ということになります。御子は、天地が創造される前、つまり「時間」が存在するようになる前に、永遠の中で御父から生まれた方であるということでし た。だからそこから「御子の永遠の誕生」(オリゲネス)7ということが語られることに もなりますが、それは御子が「被造物」ではないことを表すためのものでした。それ が、「造られたのではなく生まれ」と告白される意図でもあります。ギリシャ語原文で は、この二つの語の間にコンマがあり、それを生かして訳すと、「生まれたのであって、 造られたのではない」ということになり、御子が被造物であることがいっそう強く否定 されることになります8。こうしてこれらの告白は、「御父と御子との関係は、創造者と 被造物の関係ではない」9ということが表わされていきます。つまり「御子が人間の歴史 の一時点で『生誕し』、それゆえに『御子が存在しない時があった』という理解はここ では排除される」10ということです。なぜなら、そのように主張し、誤った教説を説いた者たちがいたからでした。


 それが前回も考えた、アレイオス主義者でした。 聖書には、御子が万物の創造以前から存在しておられたことを明白に主張する箇所があ ります。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方で す」と(コロサイ1章15節)。そして「天にあるものも地にあるものも、見えるものも 見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先 におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と語られていきます(同16~ 17節)。そこでニカイア信条では、これに続いて「すべてのものはこの方によって成りま した」と告白します。しかしアレイオス主義者は、こうした聖書の言葉を顧みることな く、御子を御父によって創造された被造物と見なしました。そしてその意味で、御子を 「神の子」と理解したのでした。アレイオスは、「子は神によって最初に創造された最高 の被造物であって、永遠でもなければ不変でもなく、また神と本質を同じくするものでも ない」と主張し11、わたしたちが「神の子」であることと、御子が「神の子」であること とを同一視して、御子を御父によって創造された被造物だとしました。これに対してニカ イア信条は、御子は御父とは「同質、同じ本質」であると告白したのです。わたしたち は、養子として「神の子」に迎え入れられました。しかし御子は違います。この方は元々 から「神の子」だったからです。だから「独り子」なのです。御子が御父と「同質」とい うことで言おうとしたのは、そういうことでした。御子を被造物とするアレイオスの教説 に対して、原ニカイア信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条は、御子は御父と 「同質(同じ本質)」(ホモウシオス)であるという一語によって、その核心部分におい て拒絶していきます12。ここでは「御子と御父との関係が告白されて」いきます13。この 「同質」(ホモウシオス)という言葉は、「本質(ウシア)を同じくする」、「同質の ものから成る」という意味の形容詞で14、「同じ本質の者」という意味です。ここで言お うとしたことは、「子が父と同じ本質の者である」15ということで、前記したように、信 条が告白しようとしたことは、「御子キリストが父なる神と全く同じ意味で真の神であ る」ということでした。そしてその意味で、なお御父と御子との関係はどのようなもので あるかを告白していったのでした。


3.御子は「御父と一つ」である方

 こうしたニカイア信条の表現は、あまりにも抽象的で観念的だと感じられるかもしれま せん。しかしこうした表現は、主イエス御自身の言葉や主イエスについての証言を言い表 したものでした。そのことを聖書から見ていきましょう。主イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた時、聖霊が主の上に降る中で、「これはわたしの愛する子、わたし の心に適う者」という声がしたとあります(マタイ3章16、17節)。マルコとルカで は、それは「あなたはわたしの愛する子」と主イエスご自身に呼びかけられたものとなっ ています(マルコ1章11節、ルカ3章22節)。また高い山の上で主イエスのお姿が変わ り、光り輝く雲(神の栄光を現すシェキナ)に覆われる中で本来のお姿を現された時に も、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が響きま した(マタイ17章5節、マルコ9章7節、ルカ9章35節)。ここで現された「太陽のよ うに」(マタイ17章2節)「栄光に輝く」姿こそ(ルカ9章32節)、主が「世界が造ら れる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」でした(ヨハネ17章5節、同2、 22、24節参照)。そしてこれにより、御父にとって主イエスは「愛する子」であられる ことが明らかにされます。


