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第10課 主にある赦しと和解の交わり

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第 10 課:主にある赦しと和解の交わり(使徒9章 26~30 節、2011 年3月6日)


《今週のメッセージ:主にある赦しと和解(2コリント2章 1 0 節)》

 ダマスコから逃亡したサウロはエルサレムに向かい、ペトロの許に滞在します。 しかしヤコブ以外の使徒とは誰とも会わず、わずか二週間でタルソスに向かうこと になります。その間のエルサレムの兄弟たちとの交わりはどのようなものだったの でしょうか。かつての迫害者に対する、冷淡でよそよそしい態度に接し、サウロは 針のむしろにいる思いだったのでしょうか。他の使徒たちは、彼の悪行を赦すこと ができなかったので、彼に会おうとさえしなかったのでしょうか。そのため滞在が 短期間で終わってしまったのでしょうか。むしろサウロはそこで得がたい経験をし たのではないかと考えられます。そこでペトロ、ヤコブと深い信頼関係を築くこと ができたからこそ、1 4 年後のエルサレム会議で、パウロの働きを肯定的に認める、 異邦人に有利な決定がなされたと考えることができるのです。そこでサウロが出会 ったことは、かつての教会の迫害者に対する、兄弟たちからの赦しと和解でした。 サウロは、主にある兄弟として受け入れられ、暖かく迎え入れられました。彼自身 が兄弟たちから赦され、受け入れられていった、その赦しの経験と和解の交わりが、 「赦しの言葉」となって、パウロの心と口から溢れ出ていくようになったのでした。


1.エルサレムでのサウロの待遇

 ダマスコからアラビア、そして再びダマスコと福音宣教したサウロは、ユダヤ人の暗殺 計画とナバテヤ王国アレタス4世からの追っ手のため、ダマスコを逃亡することになりま す。夜の間に籠に乗せられて城壁からつり降ろされることで、命からがら逃げることにな りました(使徒9章25節、2コリント11章32、33節)。そこから向かった先がエルサレム でした。どうしてサウロはエルサレムに行ったのでしょうか。そこには何をしに行き、そ こで誰と会ったのでしょうか。使徒言行録9章では、エルサレム教会の兄弟たちに会おう としたけれど、かつての迫害者として警戒され、恐れられたこと、しかしバルナバが仲介 役となってサウロを紹介し、そのため使徒たちと交わりを持てるようになったこと、そこ でサウロはエルサレムでも福音宣教したけれども、それがサウロを殺そうとするきっかけ となり、やむなくエルサレムを離れて故郷タルソスに向かったことなどが記されます(26 ~30節)。パウロ自身の言葉によれば、彼はケファ、つまりペトロに会おうとしてエルサ レムに向かい、そこで15日間ペトロの許に滞在し、他の使徒たちには会わなかったけれども、主の兄弟ヤコブとは会ったこと、それは回心して3年後のことだということが語られ ます(ガラテヤ1章18、19節)。どうしてサウロは3年間、エルサレムに行こうとしなか ったのでしょうか。回心後すぐにペトロたちと会って、主イエスに対する信仰について深 く学び、彼らと共同戦線を張るということは考えなかったのでしょうか。それは今となっ ては謎で、憶測でしか考えることができませんが、やはりサウロとしては、行きづらかったと考えるのは、間違いではないでしょう。なぜなら彼は、まさにそのエルサレムで、徹 底した迫害をしていたからでした。彼の悪行がすぐにも忘れ去られて、エルサレム教会で 歓迎されると考えることは難しかったということができるかもしれません。案の定、最初 は兄弟たちから恐れられ、いわば遠巻きに見られるような状況でした。ここでバルナバの 仲介がなかったら、ずっと敬遠されたままだったかもしれません。しかもここで彼がエルサレムに滞在したのはわずか二週間ほどでしたし、ペトロとヤコブ以外は誰とも会わなか ったと本人が語っています。そこからこのエルサレムでの生活は、彼にとっては、針のむ しろにいるようなつらい経験だったと推測されてきました。


