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第1課 決められた道を走りとおし

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第1課:決められた道を走りとおし(2テモテ4章6~8節、2011 年1月2日)


《今週のメッセージ:自分の道を最後まで走り抜く(2テモテ4章7節)》

 パウロは、「自分の決められた道」が何であるかをわきまえていました。そして それを走りとおすことが、自分の使命であると受け止めて、それに熱心に取り組ん でいきました。わたしたちにとって「自分の決められた道」とは何でしょうか。わ たしたちは、それとは違う道を求めてふらつき、迷い、目をうろつかせてはいない でしょうか。確かにそれは必ずしも喜ばしい道ではないかもしれないし、楽しく嬉 しい、幸せでやりがいのあることではないかもしれません。他の人を見るとうらや ましくなり、自分ばかり貧乏くじを引かされると恨めしく思うかもしれません。こ れは自分の仕事ではない、自分の人生はもっと別のものだと放り投げたくなり、逃 げ出したく思うわたしたちです。しかしそれが「自分の決められた道」であるのな ら、わたしたちはふらついたり、迷ったり、目をうろつかせたりしないで、「自分 の決められた道を走りとおし」ていきたいと思います。そのためには、「後ろのも のを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る」ことが大切 です。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」、「自分に定めら れている競走を忍耐強く走り抜」いていきましょう。自分が失格者にならないよう に。


1.自分の道を走り抜くこと

 以前、娘の運動会を見に行ったとき、様々な競技を見ながら色々と考えさせられました。 百メートルや二百メートルといった短距離走と、四百や千五百といった中・長距離走では、 走り方が違います。ペース配分や他の選手との駆け引きの違いもありますが、なによりも 短距離の場合、自分のコースが定められています。中・長距離になると、最初は自分のコ ースを走っていても、あるところからはそれぞれ入り乱れて、抜いたり抜かれたりしなが ら走っていくわけですが、短距離では自分のコースが決められていて、どんなに早く走っ ても、誰よりも早くゴールしたとしても、自分のコースから外れたり、隣のコースに侵入 したら失格となります。そんな様子を見ながら、自分の人生について考えさせられてしま いました。テモテに宛てた手紙の最後でパウロは、「わたしは、・・・決められた道を走り とおし」たと語りました(2テモテ4章7節)。どんなに隣のコースが魅力的でも、そちら に移るわけにはいかないし、コースを変えるわけにもいきません。それぞれに自分に決めれたコースがあって、自分に定められたその道を走り抜いていくことが求められる、そ れがわたしたちの人生ではないでしょうか。自分の進むべき道を、迷うことなくまっすぐ に進んでいく人もいれば、この道で本当に良いのだろうかと迷ったり、もっと別の道はな いのだろうかと模索しながら、自分の道を探し続ける人もいるでしょう。まっすぐ進んで いたのに、問題が起こってつまずき、そこで立ち止まらされるということもありますし、 周りの人の道を見ながら、うらやましく思ったり、妬ましく考えたりしながら、なかなか 自分の歩んでいる道を受け入れられないでいるということもあるかもしれません。そうや ってわたしたちは、何らかの形で、自分の道がどのようなものかを考えさせられながら、 進み続けているということができると思います。ここでパウロは、自分には「決められた 道」があると語ります。そしてそれを最後まで走り抜いた、完走したと言うのです。それ が次に考えた二点目で、わたしたちには、それぞれに自分に定められた道があり、別の道 ではなく、自分に決められたその道を走り続けていくということと共に、さらにその道を 最後まで走り抜いていくということも大切です。どんなに早く走っても、途中で棄権して しまったら、順位はつきません。しかしたとえどんなに遅くても、また途中でへたりこん でしまったとしても、リタイヤしないで最後まで走り抜いたら、順位はつきます。大切な ことは早さや順位ではなくて、最後まで走り抜き、完走するということです。


