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第25講 神の右に座した執り成しの主への信仰の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第25講:神の右に座した執り成しの主への信仰の言葉 (ローマ8章31~34節、2012年8月26日)


【今週のキーワード:神の右への着座】

 天に昇られた主イエスは今、神の右に座っておられます。「神の右に座す」とは、神が持っておられる権威・威光・栄光・力を、主イエスが父から与えられて、父の代わりにそ の働きを為していることを意味します。つまり主イエスが、父なる神の権威と勢力と主権 との一切を委ねられて、その権能に基づいてこの世を支配し、統御しておられることを意 味するものなのです。そしてここで大切な点は、神の右に座しておられる主イエスは、 今、父なる神の御前にあってわたしたち一人一人を覚えて、執り成してくださっていると いうことです。そこで主イエスは、日ごとに罪を犯し、失敗し、弱さにくず折れるわたし たち一人一人を覚えて、毎日執り成し続けてくださっており、そういう仕方で、主はわた したちと共にいてくださっています。天にあってわたしたちの罪と弱さを執り成し、祈り に覚えることで、わたしたちと共にいてくださり、共に戦ってくださり、共に歩んでくだ さっている、そのことを信じるのが、主イエスの昇天と神の右の着座という出来事なので す。天におられる主は、祈りによる臨在において、地上を生きるわたしたちと共にいてく ださいます。しかも主イエスは、まるで祭司が民を祝福するように、手を上げて祝福しな がら昇天されました。このように主イエスの執り成しの祈りは、どこまでも祝福の御手を 広げてくださる中で、わたしたちを覚えて祈ってくださっているということなのです。


1.神の右の座に座しておられる主

 天へと上げられた主はどこに行かれたのか、今どこにいるか、そこで何をしておられる のか、それがここでの主題です。そして主は今、神の右に座しておられるというのが、そ の答えです。前回考えた主イエスの昇天という出来事は、主イエスとわたしたちとの別離 や不在、隔たりや距離を表すものであるよりも、むしろ主がわたしたちと共にいてくださ るという、共在と一致と交わりを約束するものであることを考えていきました。しかしそ の主が天へ、それも神の右に座してしまわれたということは、どういうことでしょうか。 「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マコ 16:19)。そのことは主イエスご自身が語っておられたことでもありました。「今から 後、人の子は全能の神の右に座る」と(ルカ22:69)。またペトロもそのことを証言し ました。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人で す。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」と(使2:32、33)。そしてそのことをステファノは死の直前に目撃しま す。彼は「天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開い て、人の子が神の右に立っておられるのが見える』」と言いました(使7:55、56)。 ヘブライ人への手紙にも、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで あって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた 後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(1:3)、 「イエスは・・・十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」と記さ れていきます(12:2)。


 それでは主が神の右の座に着かれたとは、何を意味するのでしょうか。霊である神(ヨ ハ4:24)には体がありませんから、その左右ということが文字通りのものでないこと は言うまでもありません。父なる神がぐるりと廻ったら、それと一緒に主イエスも廻って しまうというように、それを何か物理的に考える必要はありません。天が物理的・空間 的なものではなくて、父なる神がおられるところという意味であるように、「神の右」も 物理的に考えることではなくて、象徴的なものとして理解すべきことです。かつてヤコブ とヨハネが主イエスの王座の左右に座ることを願い出たことがあったとおり(マコ10: 37)、それは権威と関係があります。それは「古代東方の宮廷の慣習に由来する」もの で1、「古代オリエントでは『右の座』は王の主権を行使する宰相の地位を意味」し2、 「首相が王の右に座し、委任された王の権威を行使」することを指すものでした3。古代 世界では、執政とか副官のように王の名代として実際の政治を司ったり、行政を執行する 者が、その地位に任ぜられることを「王の右に座す」という言い方で表しました。実 際、王の右側にその席をもうけられて、座ったりもしたわけですが、王の右というのは王 の権威を代表して、その権威を代行する職務に任じられたことを意味するものでした。で すからそれは主が父なる神から「天と地の一切の権能」を授けられた方として(マタ 28:18)、神が持っておられる権威・威光・栄光・力を、主イエスが父から与えられ て、父の代わりにその働きを為すことであり、その権威を行使される主権者とされたとい うことでした。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりまし た。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまず き、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる のです」(フィリ2:9~11)。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、 また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(一ペト3:22)。このこと を豊かに語るのがエフェソ書です。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死 者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置か れました」(1:20、21)。こうして天に上り、神の右の座に着かれたとは、「キリス トはすべての支配や権威の頭」とされたということであり(コロ2:10)、「全能の神 からその主権を全く委託された者として、万物を統治する権能を与えられた」ということ でした4。


