第8課 新しい使命への胎動

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第8課:新しい使命への胎動(2コリント5章 16~21 節、2011 年2月 20 日)


《今週のメッセージ:新しくされるための暗闇(2コリント5章 1 7、1 8 節)》

 ダマスコ途上で復活の主と出会ったサウロは、そこで「異邦人の使徒」としての 召命を受けます。しかしそこでただちに福音宣教へと赴いたのではなく、これまで の自分を省み、真実に神へと向かわされる「時」を持たされます。目が見えなくさ れることで、行動的な彼は動くこともできず、暗闇の中で、ただ祈ることしかでき ない状態へと追いやられます。しかしそれがサウロに必要なことでした。このよう なことでも起きない限り、神へと真実に思いを向け、その御心に沈潜していくこと などなかったことでしょう。そして自分は神に熱心だと思い込んだまま、そうと知 らずに神の御心と正反対の道を突き進んでいったことでしょう。主はそのサウロの 道を阻み、行く手をさえぎって、これまでの人生を強制終了させられます。そして 祈ることへと追いやられるのでした。それによってサウロは、はじめて本当の意味 で、神と向かい合わせられていくことになります。しかしそれはサウロに必要なこ とでした。行く手をさえぎられて、先が見えなくされた暗黒の3日間は、彼が新し くされていくために必要な時間だったのです。主は、同じことをわたしたちの上に も起こされるのではないでしょうか。そのときわたしたちは、どうするでしょうか。


1.サウロからパウロへの軌跡

 これまで特に断ることなくサウロとパウロを言い分けてきました。お気づきになったと 思いますが、主イエスに出会って回心する前をサウロ、新しく変えられてからをパウロと 言い分けてきたわけです。ただ、別に本人は回心を境に改名したわけではなくて、彼自身 は生まれて八日目に割礼を受けたときに命名されて以来、ずっとサウロでありパウロでし た。ディアスポラ(離散)のユダヤ人は、ユダヤ人の仲間内の名(ユダヤ名)とギリシャ・ ローマ世界で通用する名(ラテン名)の二通りを持つのが普通だったようです。だから彼 はサウル・サウロとパウルス・パウロス(ラテン語名をギリシャ語化したもの)という二 通りの名を持ち、ユダヤ人の間では、回心した後もサウロであり、またそれ以外の世界で は回心する前からパウロなのでした。しかし使徒言行録を書いたルカは、そのような区別 をせず、サウロがパウロとなるのは回心してからずっと後、最初の伝道旅行の最中のこと です(13 章 13 節)。その直前には「パウロとも呼ばれていたサウロは」とあって(同9節)、 この両方の名前が使われていたことを示します。ところで使徒言行録では、使徒パウロの物語はこの 13 章からずっと続くのですが、それ以前は7、8、11、12 章と断片的に登場 します。まとめて登場させてくれるといいのですが、こうして断片的に登場させることに は、ルカの意図があるようです。サウロが最初に登場するのは、ステファノの殉教の場面 で(7章 58 節)、その後に起きたエルサレムの大迫害では、彼はそのリーダー格となって 教会を荒らし回ります(8章3節)。ところがその後はフィリポのサマリア伝道とエチオピ アの高官への伝道が語られて、再びサウロが登場するのは、ダマスコに向かう途上でのこ とです(9章1節以下)。そして彼の回心が起り、ダマスコでしばらく伝道した後、そこか らエルサレムへと逃亡し、使徒たちと会うことが伝えられますが、そこでサウロ暗殺計画 が発覚して、彼は故郷タルソスへと送り出されていきます(同 29、30 節)。しかしそこで 彼のタルソスでの様子が伝えられるのではなく、今度はペトロの働きが伝えられていって、 また再びサウロが登場するのは、バルナバがタルソスにいる彼を探し出してアンティオキ アへと引っ張っていくところにおいてです(11 章 25、26 節)。さらにその後二人でエル サレムに行き(同 30 節)、そこから戻ってくるところに登場し(12 章 25 節)、それで 13 章につながっていきます。


