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第4課 神の恵みによって今がある

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第4課:神の恵みによって今がある(使徒 21 章 37 節~22 章5節、2011 年1月 23 日)


《今週のメッセージ:神の導きの中を正しく歩むこと(詩編 8 6 編 1 1 節)》

 パウロの生涯を通して、わたしたちにはそれぞれ「自分に決められた道」があり、 神はその道においてわたしたちを支えながら、その一歩一歩を導いてくださるとい うことを考えています。しかしこのことを、自分に決められた運命とか、定められ た宿命のように理解するなら間違いです。神はわたしたちをご自身の計画に従って 導かれますが、しかしその中で自分の行くべき道を選択し、進んでいくのはわたし たち自身でもあるからです。そこでは神が、より良い方向を目指していくことがで きるように状況を導いてくださったり、より良い環境を用意してくださるのですが、 わたしたちは、そこに表わされた神の意志とは違う方向を選び取ったり、神の計画 とは違う、ときにはそれに反する道を歩んでしまうということもあります。だから わたしたちは、どの道が「自分に決められた道」、つまり自分が本来進んでいくべき 道なのかを、いつも神に尋ね求め、神の御心に聞きながら、一歩一歩、歩み進んで いく必要があるのです。そして、たとえその道がどれほど困難で厳しい道であった としても、御心にかなう道を歩んでいるなら、神からの助けと支えをいただいて歩 んでいくことができ、神の導きと励ましの中で乗り越えていくことができるのです。


1.「生まれながらのファリサイ派」という環境

 昨日の新聞に、タレントの間寛平さんがヨットとマラソンで地球を一周したというニュ ースがありました。前立せん癌にかかっていることが分かって、途中その治療もしながら 766 日間で4万1千キロもの道のりを乗り切ったという快挙でした。そこでの会見で、「帰 ってきて、日本は素晴らしい国だとびっくりした。こんな幸せな国に住んでいるのに、ぜ いたくばっかり言っていたなあ」と語ったそうで、その言葉に本当にそうだなと共感しま した。途中気温 50 度の砂漠や氷点下 19 度の極寒地も通ったそうですが、それ以上に色々 な国々を巡る中で、日本がどれほど恵まれた国かを実感されたのだと思います。同じ新聞 には、恵まれた国である日本で、あいかわらず悲惨な事件や問題が起こっていることが報 じられていて、与えられた恵みに対する感謝がないということは、なんと残念なことかと 思わされました。せっかく自分に良い環境やチャンスが与えられながら、それを感謝した り、生かすことがないということは残念です。しかしそれは他人事ではなくて、わたした ち自身の問題でもあるのではないでしょうか。客観的には同じ状況に置かれても、そこでの良い面を見て感謝し、積極的になる人がいるのに対して、逆に悪い面ばかりを見つめて 落胆し、否定的にしか受け止めることができないという人もいます。そういう人は、その 中にもいくらかはある良い面さえ見ようとせず、全てを悪いものとして否定してしまうの です。それによってせっかく与えられたチャンスさえ、生かすことができずに、もっと悪くなっていってしまいます。


 礼拝では使徒パウロの生涯を学び始めたわけですが、そこでわたしたちは、わたしたち それぞれに「自分に決められた道」があり、神はその道においてわたしたちを支えながら、 その一歩一歩を導いてくださるということを、パウロの生涯から考えてきました。しかしこのことを、自分にはもう決められた運命があるとか、定められた宿命だというように理 解するなら、まったく間違ってしまいます。神はわたしたちをご自身の計画に従って導い ていかれますが、同時にその中で自分の行くべき道を選択し、進んでいくのはわたしたち 自身でもあります。そしてそこでは神が、より良い方向を目指していくことができるよう に、状況を導いてくださったり、より良い環境を用意してくださるのですが、それにもか かわらずわたしたちは、そこに表わされた神の意志とは違う方向を選び取ったり、神の計 画とは違う、ときにはそれに反する道を歩んでしまうということもあります。神はご自分 の計画をわたしたちに押し付けたり、わたしたちの思いに反してそれを強要したりするこ とはなさらず、忍耐強くわたしたちをふさわしい道へと導き続けてくださいます。しかし それを振り切ってわたしたちは誤った道を歩んでしまうこともありますが、そのようなと きにも、あるいは神の意志に反する歩みをしてしまったときでさえ、本来の道に再び戻る ことができるように導き続けてくださる方でもあるのです。しかしそこでは、自分が願っ た道がすぐに開かれたからといって、それが神の御心だとは限らないし、自分が期待した 道が整えられたからといって、それが神のご計画に沿うものだということは必ずしも言え ない場合もあります。だからわたしたちは、どの道が「自分に決められた道」、つまり自分 が本来進んでいくべき道なのかを、いつも神に尋ね求めていき、神の御心に聞きながら、 それに従って歩んでいくことが求められているのです。決められた道だから自分は何も考 えなくても良いと、まるで自動操縦で進むかのような道なのではなく、進んでいる道が正 しいかどうかをいつも神に問いながら、神との親しい交わりの中で確認しつつ、一歩一歩、 歩み進んでいく必要があるのです。ですから、たとえその道がどれほど困難で厳しい道で あったとしても、神の御心にかなう道を歩み続けているなら、そこで神からの助けと支え をいただいて歩み切っていくことができ、神の導きと励ましの中で乗り越えていくことが できるのです。ここではこのことを考えてみたいと思います。