 そう考えるのは当然で、使徒言行録22章にも、彼が神殿で祈っていたとき、主の幻を見 て、そこですぐにエルサレムから出て行くように命じられたことが伝えられます。そこで は人々がサウロに反対し、彼が人々から受け入れられないことが明らかにされます(17~ 21節)。ここで彼が、「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄 したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの 証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者た ちの上着の番もしたのです」と語る通り、3年経ったそのときでも、サウロの迫害の記憶 というものは、そんなに簡単に消え去るものではなく、人々の心に焼きついていたわけで すから、諸手を広げて彼を迎え入れるということが考えにくいことは当然と言えるでしょ う。エルサレム教会には、彼によって捕らえられたり、投獄された教会員がいたかもしれ ませんし、彼から尋問や拷問を受け、鞭を打たれた人がいたかもしれません。自分ではなくとも、自分の家族や親戚、友人がひどい目にあわされたという人もいたかもしれません。 彼によって家族が離散するはめになり、ばらばらになってしまったという人もいたかもし れません。そうしますと、いくら主イエスを信じて、兄弟になったといっても、心から歓 迎されるということはなく、冷たい視線を浴びながら、よそよそしい態度で接しられ、エ ルサレム教会では冷遇された、そのためエルサレム滞在を早々と二週間で切り上げて出て 行ったと考えるのです。そこでは他の使徒たちさえ会ってもらうことができず、会ってく れたのはせいぜいペトロとヤコブだけだったのだと。以前、使徒言行録をお話ししたとき は、そのようにお話ししましたし、パウロについての本も、たいていはそのように書かれ ています。しかしさらに深くパウロの生涯について学び、考えてきた今、それを訂正した いと考えています。サウロのエルサレム滞在というのは、そのようなものではなかったはずだと考えるようになったからです。かつての迫害者サウロを、エルサレムの信者たちが そう簡単に赦し、彼に対して心を開くはずはないし、彼が歓迎されるはずもないというの は、人間の常識というか、人情としては分かります。しかし丁寧に考えていくこと、そう ではないはずだと言わざるをえないのです。


2.赦しによる交わりの回復

 たしかに使徒22章では、主イエスご自身から彼が「人々」から受け入れられないこと、 彼のかつての迫害の記憶が彼らに残されていることが語られています。しかしそもそもこ の「人々」とは誰のことでしょうか。エルサレム教会の教会員を含むエルサレムの人々と 考えるなら、以前話したような状況が成り立つでしょう。しかしここでの文脈は、パウロ が神殿で人々からリンチを受けている中での場面で、それほどパウロがユダヤ人たちから 排除されているという状況での発言です。ここでサウロを受け入れようとしない人々とは、 エルサレム教会の兄弟たちを除いた、エルサレムのユダヤ人たちのことです。ここで彼が 迫害者であったという記憶は、エルサレム教会の信者たちが憎しみを抱きつつ、なお保持 していた記憶だというのではなくて、あれほど頼もしかった彼が、敵側に寝返ったという、 ユダヤ人たちの裏切り者に対する記憶として覚えられていて、それがために彼の発言を受 け入れることがないというように理解することができます。事実、彼がエルサレムから退 去せざるをえなくなるのは、ユダヤ人たちの暗殺計画があったからで、身の安全をはかる ため、やむなく出て行ったものでした。それはエルサレム教会での居心地が悪かったので、 早々に出て行ったということではないのです。それではどうしてペトロとヤコブ以外の使 徒たちは、彼に会わなかったのでしょうか。彼を赦すことができず、敬遠したからでしょ うか。そうではなくて、そもそもエルサレムにいなかったからだと考えられます。ペトロ とヨハネ以外の使徒たちの名前は、ペンテコステ以後、出てきません。それは彼らが宣教 へと出て行ったからでした。もし居たとしても、裏切り者への制裁を下そうとするユダヤ 人たちの報復を考えたら、サウロが表立った行動をすることはできなかったのは当然で、 それに配慮して会わなかったと考えることもできます。しかしルカは、バルナバの紹介後、 「サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し」たと記していますから(使徒9章28 節)、限られた範囲の中で彼らとも会うことはあったのではないでしょうか。


