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第7課 心の目を開かれて

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第7課:心の目を開かれて(2コリント3章 12 節~4章6節、2011 年2月 13 日)


《今週のメッセージ:キリストのすばらしさとの出会い(フィリピ3章8、9節)》

 サウロが追い求めたのは「律法から生じる自分の義」で、そのために律法に熱心 に励み、信仰に精進してきたのです。しかし問題は、それが「自分の義」であると いう点でした。自分の力で獲得し、自分の熱心で維持していく「義」、ですからい つの間にか「自分」が誇りとなってきます。しかしどれほど自分を誇ろうと、義な る神の前には、まことにつまらないものにすぎないことに気づきませんでした。し かし神の栄光の光に包まれた御子の輝きに撃たれたとき、「義」とは、罪人にすぎ ない人間が獲得でき、自分を誇ることができるようなものではないということを思 い知ります。しかしそこで、わたしたちのために神が備えてくださった「義」があ る、それが「信仰による義」でした。「キリストへの信仰による義、信仰に基づい て神から与えられる義」です。そのために神の御子が栄光を棄て、罪人の身代わり となって十字架にかかってくださったのでした。ここで出会った主イエスとは、こ れまで必死に追求してきたものの全てをかなぐり捨てても惜しくないほど素晴らし い方でした。そしてこの方と出会って変えられたパウロは、こう言いました。「生き るとはキリスト」と。あなたにとって主イエスとは、どのようなお方なのでしょう か。


1.見ていながら見えていなかった律法学者サウロ

 今まで気づかなかったことで新しく発見することがあったり、深く納得できたりしたとき、「目からうろこが落ちた」とか「目からうろこ」という言い方をすることがあります。 しかしそれが聖書に由来する言葉であることは、意外と知られていません。言うまでもな く使徒9章18節がその元です。前回「サウロの回心」という出来事を見ました。ダマスコ にいるキリスト者を逮捕し、エルサレムに連行するために、ダマスコに向かっていたサウ ロは、突然「天からの光」に撃たれます。それは真昼頃のことでしたが、「太陽より明るく 輝く」強い光に照らされて、サウロは地に打ち倒されます。それは神の御子の栄光の輝き に包まれた復活の主イエスで、サウロはそのまばゆさによって目が見えなくなります(使 徒9章3~8節、22章6~11節、26章12~15節)。何も見えない暗黒の中、三日間飲まず 食わずで過ごしたサウロは(同9章9節)、その間何をしていたかというと、祈っていたの でした(同11節)。そしてそこに主イエスによって遣わされたアナニアが手を置いて祈ると、「たちまち目からうろこのようなものが落ちて、サウロは元どおり見えるようになった」 のでした(同10~18節)。もちろんこれは物理的に目が見えなかったということなのです が、それだけではない象徴的なことでもありました。彼の目は開かれていました。しかし 見ることができませんでした。彼の目に覆いがかかっていたからでした。そのように、彼 はこれまでも見ていました。目は開かれていました。しかし見えていなかった、そのこと を知り、見えるようにされたというのが、この出来事でした。見ているのに見ていない、 それは日常でもよく起ることではないでしょうか。先日も、冷蔵庫の中でマヨネーズを探 していましたが、見当たらないので、マヨネーズはどこと聞いたら、そこにあるじゃない と言われました。どこ?ほらあなたの目の前にあるでしょう。こんなことは日常茶飯事で、 たしかに自分の目の前にマヨネーズはあったのです。だから目には入っていたはずでした。 しかしわたしは認識できなかった。自己弁護しますと、まずマヨネーズは他のビンの後ろ にあり、いくらか隠れて見えにくかった。それ以上にわたしにとってマヨネーズは、キュ ーピーマヨネーズです。あのうす透明の奇妙な形のビニールに入ったものです。ところが 家のマヨネーズは生協から購入していて、丸いビンに入っています。だから目の前にたし かにマヨネーズはあったわけですが、先入観というのか、それとは違うものを探していた ため、見つからなかったわけです。これがサウロの心の中で起きたことでもありました。 こうだと思い込んでいたために、目の前に実物を見せられても、それだと理解できなかっ た、認識できなかった。だから見えていながら見えなかったのです。それが今や鮮やかに 見えるようになったのでした。これまでも目の前にあったわけですが心に覆いがかけられ ていたために見えなかったのです。けれどもその覆いが取り払われたとき、サウロははっ きりと見ることができるようになった、それがこの回心という出来事なのでした。ここで サウロに起きた出来事を、彼自身の三つの言葉によって掘り下げていきたいと思います。


