第26講 裁くために再臨される主への備えの言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第26講:裁くために再臨される主への備えの言葉 (マタイ24章29~44節、2012年9月2日)


【今週のキーワード:再臨と最後の審判】

 「生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られます」と、再臨と 最後の審判とは切り離すことができず、同時に起こるものとして告白されます。主が再び おいでになるとき、わたしたちは一人一人主の前に立たされて、生きていた間に為したこ とのすべてがあらわにされて裁かれます。そしてそこでわたしたちは、それらの一つ一つ について申し開きをすることが求められます。それは人生の収支決算の場で、善であれ悪 であれわたしたちが行ったことだけではなく、行うべきだったのに行わなかったこと、 言ったこと、言うべきだったのに言わなかったこと、思ったこと、思うべきだったのに 思わなかったことのすべてが問われていきます。しかもその日がいつかをわたしたちは知 りませんので、目を覚まして生きることが求められます。再臨と最後の審判の信仰は、わ たしたちが自分自身の終わりの時にも備えて生きる生き方を求めます。やがて一人の例外 もなくその日を迎えます。そのときまでに自分がそれにふさわしく整えられ、変えられ、 成長し、聖められていくことを求めながら生きていく毎日でありたいと思います。わたし たちの人生にはリミットがあり、その後には裁きがあることを覚えて、「主よ、汚れし身 を清めて、御国の備えをなさせたまえ」と祈りつつ、毎日を真剣に生きていきたいと思い ます。再臨と最後の審判の告白は、そのような真実な生き方へとわたしたちを招く言葉な のです。


1.再臨と最後の審判の関係

 先日の新聞に「南海トラフ巨大地震」についての被害想定が発表されていました。「関 東から九州の太平洋側が最大34メートルの津波と震度7の激しい揺れに見舞われ、最悪 のケースでは死者32万3000人、倒壊・焼失建物が238万6000棟の上り、1015万平方キロ が浸水する」というものでした1。そしてこのような「マグニチュード8級の巨大地震 が、およそ90~150年の間隔で繰り返し発生してき」たことも報じられ2、それを踏まえ てテレビでも、各家庭で2週間分の水や食料を備蓄することが呼びかけられていました。 わたしたちはこのような報道に触れて、いつか来る大災害に備えていなければならないと 考えますし、そうするべきです。しかし新約聖書は1900年も前から、それよりももっと 深刻で甚大な問題について、わたしたちに警告を与え続けてきました。それは、この世に は終わりがあり、そこでは最後の審判が行われるということについてです。これまで主イエスの為された御業を見てきました。そしてそこでの「天から降り、肉体を受けて人とな り、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、よみがえり、天に昇り」というのは「過 去」の出来事であり、「父の右に座し」は「現在」の出来事として告白されましたが、 「生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られます」という再臨 の出来事は「未来・将来」の出来事であり、これから起こることとして告白されます。復 活して天に昇り、神の右に着かれた主イエスは、最後の裁きをなさるために再びおいでに なります。そしてこの再臨は、「生きている者と死んだ者とを裁くため」とあるように、 最後の審判と切り離すことができません。これらは二つで一つのもので、再臨と最後の審 判とは同時に起こるものとして告白されます。それは、再臨や復活が信徒と未信者と区別 されて二回起こるとか、再臨と最後の審判の間に千年王国があるといった、後に発展して いった教理をここでは含まないということであり、ここでは最後の審判のために主イエス は再臨され、両者は同時に起こるものとして考えます。しかしわたしたちは主イエスが再 びおいでになることと、そこでもたらされるこの世の終わり、そして最後の審判につい て、何も考えないまま毎日を過ごしていることが多いのではないでしょうか。けれども主 イエスは必ず再臨されます。そして主が再びおいでになるときには、最後の審判が為され ます。


 二ペトロによれば、主の再臨を熱く待望していた初代教会の時代でさえ、再臨が遅延す る中で次第に懐疑的な思いが頭をもたげてきたことが分かります。「主が来るという約束 は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初 めから何一つ変わらないではないか」と考える人たちが現れたようでした。それに対して 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるので はありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがた のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激 しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出され たものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなた がたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、ま た、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は 燃え尽き、熔け去ることでしょう」と明言されます(3:4、9~12)。そして「万物 の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と 勧められていきます(一ペト4:7)。