 こうして天に上られた主は、「王の王、主の主」(黙19:16、17:14)として、すべ てのものを支配しておられる方だということです。わたしたちは主イエスを教会の中だけ の、聖書の中だけのいとも小さい方としてしか見なしていないかもしれませんが、わたし たちの主は全宇宙を支配する被造世界の主権者です。主は「あらゆる権威・権力・勢力・ 主権の上に置かれ」た方で、「今の世だけではなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆ る名の上に置かれ」た方であるということで5、こうして「昇天以来、今日すでにこの世 界を支配している」のです6。このように「神の右に座しておられるキリストは、現在も 将来も、わたしたちに対して神としての最高の主権者」ですから、「天皇も国家も社会体 制も、政治的圧力も軍隊も暴力も、思想も宗教も弾圧も、富も地位も成功も、その他の いかなるものも、キリストに優越する主権はわたしたちに対して持つものは存在しない」 ということであり、「わたしたちにとって神の右に座する最高の主権者は、キリスト以外 にはない」ということなのです7。


2.わたしたちを守り支えるための主の統治

 そしてこのことは、わたしたちにとってさらに深い意味を持っています。主イエスが神の右に座しておられるとか、キリストが神の権威を与えられて世を支配しておられるとい うことは、何かわたしたちには縁遠いことのように思えます。苦しい現実の中であえぎな がら毎日を生きているわたしたちに、それはどのような意味をもつのかと問いたくなりま す。たしかにこのことは、わたしたちには何か別の世界の話のようにしか聞こえないよう に思えますし、それほど厳しい現実の中に生きるわたしたちですが、まさにこのことこ そ、苦しみあえぐわたしたちの信仰の目を開かせていく約束なのです。エフェソ書はさら にこう語ります。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをす べてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、 すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と(同1:22、 23)。「これによると、父の右にあって万物を統治する主権的なその力を、何よりも教会統治のために用いておられる」ことが分かります。それは三位一体の神として、御父、 聖霊と共に分かち持っておられた統治権ではなくて、「贖罪の御業を完成されたが故に天の高きに引き上げられた栄光のキリストに、さらに加えられるかのように与えられた統治権能」であり、それは「全能の神としての統治権能以上のこと」、つまり「救い主として の資格を父から与えられた者としての統治権」のことでした。それは「この世のいかなる 力をも足の下に従わせる主権的力を与えられた者として、しかもその力を教会に注ぎ、救 いの恵みをもって教会とその民を守り導くために父から託された統治権能」でした8。そ してこのような統治権を与えられた方として、主は「わたしたちをその御力によって、す べての敵から守り支えてくださる」のです(『ハイデルベルク教理問答』問51)。


 このキリストの支配について、ファン・リューラーは次のように語ります。「神の統治 は担うこと」だと。「仲保者はこの世界のあらゆる恐るべきこと、あらゆる罪悪、あらゆる苦難、そしてあらゆる罪過を担いかつ耐えます。彼はそれを覆いもします。彼はいわ ばそれらすべてを折り畳みます。彼はご自分の愛のマントをそれらすべての上に広げま す。彼はそれらを贖います。・・・キリストの支配は今起こっています。キリストは支配 し、世界を統治しています。キリストは苦しみつつ、それを行なっています。なぜなら彼 は闘いつつ統治しているからです。彼はまさに彼の苦難において、悪のあらゆる力に抗し て闘っています。それはそれらの力を余すところなく屈服させ、最後には御父に委ねるた めです。この条項においてはキリストの力が問題になっているのですが、とりわけキリス トの犠牲の力について、その和解させ、救贖し、そして同じように克服する力について語 らなければなりません。それゆえ高挙された主が天において何をなすかを表現するため に、新約聖書はさらにまったく別なもう一つの像を持っています。つまり主はご自分のも のたちを執り成します。彼はご自身の犠牲に基づいて、彼らのために不断の執り成しの祈 りをされます。それによって主は、ゴルゴタにおいて私たちのために捧げられた犠牲を、 天の聖所において絶えず御父に対して捧げます。彼はただ単に私たちの最高の王であるだ けでなく、同時に私たちの永遠の大祭司でもあります。彼は王なる祭司、あるいは祭司的 な王です」9。