 前回は、やがて「異邦人の使徒」となるサウロが生まれ育った環境について考えていき ました。それはタルソスという、当時としては大変文化的な学術都市で、そこでサウロはギリシャ文化とギリシャ語、そういった教養を身につけた文化人として育てられていくこ とになります。しかし他方、そういった異教的な文化や慣習に染まることなく、「ヘブライ 人の中のヘブライ人」として、イスラエルの先祖伝来の伝統に従う、律法に忠実なユダヤ 人としても育てられていくことを考えました。本来なら相対立するはずのこの二つの要素 が、しかし後に「異邦人の使徒」として立てられていくとき、十二分に発揮されていくの であり、神はサウロをそのような器として成長させるべく、そのような環境に置かれたこ とを見ていきました。母の胎内にあるときから神に選ばれたサウロは、与えられた環境の 中でどのように成長していったかが、ここでの内容です。「生まれて八日目の割礼を受け」 たサウロは(フィリピ3章5節)、まさしく「生まれながらのファリサイ派」でした(使徒 言行録 23 章6節)。そしてユダヤの「宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派 の一員として」生活していったことが知られています(使徒 26 章5節)。それは彼の父親 がファリサイ派の一員であり、彼の家庭環境がそうだったからでした。ですからサウロは、 後にファリサイ派に入会して、その一員となったというだけではなくて、生まれた時から ファリサイ派の子供として育てられ、教えられ、しつけられていったということでした。 彼がファリサイ派であるということは、後からとってつけた「めっき」のようなものでは なくて、骨の髄までファリサイ派であることが染み渡っているほど、ファリサイ派である ことが彼の本質となっている、それが「生まれながらのファリサイ派」ということでした。


2.ガマリエルの門下生が「教会の迫害者」となる矛盾

 ユダヤ人の世界では、子供の教育は父親の最も重要な義務でした。そこで父親は自分の 子供に、家庭の中で律法に基づく教育を施しました。家庭での礼拝と聖書朗読、祈りと賛 美、そして会堂での礼拝出席、そうしたことで子供の心に神に対する愛と律法に対する熱 心を植えつけていったのです。これが今日までユダヤ人が生き残っている理由なのです。 こうしてサウロは父親から、律法に忠実に生き、それを厳格に守る者として徹底的に育て られていきます。そこでパウロは、当時の自分を振り返って、自分が「ヘブライ人の中の ヘブライ人。律法に関してはファリサイ派の一員、・・・律法の義については非のうちどこ ろのない者」と言い切ることができました(フィリピ3章5~8節)。そこには、たとえ義 なる神の前に立たされても、そこで立派に立ちおおせるという、自分の義、自分の正しさ に対する自信がみなぎっています。ですからパウロは、そのときの自分について、「先祖か らの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に 徹しようとしていました」と言い切ることができるほどでした(ガラテヤ1章 14 節)。そ のサウロは、どこでどのような教育を受けたかというと、彼自身が次のように語ります。 「わたしは、・・・この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について 厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と(使徒言 行録 22 章3、4節)。今から二千年も前からユダヤ人には初等教育、義務教育の制度がありました。男子は5~6歳になると、会堂にある学校(ベト・ハ・セーフェル)に毎日通 い、律法の勉強をすることになっていて、それは 12~13 歳まで続きました。ユダヤでは 13 歳になるとバル・ミツヴァー(律法の子)として成人となり、一人前の大人としてユダ ヤ人としてすべての義務を負うことになります。この初等教育の中で、特に秀でた成績優 秀な子は、さらにその上の上級学校(ベト・ハ・タルムード)に進学して高等教育を受け ます。それは律法学者となるための、さらに高度な教育を受ける場所でした。そしておそ らくサウロは、非常に優秀だったため、親と地元のユダヤ人社会の期待を一身に受けて、 タルソスの学校からエルサレムにある学校に進学したと考えることができます。こういっ た高等教育の中でも、最高レベルの教育が受けられたのは、言うまでもなくエルサレムで した。そこで親が選び、自分の息子を託したラビこそ、当時最も高名で、当代きっての大 学者であったガマリエルでした。そしてサウロは、このガマリエルの許で、「先祖の律法に ついて厳しい教育を受け・・・熱心に神に仕え」ていくと共に、「律法の義については非の うちどころのない者」となるべく、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心」になることで、 「同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しよう」としていったのでした。