2.人生の収支決算としての最後の審判

 主イエスの再臨と最後の審判について、聖書は繰り返し語ります。ペトロはコルネリウ スの家で、「イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定めら れた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じにな りました」と語りました(使10:42)。ヘブライ人への手紙では、「人間にはただ一度死 ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と記されます(9:27)。パウロ も、「わたしたちは皆、神の裁きの前に立つ」ことと、そこで「わたしたちは一人一 人、自分のことについて神に申し述べることになる」こと(ロマ14:10、12)、そして 「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を 住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」ことを語ります (二コリ5:10)。また「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの 日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉に よって罪ある者とされる」とも語られます(マタ12:36、37)。わたしたちは、まるで 世の終わりなどはなく、終わりの裁きもないかのように生きていないでしょうか。しかし そうしたわたしたちに聖書は明言します。いずれわたしたちは「生きている者と死んだ者 とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」と(一ペト4: 5)。


 改革派教会が創立60周年を記念して出した『終末の希望についての信仰の宣言』で は、「天上の主キリストは、終わりの日に、大いなる力と栄光を帯びて、肉体をもって目 に見える姿で天から到来されます。すべての人の目が彼を仰ぎ見ます。主の再臨の目的 は、義をもってこの世界を裁き、すべての悪の力に勝利し、御自分の民を四方から集めて 神の国を完成し、父である神に御国を引き渡すためです」と告白されます(四 (一))。そして「主キリストは、死人をよみがえらせた後ただちに、御父から委ねられ た裁きの権能により、義をもって審判を行なわれます。すべての人は、キリストの裁きの 御座に進み出て、彼らの思いと言葉と行いについて申し開きをし、また善であれ悪であ れ、自分が行ったことに応じて報いを受けます」と宣言されます(四(三))。主イエス ご自身がこのことを明らかにされました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて 来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼 いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王 は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時か らお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。・・・』。それから、王は左側 にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のため に用意してある永遠の火に入れ。・・・』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」と(マタ25:31~46)。


3.神の御心を行うこと

  ここでは待望していた主がお帰りになって、その主の前に立ってこれまでの業務報告を し、決算報告をすることになります。そこで求められることは、どれほどの大事業を成し 遂げたかとか、どれほどの成果を収め、業績を積み上げたかということではありません。 むしろ小さな者への小さな業にどれほど忠実だったかが問われます。どれほどの大きな事 業を成し遂げたかということではなくて、どれほど主の御心に忠実だったかということ、 主が命じ、委ねられた働きに、どれほど忠実だったかということでした。そしてそこでの 主の御心とは、「この最も小さい者の一人」に忠実に仕えるということでした。それは 目立たず、ごく些細で誰の目にも留まらないし、評価もされない、小さな働きです。しか し主が求められたことは、このごく些細な小さい業に忠実であったかどうかでした。「ご く小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16:10)と主が言われた、 その「ごく小さな事」でした。ここで、右に分けられ、主の祝福に入れられた人々は、自 分が主のために為した業さえ覚えていません。「主よ、いつわたしたちは~したでしょう か」と彼らは逆に聞き返すほどです。ましてやそれを、主のために成し遂げたなどとは、 思い上がっていないのです。他方、左に分けられ、主の裁きに入れられた人々は、逆に聞 き返します。「主よ、いつわたしたちは~しなかったでしょうか」と。彼らは、自分たち ではしたつもりでいたからです。主の言葉は不当だと言わんばかりに、わたしたちはちゃ んとしてきたではないかと訴えるのです。あるいは、もし相手が主だと分かっていたら、 わたしたちだってちゃんとしましたと言うのでした。