3.わたしたちのために執り成す祈りの中に

 ファン・リューラーが指摘するように、主イエスが天へと戻られたのは、わたしたちを 父なる神へと執り成すためでした。主イエスの世界統治とか主権という言葉を聞いても、 わたしたちにはピンときませんし、自分たちには何の関係もないことのようにしか思え ません。しかしここでファン・リューラーが語る表現に目を留めていただきたいと思いま す。その主権というのは、わたしたちが想像するような何か圧倒的な力や一方的な圧力を 意味するのではなくて、罪悪や苦難を担い、また耐えることであり、御自分の愛のマントで覆い包んでくださること、主はそれを苦しみながら、闘いながら果たしておられるとい うのです。そこでの主の苦しみと闘いとは何か、それがわたしたちのための執り成しの祈 りでした。そこで主イエスは日ごとに罪を犯し、失敗し、弱さにくず折れるわたしたち一 人一人を覚えて、執り成し続けてくださっている、そういう仕方で主イエスは、わたした ちと共にいてくださるのです。主イエスは大祭司として、わたしたちのために毎日、祈り 続けてくださっている、それもわたしたちの罪と失敗と弱さを深く理解し、それを受けと めつつ、それを乗り越えて天への道をしっかりと歩み続けていくことができるように、執 り成し続けてくださっています。このことをパウロは次のように語りました。「だれがわ たしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方 であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださ るのです」と(ロマ8:34)。ヘブライ人への手紙でも、「わたしたちにはこのような 大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく 主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」と記されます(8:1、 2)。ここでの主の執り成しは、「聖徒とされていながらなお罪の弱さの中に生きるわれ われのため、かつて十字架で死なれ救いの御業を完全に成し遂げた贖罪者としてのご自分 を父に示しながら」の執り成しであり、また「やがてご自分の民を栄光の復活へと引き上 げるための初穂として復活させられたご自分を父に示しながら」の祈りです10。だから効 果ある祈りとして、また父なる神に必ず聞かれる祈りとして、わたしたちが執り成されて いることを確信することができるのです。「キリストは、罪のために唯一のいけにえを献 げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、 待ち続けておられる」のですが、そこでは「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者 とされた人たちを永遠に完全な者となさった」のでした(ヘブ10:12~14)。そして 「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に 近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(同7:25)。しかもそれは、 わたしたちの弱さを深く覚えてのものでした。「イエスは、神の御前において憐れみ深 い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにな らねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受 けている人たちを助けることがおできになるのです」(同2:17、18)。「この大祭司 は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点 において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(同4:15)。こうして主は、 「わたしたちの唯一の大祭司として、御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを 贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず執り成し」てくださるために、また「わた したちの永遠の王として、御自分の言葉と霊とによってわたしたちを治め、獲得なさった贖いのもとにわたしたちを守り保ってくださる」ために(『ハイデルベルク教理問答』問 31)、「天に昇り、父の右に座し」てくださったのでした。


  こうして「この方が天において御父の面前で、わたしたちの弁護者となっておられる」 のです(『ハイデルベルク教理問答』問49)。わたしたちは信仰の闘いの中で、自分の 罪と弱さに立ちすくむことがあります。自分の罪に躓き、自分の弱さに心くじけます。し かしわたしたちは、そこでわたしたちを弁護してくださる弁護者を天に持っています。わ たしたちは自分の罪深さに心弱りますが、『ハイデルベルク教理問答』は次のように約束 します。「たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の戒めすべてに対して、 はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪 に傾いている』と責め立てたとしても。神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵 みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あた かもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代 わって果たされた服従を、すべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいま す」と(問60)。また周りを敵に囲まれ、窮することがあります。そこに主が共にいて くださったらと願うことがあります。しかしわたしたちは、まさにそこでわたしたちを弁 護し、わたしたちの守りを父に強く訴えてくださる、強力な弁護者を天にもつのです。最 強の守り、支えである神御自身を動かして、わたしたちを守られるようにと執り成してく ださるのです。そこでの「執り成し」は、「地上での彼の従順と犠牲のいさおし」による ものであり、そこで人間として「絶えず天にいますみ父の前に出」て、「そのいさおしを すべての信者に適用」し、わたしたちに対するすべての訴えに答え、わたしたちのため に、日毎の失敗にもかかわらず平和な良心をもって、「はばかることなく恵みのみ座に近 づく」ことができるように、そしてわたしたち自身とその奉仕が受け入れられるように と、執り成しつづけてくださっているのです(『ウェストミンスター大教理問答』問 55)。だからわたしたちはこの方によって、この地上にあっても強力な守りと支えを得る のです。そこでパウロは「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに 敵対できますか」と問いかけました(ロマ8:31)。


