第3課 母の胎内にあるときから選び分け

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第3課:母の胎内にあるときから選び分け(フィリピ3章5~11 節、2011 年1月 16 日)


《今週のメッセージ:果たすべき使命へと選び、立てられる神(ガラテヤ1章 1 5 節)》

 パウロが生まれ育った環境は、彼が自分で選べるものではありませんでした。むしろ主が、この務めへとパウロを立てるべく、そのような環境の中に彼を誕生させ ていかれました。そして彼が受けた生育環境と教育・訓練のすべては、やがて「異 邦人の使徒」として働く上で十二分に生かされていくことになります。そのことを パウロは知りませんでしたが、彼が母の胎内にいるときから、主は彼を選び分け、 そのように導いていかれました。神は、わたしたちの道筋をも導き続けてください ます。その中には、どうしてこのような道を通らなければならないのか分からず、 苦しんだり、悩んだりするときもあるかもしれません。しかしそのことによってわ たしたちが、「自分に決められた道」をまっすぐに歩み続けていくことができるよう に、神は導き続けてくださるのです。それがたとえどれほど困難な道であったとし ても、どれほど大きな労苦を背負う道であったとしても、わたしたちが「自分に決 められた道」をしっかりと踏みしめて歩んでいくことができるように、神はわたし たちを導き、支えてくださいます。そしてそこでの苦しみや悩みは無駄になること なく、そこでの経験のすべてが、後の働きのために生かされ、用いられていくので す。


1.文化都市タルソスの出身

 長い年月を経る中で人は変わっていきます。神は、長い年月の中で人を変えていかれる、 いや長い年月を用いることで、人を変えていかれると言い表した方が良いかもしれません。 そしてその人が果たすべき使命と辿りつくべき目標に導かれるように、そこに至るまでの 道筋をも導き続けてくださいます。その中には、どうしてこのような道を通らなければな らないのか分からず、苦しんだり、悩んだりするときもあるかもしれません。しかしその ことによってわたしたちが、「自分に決められた道」をまっすぐに、そしてしっかりと歩み 続けていくことができるように、神は導き続けてくださいます。礼拝では使徒パウロの人 生をたどっています。今日からその本論に入るわけですが、最初に彼の氏素性、生まれ育 った環境について考えてみたいと思います。人がどういう環境の中で生まれ育つかという ことは、その後の人生にとって重要な要素となっていきます。とりわけこれからパウロの人生をたどり、その中で彼が書いていった手紙を読み解いていくとき、彼の生育環境というものは、それらを理解していく上での一つの鍵となるものでもあります。今回の題を「タ ルソス生まれのヘブライ人」と予告しましたが、実はこの二つはまったく相矛盾するとい うか、本来は水と油のように対立する、互いにあい入れないものだということに、気づい ていただきたいと思います。


 パウロについては色々な箇所で書かれていて、パウロ自身の言葉として次のように語ら れます。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育 ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じよう に、熱心に神に仕えていました」(使徒言行録22章3節)。ここでパウロは、自分がキリキ ア州タルソスの出身だと語ります。わたしたちはタルソスという町がどのような町を知ら ないので、そこは一体どのような所か、辺鄙な片田舎なのか、それとも大きな町なのかと 想像してしまいます。使徒21章39節では、パウロがエルサレムで逮捕されたとき、逮捕し た千人隊長から、お前は最近出没したテロリストかと問われて、「わたしは確かにユダヤ人 です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です」と答えています。ローマ帝国 第一の都市は、いうまでもなくローマですが、第二の都市はエジプトのアレクサンドリア、 第三の都市が、この後パウロが活躍することになるアンティオキア、そしてタルソスは第 四の都市と言われていました。しかもただ大きいだけではなくて、文化レベルが格段に高 い町として知られていました。当時の地理学者で『地理書』という本を書いたストラボン によると、「タルソスの人々が哲学および教養一般にむける熱心さは大変なもので、アテナ イおよびアレクサンドリアすら凌駕されるほどだ」と言われていました(朴憲郁、『パウロ の生涯と神学』、18頁、佐竹明、『使徒パウロ 伝道にかけた生涯』、52頁)。アテナイつま りアテネは、ご存知のようにギリシャ哲学の中心地として有名でした。アレクサンドリア も、有名な大図書館があったことで知られるほど文化レベルの高い町でした。しかしこの アテネやアレクサンドリアをしのぐほど、タルソスは文化の高い町だと紹介されています。 この町からは何人ものストア哲学者も輩出したということで、文化と教養に対する熱心が 高い町でした。それが先ほどの、「キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です」と いう言い方にも反映されています。