 これまでは使徒信条とか礼拝とか信仰生活といった主題に基づく学びを積み重ねてきま したが、そろそろ聖書そのものを読む学びに戻りたいと考えて、中断していたローマ書の 学びを始めていました。しかし学べば学ぶほど、パウロの手紙というのは、彼の人生と切 り離して理解することができないものだということに気づかされました。彼が手紙の中で 書き記していることは、その生涯の中で直面した様々な諸問題に応答する形で書かれたも のですから、それと不可分の関係にあります。特にローマ書は、そこで語りかけている相 手がおり、また論争している相手がいますから、その正体を知らないと、パウロの議論が よく掴めないという面があります。もちろんパウロの生涯と手紙については、これまでも 何度か学んできました。ですからすぐにローマ書に戻っても良いわけですが、いきなりロ ーマ書に入っても、内容についていけない方もおられるかもしれません。しかしそれ以上 に、パウロが相手にした人々、特に論敵として応答している相手が、どのような人たちで、 その主張はどのようなものだったのかを、わたし自身もう一度学び直してみたいという思 いがありました。そこでパウロの生涯を学び直したのですが、それにより、これまで教え てきた内容にいくつかの修正を試みたいと考えるようになりました。どちらかというと、 より保守的な見解に戻ったということで、具体的にはガラテヤ書がいつ書かれたのかとか、 パウロとペテロが衝突したアンティオキア事件というものがあったわけですが、それがい つ起きたかということなどについて、前に話したことを修正したいと考えています。これ らのことは小さなことではなくて、実はガラテヤ書はもちろんのこと、ローマ書、そしてフィリピ書の理解を変えてしまう面があります。そこでローマ書に戻るのをもう少し待っ ていただき、礼拝ではまずパウロの生涯をたどることで、パウロの手紙を読んでいくため の備えをしたいと考えています。しかし祈祷会では、さっそくパウロの手紙の学びを開始 したいと思います。


2.賞を得るために走る

 パウロの生涯と手紙を学ぶにあたり、その最初の導入として、パウロの最後の手紙、遺 書とも言うべき『テモテへの手紙 二』の、そのまた最後の部分を取り上げました。今日 はまた今年最初の礼拝でもあるわけで、心新たな思いで礼拝に集って来られたことと思い ますが、新しい一年を始めるわたしたちが聞くべき最初の言葉として、パウロの最後の言 葉を選んだわけです。2テモテ4章6~8節をご覧ください。「わたし自身は、既にいけに えとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜 き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかり です。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」最初 にお話しした通り、ここから二つの点を考えたい、それは、わたしたちにはそれぞれ自分 に「決められた道」があるということと、それを走りとおし、最後まで走り抜いていくと いうことです。このことを一年の最初の歩み出しとして考えることで、新しい一年を歩み 始めていきたいと思うのです。またこのことを、パウロの手紙の学びにおける一貫した主 題としても考えていきたいと思っています。パウロとは、結局一体誰だったのか、どのよ うな人物だったのか、その生涯とはどのようなものだったのかという問いに答えるなら、 パウロとは自分に決められた道を走りとおし、それを最後まで走り抜いていった人だった ということで、わたしたちもそれに倣っていきたいと考えるからです。そのことをパウロ 自身の言葉から見ていきましょう。まず1コリント9章24~27節です。「あなたがたは知 らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あな たがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽 ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制する のです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘も しません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教して おきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」ここでパウロは、ただや みくもに走るのではなくて、賞を得るように走るということと、失格者にならないために 自己訓練することの必要を語ります。それは自分の道を走り抜いていくということに集中 していくということでしょう。