 第一の御言葉は、2コリント4章6節です。パウロは、そのときの自分をこのように言 い表しました。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、 イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と。心の内に 光が輝き、その光に照らされて、はじめて見えるようになったと言うのです。それまでは 目が覆われて見えなかったのでした。「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするな ら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じよ うとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音 の光が見えないようにしたのです」(同3、4節)。心の目がくらまされて、正しく見る ことができなくなっていたと言うのです。それは「この世の神」すなわち偶像に仕える異 邦人だけの問題ではありませんでした。聖書を与えられ、聖書を通してまことの神を正し く知ることができるようにされたイスラエルの民も同じでした。「今日に至るまで、古い 契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるとき は、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています」(同3章14、15節)。これまで自分は 聖書に精通していると思っていました。おそらくこのころサウロは30代前半、もはやガマ リエルの一生徒ではなく、一人前の律法学者として立派に働き始めていたとも考えられま す。同世代の中では群を抜いて優秀で、他の誰よりも律法に精通していると自負していた し、事実そうだったと言うことができるでしょう。言うまでもなくサウロは、律法学者と して日夜聖書を読み、学び、研究していました。他の誰よりも熱心にです。けれども見え ていなかった、読み取っていなかったのです。聖書が明瞭に啓示している事柄を。「しか し、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」とあるように(同16節)、それは人間 の努力や熱心によってではなく、ただ主の憐れみによって実現することなのでした。


2.目を開かれて出会った「十字架につけられたメシア」

 サウロは聖書を読んでいました。しかしそれによっては見ることができなかったのでし た。彼が見ていながら、見えていなかったものとは何でしょうか。それはイエス・キリス トでした。パウロはさらにこう証言します。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従 って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのよう に知ろうとはしません」(同5章16節)。「肉に従ってキリストを知る」とは、どういう ことでしょうか。それは聖霊によって新しい理解、新しい認識を与えられないままで、キ リストをただ肉的に、つまり人間的に理解するということでした。霊的に目を開かれない で主イエスを見たならば、その方はわたしたちと何一つ変わるところのない方でした。汗 を流し、埃にまみれ、飢え渇く、その姿から「神の子」を見ることはできませんでした。 しかしサウロはそれ以上に主イエスを肉的にしか見ていませんでした。サウロにすれば、 ナザレのイエスとは、十字架につけられて処刑された犯罪人であり、しかも神によって呪 われ、裁かれ、断罪された偽預言者、民衆を惑わし神を冒瀆した偽メシアにすぎませんで した。しかし目の覆いが取り払われて見たのは「十字架につけられたメシア」に他なりま せんでした。心の目が開かれたとき、主が十字架の上で受けてくださった「神の呪い・裁 き」とは、「わたしたちのため」のものであることを知ったのでした。二番目の御言葉は ガラテヤ3章13節です。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを 律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書 いてあるからです」。


 そこでサウロははじめて知りました。「十字架につけられたイエス」こそ「十字架につ けられたメシア(キリスト)」であるということをです。そしてそのことはすでに五百年 以上も前から預言されていたことでした。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛 みを負い、病を知っている。わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。 神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わ たしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わ たしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行 った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章3~6節)。 確かに彼は「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦し」みました。しかしそれは彼自身 の罪のゆえではなくて、彼が身代わりとなった他の者たちの罪のゆえであり、「彼が刺し 貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎 のため」でした。そして「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」、それが呪 いの木につけられたイエスであり、彼こそがまさしくメシア=キリストだということを、 サウロは光輝くこの方を目の当たりにして、悟らされたのでした。呪いの木の十字架、そ れはわたしたちのためのものでした。主イエスは、「神の敵」に他ならない、このわたし 自身のために、身代わりとなって呪いの木にかかり、神の裁きを余すことなく代わりに受 けてくださった、それがあの十字架の上での叫びだったのでした。エリ・エリ・レマ・サ バクタニ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)。 そこで確かに主イエスは、神から呪われ、裁かれ、断罪されました。しかしそれは、わた したちのためだったということを、サウロは知るに至ります。そこでパウロは言うことが できました。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と(2コリント5章17節)。復活の主、栄光 のキリストに出会ったサウロは、まったく新しい人に変えられたのでした。