 それは山上の説教のしめくくりに最後の裁きの前に出頭する主の僕たちの言葉(7: 21~23)とも対応する内容です。7章に登場し、主に厳しい言葉をかけられる人々も同 じです。彼らは信仰者、それも怠惰で不忠実な僕ではなく、熱心に奉仕してきた僕たちで した。彼らは、主の「御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行った」 (7:22)弟子たちでした。彼らは大きな業を実現し、成し遂げてきた、それも主のた めに行ってきた人々でした。それにも関わらず、彼らは主の前から退けられてしまいま す。主の御心を実現しなかったからだと。主の祝福にあずけられるのは、「天の父の御心 を行う者」だからでした。主の御心を行うとはどういうことでしょうか。本当に主に仕 え、奉仕し、主の御心を実現するとは、「この最も小さい者の一人」を主ご自身である かのように心からへりくだって仕えていくということだと、ここでは明らかにされます。 しかもそれは、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねて」い くという、大変な犠牲を伴う働きです。しかも相手が主だったからではなく、「小さい 者」であるにもかかわらずそうしたことです。さらにそれをしたことさえ忘れてしまうほ ど、ごく自然に、当然のことのように果した業でした。主がおいでになるまでの間、わた したちに委ねられた業、それは自分にとって「小さい」と思える人に仕えることであり、 また「小さい」と思う働きを担うということで、それこそが主の御心です。自分にとって 「小さい者」とは、自分の役に立たず、してあげても意味のない、自分にとって価値のな い人、報われることのない人のことです。せっかくしてあげても少しも感謝せず、むしろ 嫌味を言ってがっかりさせる、あの人です。心を砕き、犠牲を払って仕えてあげても、何 一つ喜びも生まれてこない、かえって空しさを覚える人です。そのような人に仕え、時間 と犠牲を払うことは無駄に思え、むしろ奉仕の喜びと感謝を奪わせるような働き、それ が自分にとっての「小さな」業です。相手が主であれば、喜んで果たしもしようが、あの 人ならば、と考えてしまう、そういう人への奉仕です。何一つ感謝されず、喜ばれもせ ず、報われない働き、それが「小さな」業です。誰からも覚えられず、評価されず、知ら れることさえない、ごく些細で小さな、平凡な務め、しかしそのような「小さな」業に忠 実であることが、主の御心なのでした。


 そしてここで覚えるべきことは、わたしたちが裁きを受け、右か左かに分けられる基準 は、どんな悪事を行ったかとか、どんな善行に勤しんだかということではなく、どこまで も隣人に対する関わり方だということです。そこでは、「わたしの兄弟であるこの最も小 さい者の一人にした」ことが問われていきます。「この最も小さい者の一人」に対して、 どのように関わってきたか、それが右か左か、つまり永遠の祝福かそれとも災いかの判断 基準とされているということです。ルカ16章19~31節には金持ちとラザロの譬が記され ます。そこでも同じことが問われています。「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日 ぜいたくに遊び暮らしていた」金持ちは、死後、陰府に落とされ、「炎の中でもだえ苦 し」みながら、そこで責めさいなまれます。彼がそのようなことになったのは、悪事を 行ったからというよりも憐れみのなさでした。何か積極的に行ったことによってではな く、むしろ逆に行わなかったことについて責められます。門前に、できものだらけの貧し いラザロが横たわり、食卓から落ちる物で腹を満たしたいと願っていたにもかかわらず、 彼に何一つ憐れみをかけることなく、苦しむ彼に助けの手を差し伸べることがなかっ た、そのことが問題とされます。空腹を満たすためにパンのひとかけらでもあげることが でき、体の苦しみを和らげる何らかの処置をしてあげることができたにもかかわらず、彼 は苦しむラザロに何一つ手を差し伸べようとしなかった、そのことが責められるのです。聖餐を執行する第一主日礼拝では、それにあずかるにふさわしい者とされるように罪の告 白の祈りを祈ります。そこで「わたしたちは、思いと言葉と行いにおいて、あなたの前に 罪を犯しました。自分のことばかりを考えて、あなたから離れ、隣り人に背を向けて、彼 らの重荷を共に負うことを拒みました。そして周りの人々の痛みを知りながら、それを無 視し、傷ついて苦しむ人々の傍らを通り過ぎてきました」と祈ります。ここではまさしく このことが問われていくのです。はたしてわたしたちは、右と左のどちらに分けられるの でしょうか。