 そしてご自分を「愛する子」と呼んでくださる御父に対し、主イエスも、「アッバ、父 よ」と呼びかけられました(マルコ14章36節)。このように御父と御子である主イエス との間には、深く親密な愛の関係がありました。そこで主イエスは、「わたしと父とは一 つである」と言われ(ヨハネ10章30節)、「わたしが父の内におり、父がわたしの内に おられる」とも言われて(同14章10、11節、10章38節)、ご自身が御父と一つであり、 親密な交わりの中におられることを明らかにされました。だから「わたしを見た者は、 父を見たのだ」と言うことができました(同9節)。「あなたがたがわたしを知っている なら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや既に父を 見ている」と(同7節)。そしてこの御父との深い親密な交わりは、御父に対する祈りに おいても表されます。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのも のです」と(同17章10節)。そしてその祈りにおいて、ご自身が御父と一つであるよう に、ご自身に連なる者たちも、御父と一つになるようにと祈られます。「父よ、あなたが わたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてくださ い。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(同21節)。「あなたがくだ さった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一 つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼ら が完全に一つになるためです」と(同22~23節、11節、14章20節)。前述のように、ニ カイア・コンスタンティノポリス信条は、御子を被造物とするアレイオス主義に対して、 御子は御父と「同質」であるという一語によって拒絶しました。たしかに、こうした「同 質」という言葉は聖書には出てきませんし、そのためにこうした言葉を使用すること自 体が、当時の多くの主教たちによって批判され、拒絶されることさえありました16。しかしこれは実は、「『わたしは父と一つである』や『わたしを見た者は、父を見たのだ』 などの新約聖書の証言を表したもの」17と言うことができます。


4.御子は「御父と同質」である方

 アレイオスと真っ向から対立したアタナシオスは、次のように論じました。「御子の本 性は御父の本性と分離されないものであり、御子が後になって神性を受けたということは ない。父の神性は子の中にある」18。「従って、御父は永遠の方であられるのですから、 御子も永遠の方でなければなりません。御父の内にあると私どもが理解しているものは何 であれ、御子の内にもあることには疑問の余地はないからです。実に、主ご自身が次のよ うに言っておられるのです。『父が持っておられるものはすべて、私のものである』(ヨ ハ16章15節)。そして、『私のものはすべて父のものである』(ヨハ17章10節)。です から、御父は永遠の方であられ、御子もまた永遠の方であられるのです。実に、この方 〔御子〕を通して諸々の世は作られたのです(ヘブ1章2節)。御父が存在されます。当 然、御子もまた〔存在される〕のです。パウロが言っているように、〔御子は〕『万物の 上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン』(ローマ9章5節)。御父につい て、『存在しなかった時がかつてあった』と言うことは許されません。御子について、 『存在しなかった時がかつてあった』と言うことは許されないことです。御父は万物を支 配する方であられます。御子も万物を支配する方であられます。『今おられ、かつておら れ、やがて来られる方、万物を支配される方』(黙1章8節)と、ヨハネが言っているか らです。御父は光であられ、御子は反映〔輝き〕であられ、真の光であられます。御父は 真の神であられ、御子も真の神であられます。実に、ヨハネが次のように記しているとお りです。『私たちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この 方こそ、真の神、永遠の生命です』(1ヨハ5章20節)。御父が有しておられ、御子が 有しておられないものは何一つとしてないのです。それゆえ、御子は御父の内におられ、 御父もまた御子の内におられるのです。御父の有しておられるものが、そのまま御子の内 にあり、かつまたそのまま御父の内にあると理解されるからです。同様に、『私と父とは 一つである』(ヨハ10章30節)という言葉も理解されます。〔御父〕の内にあるもの と、御子の内にあるものは別々のものではなく、御父の内にあるものが、そのまま御子 の内にもあるからです。そして御父の内にあなたが見ているものを、御子の内にあなたは 見ているのですから、『私を見た者は、父を見たのだ』(ヨハ14章9節)という言葉は 正しく理解されるのです」19。