 さて、ここまでは聖書が証言することですから、若きサウルについては、なるほどそう いうものかと思うだけですが、さらに考えなければならない問題があります。サウロの律 法に対する熱心さは、さらに高じて、ついに「教会の迫害者」にまで至ったというのが、 本人の弁でした。このことは次回さらに深く考えることですが、ここで取り上げた証言の 中にも、パウロ自身が自分は「熱心さの点では教会の迫害者」だったと語っています(フ ィリピ3章6節)。「わたし自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考 えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、このわたしが祭司長たちから権 限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示を したのです。また至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒瀆するように強 制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」(使徒 言行録 26 章9~11)。「あなたがたは、わたしがユダヤ教徒としてどのようにふるまって いたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」 (ガラテヤ1章 13 節)。「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わた しはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒 言行録 22 章3、4節)。「以前、わたしは神を冒瀆する者、暴力を振るう者でした。・・・ わたしは、その罪人の中で最たる者(罪人のかしら)です」(1テモテ1章 13、15 節)。「わ たしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒 と呼ばれる値打ちのない者です」(1コリント 15 章9節)。これらはすべて本人の証言で す。そしてこうしたサウロの姿も知っていますから、わたしたちはそんなものかと考えて しまいます。しかし実はここで大きな問題が生じるのです。ここでパウロ自身が語る「教会の迫害者」の姿は、彼がガマリエルの許で律法を学んだということと矛盾するからなの です。ガマリエルという律法学者、高名なラビの許で、「先祖の律法について厳しい教育を 受け」たからこそ、若きサウロは「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間で は同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しよう」としていったということは、まさし くそのとおりなのですが、しかしそれは「教会の迫害者」という姿と矛盾してしまうこと になるのです。他のラビだったら当然のことであったのかもしれませんが、他でもなくガ マリエルの許で学んだということが、この矛盾を引き起こしていくことになるのです。