4.再臨と最後の審判への備え

 黙示録では、この最後の審判の様子が象徴的な言葉で絵画的に言い表されていきます。 「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その 御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者 も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの 書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに 基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」(20:11、12)。詩編139編で「主よ、あなた はわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計 らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられ る。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」 と賛嘆した詩人は(1~4)、秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りな された。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目 は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだ、その一日も造 られないうちから」と語りました(15、16)。そのように、そこにはわたしたちの人生 についての詳細な記録が記されたノートが開かれ、それに基づいてわたしたちは、その一 つ一つについて申し開きをすることが求められていきます。それは人生の収支決算の場 で、善であれ悪であれわたしたちが行ったことは言うまでもなく、行うべきだったのに行 わなかったこと、言ったこと、言うべきだったのに言わなかったこと、思ったこと、思 うべきだったのに思わなかったことなどのすべてが問われていくことになります。わたし たちには、その備えができているでしょうか。黙示録はさらに「海は、その中にいた死 者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに 応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。そ の名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」とも記します(20:13~ 15)。また「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と語られた主イエス ご自身、「父は・・・裁きを行う権能を子にお与えになった。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞いて、善を行った者は復活して命を受けるた めに、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る」と語られました(ヨハ5: 22、27~29)。命に至る者だけが復活するのではなく、すべての人が復活します。そし て悪を行った者も復活しますが、彼らは裁きを受けて、永遠の滅びに至るために復活する ことが明らかにされます。このように最後の審判で覚えるべきことは、「一人の人間すら も、また一つの人生すらも彼の審判を免れないという点にあります。生きている者も死ん だ者たちも明るみに出され、公然と裁かれます。しかもそのときすべての人間が永遠に救 われる者と永遠に滅んだ者とに分けられるということも起こ」ります3。復活され、昇天 され、神の右に座しておられる主は、「天と地の一切の権能」を授けられましたが(マタ 28:18)、それは「生ける者と死ねる者との世界に対する全権」でもあり4、主は死と陰 府をも支配する方として、死の国と死者をも支配しておられるということでもあります。 「これは全ての人に対する審判、死者といえどもそれから免れることは出来ないのを意味 する。信ずる者にとって死が終わりでないように、信じない者にとっても死は終わりでは ない。・・・イエス・キリストの支配と裁判権が死の障壁の彼方まで及ぶことが述べられている」ということです5。


 それでは、この主の再臨と最後の裁きは、いつ到来するのでしょうか。そのことについ て主イエスは、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、 父だけがご存じである」と前置きされた上で(マタ24:36、使1:7)、「だから、目 を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分から ないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやっ て来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだ ろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからであ る」と語られました(マタ24:42~44)。「だから、目を覚ましていなさい。あなたが たは、その日、その時を知らないのだから」とも(同25:13)。そしてこの主の言葉を 受けてパウロも、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた 自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているその矢先に、突 然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそ れから逃れられません」と警告し(一テサ5:2、3)、ペトロも「主の日は盗人のよ うにやって来ます」と語りました(二ペト3:10)。そして主ご自身も「もし目を覚ま していないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたがたのところ へ行くか、あなたには決して分からない」と明言されました(黙3:3、16:15)。


 しかしわたしたちは、まるで世の終わりなどはなく、終わりの裁きもないかのように生 きていないでしょうか。けれども世の終わりは必ずありますし、そこでこの世が裁かれ るだけではなくて、わたしたち一人一人も聖なる神の前に立たされて裁かれていきます。 そのことを真剣に考えるなら、わたしたちの信仰生活はもっと違うものとなっていくので はないでしょうか。わたしたちは、うっかりするとすぐこの世に埋没し、すっかり現世に からめとられながら、罪にどっぷりと浸かって生きてしまうものですが、それは世の終わ りと裁きを真剣に考えることがないからではないでしょうか。わたしたちの信仰の歩み は、必ず迎える主の裁きを覚えた一日一日とされているでしょうか。わたしたちも、これ らの言葉をしっかりと受けとめ、心して備えていく必要があるのではないでしょうか。そ れはこの世の終わりと最後の審判に対して畏怖の念をもって備えていくということです。 今はたしかに生活に追われ、仕事に追われ、忙しさに追われています。信仰へと思いを向 けることなく、奉仕に励むこともなく、怠惰に生きる言い訳はいくらでもできます。しか しその後に何があるかを覚えておく必要があります。この世だけではなく、実はわたした ちの人生にもリミットがあります。そしてそのリミットがいつなのかをわたしたちは知り ません。しかしその「時」がいつ来ても、主よ、お待ちしていましたと、主の前に立つこ とができるように、一日一日を真実に歩み続けていきたいものです。