3.自分の力で獲得する「自分の義」

 こうして心を新しくされたサウロにとっては、すべてが新しく見えるようになりました。 三番目の御言葉は、フィリピ3章5~9節です。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、 イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法 に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の うちどころのない者でした」。これはこれまで何度も触れてきた、かつての自分について の自慢話です。しかし主と出会って新しくされ、変えられたパウロは、こう続けました。 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なす ようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの すばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべて を失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にい る者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへ の信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3章5~9節)。実はこの箇所はこれまでも何度も折にふれて語ってきました。しかし今回さらに学 びを深める中で、自分はこの箇所を少し間違って理解していたことに気づかされました。 たしかにここでパウロが自慢することは、当時のユダヤ人社会においては相当なものでし た。一目置かれるどころか、大いに自慢し、誇ることができることで、またそれゆえにユ ダヤ人の中でそれ相当の地位や名誉を保証され、さらにはそれに基づく豊かな財産をも獲 得しうるようなものでした。けれどもキリストに出会ったとき、「わたしにとって有利で あったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかり か、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を 損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あく たと見なしています」と語ります。そこでサウロは、キリストと引き換えに何を失ったか、 何を「塵あくた」と見なすようになったかです。これまでわたしは、それをごく一般的な 意味で理解し、ユダヤ人としての地位や名誉、またそれに伴う財産といった、いわば地上 的な繁栄や栄光という意味で理解し、話してきたと思います。


 けれどもこの箇所でパウロが語ることは、そういうことではないのです。サウロはそう いった地上的なものに熱心で、現世的なものを必死に追い求めていたわけではなく、まっ たく純粋に宗教的な動機で信仰的な事柄を追究し続けてきたと言っているのです。かつて のサウロは、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法 の義については非のうちどころのない者でした」。そこで彼が追い求め続けたのは「自分 の義」だったのです。9節にある「律法から生じる自分の義」、これを求め続け、そのた めに律法に熱心に励み、人一倍信仰に精進してきたのでした。彼は現世的なものを求めて きたのではなく、純粋に信仰的な動機で、「義」を求めてきた、しかしそれがキリストと 出会ったとき、色褪せてしまったのでした。なぜなら彼はそこで、「律法から生じる自分 の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」を知っ たからでした。こういったサウロの思いというのは、罪を罪とも思わずに生きているわた したちには分かりにくいものだと思います。信仰よりもこの世的なものばかりを追い求め ているわたしたちには理解しがたいことだと思います。「義」とは、神との正しい関係の ことです。わたしたちは神の前に罪を犯して堕落しているために、神とは敵対した関係に あります。罪のゆえに、わたしたちは「神の敵」なのです。その敵対した神との関係を正 常に戻し、友好関係を保つようになること、それが「義」です。若きサウロは、それを必 死になって求め続けてきたのでした。


4.神によって与えられる「信仰による義」

 イスラエルにおいて、それは律法によって獲得できると考えられてきました。そこでサ ウロは、律法を守り行うことに熱心に、また忠実に生きてきたのです。それは「律法から生じる自分の義」を獲得するためでした。しかしそこで問題なのは、それが「自分の義」 であるという点でした。自分の力で獲得し、自分の熱心で維持していく「義」、ですから そこではいつの間にか「義」ではなくて、「自分」が誇りとなってきます。「自分」がこ れほど神の前に素晴らしい、立派だということになってきます。しかしそうやってどれほ ど自分を誇ろうと、聖なる神、義なる神の前には、実はまことにつまらないものにすぎな いことに気づきませんでした。しかし神の栄光の光に包まれた御子の輝きに撃たれたとき、 まことの「義」とは、そのような罪人にすぎない人間が自分で獲得でき、自分を誇ること ができるようなものではないということを思い知ります。「神の義」の前には、「人間の 義」はただの暗闇でしかなかった、そのことを見せられたのでした。しかしそこで絶望す るしかないわたしたちのために、神が備えてくださった「義」がある、それが「信仰によ る義」でした。「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に 基づいて神から与えられる義」でした。そのことを後にパウロはこのように整理して語り ました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、 神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべ てに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄 光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の 恵みにより無償で義とされるのです」と(ローマ3章21~24節)。


 復活の主イエスに出会って、そこで目を開かされたサウロが見せられたもの、それは「律 法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与え られる義」でした。そしてそのために主イエスは、神の呪いの木にかかり、わたしたちの 身代わりとなって神の裁きを受けて死んでくださった、そのことを理解したのでした。こ の日を境として、サウロが求めるようになったこと、それは「十字架につけられたキリス ト」でした。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見 なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあま りのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはす べてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と。それは地上的な何かと引 き比べてということではない、おそろしく熱心なまでに追求し続けてきた「自分の義」と 引き比べて、「信仰による義」がどれほど素晴らしいものであることを知ったということ でした。今回のパウロの生涯の学びの表題を、「キリストのすばらしさに捕らえられて」 としたのは、この箇所にちなんでのものでした。パウロの生涯は、まさにこの表題に要約 することができます。彼はこの方のゆえに、これまで追い求めてきたすべてのものを失い ましたが、それによって彼は「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばら しさ」に捕らえられる者とされました。そしてこの日を境として、パウロが生涯をかけて 働き続けたことこそ、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」を宣べ伝えていくということでした。彼の人生は、この方との出会いによって大きく変え られてしまいました。彼がこの方に出会おうとしたからではなくて、この方が彼を捕らえ てしまわれたからでした。