3.ガマリエルという人物

 ここで少しだけ当時のユダヤ教の状況をお話しする必要が出てきます。律法学者という ものがどのような状況の中で生まれてきたか、詳しいことは分かりませんが、その遠因に ユダ王国滅亡とバビロン捕囚がありました。捕囚の民として世界中に離散していったユダ ヤ人は、そこで辛苦を舐めながら、どうして王国が滅亡したかを考えざるをえませんでし た。神はダビデに、その王国を永遠に守ってくださると約束しておられました。ところが その王国は滅び、神の神殿は破壊されてしまったのです。神は約束を守りませんでした。 ですから普通ならこれで神に対する信仰は費え去ってしまうわけですが、彼らは違いまし た。このことはあらかじめ預言者たちによって予告されていたことに気づいたからです。 王国滅亡とバビロン捕囚という未曾有の民族的危機に直面して苦しむ中で、彼らはその理 由を見出しました。それはかつて北王国が滅亡したときに、その理由として語られたこと で、列王記下 17 章に記されています(7~23 節)。一言で言えば、それは律法を守らなか ったからだということでした(ネヘミヤ9章 32~37 節)。かつてシナイ山で神と契約を結 ぶことで、神の民とされたイスラエルは、そこで十戒を中心とした律法を与えられました。 そしてこれからは律法を守り行うことによって、神との契約に留まり続けていくことが約 束されたのです。ですから律法を破ったら、神との契約も破棄されることになるわけです。 しかし歴史を通じてイスラエルは、神に背き続け、律法に違反し続ける歩みをします。そ こで預言者が送られて、律法に忠実に生きるようにと何度も警告を受けるわけですが、彼 らはそれに聞き従いませんでした。その結果が、王国滅亡とバビロン捕囚であり、それは あらかじめ警告されていたことなのでした。そこで次のペルシャの時代に、ユダの地に帰 還することが許されたユダヤ人たちは、これからは必ず律法を守って、神に従うことを堅 く決意し、それを誓約します(ネヘミヤ 10 章1~30 節)。そしてそこからイスラエルとし ての新しい歩みが始められたのであり、かろうじて生き残ったイスラエルの末裔であるユ ダヤ人は、律法を中心とした民族の再建をはかり、律法を遵守することで王国の復興を願 ったのでした。そこで律法に忠実に生きるために、律法を具体的な生活に適用しようとし て律法を学び、解釈し、それを人々に教える人々が登場してきます。それが律法学者と呼 ばれる人々でした。


 そしてサウロの少し前の時代には、この律法学者は二つの大きな学閥ができていました。 一つはシャンマイという学者を中心としたグループ、もう一つはヒルレルという学者を中 心としたグループで、律法解釈を巡って両者は激しく対立していました。前回は、パレス チナにいるユダヤ人とそれ以外の地域に離散したディアスポラのユダヤ人では、律法に対 する姿勢に違いがあることを考えました。パレスチナのユダヤ人は律法を厳格に考えるの に対して、ディアスポラのユダヤ人はより寛容に考えるということです。二大派閥の一方 の指導者であったシャンマイはエルサレムの出身、そしてヒルレルはバビロンの出身でし た。そこで当然彼らの立場は、厳格派と寛容派に分かれていきます。シャンマイ派が、律 法を厳格に解釈する立場であったのに対して、ヒルレル派はそれを寛容に解釈する立場で した。この二人の違いを表わすエピソードがあります。あるときシャンマイの許に、改宗 を希望する人が尋ねてきて、片足で立っているくらいの間に律法のすべてを教えてほしい と尋ねたそうです。そんなことできるわけありませんから、シャンマイは激しく怒り、手 に持っていた定規で、その人を追っ払ってしまったそうです。そこでその人はヒルレルの 許に行って、同じことを聞きますと、ヒルレルは優しく彼を迎え入れて、こう教えたとい うことでした。「あなた自身にとっていやなことは隣人にも行ってはならない。これが律法 のすべてである。残りはすべてその注解にすぎない。さあ、出て行って学びなさい」(『タ ムムード』から)。これがヒルレルの立場でした。そしてサウルが師事したガマリエルは、 このヒルレルの孫(息子という説もあり)であり、当時すでに押しも押されぬ大指導者と なっていました。もちろんガマリエルはヒルレル派ですから、律法解釈において寛大であ るということです。ですから後に「教会の迫害者」にまでなっていくサウルが、厳格なシ ャンマイ派の生徒であるから理解できるわけですが、寛大なガマリエルから学び、その弟 子であったことは考えにくいということになるわけです。そこでサウロがガマリエルの許 で学んだということを、歴史的に信じられないとして、その信憑性を否定する学者もいま す。中には、サウロはエルサレムに行って、シャンマイ派、それもその中の過激な一派に 身を投じるようになったと考える学者もいれば、さらには当時のテロリスト集団だった熱 心党に加わったと考える学者さえいます。だからこの二つは矛盾すると言ったのです。