 パウロは自分がタルソスの出身であり、またその市民であることを誇りとしていました し、誇りとすることができました。そこでパウロは、たとえばアテネでした説教などで、 ギリシャ詩人から引用していたり、手紙の中でギリシャ哲学で使用されている用語を駆使 して説得や説明したりしていて、かなりの教養を身につけ、ギリシャ文化に精通している ことが分かりますが、その背景は彼がタルソス出身だったことも影響があったと考えられ ます。パウロはギリシャ語をも習得し、それを自由自在に使うことができるほど習熟して いるわけですが、そういった教養と知識の一部は、タルソスで身につけたものと言っていいでしょう。彼は自分を「タルソスの市民」だと言いますが(使徒21章39節)、それは単 にそこに住んでいたということではなくて、市民権を有していたことを意味しました。し かもそこでパウロは、さらにローマの市民権も有するローマ市民であることも明らかにし ます。千人隊長でさえそれを「多額の金を出して」得たのに対して、パウロは「わたしは 生まれながらローマ帝国の市民です」と言うことができました(同22章25~29節)。そし てこのローマ市民権を有することが、後のパウロにとっては色々な意味で益することにも なります(同16章37~39節、23章27節、25章など)。パウロがタルソス市民であり、かつ 生まれながらローマ市民であったということは、父親がその両方を獲得していたからです。 それを入手できた事情は分かりませんが、ふつうに考えられることは、父親がタルソス市 に対して、非常に功績があったから市民権を獲得できたということで、それを果たすこと ができるだけの財力をも有していたということでした。つまりパウロの家は相当な資産家 だったということです。だから後にパウロを聖都エルサレムへの留学に送り出すこともで きました。父親は町の名士で資産家だった、そしてそれなりの功績をタルソスとローマに 果たした、それゆえに子孫へと継承することができる市民権を獲得することができたので した。ということは、父親は、ユダヤ人からすれば異教的なヘレニズムの文化都市である タルソスの社会の中で、それなりの信頼関係と社会的位置づけを築いていた人であったと いうことです。それはある意味において、その社会にどっぷりと浸からなければできない ことですから、このことはこの後で述べることと矛盾することになるのです。


2.ヘブライ人の中のヘブライ人、生まれながらのファリサイ派

 タルソス出身のパウロは、同時に自分を「ヘブライ人」とも言い表しました。まさにこ のことが、タルソスというヘレニズム文化の中で生まれ育ち、異教的な社会の中での位置 づけをもった町の名士の出自であったということと矛盾するというか、対立するものとな るのです。ここで言う「ヘブライ人」とは、単に民族的な意味ではなくて、フィリピ3章 5節で語るように、「ヘブライ人の中のヘブライ人」という意味です。それは一言で言えば、 聖なる言語であるヘブライ語を話し、ヘブライ人すなわちイスラエルの先祖伝来の伝統を 堅く守り、その習慣を堅く守って生活している人という意味です。その具体的な表れが、 「生まれて八日目の割礼」ということでした。それは律法で命じられている規定を頑なな までに忠実に守り抜こうとする生き方を貫いているということでした。パウロの父親は、 そのように律法遵守に厳格なファリサイ派の一員でした。だから自ら「ファリサイ派の一 員」と言うだけではなくて(フィリピ3章5節)、「わたしは生まれながらのファリサイ派」 だと言い切ることができました(使徒23章6節)。ファリサイ派とは、パウロが「わたし たちの宗教の中でいちばん厳格な派」と明言するとおり(使徒26章5節)、ユダヤ教の中 でも律法に一番厳しく、律法遵守に徹して生きようとした人たちでした。律法に対して親 がこれほど熱心ですから、彼を律法学者とするべく、後にファリサイ派の律法学者の一人であるガマリエルというラビの許に送るほどです(使徒22章3節)。ですからパウロがど うだと言う前に、親が律法に熱心で神に忠実なファリサイ派ユダヤ人なのでした。そして そのことが、後に受ける教育や訓練と合わせて、パウロの人格形成に決定的な影響を与え ていくことになります。しかしこのような「ヘブライ人の中のヘブライ人」、つまり律法に 熱心なファリサイ派ユダヤ人であるということと、タルソス出身であることとは矛盾ない しは対立するのです。そこには当時のユダヤ人の背景がありました。