 ルカはどうしてこのようにサウロを飛び飛びに登場させるのでしょうか。それはその間 に長い時間の経過があったことを示すためでした。エルサレムの大迫害が起きてから、サ ウロがダマスコに赴く間に、フィリポの伝道が挿入されるのは、まさにフィリポをはじめ とする福音宣教者たちが伝道に励んでいたまさにその期間、サウロはエルサレムをはじめ とするユダヤ周辺の諸教会を荒らしまわって、教会を迫害し続けていたことを示します。 フィリポがサマリアに赴いたのも、元はと言えばサウロによる迫害の結果でした。さらに ダマスコ途上で復活の主に出会い、回心したサウロでしたが、彼がタルソスに行ってから の足取りがふっつりと消えてしまい、2章も飛んでからやっと現れるのも、そこに長い時 間の経過があるからでした。ダマスコ、アラビア、ダマスコ、エルサレム、そしてタルソ スに移り住んだサウロが、バルナバと再会するのは、実は十年以上も後のことだからです。 サウロは「異邦人の使徒」として主に召されながら、行き場を失い、この先の道が開かれ る可能性が見えない不遇の時間に過ごしたのであり、その期間は十年にも及ぶものでした。 しかしそうやってパウロが悶々とした期間を過ごしているその間も、ペトロによる伝道は 進んでいったということを、ルカは伝えようとしているわけです。そうすることで、一人 一人の伝道者がそれぞれの道を歩んでいくわけですが、それが必ずしも順調な場合だけだ ったわけではなくて、そうではないように見える状況にも遭遇するわけですが、そこにも 深い意味があることへと、わたしたちの思いを導いていくことになるのです。


2.ダマスコでのサウロの宣教の核心

 さてこれまでサウロの回心の出来事を2回に分けて考えていきました。目が見えない中で3日間、飲まず食わずだったサウロは、そこで祈っていたとあります(使徒9章11節)。 そこで彼はどんな祈りをし、どんなことを思い巡らしていたのでしょうか。聖書はそのよ うな彼の内面には一切触れることなく、主によって遣わされたアナニアによって信仰を導 かれ、洗礼を受けるに至ることが淡々と語られていきます。そうして元気を取り戻した彼 が何をしたかというのが、いかにもサウロらしいのです。ダマスコの教会に加えられた彼 は、これまでの悪事を悔い改めて悔俊し、罪滅ぼしに奉仕活動をしたとか、あるいは反省 しておとなしく静かにしていたというのではありませんでした。あるいはこれまでの分を 取り戻すかのように、猛烈にキリスト教についての勉強を始めたというのでもありません。 何を始めたか、福音宣教でした。元来、おとなしくじっと静かにしている性質ではなかっ たようです。この後の行動もそうで、エルサレム会議が終わるとすぐに二回目の伝道旅行 に旅立ち、その旅行から戻ると腰を落ち着けることなく、すぐに三回目の伝道旅行に旅立 つ彼でした。根っからの伝道者であるということもできますし、それ以上に彼は「行動の 人」だったということができます。その彼が3日間も真っ暗闇の中、飲まず食わずの祈り の時間を持たされたということについては、どういう意味があったのか後で考えてみたい と思います。その前に彼がさっそく取りかかった伝道とは、どのようなものであったかを 見てみましょう。「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である」と、イエスのこと を宣べ伝えた。・・・サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、 ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた』(使徒9章20、22節)。サウロがさっ そく語った福音、それは「イエスは神の子、メシアである」ということでした。主に出会 う前の彼は、これと正反対の見方をしていました。そのときのサウロにとって、「イエス は神の子を自称した偽メシアで、そのために十字架で処刑された憎むべき犯罪人」でした。 しかし後に彼はこう語ります。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしま せん。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしませ ん。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いもの は過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリ ストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたし たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々 の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、 神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果た しています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何 のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方 によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5章16~21節)。