 そういうパウロでしたから、ガラテヤ2章2節、「エルサレムに上ったのは、啓示によ るものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、ある いは走ったのではないかと意見を求めました。」「おもだった人たち」とは、9節にあるよ うに、エルサレム教会の指導者であった「ヤコブとケファとヨハネ」の三人のことですが、 彼らにこれまで自分が果たしてきた働きについて尋ね、それが無駄なことだったのかどう かを確認します。このようにパウロは、自分に決められた道を自分がきちんと走っている かどうかを確認しながら、走り続けた人でした。しかしそれにもかかわらず、こうも語り ます。フィリピ3章12~14節、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完 全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自 分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえ たとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を 向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目 標を目指してひたすら走ることです。」自分の道を最後まで走り抜いていくためには、「後 ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る」ことが大切 です。わたしたちは、これまでどれほど後ろを振り返り、周りを見回すことで、力を無駄 に費やしてきたことでしょうか。皆さんは十分ご存知だと思いますが、走るという競技に おいては、前を向いて一心に走り抜くことが、一番大切です。自分の後に誰がついている のか、自分は追い抜かれるのではないかと心配で、つい後ろを振り向いてしまうわけです が、それは自分の走るペースを崩し、エネルギーを無駄に消費してしまうことになるのだ そうです。だから後ろを振り向いてばかりいると、かえって追い抜かれてしまいます。一 番になるには、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたす ら走る」ことが大切です。主イエスも、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国 にふさわしくない」と言われました(ルカ9章62節)。後ろを振り返りながら、鋤をかけ ていくと、その度に家畜が反応して蛇行してしまい、まっすぐに鋤をかけることができな いことを語っています。信仰の道も同じではないでしょうか。


3.目標を目指してひたすら走る

 ルカは、使徒言行録の中で、エフェソの長老たちに語ったパウロの言葉を引用します。 「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、 よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、 ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕 えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがた に伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信 仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、 “霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分 かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、 また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすこ とができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(20章18~24節)。パウロは、「自分の決められた道」が何であるかをわきまえていました。そしてそれを走りと おすことが、自分の使命であると受け止めて、それに熱心に取り組んで生きていきました。 わたしたちにとって「自分の使命」とは何でしょうか。「自分の決められた道」とは何で しょうか。わたしたちは、それとは違う道を求めてふらつき、迷い、目をうろつかせては いないでしょうか。それは自分にとって、必ずしも喜ばしい道ではないかもしれません。 楽しく嬉しい、幸せでやりがいのないことではないかもしれません。他の人を見るとうら やましくなります。そしてどうして自分ばかり、こんな貧乏くじを引かされるのかと恨め しく思ってしまうかもしれません。これは自分の仕事ではない、自分の人生はもっと別の ものだと、自分に委ねられている働きを放り投げたくなるわたしたちです。できれば逃げ たいと思うわたしたちです。しかしそれが「自分の決められた道」であるのなら、わたし たちはふらついたり、迷ったり、目をうろつかせたりしないで、「自分の決められた道を 走りとおし」ていきたいと思います。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 目標を目指してひたすら走る」のです。なぜなら、それが「自分の決められた道」だからです。


 最後に、パウロの弟子が書いたとされるヘブライ書を開きましょう。12章1、2節です。 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれてい る以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐 強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめなが ら。」「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こう」と呼びかけられます。わたし たちはパウロの手紙を読んでいきます。そしてそのための備えとして、まずパウロの生涯 について学んでいきます。その目的は、わたしたちが、「自分に定められている競走」を 最後まで忍耐強く走り抜いていく秘訣を、パウロを通して学ぶためです。今朝の礼拝では、 イザヤ40章30、31節の約束を読みました。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れよう が、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることな く、歩いても疲れない。」そしてこの詩編の言葉で礼拝に招かれました。「主よ、あなた の道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことが できるように、一筋の心をわたしにお与えください。」(詩編86編11節)一年が新しく始 まる最初に先立って、わたしたちも、「一筋の心」を与えてくださいと祈りつつ、「自分 の決められた道」を走り抜いていきたいと思います。「後ろのものを忘れ、前のものに全 身を向けつつ、目標を目指して」です。そしてその目標こそ、「信仰の創始者また完成者 であるイエス」なのです。