 ガマリエルとはどのような人物だったか、使徒言行録に少しだけ記されています(5章 33~40 節)。そのときエルサレムとユダヤ社会の秩序と平和を乱しているとして、使徒た ちが捕らえられ、投獄され、そして最高法院に引き立てられていきました。そこでペトロ が雄弁に証ししますが、それを聞いた人々(それは議員たちです)が、彼らは激しく怒り、 使徒たちを殺そうとします。議場全体が騒然となり、殺意がみなぎっていき、死刑判決は 当然と思われるような状況となりました。しかしその中で、ただ一人公平に事柄を見極め て、冷静沈着に「異論」を唱える人がいました。会議全体が死刑執行に傾く中、たった一人反対意見を述べて、危機的な状況に置かれていた使徒たちを擁護しようとしたのでした。 この状況で、訴えられている使徒たちに肩入れすることは、自分の立場を危うくしかねな いことで、とても勇気のいることであったはずでした。しかしここで彼だけが使徒たちを 弁護します。それがガマリエルでした。そしてあれほどいきり立って、使徒たちを死刑に しようとした議会は、彼一人の意見によって、まったく違う結論を出すに至ります。これ ほどガマリエルという人物は、人々の中で重きをなし、大きな影響力を及ぼす傑出した人 物でした。自分の息子をガマリエルの許に送り出した、親の目に狂いはありませんでした。 サウロは、このガマリエルから若きときより薫陶を受けて、育っていったのです。ですか ら、もしサウロがガマリエルの忠実な弟子であったら、どれほど律法に熱心であったとし ても、教会を迫害し、ましてやキリスト者を殺すようなことには至らなかったはずです。 「あなた自身にとっていやなことは隣人にも行ってはならない」という、師ガマリエルの 教えに倣っていたら、およそそのような行動に出ることはなかったはずですし、律法に熱 心になればなるほど、むしろそこで教えられている「隣人を自分のように愛しなさい」と いう教えに、いっそう忠実に生きるようになり、異なる信仰理解を抱くキリスト者たちに 対しても、寛大で寛容な態度で臨むようになったはずでした。ところが事実は、彼は「教 会の迫害者」となっていった、だからそこに矛盾が生じることになるのです。どうして寛 大なガマリエルから学んだサウロが、「教会の迫害者」になっていったのか。そこにどのよ うな問題があったのかを考える必要があるのです。


4.神がくださる環境をどのように生かすか

 パウロの生涯を通して、わたしたちは「自分に決められた道」があることを考えてきま した。しかしこの「自分に決められた道」というのを、何か運命的なものと考えてはなら ないと申し上げてきました。「自分に決められた道」があるといって、それは神がわたした ちの人生を永遠の昔から定めておられ、神が決めた人生のシナリオというものがあって、 どんなにあがいてもそこから逃れることはできず、まるで操り人形のように生きていくだ けだと考えるなら、それはまったくの間違いです。詩編には「主は人の一歩一歩を定め、 御旨にかなう道を備えてくださる」という言葉があります(37 編 23 節)。そこで、わたし たちの人生は、そこでの一歩一歩がもう定められ、決定されているのだと考えるなら間違 いで、この言葉はそのような運命論を語っているわけではありません。またこんなことを 聞いたこともあります。神は、わたしたちをあえて間違った道を通らせたり、わざと失敗 したり、罪を犯させることによって、わたしたちに何かを教えようとされることがあると。 失敗をすることで、わたしたちが大切なことを気づかされることはあります。罪を犯して しまったゆえに、しかしそれによって神へと真実に立ち帰るようになり、それが自分が変 えられていく契機となるということもあります。しかしそれは、どこまでも憐れみによっ て守られたからであって、神がわざとわたしたちにそのような間違った道を通らせるようなことは絶対にありません。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言って はなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自分でも人を誘惑し たりなさらないからです」と、聖書ははっきり記します。「むしろ、人はそれぞれ、自分自 身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」と(ヤコブ1章 13、14 節)。「自分に 決められた道」というものを、このように運命論的に理解したり、宿命論的に受けとめた りするのは、大きな間違いです。