 「肉に従ってキリストを知る」とは、主イエスに出会う前に持っていた主に対する見方、 知り方のことで、「イエスは神の子を自称した偽メシア」であり、それゆえに「十字架で処刑された犯罪人」だということでした。しかし実際の主に出会い、神の子としての栄光 を目の当たりにし、目を開かれて十字架の意味を悟り得たとき、それと正反対の見方をす るようになったのでした。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪と なさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」主に出 会う前の彼は、ひたすら「神の義」を追求していました。しかしそれは「律法から生じる 自分の義」でしたが、それはとどのつまり「自分の義」にすぎませんでした。しかし復活 の主に出会ったとき、「キリストへの信仰による義」を知りました。それは「信仰に基づ いて神から与えられる義」でした(フィリピ3章9節)。自分の熱心で追求し、自分の努 力で獲得する義ではなく、恵みによって神から与えられる義です。自分で自分を立たせて いく義ではなく、自分が立たせられていく義です。そしてキリストの十字架に鮮やかに示 された、この神の愛に出会い、その恵みに包まれた彼は、そこでこれまで熱心に追求し、 求め続けてきたものを得ることができました。「義」を追求することで得ようとしてきた こと、それは「神との和解」でした。罪によって断絶した神との関係を修復し、赦され、 受け入れられて、もう一度、交わりを回復することです。その「神との和解」を、「自分 の義」によってではなく、キリストの十字架によって得ることができました。「これらは すべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」 てくださったことを知ったのです。サウロは、この「信仰による義」をまさにここで、つ まりダマスコ途上での主イエスとの出会いにおいて受けたのであり、それによってサウロ は自分が救われたこと、そして新しくされたことを知りました。「だから、キリストと結ば れる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生 じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御 自分と和解させ」てくださったと知ったのです。「信仰義認」という教えは、後になって机 の上でパウロが考え出した理屈なのではなくて、パウロ自身がこの方との出会いによって 受けた恵みでした。そしてこの日を境として、「教会の迫害者サウロ」は「キリストの使徒 パウロ」として、新しく生まれ変わらされていきました。そこで受けたのが、「異邦人の使 徒」としての召命なのでした。


3.異邦人伝道への召命

 「また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神は キリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を わたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるの で、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」。使徒言行録も、そのことを 伝えます。この召命は、サウロが主と出会った、まさにその場面で与えられました。彼が 「『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あな たが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、 あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中か ら救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支 配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる 者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」(使徒26章15 ~18節)。またそのことは、サウロに会うことを求められていぶかるアナニアにも伝えら れます。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝え るために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならな いかを、わたしは彼に示そう」と(9章15、16節)。そしてそのことはアナニアからサウ ロに伝えられました。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御 心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、 見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです」と(22 章14、15節)。これら一連の出来事を、サウロは主ご自身から受けたことと理解しました。 「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、 御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」 と受けとめたのでした(ガラテヤ1章15、16節)。


 こうして「異邦人の使徒」に立てられたサウロは、確信をもって大胆にイエス・キリス トの福音を語り始めていきます。そこで「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子で ある』と、イエスのことを宣べ伝えた」のであり、また「ますます力を得て、イエスがメ シアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた」のでした。 そもそも彼は、この「ダマスコにいる同志」を助けるために遣わされたはずでした(使徒 22章5節)。この「同志」とは、キリスト教徒たちを徹底的に弾圧し、この邪教を撲滅す るという志を同じくする者たちでした。おそらくダマスコの会堂でも、そこにエルサレム の迫害を逃れてやって来た者たちによってキリスト者が増えたことで、イエスをめぐる論 争が生じ、彼らを論駁して、その誤りを正すために、律法学者であるサウロが呼ばれたの でしょう。ところがそのサウロが、今度はキリスト教を擁護し、しかもそれを旧約聖書(律 法)に基づいて弁証する側に廻ってしまったのです。ユダヤ教のラビとして、これまでキ リスト教徒と論争し、それを論駁してきたサウロでしたから、ユダヤ教側の論法も論拠も すべてを知り尽くしていました。またこれまで逮捕したキリスト教徒たちを裁判にかけ、 審問してきたわけですからは、キリスト教側の論法と論拠も了解していました。つまり彼 は敵と味方の双方の手の内をすべて知り尽くした人物でした。その彼がキリスト教の側に 廻ったのです。サウロは、ユダヤ教が論拠とする旧約聖書に基づいて、「イエスは神の子」 であり「イエスはメシア」であることを、大胆に論証していきました。ダマスコのユダヤ 人がうろたえたのも無理はありません。ダマスコの会堂で、彼を論駁し、論争に打ち勝てる者は、おそらく一人もいなかったからでした。福音を弁証するのに、これほどふさわし い人物は見出すことができないという、そういう人物でした。こうして「異邦人の使徒」 として召されたことを確信し、それに必要な武器をも携えたサウロは、ダマスコからアラ ビアへと行動の拠点を移して福音宣教に励むことになります(ガラテヤ1章17節)。