3.ディアスポラ(離散)ユダヤ人とパレスチナのユダヤ人

 この問題のそもそもの始まりは、今からおよそ3000年前のことですが、紀元前926年に イスラエル王国が北と南に分裂したことにありました。北イスラエル王国を構成したのは 十部族で、南ユダ王国はユダ族が中心でした。しかし北王国は、最初の王ヤロブアムの時 代に、金の子牛礼拝を導入することで異教化し、正統的なイスラエルの信仰から外れてい くのに対して、南王国にはエルサレム神殿があり、レビ族がいましたので、紆余曲折はあ りますが、それでも正統的な信仰を守っていきます。そこでは、同じイスラエル民族同士 でありながら、信仰的な対立が北王国と南王国の間にはありました。その後、両王国はそ れぞれ発展を遂げますが、やがて紀元前722年には北イスラエル王国がアッシリア帝国に よって滅ぼされ、さらに紀元前586年には南ユダ王国もバビロニア帝国によって滅ぼされ てしまいます。そこで北イスラエル王国を構成した十部族は、アッシリア帝国中に散らさ れていき、民族としての固有性を喪失していきます。それを「失われた十部族」と言いま す。それに対してユダ王国も滅亡し、バビロン捕囚となってバビロニア帝国中に散らされ ますが、散らされた場所で、それぞれがまとまって共同生活することが許され、長老を中 心とした自治が認められます。そこで彼らは異国にいながらも、イスラエル民族としての 信仰と生活を守っていくことができ、固有の文化を残すことで民族的にも生き残ることに なります。彼らは主にユダ族から成っていたため、生き残ったイスラエル人はユダヤ人と 呼ばれるようになります。やがてペルシャ帝国の時代になり、ユダヤ人は帰還が許されま すが、多くのユダヤ人は散らばった先に残っただけでなく、さらに多くの地域へと進出し て居住地域を広げていきました。それによりパレスチナ本国に帰還したユダヤ人とそれ以 外の地域に散らばって暮らすユダヤ人とが分かれていくようになり、後者をディアスポラ (離散)のユダヤ人と言いますが、パウロとその家族もこのディアスポラのユダヤ人とい うことになるわけです。そして同じユダヤ人ですが、パレスチナのユダヤ人とディアスポ ラのユダヤ人は、生き方が違っていくようになります。日常的に異邦人、つまりユダヤ人 以外の外国人と接触し、日ごろからギリシャ・ローマの異教的な文化にも接していたディ アスポラのユダヤ人は、当然異邦人に対して寛容で、ギリシャ文化に対しても積極的とな り、逆に律法といったイスラエルの伝統に対しては緩やかになっていきます。日ごろから ギリシャ語を話し、ギリシャ語で考えますから、いきおいギリシャ文化に感化されていくことにもなるわけです。それに対してパレスチナに住むユダヤ人は、イスラエルの伝統を 守り、律法を厳守することにおいて、当然ながら厳格になっていきます。異邦人と接触す ることを避け、ギリシャ・ローマ文化を異教的として軽蔑して、いわば原理主義的になっ ていくわけです。そうしますと同じユダヤ人でありながら、互いに軽蔑し、対立するよう になっていきます。ディアスポラ・ユダヤ人からすれば、パレスチナのユダヤ人は偏狭で 偏屈だと考えますし、パレスチナのユダヤ人からすれば、ディアスポラのユダヤ人は、イ スラエルの伝統に忠実でない、偶像にかぶれ異教的に暮らす、イスラエルの風上にもおけ ない連中と見なします。そこでパレスチナのユダヤ人は、ディアスポラのユダヤ人をほと んど異邦人と同じ扱いをしたため、両者の対立は激しいものがありました。