 いずれにしてもエルサレムでサウロは、兄弟たちから冷遇されて針のむしろのような状 況だったと考えるのは、あまりにも人間的な理解です。かつての迫害者を、容易には赦そうとせず、よそよそしい態度で迎えられて、サウロはいたたまれない思いだったとするの は、間違いだと思います。普通の人間関係においてはそうでしょうが、キリスト者同士の 交わりにおいても、はたしてそうなのでしょうか。むしろその方が考えにくいと言うこと ができます。たしかに最初は疑惑の目で見られ、恐れられたかもしれませんが、彼が本当に主イエスと出会い、それによって回心し、新しく変えられたことを知ったとき、むしろ サウロはエルサレムの兄弟たちから、心から喜びをもって迎え入れられたのではないでし ょうか。かつては自分たちを苦しめた者が、同じ主イエスへの信仰に生きるようにされ、 同じ主の兄弟となったことを知ったとき、わたしたちもそれを喜び、主の御名をたたえな がらその人を迎え入れるのではないでしょうか。そのように一人の罪人を新しく造り変え てくださる、主の恵みを覚えて、共々に主に賛美をささげていくようになる、それがむし ろキリスト者の常識ではないでしょうか。パウロ自身、これはエルサレムの兄弟たちでは なく、キリキアの兄弟のことですが、こう証言しています。「ただ彼らは、『かつて我々 を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』 と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました」と(ガラテヤ1章23、24節)。 ペトロもヤコブも、心からはサウロを赦す気にはなれず、仕方なく会ったとするなら、そ れは間違いです。もしそうであったら、この14年後に行われたエルサレム会議で、ペトロ とヤコブがパウロの宣教の結果を、あのように受け入れ、異邦人キリスト者に有利な決定 がなされることはなかったはずでした。このときのペトロ・ヤコブとサウロとの面談が、 キリストの恵みに満ちた幸いなものだったからこそ、その後ずっと会うことがなかった彼 らが、一堂に会して会議をしたとき、あのような恵みに満ちた決定へと導かれていくこと ができたのです。このとき両者の間には、キリストにある深い信頼関係が築かれていった と理解することができます。


3.キリストにある赦しと和解

 そしてそこでサウロは、なによりも得がたい経験をしたのではないでしょうか。それは、 キリストにある赦しと和解の経験でした。3年前、エルサレムの教会は彼によって壊滅的 な打撃を受けました。そしてその迫害による後遺症は、拷問や鞭打ちの痕といった身体的 なものばかりではなく、精神的にも経済的にも、様々な意味でなお残っていたはずでした。 サウロがエルサレムで為した悪行は、決して容易には拭い去られるものではなかったこと はたしかでしょう。けれども彼らは、かつての迫害者サウロを、主にあって心から赦し、 主にある兄弟として受け入れていったのでした。そしてわたしたちの主は、このような驚 くべき恵みの御業をしてくださると、共々に主を賛美し、感謝しながら、互いに喜び合っ たのでした。こうしてサウロは、ダマスコの途上で主から赦され、主によって受け入れら れただけではなくて、同じ主にある兄弟たちによっても赦され、主にある兄弟として迎え 入れられていきました。それはサウロにとって、どれほど大きな経験だったことでしょう か。前回、サウロは主イエスから「和解のために奉仕する任務」を授けられたことを見ま した(2コリント5章 18~21 節)。しかしこれは単に理念的なものでも、観念的なもので もなく、パウロにとっては具体的で、現実的なものでした。かつて激しく憎み、苦しめて いった人々から、赦され、受け入れられて、和解することができた、その信仰の恵みを彼自身が経験し、味わった、それがエルサレムでの二週間だったのではないでしょうか。彼 は、エルサレムの兄弟たちから、赦され、受け入れられ、主にある兄弟として迎え入れら れていったのでした。その経験が、彼の語る「和解の言葉」を力あるものとし、実体ある ものとして力強く語らせていくことになったと言うことができるのです。こうして、かつ ての教会の迫害者は、主と和解すると共に、主にある兄弟たちとも和解することができた のでした。それはどれほど素晴らしい交わりであり、体験だったことでしょうか。


 教会は、キリストにある赦しと和解を宣べ伝えるだけではなくて、まさにそれに生きて きました。その姿は、最初の殉教者ステファノの死に様にも表されています。激しい憎し みと敵意の中で、石を投げつけられながら、まさに最後の息を引き取ろうとするとき、ス テファノの口から出てきた最後の言葉は、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」 という赦しの祈りでした(使徒7章60節)。それはわたしたちの主イエスご自身が十字架 の上で祈られた祈りに由来するものでした。主はこう祈られました。「父よ、彼らをお赦し ください。自分が何をしているのか知らないのです」と(ルカ23章34節)。そして主に従 う者たちも、主の赦しの祈りに生きていったのでした。パウロの時代には、まだユダヤ教 の一分派にすぎなかったキリスト教は(正確にはまだナザレ派と呼ばれた分派で、キリス ト教となるのはユダヤ教から分離してから)、70年の神殿崩壊と共に、ユダヤ教から分離 させられていきます。ユダヤ独立戦争の敗北によってエルサレムは徹底的に破壊されます。 神殿も破壊された後、ユダヤ教はファリサイ派律法学者の指導による律法の宗教として存 続していくことになりますが、その際これまで分派とされていたキリスト教は、会堂から 排除されることになります。ユダヤ人が毎日三度祈る祈りであり、また会堂での安息日礼 拝で祈られていた祈り(シェモネー・エスレー、十八の祈り)に、分派と異端を排除する 祈りが加えられて祈られるようになります。分派と異端は、神によって呪われ、滅ぼされ ることが、毎日三回また安息日ごとの礼拝で祈られるようになりました。そこではもはや キリスト者が、会堂で共に礼拝を守ることは困難となってしまいます。そうやって同じユ ダヤ人同胞から、日に三回また安息日ごとに、神による裁きと断罪を祈られ、神による呪 いが求められるようになっていったのでした。