 そしてそこから御子と御父との「同一性」が論じられていきます。「御父の姿と神性は御子の存在であるから、御子は御父のうちにあり、御父は御子のうちにある。したがっ て、キリストは前に『私と父は一つである』と言った時、『私は父の中にあり、父は私の 中にある』と加えた。それは神性の同一性および本体(ウシア)の唯一性を示すためで ある。確かに、父と子は二つである。なぜなら父は父であり、同じ父は子ではないから である。また同様に、子は子であって、同じ子は父ではないからである。しかし本性 (フュシス)は一つである。なぜなら、生まれた者は生む者と不同のものではないからで ある。というのは、子が父の像であり、父の持つすべてのものが子のものでもあるからで ある。したがって御子は別の神ではない。子は外部にあるものによってつくられた者では ない。もし御父の神性と別な神性を考えるならば、確かに数多くの神々を考えることにな るであろう。ところが、御子は生まれた者として御父と別の者ではあるが、神として御父 と同じである。御子と御父は、彼らが自分のものとして持っている同じ本性の点で、ま た、唯一の神性の同一性の点で一つである。・・・御子の神性は御父の神性そのもので ある。したがって分離されないものである。故に、神は唯一であり、この方のほかに神は ない。・・・御父と御子は一つであり、神性は一つであるからこそ、父という名のみを除 いて、御父について主張されるすべてのことは、御子についても主張されるのである」 20。こうしてアタナシウスは、「父と子の本質の唯一性を主張する」ことで、「父と子は 神としては区別されず、父と子としては区別されている」という、したがって「『父』と いう名を除いて、父なる神について主張されるいっさいのことは、子についても主張され るべきである」として、「子は父と『同じ本質』をもっているだけではなく、父と『一 体』である」ことを明確にしていったのでした21。


 なにより主イエスは、ご自分と御父とが「一つ」であることを明らかにされました。御 子である主イエスが御父と「一つ」であることにおいて、主は御父と同じ栄光の輝きに包 まれた方で、山の上でそのお姿を垣間見せられたように、それは「世界が造られる前に」 御子が御父のみもとで持っておられた栄光であり(17章5節)、「天地創造の前から」 御父が御子を愛して、与えられた御子としての栄光でした(同24節)。そしてこう言われ ました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべ ての人を一つにしてください」(同21節)。「わたしが彼らの内におり、あなたがわた しの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と(同23節)。御父と御子 との一つの交わりの中に、わたしたちも加えられて神と一つにされていき、わたしたち自 身も一つにされていく、そのような生きた交わりの中に加えられていきます。そしてそれ は、御子が御父から天地創造の前に与えられた栄光の輝きに、わたしたちも加えられると いうことですが、それはこの御父と御子の一つである交わりを知ることにあります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・ キリストを知ることです」(同3節)。主は言われました。「わたしは御名を彼らに知 らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあ り、わたしも彼らの内にいるようになるためです」と(同26節)。わたしたちも、御子 による啓示によって、永遠の神の独り子である御子イエス・キリストご自身を、いよいよ 深く知り、正しく理解することによって、いよいよ御父をも深く知り、理解し、この方を 信じていく者とされていきたいと思います。「わたしたちは知っています。神の子が来 て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子 イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」(1ヨハネ 5章20節)。




1 P.ネメシェギ、『新訂 父と子と聖霊-三位一体論-』上智大学神学部編現代神学叢書3、1984年、南窓社、128~129頁

2 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、164頁参照

3 関川泰寛、『ニカイア信条講解-キリスト教の精髄』、1995年、教文館、101頁

4 渡辺、前掲書、159頁参照

5 同上、

6 同上、

7 第12講、4~6頁参照

8 渡辺、前掲書、164頁参照

9 関川、前掲書、97頁

10 同上

11 ネメシェギ、前掲書、126頁

12 関川、前掲書、102~103頁参照

13 同上、97頁

14 渡辺、前掲書、164~165頁

15 ネメシェギ、前掲書、128頁

16 関川、前掲書、104頁

17 同上、103頁、そうした経緯については、渡辺、前掲書、124頁以下を参照

18 ネメシェギ、前掲書、134頁

19 アタナシオス、「セラピオン宛ての手紙」2・1~9、小高編『原典 古代キリスト教 思想史』2 ギリシャ教父、2000年、教文館、47~48頁

20 アタナシオス、「アレイオス派駁論」3・3~4、小高編『原典 古代キリスト教思想 史』2 ギリシャ教父、2000年、教文館、46~47頁

21 ネメシェギ、前掲書、135~136頁