5.福音宣教と伝道への派遣

 そしてこのことは、ただわたしたち自身の問題だけではなく、わたしたちの家族や周り の人々についての問題でもあります。マラキ2:17~3:5には、「裁きの神はどこにお られるのか」というイスラエルの民の問いが記されます。そこでは使者が送られることが 約束されますが、そこで「彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐え うるか」と問われます。「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発す る」と。そして3章の終わりでは「主の日」の預言が為されますが、その日は「炉のよう に燃える日」で、「高慢な者、悪を行うものはすべてわらになる」とされます(3: 19)。旧約聖書には、この「主の日」の預言が繰り返されますが、それは裁きの日でし た。「主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。主の日は闇で あって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」(アモ5:18、20)。「ああ、恐 るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」(ヨエ1:15)。「主の 大いなる日は近づいている。その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇 と暗黒の日、雲と濃霧の日である」(ゼファ1:14、15)。そしてこう呼びかけられま す。「主の燃える怒りがお前たちに臨まぬうちに。主の怒りの日がお前たちに臨まぬうち に。主を求めよ」と(同2:2、3)。パウロも、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」ことを警告し、「人々が『無事だ。安全だ』と言っているその矢先に、突然、破 滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから 逃れられません」と注意を促しました。


 このことは、まだ信仰に至っていないわたしたちの家族や友人、周りの人々の問題でも あります。またかつては教会に通いながら、今は信仰から離れ、教会から遠ざかってし まっている人たちの問題でもあります。たとえ彼らは、心の中で主を信じていると言って も、その生活において主を否定しているわけですから、キリストにつなげられているとは 言えません。ヘブライ人への手紙では、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来たるべき世の力を体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」と語られ ます(6:4~6)。そして「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪 を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ残ってい るのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」 とも語られます(同10:26、27)。そうやって信仰から遠く離れたまま、好き勝手に生 きているうちに「突然、破滅が襲う」ということがないように、わたしたちはこうした 人たちのことをも痛みに覚えつつ、祈り執り成していく必要があります。なぜなら「主イ エスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき・・・神を認めない者や、わたしたち の主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになり・・・彼らは、主の面前から退 けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受ける」ことにな るからです(二テサ1:7~9)。主にあるわたしたちにとっては希望の日であるこのと きは、「福音の招きを最後まで拒み続けた者たちにとって・・・は、大いなる恐れの日で す。罪と不信仰のゆえに恥辱へとよみがえらされた彼らは、審判者キリストによって公に 有罪の宣告を受け、永遠の刑罰のもとに置かれ・・・ます」(『終末の希望についての信 仰の宣言』四(三))。わたしたちはこのことを真剣に受けとめていかなければなりませ ん。教会が伝道へと促されるのも、そのためです。伝道はしてもいいし、しなくてもいい ものではありません。伝道は果たさなければならない教会の使命です。なぜなら教会は伝 道するために建てられたものだからです。主イエスの救いにあずからない者の先にあるの は、永遠の滅びです。そしてこの救いは、福音宣教によって担われていくものです。です からわたしたちは一生懸命に伝道しなければなりません。テモテに宛てられた手紙の中 で、次のように勧められていきます。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を 裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国を思いつつ、厳かに 命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」と(二テモ4:1、2)。わたしたちには、永遠の滅びから永遠の救いへと招き入れる、大切な務めが 担わされているのです。


 そこで「わたしたちの教会は、・・・復活の主イエス・キリストの御意志にしたがい、 終わりの日における神の国の完成に向けて、福音を全世界に宣べ伝えます」(『伝道の宣 言』十六)。そして『終末の希望についての信仰の宣言』では、「それゆえ、わたしたち は、来たりつつあるキリストに目を注ぎ、祈りのうちに忍耐し、主がいつ来られてもよい ように、常に目を覚まして歩みます。わたしたちは、落ち着いた生活をし、集会を守り、 神の民の使命を果たしながら、身を慎んで主の再臨に備えます」と謳われます(二 (一))。こうして再臨と終わりの裁きの信仰は、わたしたちがこの世の終わりと共に、 自分自身の終わりの時にも備えて生きる生き方を求めていきます。やがて一人の例外もな く「その日」を迎えます。そのときまでに、自分がそれにふさわしく整えられ、変えられ、 成長し、聖められていくことを求めながら生きていく毎日でありたいと思います。わたし たちの人生にはリミットがあり、その後には裁きがあることをしっかり覚えながら、「主 よ、汚れし身を清めて、御国の備えをなさせたまえ」(讃美歌171番)と祈りつつ、毎日 を真剣に生きていき、さらに伝道に励んでいきたいと思います。ニカイア信条の「生きて いる者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られます」という告白は、そのよ うな真実な生き方へとわたしたちを導き、伝道へと促していく招きの言葉なのです。




1 毎日新聞、第49107号 2012年8月30日朝刊、1頁

2 同上、「南海トラフではどんな地震が起きるの?」、3頁、

3 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、教文館、241頁

4 同上、243頁

5 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、89頁