4.祈りによる主の臨在

 だからわたしたちは詩人と共に、「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてく ださった。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよ う。主はわたしの味方、助けとなって、わたしを憎む者らを支配させてくださる。人間に 頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう」と言って立つことができるのです(詩編118編5~9節)。天におられ、神の右に座しておられる主 が、地上を生きるわたしたちと共にいてくださる臨在は、「祈りによる臨在」であり、主 は祈りにおいてわたしたちと共にいてくださり、祈りにおいて守っていてくださるので す。天にあって、苦境にあえぎ、問題に苦しむわたしたちを見ていてくださり、そこで戦 いきれない弱さの中にあるわたしたちを憐れみ、わたしたちを執り成しつつ、祈ってくだ さるのです。わたしたちは、この主イエスの祈りのゆえに、今日も支えられ、守られてい ます。自分の力によるのではありません。天で主イエスがわたしたち一人一人を覚えて祈 り、その弱さを執り成し続けてくださっている、この主イエスの祈りのゆえに、今日もわたしたちは主イエスの信仰のうちに堅く立てられて、信仰の道を歩み続けていくことがで きるのです。そして主イエスは、困難の中でも、問題の渦中にあっても、弱いわたしたち を憐れみつつ、一人一人を覚えて、今も祈り続けてくださっており、祈りにおいてわたし たちと共にいてくださるのです。そしてまた、わたしたちが祈るとき、そこで共にいて共 に祈っていてくださるのです。苦しみの祈りのとき、悲しみの祈りのとき、悩みの祈りの とき、その祈りに共にいてくださり、その祈りを受けとめていてくださるのです。


 そしてこの主の執り成しの祈りは、わたしたちへの祝福であることを最後に覚えたいと 思います。ルカによれば主イエスが、まるで祭司が民を祝福するように、手を上げて祝福 しながら昇天されたことを伝えます。「イエスは、そこから彼らをベタニアのあたりまで 連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ た」(ルカ24:50、51)。今、天で主イエスがわたしたちを執り成し祈ってくださって いるというとき、それは手を組んで、それこそ切々と祈っておられるイメージであるより も、両手を広げ、手を上に挙げた姿で、つまり祝福の姿で祈っておられると考えてよいの です。その祈りにあってもさえ、わたしたちは罪を犯してしまうし、失敗もします。主に 顔向けできないような愚かなことをしでかしもする、しかしそこで覚えることができるの は、そのようなわたしたちを主はにらみつけ、しかりとばしながら、祈っておられるわけ ではないということです。このような罪と弱さにもかかわらず、主はなおわたしたちを赦 し、愛し、受け入れつつ、憐れみを乞い願いながら、父なる神へと執り成してくださって いることを確信することができるのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、 正しい方、イエス・キリストがおられます」(1ヨハ2:1)。先週わたしたちは一人の 姉妹を遠くの地へと送り出しました。新しい出発を始めた彼女が、これからどのような道 筋をたどっていくか、わたしたちは人生の先輩として心配し、彼女の守りと支えを願いま す。そして幸多かれと彼女の幸せを祈ります。主が天でわたしたちを覚えて執り成し、 祈ってくださるとはそういうことです。情けないけれど何とかしてくださいという祈りではない。弱くて無力だから守ってやってくださいという祈りでもない。むしろ困難な道筋 の中でのわたしの幸いを祈ってくださっているのです。災い多き歩みの中でのわたしの祝 福を祈ってくださるのです。それが天において、父なる神の右で執り成してくださる、主 イエスの祈りです。わたしたちはこのような主の祝福を求めての執り成しの中で祈られて いるのです。わたしたちは、この主イエスの弁護による執り成しの中で、どこまでも祝福 の御手を広げてくださる中で、祈られていることを覚えていきたいと思います。わたした ちは、こうしてわたしたちを見守り続けてくださっている主イエスの執り成しの中で、祈 られていることを覚えていきたいと思います。このことこそ、主イエスの昇天と神の右へ の着座を信じるということなのです。




1 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、135頁

2 石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈的注解』、新教出版社、 141頁

3 関川、前掲書、135頁 岩永隆至、『信仰告白としての使徒信条』、2005年、聖恵授産所、97頁

5 山下萬里、『われ信ず 現代に生きる使徒信条』、2001年、ヨベル、190頁

6 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、教文館、226頁

7 石田、前掲書、142頁

8 岩永、前掲書、97~98頁

9 ファン・リューラー、前掲書、224~225頁

10 岩永、前掲書、100頁