5.神の裁きからの救いとしての「義」

 「義」をめぐる、このようなパウロの論理にはついていけないとわたしたちは考えてし まうかもしれません。このような話は、自分の実生活には何の関わりもないように思うの が正直なところではないでしょうか。しかしわたしたちがそのように考えるのは、パウロ ほど真剣に「神の義」について考えることがないからです。わたしたちの関心は、神との 関係ではなくて、自分自身のことであり、この世での生活ばかりが心を一杯にしているの で、神とどのような関係にあるのかということなど、どうでもよいと思っているのです。 しかし実はこのことこそ大きな問題なのです。というのは、聖書が語るのは、この地上の 生活のことだけではなくて、それを終えた後の命のことについてであり、永遠の問題につ いて問いかけているからです。ある方と信仰告白準備会を行っていまして、主イエスの十 字架による救いについての学びまできました。しかしそれに先立って考えたのは、わたし たちの罪と、そしてそれがもたらした死後の裁きについてでした。わたしたちが罪へと堕 落したことは、深刻な結果をもたらしました。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後に 裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9章27節)、「わたしたちは皆、キリストの 裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったこ とに応じて、報いを受けねばならない」(2コリント5章10節)とあるように、わたした ちは罪人として、死後に神の裁きを受ける者となってしまいました。「わたしたちは皆、神 の裁きの前に立つのです。それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し 述べることになるのです」(ローマ14章10、12節)。生きている間、悪行を働いてきた者た ちについて、「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開き をしなければなりません」と警告されます(1ペトロ4章5節)。そしてそこでわたしたち が受けるべき刑罰は、あらゆる悲惨と死、そして永遠の刑罰です。そんな馬鹿なことはあ るものかと軽くあしらうことは自由です。そんなことは死んでみなければ分からないでは ないかというのも、その通りです。しかし死んでからでは手遅れなのです。わたしたちは、 こうした聖書の警告に真剣に耳を傾ける必要があります。


 そしてまさにそこで問われるのが「義」なのです。だからサウロはこれを真剣に追い求 めていきました。それを獲得するために必死になっていったのです。そして主イエスに出 会ったとき、それは自分の力や熱心によって獲得できるものではなく、神ご自身がわたし たちに恵みとして与えてくださるものだということを知ったのです。かつては、聖なる神 の前にさえ胸を張って出られると自負していたサウロは、まことの神と出会い、その栄光の輝きを目の当たりにしたとき、とうていそれは神の前に立ちうるものではないことを知 りました。しかしその罪人に他ならない自分が、それでもなお神の前に立つことができる、 それは神がわたしたちに「義」を与えてくださるからで、そのために神の御子が栄光を棄 てて人となり、罪人の身代わりとなって十字架にかかってくださったのでした。聖なる神 の子が、罪人の一人となって十字架にかかり、身代わりとなって神の呪いと裁きをご自身 に引き受けてくださった、そのことによってわたしたち罪人は、聖なる神に受け入れられ る義人として立てるようにされたのでした。この主イエスの十字架の贖いという恵みに出 会い、その恵みに包まれることによって、かつては「教会の迫害者」として神に敵対して いた自分が、主イエスの十字架のゆえに、神に受け入れられる者とされたことを知ったの です。ここでサウロは、まさに主イエスとの出会いの場において、この「信仰による義」 を自分自身が受けたのであり、それによってサウロは自分が救われたこと、そして新しく されたことを知ったのです。「信仰義認」という教えは、後になって机の上でパウロが考え 出した理屈なのではなく、パウロ自身がこの方との出会いによって受けた恵みなのでした。 そしてこれを境として、教会の迫害者サウロはキリストの使徒パウロとして、新しく生ま れ変わっていくのです。サウロが出会った、いやご自身の方から出会ってくださったイエ ス・キリストとは、彼がこれまで必死になって追求してきたものの全てをかなぐり捨てて も惜しくないほど、貴く素晴らしい方なのでした。そしてそれは、同じようにこの方と出 会い、この方に捕らえられ、この方と共に歩んでいるわたしたち一人一人にも同じなので す。あなたにとって主イエスとは、一体どのような方なのでしょうか。この方と出会って 変えられたパウロは、こう言いました。「生きるとはキリスト」と(フィリピ1章21節)。 あなたにとって主イエスとは、どのようなお方なのでしょうか。