 その争いが、後にはエルサレムの教会でも起きていくことになります。使徒6章では、 最初の教会に、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間で争いが生 じたことが記されます。彼らは両方とも同じユダヤ人であり、しかも同じクリスチャンで あるわけですが、それでも言葉や文化や生活習慣の違いから来る対立は避けられないもの となりました。このギリシャ語を話すユダヤ人をヘレニスト、ヘブライ語を話すユダヤ人 はヘブライストと呼ばれて区別されました。もちろん外国で暮らすディアスポラ・ユダヤ 人がヘレニストで、パレスチナのユダヤ人がヘブライストだと単純には分類できませんが、 だいたいは重なるわけです。だからギリシャ語を流暢に操り、ギリシャ文化の影響を受け たタルソス出身のパウロは、ディアスポラ・ユダヤ人として普通ならヘレニストとなるわ けです。ところがそうではなく、パウロも親も、律法を厳格に守るファリサイ派ユダヤ人 であった、だから自らを「ヘブライ人の中のヘブライ人」と自称することができたのであ り、それはヘブライストであるということなのでした。


 事柄をややこしくしたのは、ディアスポラ(離散)ユダヤ人イコール律法にルーズな人 たちとは単純にはならない面があったからでした。自分の周りが異教的で、しかも周りの 同胞もいささか異教的に生活する中で、逆に律法に対してもっと厳格に、もっとストイッ クに生きようとする人たちが生じてきます。自分たちのユダヤ人性に目覚めたというか、 民族としての伝統と誇りを大切にして、そのような異教的な環境だからこそ、その中でよ り厳格に律法に徹して生きようとする人たちが出てきました。そしてその中には、晩年は パレスチナ特にエルサレムに帰還して、そこに骨を埋めたいと考える人たちがいたのでし た。ですからエルサレムに在住する元ディアスポラ・ユダヤ人は、パレスチナに元から住 んでいるユダヤ人以上に、さらに厳格になっていくという面がありました。パウロは、デ ィアスポラ・ユダヤ人の出自であるとしても、後者の方だったと考えることができます。 とにかくこうしてパウロは、本来なら矛盾し対立する二つの要素が両方流れ込んでいる、 そのような家庭環境の中で生まれ育っていったということができるのです。このような環境からパウロがどのように成長していくのかは、次の課題となりますが、ここでこの両方 の要素が、後に「異邦人の使徒」として主イエスによって立てられ、用いられていく上で、 非常に大切なものとなるということを覚えていただきたいと思います。パウロが、パレス チナで生まれ育ったユダヤ人だったら、「異邦人の使徒」として働くことが、とても困難だ ったと思います。幼いときから異邦人と接触し、異邦人の言葉と文化を身につけ、それに 習熟したからこそ、ごく自然にその働きを担うことができました。しかも彼は、普通のデ ィアスポラのユダヤ人のように、律法への熱心や神への忠実さにおいて緩やかだったので はなく、イスラエルの伝統を頑ななまでも守り抜く家庭に生まれ育ち、律法学者となるべ く厳しい教育と訓練を受けました。だからこそ、主イエスの福音を旧約聖書に基づいて正 しく理解すると共に、さらにそれを体系づけ、論証し、教えることができました。律法に 習熟し、それへの熱心さにおいて比類がないほど徹底していったからこそ、ユダヤ教に対 してイエス・キリストの福音を、論理的に弁証していくことができました。論争するとき にも、相手の手の内を熟知していますから、相手が立ち打ちできないほど、弁論すること ができました。こうして後に主イエスの使徒として立てられていくとき、もっともふさわ しい人物であることが明らかにされていきます。パウロ以外に、この務めにふさわしい人 物はありませんでした。