 神はサウロを、母の胎内にあるときから選び出し、「異邦人の使徒」となるべく、それに ふさわしい環境の中に生み出し、育てていかれました。そのために彼は厳格なファリサイ 派の家に生まれ、真実に律法に生きる家庭環境の中で育っていくことにより、神を愛し、 律法に忠実に生きる人間として成長させていかれました。彼が律法について寛容な解釈を し、人道的で寛大な立場をとるガマリエルの許に送られるのも、神の意志でした。そうや ってサウロは、この立派なガマリエルから、律法に対する愛と熱心を教えられていきます。 それはヒルレルが語った、「あなた自身にとっていやなことは隣人にも行ってはならない」 との精神に生きるようになり、さらには、やがてパウロ自身が教えていく、「隣人を自分の ように愛する」ように生きていく信仰者として、具体化されていくはずでした(ローマ 13 章8~10 節、ガラテヤ5章 14 節)。しかし彼は、それと反対の方向に向かっていきます。 それは律法の敵を滅ぼし尽くしていくという方向で、それはガマリエルの教えに倣うもの ではなく、むしろそれに反するものでした。この後サウロが「教会の迫害者」となって、 息を弾ませながらキリスト者を弾圧していくことは、神の御心ではなく、そのように神が 仕向けたことでもありませんでした。彼は「教会の迫害者」になることによって「キリス トの僕」とされていったのではなく、「教会の迫害者」であったにもかかわらず、「キリス トの僕」へと神が彼を大きく造り変えていかれたのでした。そのことはパウロ自身が告白 します。「以前、わたしは神を冒瀆する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていない とき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。・・・わたしは、その罪人の中で最 たる者です」(1テモテ1章 13、15 節)。サウロが教会を荒らし回ったことは、決して神 の御心ではなく、そのように彼の人生を神が導かれたわけでもありません。それは明白な 罪であり、神に対する反逆でした。だからここでパウロは、「わたしは、その罪人の中で最 たる者です」と告白せざるを得なかったのでした。これは「罪人のかしら」という言葉で す。しかしそのときには、このことに気づかないまま、サウロは神に逆らい続け、教会を 迫害していったのでした。その彼が後にキリストに捕らえられるのは、憐れみを受けたか らでした。そこでこうも語ります。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たち の中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって 今日のわたしがあるのです」と(1コリント 15 章9、10 節)。かつては教会を迫害してい た者であったにもかかわらず、今はその主に仕える者とされて生きている、それはひとえに神の恵みによると言うのです。


5.神の恵みへと立ち帰るための機会

 神はせっかくサウロを、より良き器として整えるために、ガマリエルの許に送られたに もかかわらず、そのせっかくの機会をサウロ自身が駄目にしてしまいます。たしかにサウ ロはガマリエルの弟子でしたが、しかしそれは「不肖の弟子」であるということにおいて でした。親の期待を裏切り、師の期待を裏切り、神の御心に反して、サウロはせっかくの 良い環境をいただきながら、それに反した歩みをしていくことになるのです。このことは サウロ一人の問題ではない、わたしたち一人一人が問いかけられていく問題ではないでし ょうか。わたしたちも、神からせっかく良い機会を与えられながら、それを生かすよりむ しろ駄目にしてしまうことがあるかもしれません。このことは良く考えていただきたいと 思います。調子よく生きてきた人生の中に、それを妨害するような事態が突然生じること があります。重い病気にかかったり、会社が倒産したり、家族に大きな問題が生じたりと いったことは、確かに大きな困難を引き起こす大問題です。しかしそれは災いでしょうか。 不幸でしょうか。むしろそれが、神から与えられた大切な良い機会であるかもしれません。 それによって罪の道を歩み続けていた自分の足が止まらされて、そこで初めて神へと心が 向けられるようになり、真剣に信仰へと向かい合っていくように変えられていく、そんな 転機となるかもしれません。


 わたしたちは、今、神から与えられている状況や機会を、どのように生かし用いている でしょうか。わたしたちにとって、「自分に決められた道」というのは、一体どのようなも のなのでしょうか。それは一歩一歩、主と親しく語らい、主と生きた交わりに生きる中で 確かなものとされ、整えられ、導かれていくものなのではないでしょうか。自分の思いを 優先し、自分の願いのままに歩んでいくとき、わたしたちは失敗し、誤った道を歩み始め るようになっていきます。ガマリエルの許で学んだサウロが、律法への熱心さから「教会 の迫害者」となっていったことは、神の御心ではなく、神がそのように導かれたことでも ありませんでした。せっかくの良い機会を与えられながら、サウロは間違った道を進んで いきました。このことは、わたしたちに対する問いかけになるのではないでしょうか。し かしパウロは告白することができました。「以前、わたしは神を冒瀆する者、暴力を振るう 者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」 と。また「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者 であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるので す」と。たとえ間違った道を歩むとしても、そこでなお尽きることのない神の憐れみが、 わたしたちを正しい道へと引き戻してくださいます。そしてそこでわたしたちは、パウロ と共に神を賛美することができるのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名 を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」(詩編86編11節)