4.暗黒の3日間の意味

 しかしそれは次回の内容として、ここでは先に進むのではなく、回心後の暗黒の3日間 について考えてみたいと思います。目も見えない中で3日間、飲まず食わずだった間、サ ウロは祈っていました。彼はそこでどんな祈りを祈り、どんなことを思い巡らしたのでし ょうか。そこでの内容をわたしたちは知るよしもありませんが、しかしこの一時的な静思 の時間は、彼にとってとても大切な、また貴重な時間となったのではないでしょうか。最 初に見たように、彼は落ち着いてじっと静かにしているよりも、むしろただちに動いてい く行動的な人間でした。しかしいくら行動的でも、目が見えなくなってはどうすることも できません。ただじっと静かにしている以外に、できることは何もありません。しかしだ から彼はそこで、じっと思索にふけっていたというのではありませんでした。ここで彼は 祈ったのです。いやおそらく正確に言えば、祈らざるをえなくされたのです。祈ることへ と追いやられたのです。彼は祈るよりは動いていく、そういうタイプの人間でした。その 彼が動けなくなり、祈ることへと追いやられていったのです。しかしその祈りの中で、彼 は自分が体験した、あのダマスコ途上での出来事を振り返り、そこで起きたことと主から 語りかけられたことを見つめ直したのです。そしてこれまでの自分、つまり教会の迫害者 として息せき切って走りぬいてきた自分自身を深く省みさせられたのでした。自分は神に 熱心に、律法に忠実に生きようとして、熱心に教会を迫害してきた、それが正しいと考え て生きてきた、そういうこれまでの自分の生き方をもう一度見つめ直させられました。そ してこれまで学んできた聖書をも、違う視点から考え直してみたとき、それがこれまでと はまったく違う内容として理解されるようになっていったのでした。はじめはひどく混乱 したでしょうが、それを一つ一つじっくりと吟味し、整理して、心の中でもう一度組み立 て直して理解することができるようにされていったのではないでしょうか。この暗黒の3 日間は、そのために必要な時間だったのでした。もし目が見えていたら、そうはいかなっ たことでしょう。また何か行動を起こそうとして、じっくりと考え直したり、見つめ直す ということはなかったでしょう。彼はここでこれまでの自分を、いわば強制終了させられ たのでした。強制的に立ち止まらせられることで、自分を省み、すべてのことをもう一度 見つめ直すようにさせられていったのです。しかしそれは彼にとって必要な時間であると 共に、それは恵みの時間とされていったのでした。


 同じことは、わたしたちの内にも起るのではないでしょうか。これまで順調にいっていたことが頓挫してしまいます。将来有望と思えたことが、途中で挫折してしまいます。右肩上がりで進んできたことが、まったく駄目になってしまいます。思わぬ重い病気にかか り、その治療に専念しなければならなくなることもそうでしょうし、家族に思わぬ事態が 生じて、その問題のために、多くの時間と労力を割かなければならなくなるということも そうかもしれません。それはこれまでの自分の人生が、そこでいわば強制終了させられて しまうような事態ということができるかもしれません。この先どのように進んで行ったら 良いか分からずに、その場ですっかり立ち止まらされてしまうことがあるかもしれません。 そのとき、このサウロの状況を思い出してほしいと思います。彼は突然自分の進む道をふ さがれて立ち往生し、立ち止まらざるを得なくされます。そして行動的だった彼は、ここ で祈らざるをえなくされていきます。祈ることしか、できなくされてしまいます。しかし まさにそのことこそ、彼に必要なことなのでした。この強制終了がなかったら、彼は確実 に破滅の道を突き進み続けていったはずでした。しかし主イエスが、それを阻んで、強制 的にその道を変えてくださったのでした。そのことが、わたしたちの内にも起らないでし ょうか。もはや自分の力ではどうすることもできない状況にまで追い詰められて、あとは ただ祈りだけというところまで追い立てられるかもしれません。そういうことでもなけれ ば、神へと心を向け、信仰に思いを馳せるということがないわたしたちですから、神はわ たしたちの内にそのような事態を引き起こされることがあるのです。サウロは祈りました。 祈ることしかできませんでした。しかしその祈りの中で、これまでのすべてを整理して、 それをしっかりと受け止めつつ、次の段階へと進んでいく準備をすることができました。 だから目が開かれたとき、すぐに自分が果たすべき行動へと移っていくことができたので す。わたしたちはどうでしょうか。同じような事態に直面したとき、わたしたちはどうす るでしょうか。状況に振り回されて右往左往するでしょうか。心落ち着かずにあれこれ方 策に駆けずり廻るでしょうか。それとも静かに神へと心を向け、真実に神と向かい合って、 祈るでしょうか。立ち往生する困難な問題とは、わたしたちが新しくされていくための胎 動であり、そこでの苦しみは、わたしたちが新しくされるための産みの苦しみです。その ことを受けとめて、そこでわたしたちは祈る者とされて、祈る者でありたいと思います。