4.環境も教育もすべてを用いて導かれる神

 しかしこのような生育環境は、パウロが選べることではありませんでした。むしろ主が パウロを選び、この務めへと立てるべく、そのような環境の中に誕生させていったのでし た。ですからパウロの生育環境の背後に、彼を「異邦人の使徒」として選ばれた、主の選 びがあったということができます。神はエレミヤに対して、「わたしはあなたを母の胎内に 造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、 諸国民の預言者として立てた」と語って、預言者としてお立てになりました。詩編139編で は、「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。・・・ 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記 されている。まだその一日も造られないうちから」と語られました(13、16節)。まさし くパウロは、「異邦人の使徒」となるべく、母の胎内にあったときから主によって選び分 けられた器でした。そのことをパウロ自身、次のように語ります。「しかし、わたしを母 の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた・・・」と(ガラ テヤ1章15、16節)。こうした環境の中でパウロは育てられていきます。そうして教育を 受け、訓練を受けていきます。それは長い期間に及ぶものでしたが、それがいずれは何を 目指し、何のためにいかされていくのか、そのときのパウロは知るよしもありませんでし た。しかしこうした彼の生育環境と教育・訓練のすべてが、やがて「異邦人の使徒」として立てられ、働く上で、十二分に生かされていくことになります。そのことをパウロは知 りませんでしたが、彼が母の胎内にいるときから、主は彼を選び分け、そのために彼を導 いていかれたのでした。


 神は、長い年月の中でわたしたちを変えていかれ、長い年月を用いて、わたしたちを変 えていかれます。そしてわたしたちがそれぞれに果たすべき使命と辿りつくべき目標へと 導かれるように、そこに至るまでの道筋をも導き続けてくださいます。その中には、どう してこのような道を通らなければならないのか分からず、苦しんだり、悩んだりするとき もあるかもしれません。しかしそのことによってわたしたちが、「自分に決められた道」を まっすぐに、そしてしっかりと歩み続けていくことができるように、神は導き続けてくだ さるのです。そこでわたしたちは、まるで自分が曲がりくねった道を通らせられたり、紆 余曲折を経ているように感じることもありますが、そのような中にあっても、神は確かな 道を歩ませ続けてくださっているのです。そして後で振り返ったとき、このことのために あの道を通らされてきたのだと知ることができます。それはときとして、いつまで続くの かも分からないような混沌とした道であるかもしれませんし、長く続くトンネルのような 日々であるかもしれません。大きな困難に直面させられる道であるかもしれませんし、重 い問題に苦しまされる日々であるかもしれません。しかしそれがたとえどれほど困難な道 であったとしても、またどれほど大きな労苦を背負う道であったとしても、わたしたちが 「自分に決められた道」をしっかりと踏みしめて歩んでいくことができるように、神はわ たしたちを導き、守り、支えてくださいます。そしてその「自分に決められた道」を踏み 外すことなく歩み続け、目指し続けていくことができるように、わたしたちを母の胎内に あるときから選び分け、ふさわしい環境に生まれさせ、その後の歩みのすべてを導き続け てくださいました。そしてそこでの苦しみや悩みは、決して無駄になることはなく、そこ での経験のすべてが、後の働きのために生かされ、用いられていくのです。「主は人の一歩 一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではな い。主がその手をとらえていてくださる」(詩編37編23、24節)。この約束を信頼しつつ、 自分がたどるべき道を今日も力強く歩み続けていきたいと思います。そして、確かな御手 をもってわたしたちを導き続けてくださっていることを信頼して、歩み続けていきたいと 思います。若いエレミヤを選ばれた主は、イザヤをも召して言われました。「誰を遣わすべ きか。誰が我々の代わりに行くだろうか」と。わたしたちもイザヤと共に応えたいと思い ます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と(イザヤ6章8節)。た とえそれがどれほど困難な道であったとしても、どれほど大きな労苦を背負う道であった としても、わたしたちは「自分に決められた道」をしっかりと踏みしめて歩んでいくよう に、ここから遣わされていきたいと思います。