 しかしその中でキリスト者たちは、その呪いの祈りに対抗していくことになりました。 それが「主の祈り」でした。もちろん「主の祈り」は、それまでもずっと礼拝の中で祈ら れ続けていたわけですが、それが福音書に記録されるのはマタイ福音書・ルカ福音書にお いてで、70~80年代のことです。そしてそれはちょうどキリスト教がユダヤ教から排除さ れることで、分離せざるをえなくなっていった時代のことでした。そこで呪いをかけられ る祈りに、彼らは対抗していきました。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪 をも赦したまえ」と、赦しの祈りを祈ることによってでした。暴力を振るわれても、理不尽な扱いを受けても、彼らは「赦し」でそれに立ち向かっていきました。その赦しの心は、 70~80年代になってはじめて生まれてきたものではなく、主イエスからずっと受け継ぎ、 ステファノをはじめとするキリスト者たちによって引き継がれていったものでした。


4.わたしたちを生かす「赦しの祈り」

そしてかつての教会の迫害者サウロがエルサレム教会で出会ったことも、この「赦しと 和解」だったのではないでしょうか。あれほど激しく迫害し、苦しめ、殺しさえしたこの 「罪人のかしら」を、冷遇し、よそよそしく突き放したのではなく、主の兄弟として赦し、 抱きしめ、暖かく迎え入れていったのでした。ユダヤ人による暗殺計画のゆえに、急遽エ ルサレムを去らなければならなくなったとはいえ、そこでの二週間の滞在は、ペトロ、ヤ コブをはじめとする主の兄弟たちとの、豊かで暖かい素晴らしい交わりだったのではない でしょうか。そこでサウロは、観念的な教理ではなく、抽象的な理念でもない、キリスト にある真実な赦しと和解に出会い、知り、味わったのでした。そしてそれが、彼がこれか ら自分の命をかけて語っていく「命の言葉」となっていくのです。このような確かな赦し を経験したパウロだからこそ、彼が語った「和解の言葉」も、抽象的な理念や観念的な教 理ではない、生きた具体的な「赦しの言葉」となっていったのでした。彼自身が主によっ て赦され、受け入れられただけではなくて、主の兄弟たちからも赦され、受け入れられて いった、その赦しの恵みが彼の心から、口から溢れ出てくる言葉となっていったのでした。


 後にパウロを耐えられないほども苦しみをあわせたコリントの教会に向けて、パウロは こう語りました。「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのでは なく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その 人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみ に打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその 人を愛するようにしてください。・・・あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも 赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたが たのために赦したのです」と(2コリント2章5~10節)。主イエスの赦しと兄弟たちの 赦しを自ら知ったパウロは、赦しに生きていくと共に、赦しを語っていきました。激しい 敵意と憎しみに直面しながら、そこでパウロは繰り返し赦しを祈り、赦しに生きていきま した。「赦される」ことの恵みを味わい知っていたからです。そしてそのパウロの心に響 き続けていったのは、かつて若きとき、その死に様をじっくりと見つめた、あのステファ ノの祈りだったのではないでしょうか。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。 そしてまた彼を赦した兄弟たちから聞いた、主イエスの祈りだったのではないでしょうか。 今日、この赦しの言葉を聞きました。しかしそれでもなお、赦すことができずにいるわた したちなのかもしれません。自分は赦されていながら、人は赦すことができず、いや赦そ うとせず、自分の赦しだけは求める身勝手なわたしたちなのかもしれません。しかしそのわたしたちのために、主は今も祈り続けてくださっているのです。「父よ、彼らをお赦しく ださい。自分が何をしているのか知らないのです」と。真実に赦されることを知る中で、 わたしたちも赦しの恵みに生きる者とされていきたいと思います。